十八話:観察者の選択
ノアの唄が消えたあとの空には、まだかすかにその余韻が残っていた。
陽が昇りきった王都の空に、淡い光の残滓が揺れている。
ストーリア大聖堂の高窓から、その光景をひとつの影が見下ろしていた。
石の柱の陰に身を寄せ、誰にも気づかれぬまま、ただ静かに“力”の痕跡を追っている“観察者”――ルフレ・スターレット。
あの光。あの唄。そして、背に広がったように見えたあの翼は。
(あれは……竜の唄だ)
今よりもっと幼かった頃、聞いたことのある音、風のように、祈りのように、竜たちは唄っていた。
だから分かる、あれは、人のものではない。
そして――ノア・ライトエースは、それを自覚していない。自分が何者で、どれほどの力をその身に宿しているのかも――知らずにいる。
ルフレは、手の中に握った羽片を見下ろす。送り出されたときにレガリアから託された、黒き力の残響。
それが、彼女の力に反応したのを、感じていた。
微かに、軋むような共鳴が、掌を通して神経を撫でる。
唄が触れた。羽が震え、鼓動が一拍遅れ、息が詰まる。
確信に至るには、それで、十分だった。
レガリアが言っていた。
『泳がせた。目覚めていなかったから。』
あのとき、彼女は竜の唄を使った。
だが、それは“人間”として人を救うためだった。
今はまだ、竜として完全ではない。けれど、その“唄”は、確かに彼女の内に在った。
(……これで、間違いない)
ノア・ライトエース。彼女が、神竜。
しかし、彼女は破壊ではなく目の前の誰かを救うための、“竜の祈り”を紡いでいた。
音も言葉もなかった。
けれど、それは“叫び”だった。
魔力は外へ広がり、害意だけを焼き払い、子を抱いた彼女は静かに地へ降りた。
竜の力が、誰かを守るために振るわれた――
それは、主の思惑とは、決して同じではない。
(……彼女の心は、いま、人の側にある)
ルフレは、静かに立ち上がった。
その目に、静かな確信と、ごくわずかな不信を宿しながら。
確かめるべきことは終わった。だが――その経緯には、ひとつ引っかかるものがあった。
自分が潜入している最中に、それを引き出すような出来事が起きたこと――偶然とは思えない。
(……魔物を差し向けたのが“彼女”なら、なぜボクを先に送り込んだ?)
潜入任務は、“見極め”のためだったはずだ。
けれど、報告も上がらないうちに力を刺激するような真似をするなんて――
(……ボクが、見届ける“こと”が狙いだったのか?)
ノアの力が目覚める瞬間を、“観察者”であるボクに見届けさせるために。
ほんの一瞬、眉をひそめる。けれど、それ以上は深く考えない。
情は任務の妨げになる。……それが“観察者”としての自分――だった、はずなのに。
……この街で、名前も顔も知らない誰かに微笑みかけられたとき。
無防備な子どもが、自分を“お兄ちゃん”と呼んで、無邪気に抱きついてきたとき。
ほんのわずかに、仮面の裏側が揺れたのを、認めたくなかった。
命令を下すのは、あくまで“あのひと”だ。
自分は、その目と耳にすぎない。
羽片を懐に収め、ルフレはあてがわれている部屋へ足を向けた。
この街は、美しい。けれど、それだけでは済まされない。
どれほど清らかな願いに支えられていようと――
この世界を壊しうる力がそこにあるのなら。
レガリアにとって“使えるものかどうか”。それを見極めること。
それが、ルフレ・スターレットに課された任務だった。
しかし、その胸の奥――ほんのわずかに染みついた、さざめくような感情が“観察者”の仮面を、ほんの少しだけ曇らせていた。
だからこそ、戻る。
レガリアのもとへ。
ノア・ライトエースの名と、その力の“兆候”を携えて――
――夜の王都。大聖堂の屋根の上に、ひとつの影が身を伏せていた。
そこからは、王都の西区――聖騎士の詰め所がよく見えた。
静寂の中、わずかに灯っていた窓の明かりが、ふっと消えるのが見えた。
ただ見届けに来ただけ。……それ以上の意味は、ないはずだった。
「……まだ“観察”中ですの?」
背後から、乾いた声が落ちた。
ベルタだった。
その紫の瞳が、夜の光を反射して、どこか冷ややかに揺れていた。
「主が明日、お迎えを寄越されますのよ。……ご存じなかったかしら?」
やはり、そう来るか――昨日の襲撃の時点で、うすうす察してはいた。
任務を終えれば、指示を待たず自分で戻るつもりでいた。だが、実際にはもう、帰還の段取りすら“決められて”いたのだ。
「あなたがまだ“見ていたい”のは分かってます。でも――主は、もう結論を出されましたの」
ベルタはにこりと笑う。
その笑みは、いつも通りの仮面のようでいて、どこか切なげだった。
「明朝、迎えに来ます。……弟君をお迎えに上がるのが、お姉ちゃんの大切なお仕事ですもの」
ルフレは何も言えず、ただもう一度、灯りの落ちた建物を見やった。
その窓に、もう光が戻ることはなかった。
――翌朝、聖堂の庇護施設に、一人の来訪者が現れた。
落ち着いた紺の旅装に身を包み、柔らかく波打つ黒髪を後ろでひとつにまとめた、十代後半にも見える細身の女性だった。
名はベルタ。旅の途中で弟とはぐれたと言い、庇護記録に載っていた少年――ルーが、その弟に違いないと申し出たのだという。
職員たちは慎重ながらも、提出された旅券と身元証明の控えを確認し、彼女を面会室へと通した。
扉の向こう、呼び出されたルフレが姿を見せたとき、ベルタはにっこりと微笑んだ。
その微笑は、作られた芝居のようでいて、同時に本気で楽しんでいるようにも見えた。
「まあ……やっぱりあなたでしたのね! ずっと、探していましたのよ」
一瞬、ルフレの眉がわずかに動いた。
演技と知りながらも、感情のないはずの声に、わずかに胸の奥がざわついた。
視線を逸らさず、ルフレは数秒黙り込んだのち、そっと頷いた。
互いに正体を知る者同士――この場では演じきるしかないことを、ふたりはよく理解していた。
「……姉さん、だよね。ありがとう。迎えに、来てくれて」
抑揚を押し殺した声音だったが、それは職員たちには“感極まった少年”のように映ったようで、室外に控えていた一人が、目元を押さえて小さく呟いた。
「……よかったね、ほんとうに」
ルフレは聞こえぬふりをしたまま、視線を落とした。
目の奥が、痛んだような気がした。
昼下がり、正式な引き渡し手続きが完了し、聖堂の中庭にはルフレの“門出”を見送る人々が集まっていた。
神官、料理係、時折遊んでいた庇護室の子どもたち。どの顔にも笑顔があり、けれどどこか寂しさも滲んでいた。
「元気でね、ルー!」
「道中、気をつけて!」
ルフレは無言で手を振った。
笑おうとしたが、喉の奥に引っかかった何かが邪魔をして、うまく唇が動かなかった。
全部、演技だ。と、そう思っているのに、なぜか胸の奥が痛んだ。
誰ひとり自分を疑わず、ただ無事を喜び、幸せを祈ってくれるということが、酷く残酷に思えた。
聖堂を後にし、路地の陰を抜けた先で、ベルタがふいに足を止めた。
「……さて。今すぐ船に向かうのは、ちょっとばかり目立ちすぎますわね」
空はまだ明るい。陽は傾きはじめていたが、夜にはほど遠い。
ルフレが何も言わずに隣を歩いていると、ベルタはいつものように笑ってみせた。
「せっかくですし、少しだけ観光でもしませんこと? “弟君”」
楽しげな声音と、冗談のようでいて冗談に聞こえない表情。
仮面のように整った微笑みの奥に、何かを誤魔化す気配があった。
「……任務中に観光ってのは、聞いたことない」
「ええ、もちろん。“この国の空気を味わう”ことも、大事な調査の一部ですわ」
それはどう見ても大嘘だった。
だが、ベルタは胸を張り、どこか本当に楽しそうだった。
ルフレは思わず眉をひそめる。
「……本当に、それ、レガリアの命令?」
「ご判断はお任せしますわ♪」
言い終えて、彼女はひらりと振り返ることなく、石畳の道を軽やかに進んでいった。
その背中を追いながら、ルフレはため息をひとつついた。
芝居だと分かっている。全ては演技――それでも、街の光の中を並んで歩くこの時間に、ほんのわずか、仮面の内側が揺れた気がした。
広場の真ん中では、旅芸人が竪琴を爪弾き、子どもたちが輪になって踊っている。
通りに並ぶ露店からは、焼き菓子の甘い匂い。
買い物帰りの夫婦、祈りを捧げる老女、笑い合う若者たち。
この街は、美しかった。
人々は、温かかった。
それが――ひどく、痛かった。
王都の夕暮れは、静かに夜へと変わりつつあった。
聖堂を後にしたルフレは、人気のない路地を選びながら、ゆっくりと歩いていた。
窓の灯がひとつ、またひとつとともり始め、路地裏に漏れる明かりが石畳を照らしている。
どこかの家から、鍋の蓋が鳴る音と、誰かの笑い声が微かに聞こえてきた。
その音が、なぜか胸に刺さった。
この街の人間たちは、彼を疑わず、迎えてくれた。
だが――忘れることはできない。
かつて母を殺したのも、また“人間”だったことを。
(……それでも、ボクは)
今の自分が、あの時とまったく同じでいられるとは思えなかった。
手の中にはまだ、温もりのような、ざらついた痛みが残っている。
憎しみは、捨てきれない。
けれど、それだけでは測れない何かが、この街には、確かにあった。
――夜の海は静かだった。
濃霧が岸辺を覆い、帆を下ろした船が水面をゆるやかに揺らしている。
ひときわ明るい月の光が照らした先に、旅装を脱ぎ、いつもの侍女服に着替えた少女が立っていた。
彼女の紫の瞳が、冗談めかした輝きを含んで細められる。
「さてさて、“お姉ちゃん”は、お役御免ですわね」
ルフレは眉をひそめ、わざとそっけなく返した。
「やけに自然だったな、あの芝居。……気持ち悪いくらい」
「まぁ。褒め言葉として受け取っておきますわ」
笑いながら歩み寄るベルタは、昼間とはまるで別人のように軽やかだった。
仮面を脱いだその顔に、作為と忠誠と、ほんのわずかな名残惜しさが交錯している。
「船はもう出せます。……さあ、戻りましょう? 私たちの主が、あなたの報告をお待ちですわ」
岸の小さな突堤に、小舟が一艘。
帆も立てず、篝火も灯さず、ただ夜に沈むように浮かんでいた。
「……本船は、沖に?」
小声で問えば、傍らのベルタが頷く。
「ええ。港に停めると、ちょっとばかり“目立ちすぎ”ますもの。あちらでお待ちの皆様は、全員“忠実”ですから、合図も不要ですわ」
ルフレは短く息を吐いた。
その吐息に、わずかな迷いが滲んでいた。
「……行こう」
足元を確かめながら乗り込むと、男が無言で櫂を手に取る。
まるで機械のように、ためらいもなく舟を漕ぎ出した。
海霧の向こうに、わずかに浮かぶ本船の輪郭。
気配はほとんどない。篝火も、合図もなく、ただ、静かに――“用意されていた”。
王都の灯が、ひとつ、またひとつと遠ざかっていく。
振り返ることはしなかった。
まぶたの奥がじんと痛む。けれど、それだけだ。
「……ほんとに、これでいいのか?」
呟いた言葉に、ベルタはすぐには答えなかった。
けれど、そっと背に手を添え、言う。
「あなたが行く先に、ほんとうの“答え”があると信じているなら。……今は、それで、いいのではなくて?」
その声音には、いつもの芝居がかった響きはなかった。
ルフレは何も言わず、ただ前を向く。
「さ、ぐずぐずしていると、出発が遅れますわよ? 今夜の風は、お寝坊には厳しゅうございますから♪」
ぱちりとウィンクを添えるその笑顔に、今度はルフレがほんの少しだけ目を細めた。
それが、警戒だったのか、寂しさだったのか――自分でも分からない。
小舟が横付けされ、縄梯子が静かに降ろされる。
命令も、言葉もない。ただ“用意されていた”というだけの動作。
ルフレは振り返らないまま、梯子に手をかけた。
そっと目を閉じ、ひとつ、息を吐く。
登りゆくその背に、わずかに震えが走ったのを、彼は気づかないふりをした。
(もし、“選ぶとき”が来たなら――そのとき、ボクは……)
……本当に、何を選ぶんだろう。
そんな問いすら、いまの自分には答えられなかった。
――翌朝、王都西岸。
朝霧が残るなか、監視塔のひとりが海を見つめていた。
「……何か、来るぞ……船か?」
静かに波間を進んできたのは、老朽化した手漕ぎ舟。
破れた帆。擦れた板。風に押されて、ゆっくりと岸へ寄ってくる。
衛兵たちが駆け寄り、舟を引き上げる。
その中には、痩せ細った男たち、女たち、幼い子どもが身を寄せ合っていた。
ひとりの、若い男が呟くように言った。
「……ヴェント・ニーヴァスっていう騎士に、命を救われたんです。あの人は、別の場所へ向かうって言って、戻ってこなかったけど……最後に、こう言ってくれました。“南の海の向こうに、祈りが届く国がある。ストーリア王国を目指せ”って」
誰かが、静かに息を呑む。
風が朝霧を吹き払うように、陽光が射し込みはじめていた。
その光の中で、命をつないだ者たちが、初めてこの国の空を見上げた。