表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/36

十八話:観察者の選択

 ノアの唄が消えたあとの空には、まだかすかにその余韻が残っていた。

 陽が昇りきった王都の空に、淡い光の残滓が揺れている。


 ストーリア大聖堂の高窓から、その光景をひとつの影が見下ろしていた。


 石の柱の陰に身を寄せ、誰にも気づかれぬまま、ただ静かに“力”の痕跡を追っている“観察者”――ルフレ・スターレット。


 あの光。あの唄。そして、背に広がったように見えたあの翼は。


(あれは……竜の唄だ)


 今よりもっと幼かった頃、聞いたことのある音、風のように、祈りのように、竜たちは唄っていた。


 だから分かる、あれは、人のものではない。


 そして――ノア・ライトエースは、それを自覚していない。自分が何者で、どれほどの力をその身に宿しているのかも――知らずにいる。


 ルフレは、手の中に握った羽片を見下ろす。送り出されたときにレガリアから託された、黒き力の残響。


 それが、彼女の力に反応したのを、感じていた。


 微かに、軋むような共鳴が、掌を通して神経を撫でる。

 唄が触れた。羽が震え、鼓動が一拍遅れ、息が詰まる。

 確信に至るには、それで、十分だった。


 レガリアが言っていた。


 『泳がせた。目覚めていなかったから。』


 あのとき、彼女は竜の唄を使った。

 だが、それは“人間”として人を救うためだった。


 今はまだ、竜として完全ではない。けれど、その“唄”は、確かに彼女の内に在った。


(……これで、間違いない)


 ノア・ライトエース。彼女が、神竜。


 しかし、彼女は破壊ではなく目の前の誰かを救うための、“竜の祈り”を紡いでいた。


 音も言葉もなかった。

 けれど、それは“叫び”だった。


 魔力は外へ広がり、害意だけを焼き払い、子を抱いた彼女は静かに地へ降りた。


 竜の力が、誰かを守るために振るわれた――

 それは、主の思惑とは、決して同じではない。


(……彼女の心は、いま、人の側にある)


 ルフレは、静かに立ち上がった。

 その目に、静かな確信と、ごくわずかな不信を宿しながら。


 確かめるべきことは終わった。だが――その経緯には、ひとつ引っかかるものがあった。

 自分が潜入している最中に、それを引き出すような出来事が起きたこと――偶然とは思えない。


(……魔物を差し向けたのが“彼女”なら、なぜボクを先に送り込んだ?)


 潜入任務は、“見極め”のためだったはずだ。

 けれど、報告も上がらないうちに力を刺激するような真似をするなんて――


(……ボクが、見届ける“こと”が狙いだったのか?)


 ノアの力が目覚める瞬間を、“観察者”であるボクに見届けさせるために。


 ほんの一瞬、眉をひそめる。けれど、それ以上は深く考えない。

 情は任務の妨げになる。……それが“観察者”としての自分――だった、はずなのに。


 ……この街で、名前も顔も知らない誰かに微笑みかけられたとき。

 無防備な子どもが、自分を“お兄ちゃん”と呼んで、無邪気に抱きついてきたとき。


 ほんのわずかに、仮面の裏側が揺れたのを、認めたくなかった。


 命令を下すのは、あくまで“あのひと”だ。

 自分は、その目と耳にすぎない。


 羽片を懐に収め、ルフレはあてがわれている部屋へ足を向けた。


 この街は、美しい。けれど、それだけでは済まされない。


 どれほど清らかな願いに支えられていようと――

 この世界を壊しうる力がそこにあるのなら。


 レガリアにとって“使えるものかどうか”。それを見極めること。

 それが、ルフレ・スターレットに課された任務だった。


 しかし、その胸の奥――ほんのわずかに染みついた、さざめくような感情が“観察者”の仮面を、ほんの少しだけ曇らせていた。


 だからこそ、戻る。

 レガリアのもとへ。

 ノア・ライトエースの名と、その力の“兆候”を携えて――


 ――夜の王都。大聖堂の屋根の上に、ひとつの影が身を伏せていた。


 そこからは、王都の西区――聖騎士の詰め所がよく見えた。

 静寂の中、わずかに灯っていた窓の明かりが、ふっと消えるのが見えた。


 ただ見届けに来ただけ。……それ以上の意味は、ないはずだった。


「……まだ“観察”中ですの?」


 背後から、乾いた声が落ちた。


 ベルタだった。

 その紫の瞳が、夜の光を反射して、どこか冷ややかに揺れていた。


「主が明日、お迎えを寄越されますのよ。……ご存じなかったかしら?」


 やはり、そう来るか――昨日の襲撃の時点で、うすうす察してはいた。

 任務を終えれば、指示を待たず自分で戻るつもりでいた。だが、実際にはもう、帰還の段取りすら“決められて”いたのだ。


「あなたがまだ“見ていたい”のは分かってます。でも――主は、もう結論を出されましたの」


 ベルタはにこりと笑う。

 その笑みは、いつも通りの仮面のようでいて、どこか切なげだった。


「明朝、迎えに来ます。……弟君をお迎えに上がるのが、お姉ちゃんの大切なお仕事ですもの」


 ルフレは何も言えず、ただもう一度、灯りの落ちた建物を見やった。

 その窓に、もう光が戻ることはなかった。


 ――翌朝、聖堂の庇護施設に、一人の来訪者が現れた。


 落ち着いた紺の旅装に身を包み、柔らかく波打つ黒髪を後ろでひとつにまとめた、十代後半にも見える細身の女性だった。


 名はベルタ。旅の途中で弟とはぐれたと言い、庇護記録に載っていた少年――ルーが、その弟に違いないと申し出たのだという。


 職員たちは慎重ながらも、提出された旅券と身元証明の控えを確認し、彼女を面会室へと通した。


 扉の向こう、呼び出されたルフレが姿を見せたとき、ベルタはにっこりと微笑んだ。

 その微笑は、作られた芝居のようでいて、同時に本気で楽しんでいるようにも見えた。


「まあ……やっぱりあなたでしたのね! ずっと、探していましたのよ」


 一瞬、ルフレの眉がわずかに動いた。

 演技と知りながらも、感情のないはずの声に、わずかに胸の奥がざわついた。


 視線を逸らさず、ルフレは数秒黙り込んだのち、そっと頷いた。


 互いに正体を知る者同士――この場では演じきるしかないことを、ふたりはよく理解していた。


「……姉さん、だよね。ありがとう。迎えに、来てくれて」


 抑揚を押し殺した声音だったが、それは職員たちには“感極まった少年”のように映ったようで、室外に控えていた一人が、目元を押さえて小さく呟いた。


「……よかったね、ほんとうに」


 ルフレは聞こえぬふりをしたまま、視線を落とした。

 目の奥が、痛んだような気がした。


 昼下がり、正式な引き渡し手続きが完了し、聖堂の中庭にはルフレの“門出”を見送る人々が集まっていた。


 神官、料理係、時折遊んでいた庇護室の子どもたち。どの顔にも笑顔があり、けれどどこか寂しさも滲んでいた。


「元気でね、ルー!」


「道中、気をつけて!」


 ルフレは無言で手を振った。

 笑おうとしたが、喉の奥に引っかかった何かが邪魔をして、うまく唇が動かなかった。


 全部、演技だ。と、そう思っているのに、なぜか胸の奥が痛んだ。

 誰ひとり自分を疑わず、ただ無事を喜び、幸せを祈ってくれるということが、酷く残酷に思えた。


 聖堂を後にし、路地の陰を抜けた先で、ベルタがふいに足を止めた。


「……さて。今すぐ船に向かうのは、ちょっとばかり目立ちすぎますわね」


 空はまだ明るい。陽は傾きはじめていたが、夜にはほど遠い。


 ルフレが何も言わずに隣を歩いていると、ベルタはいつものように笑ってみせた。


「せっかくですし、少しだけ観光でもしませんこと? “弟君”」


 楽しげな声音と、冗談のようでいて冗談に聞こえない表情。

 仮面のように整った微笑みの奥に、何かを誤魔化す気配があった。


「……任務中に観光ってのは、聞いたことない」


「ええ、もちろん。“この国の空気を味わう”ことも、大事な調査の一部ですわ」


 それはどう見ても大嘘だった。

 だが、ベルタは胸を張り、どこか本当に楽しそうだった。


 ルフレは思わず眉をひそめる。


「……本当に、それ、レガリアの命令?」


「ご判断はお任せしますわ♪」


 言い終えて、彼女はひらりと振り返ることなく、石畳の道を軽やかに進んでいった。


 その背中を追いながら、ルフレはため息をひとつついた。


 芝居だと分かっている。全ては演技――それでも、街の光の中を並んで歩くこの時間に、ほんのわずか、仮面の内側が揺れた気がした。


 広場の真ん中では、旅芸人が竪琴を爪弾き、子どもたちが輪になって踊っている。

 通りに並ぶ露店からは、焼き菓子の甘い匂い。


 買い物帰りの夫婦、祈りを捧げる老女、笑い合う若者たち。


 この街は、美しかった。

 人々は、温かかった。

 それが――ひどく、痛かった。




 王都の夕暮れは、静かに夜へと変わりつつあった。

 聖堂を後にしたルフレは、人気のない路地を選びながら、ゆっくりと歩いていた。


 窓の灯がひとつ、またひとつとともり始め、路地裏に漏れる明かりが石畳を照らしている。

 どこかの家から、鍋の蓋が鳴る音と、誰かの笑い声が微かに聞こえてきた。


 その音が、なぜか胸に刺さった。


 この街の人間たちは、彼を疑わず、迎えてくれた。


 だが――忘れることはできない。

 かつて母を殺したのも、また“人間”だったことを。


(……それでも、ボクは)


 今の自分が、あの時とまったく同じでいられるとは思えなかった。

 手の中にはまだ、温もりのような、ざらついた痛みが残っている。


 憎しみは、捨てきれない。

 けれど、それだけでは測れない何かが、この街には、確かにあった。


 ――夜の海は静かだった。

 濃霧が岸辺を覆い、帆を下ろした船が水面をゆるやかに揺らしている。


 ひときわ明るい月の光が照らした先に、旅装を脱ぎ、いつもの侍女服に着替えた少女が立っていた。


 彼女の紫の瞳が、冗談めかした輝きを含んで細められる。


「さてさて、“お姉ちゃん”は、お役御免ですわね」


 ルフレは眉をひそめ、わざとそっけなく返した。


「やけに自然だったな、あの芝居。……気持ち悪いくらい」


「まぁ。褒め言葉として受け取っておきますわ」


 笑いながら歩み寄るベルタは、昼間とはまるで別人のように軽やかだった。

 仮面を脱いだその顔に、作為と忠誠と、ほんのわずかな名残惜しさが交錯している。


「船はもう出せます。……さあ、戻りましょう? 私たちの主が、あなたの報告をお待ちですわ」


 岸の小さな突堤に、小舟が一艘。

 帆も立てず、篝火も灯さず、ただ夜に沈むように浮かんでいた。


「……本船は、沖に?」


 小声で問えば、傍らのベルタが頷く。


「ええ。港に停めると、ちょっとばかり“目立ちすぎ”ますもの。あちらでお待ちの皆様は、全員“忠実”ですから、合図も不要ですわ」


 ルフレは短く息を吐いた。

 その吐息に、わずかな迷いが滲んでいた。


「……行こう」


 足元を確かめながら乗り込むと、男が無言で櫂を手に取る。

 まるで機械のように、ためらいもなく舟を漕ぎ出した。


 海霧の向こうに、わずかに浮かぶ本船の輪郭。

 気配はほとんどない。篝火も、合図もなく、ただ、静かに――“用意されていた”。


 王都の灯が、ひとつ、またひとつと遠ざかっていく。

 振り返ることはしなかった。

 まぶたの奥がじんと痛む。けれど、それだけだ。


「……ほんとに、これでいいのか?」


 呟いた言葉に、ベルタはすぐには答えなかった。

 けれど、そっと背に手を添え、言う。


「あなたが行く先に、ほんとうの“答え”があると信じているなら。……今は、それで、いいのではなくて?」


 その声音には、いつもの芝居がかった響きはなかった。


 ルフレは何も言わず、ただ前を向く。


「さ、ぐずぐずしていると、出発が遅れますわよ? 今夜の風は、お寝坊には厳しゅうございますから♪」


 ぱちりとウィンクを添えるその笑顔に、今度はルフレがほんの少しだけ目を細めた。

 それが、警戒だったのか、寂しさだったのか――自分でも分からない。


 小舟が横付けされ、縄梯子が静かに降ろされる。

 命令も、言葉もない。ただ“用意されていた”というだけの動作。


 ルフレは振り返らないまま、梯子に手をかけた。


 そっと目を閉じ、ひとつ、息を吐く。


 登りゆくその背に、わずかに震えが走ったのを、彼は気づかないふりをした。


(もし、“選ぶとき”が来たなら――そのとき、ボクは……)


 ……本当に、何を選ぶんだろう。

 そんな問いすら、いまの自分には答えられなかった。


 ――翌朝、王都西岸。

 朝霧が残るなか、監視塔のひとりが海を見つめていた。


「……何か、来るぞ……船か?」


 静かに波間を進んできたのは、老朽化した手漕ぎ舟。

 破れた帆。擦れた板。風に押されて、ゆっくりと岸へ寄ってくる。


 衛兵たちが駆け寄り、舟を引き上げる。

 その中には、痩せ細った男たち、女たち、幼い子どもが身を寄せ合っていた。


 ひとりの、若い男が呟くように言った。


「……ヴェント・ニーヴァスっていう騎士に、命を救われたんです。あの人は、別の場所へ向かうって言って、戻ってこなかったけど……最後に、こう言ってくれました。“南の海の向こうに、祈りが届く国がある。ストーリア王国を目指せ”って」


 誰かが、静かに息を呑む。


 風が朝霧を吹き払うように、陽光が射し込みはじめていた。


 その光の中で、命をつないだ者たちが、初めてこの国の空を見上げた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ