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十七話:名を知らぬ力

 王都の空は、高く澄んでいた。

 ――王城西棟、聖騎士の詰所。

 ゆったりと流れる雲に、やわらかな陽光。風は穏やかで、街のざわめきさえ遠く感じる――けれど。


 ノア・ライトエースの胸の奥には、どこか落ち着かぬ波紋があった。


 数日前のことだ。

 執務の合間にふと立ち寄った窓辺で、確かに感じた。誰かに――見られていた。

 敵意でも、好奇心でもない。ただひとつ、“確かな気配”だった。


 その存在を名指すことはできなかった。だが、心に落とされた一滴の色は、じわじわと広がってゆく。


 思案を遮るように詰所の扉が乱雑に叩かれた。

 飛び込んできたのは、街を巡回していた若い騎士の一人だった。顔には汗と焦りが浮かび、肩で息をしながらも必死に声を張る。


「北区の広場に魔物が侵入しました! 巡回中の部隊じゃ持ちこたえられません!」


 ノアは報せを聞くなり、片手剣アベニールを手に取り、素早く外套を肩にかけた。


「分かりました。私は先に向かいます。他の部隊にも状況を伝えてください――王城にも」


 言い終えると同時に、ノアは地を蹴って駆け出した。


 もし市民が巻き込まれているのなら――

 迷いはなかった。


 魔物の侵入――それは、本来あり得ない事態だった。王都の防衛網をすり抜けて現れた以上、何らかの意図がある。


 詰所から飛び出したノアは、王都の石畳を駆け抜ける。

 北門前の広場――防衛線の最前、街との接点でもあるその場所が、戦場と化していた。

 駆けながら目にしたのは、破壊された柵、ひしゃげた門扉。魔物は、門を突き破ってそのまま押し入ったのだろう。


 広場に着いたとき、すでに現地は混乱していた。石畳が抉れ、空気には鉄のような匂いが混じる。

 騎士たちが応戦している中央には、禍々しい影がいた。


 黒煙をまとった、獣のような異形。

 四足に近い姿勢で地を這い、筋肉質な体躯は獣そのもの――だが、背の湾曲や肩の骨格はどこか“竜”を思わせる。


 背中には、かつて翼があったかのような骨の突起が残り、顎や爪も異様に発達し、体表には、赤黒い“眼”のような器官が無数に点在し、それぞれが独立して蠢いていた。


 一目で、死霊でも亡者でもないと分かる。

 それでも――戦場において、見た目だけで決めつけることほど危ういことはない。

 何より、もしこれが“変わり果てた誰か”なら、救える可能性があるかもしれない。


 ノアは一度息を整え、瘴気の性質を探るように、静かに祈りの構えをとった。


 もし、死霊由来なら“祈り”に反応があるはず――


 小規模な浄化術を展開するが、空気はただ重く淀むだけで、何の手応えも返ってこなかった。


 祈りは届かない。

 ならば、やるべきことは一つ――斬るしかない。


(……侵入してきた? 誘導された?)


 ただの暴走個体ではない。魔力の流れに、明確な方向性がある。

 ノアは状況を見渡し、負傷した騎士が隊長格であることに気づく。


「私が指揮を執ります!」


 一瞬の沈黙。しかし、騎士たちはすぐに頷いた。


「第一小隊、東側通路の封鎖を。第二小隊は避難支援。盾持ちは私と一緒に前線を支えてください!」


「了解!」


 ノアは剣を抜き、魔物との距離を詰める。

 斬撃。甲高い音と共に刃が肉を裂く――だが、次の瞬間、その肉片が脈動した。


 ぐにゃりと歪み、黒煙が立ちのぼる。

 斬り落とされたはずの部位が、別の“胴”をかたち作り、這い出すように一体の異形が現れた。


「……分裂……!?」


 戦場にいた騎士のひとりが声を上げる。


 潰されたはずの脚部、断ち切られた触手――それらがすべて、地に落ちた場所で膨れ上がるように増殖を始めていた。


 気づけば、広場には同じような異形が三体、四体と蠢いている。

 それぞれの体表に刻まれた赤黒い“眼”が、同時にノアを――そして周囲の騎士たちを見据えた。


 まるで合図のように、四方から一斉に触手が迫る。


 魔法障壁を展開し、衝撃を受け止める。反動で足が滑るが、ノアはすぐに体勢を立て直す。


「……させません!」


 再び剣を振るい、魔物の前脚を切断する。しかしまた、すぐに肉は再生を始める。


(時間をかけてはいけない。けれど……)


 そのとき、広場の隅にうずくまる小さな影が見えた。

 子ども。避難が間に合わなかったのか。


 魔物の一体が、そちらへと動いた。


「ッ――間に合って……!」


 ノアは地面を蹴り距離を詰める。しかし、届かない。魔物の爪が、振り下ろされようとした、その瞬間。


 心の奥が、何かを叫び、思考よりも先に胸の奥から“何か”が溢れ出す。

 声ではない。けれど、確かに唄だった。

 空気が裂けた。視界の端に、淡い光が揺れる。


 ノアの背から、一対の光の翼が広がった。音もなく、風が吹くように魔力が波打つ。


 光が広場を満たした。魔物が悲鳴を上げる。触手が崩れ、かき消されていく。


 ノアは子どもを抱き上げ、そのまま地に降り立った。

 騎士の一人が、名前を呼ぼうとして、声を失った。

 ノアの背に広がる光が、あまりにも静かで、あまりにも遠く思えた。


 そこへ、駆けつける足音――


「ノア……!」


 呼びかけかけた声が、途中で止まる。

 レクサス・アルファードだった。


 報せを受けて駆けつけたのか、それとも――

 強く揺れた魔力の気配を、どこかで感じ取ったのか。


 彼は何かを言いかけたが、そのまま立ち尽くした。

 ノアの背にあったはずの光の翼はすでに消え、ただ静けさだけが残っていた。


 広場を満たす、余韻のような沈黙。


 レクサスは唇を結び、そっとノアへ視線を向けた。

 彼女の横顔は、どこか遠くを見つめ、まるで “何か”と向き合っているかのようだった。

 誰かが、小さく息を呑んだ音がした、今起きたことを言葉にしてはいけないと、思っているかのように。


 唄のような感覚。祈りでもあるような心に届く何か。

 それは、力だった。けれど――それだけではない。


 ノアの中で、何かが目を覚ましていた。

 その場にいた誰もが、「奇跡だ」と呟いた。

 だが、ノア自身は震えていた。


 力が、勝手にあふれた。

 彼女の意志を超えて、守るためだけに――けれど、それはあまりに異質で、異様で、そして、美しかった。


 あの瞬間、周囲の空気が震えたのは分かった。

 わずかに耳鳴りのような音が残っていた。それは、誰かが“唄”を紡いだときのような余韻だった。


 それは、誰かを傷つけるための力ではなくむしろ、抱きしめるような光だった。

 焼き尽くす炎ではなく、瓦礫を押し返す風でもない。

 ただ、“守りたい”という想いだけが、あの力を動かしていたように思えた。


 市民が拍手を送る中で、ノアはただ、無言で首を横に振った。

 彼女の中にあったのは誇りでも感謝でもなく、「恐れ」に近い感情だった。


 ――夜

 詰所の私室。窓の向こうに月が昇り、静かな夜気が頬をなでる。


 ノアは立ち尽くしていた。

 あの一瞬、自分の中で“何か”が目を覚ましたと、はっきり分かった。

 それは、彼女の知るどの魔法とも違っていた。

 言葉を与えるなら――それは、“唄”。

 けれど、それは本当に自分のものなのだろうか。

 “唄”――それはつまり、自分は……。


 風が揺れ、月が雲に隠れた。


 ノアは何も言わず、そっとカーテンを引いた。

 だが、胸の奥に残る自問は、しばらく消えなかった。


 ――魔物を呼び込んだ者のひとりは、騎士たちによって拘束されたがその後間もなく、仕込まれていた呪符を噛み砕き、自ら命を絶ったという。

 残された術具はすべて破損しており、誰がその魔を導いたのかは、いまだ不明のままだった。


 ――詰所の前で、レクサスは立ち止まった。

 扉に手を伸ばしかけて――ほんのわずかに躊躇する。


 魔物の鎮圧後、応急処置や市民の避難確認、報告の取りまとめ。

 本当はすぐにでも様子を見に行きたかったのに――


「王子としての立場をお忘れですか?」


 きっちりした口調と冷たい視線に、思わず肩をすくめる。

 近衛隊長、イスト・スタウト。いつも通りの堅物っぷりで、今回はさすがにレクサスも逃げられなかった。


「……わかってるってば。でも、気になるのは当然だろう?」


「“だからといって勝手に現場へ向かうのは別問題”と、申し上げております」


 結局、きっちり十五分ほど説教を受ける羽目になった。

 そのあとも片付けに追われ、気づけばもう夜になっていた。


 遅くなったことへの申し訳なさと、

 それでも様子を見ずにはいられなかった気持ちが、胸の奥でせめぎ合う。


 隣には、真っ白な大きな影が寄り添っていた。

 ずんぐりとした体躯に、ふさふさの毛並み。

 エメラルドの瞳が、じっと詰所の扉を見つめている。


 飛竜モコ――レクサスの頼もしき相棒であり、ノアのことも大好きな存在だ。


(……やっぱり、君も気づいてたんだな)


 レクサスがそっと息を吐き、扉に手をかけようとしたそのとき――


 カチャ、と扉が開いた。


「……あ」


 出てきたのはノアだった。

 ふたりの視線が、ばっちりとぶつかる。


 ノアは驚いたように一歩足を止め、目の前のレクサス、そしてモコを交互に見た。


「……レクサス殿下?」


「えっと……あー……なんていうか、その、ちょっと様子を見に来ただけで……」


 レクサスは少しだけ肩をすくめ、いつもの調子を装うように笑った。


「モコも、君のこと、ずっと気にしてた」


 その言葉に応えるように、モコが「ぐぅ」と低く、やさしく鳴いた。

 ノアは目を細め、小さく笑ってモコの額にそっと手を置いた。


「……ありがとう、モコ。レックスも」


 その言葉に、レクサスの口元がふっと緩む。


「……今、“レックス”って呼んだよね」


「え……? あ……」


 ノアが驚いたように目を瞬かせ、すぐに気づいてほんの少しだけ頬を染める。


「ふふ、うん。それだけで、なんか元気出た」


 くすぐったい空気が二人の間に生まれた、そのとき。

 モコが「きゅう」と小さく鳴いて、ノアのまわりをくるりと一回転する。


「……モコまで。はいはい、そんなにからかわないで」


 ノアは苦笑しながらも、どこか救われたようにモコの頭を撫でた。

 レクサスも、ようやく心からの笑みを浮かべる。


 さっきまでの緊張が、ほんの少しだけ解けていた。


 しばらく、ふたりと一頭は並んで歩く。

 空は高く澄んでいたが、ノアの胸の奥にはまだ、消えないさざめきがあった。


 不意に、レクサスが静かに言葉を落とす。


「……あのとき、君の背に光があった。まるで――」


「……見てたんですね」


「見てしまった、というべきかな。いや……見てよかったのか、今もわからない」


 短い沈黙。


「あれは……なんだったの?」


 ノアは少し考えたあと、静かに答える。


「わかりません。自分でも……ただ、身体が勝手に」


「怖かった?」


「――はい。とても」


「なら、今はそれでいいと思うよ」


 彼の言葉は、ただ静かに、ノアの胸に届いた。

 その優しさはありがたかった。けれど――


 それで納得するには、あの力は、あまりにも大きすぎた。


 しばらくの沈黙が、夜風と共にふたりの間を通り過ぎた。

 ノアは小さく頭を下げる。


「……ありがとう」


「うん。何かあったら、いつでも」


 それだけを残し、レクサスはふっと笑って背を向けた。

 モコも静かにその後ろに続く。


 いつもの柔らかな足取りで、彼は王城のほうへと歩いていく。


 ノアはその背を見送った。


 最後まで振り返ることはなかったが、その背中から、どこか後ろ髪を引かれるような気配が漂っていた。


 レクサスはもう見えなくなったというのに、なぜか胸が少しだけ、あたたかく、そして苦しかった。


 彼の中に何が残ったのか――それを、ノアは知ることはない。

 けれど、去っていったレクサスもまた、あの背に広がった光と、戸惑う彼女の瞳を、きっと忘れずにいるのだろうと、どこかで感じていた。


 星空は、どこか霞んで見えた。

 朝の出来事が夢だったのではないかと錯覚するほど、夜の王都は穏やかだった。

 けれど、ノアの中では、ひとつの感覚だけが鮮明に残っていた。


 “あれはまるで唄”――


 魔物を消し去ったあの瞬間、彼女の中から溢れ出た力。

 耳には届かぬはずのそれが、確かに“唄っていた”としか言いようがない。


 守りたい、という想いに呼応して湧き上がった、あの“なにか”。


 誰かを守るために出た力。

 けれど、それが本当に“自分のもの”なのかもわからない。


 知るのが怖い。けれど、知らずにいるのは、もっと怖い。

 あの光が、ただの偶然ではないなら――私は、それと向き合う。



 言葉にできないまま、ノアは詰所を離れた。

 向かったのは、大聖堂――


 イスズ神官長。

 あの軽薄さの裏に、ノアが最も信頼している知の人。


 あの力のことを知っているとすれば――きっと、彼女しかいない。


「やあやあ、君が来るとは珍しいじゃないか。何かお困りかね? 恋の悩みかい?」


 案の定、茶目っ気のある笑顔で迎えられる。

 ノアはきちんと頭を下げたあと、ためらいながらも静かに口を開いた。


「……昨日、北区の事件で……魔力を使ったとき、変な感覚があったんです」


「ふむふむ」


「唄……のような。声にはならないけれど、響いていて。まるで自分の中で“誰かが”唄っていたみたいな……」


 語りながら、言葉が自分でも信じられなくなっていく。

 けれど、イスズの表情は変わらなかった。

 ただ、ほんの一瞬だけ――視線が、柔らかく、そして深くなる。


「……なるほど。君の中で、“唄の力”が目を覚ましたんだね」


「神官長……私の力って……普通の魔法と違うんでしょうか」


 ノアの問いに、イスズは微笑を浮かべながらも、すぐには答えなかった。

 代わりに、小さく頷き、窓の方へと目をやる。


「唄ってのはね、元々“祈り”だったんだ。真竜たちは、そうやって世界と繋がってきた。

 癒やしの唄、守りの唄、凪の唄、火の鎮魂――色々あるさ。どれも、竜にしか出せない響きがある」


「……私も、それを?」


「君の中には、“それ”がある。そう言っておこうか」


 言葉はやさしかったが、それが意味するものは重い。


「じゃあ……私……」


 ノアは言いかけて、言葉を飲み込んだ。


 人間じゃないのか。

 何者なのか。

 誰かにとっての“なにか”だったのか。


 頭の中が揺れる。心が、軋む。


 イスズは、その様子を見て、少しだけ声を和らげた。


「でもね、ノア。君がどうあるかは、君が決めるものさ。力が君の中にあるからって、それが君を縛る必要はない。君は君だよ。ちゃんと、自分で選べるよ」


 ノアは、ゆっくりと息を吐いた。


「……ありがとうございます、神官長」


「お礼はいいよ。それより、もうちょっと肩の力抜きなって。ね?」


 イスズの言葉は軽やかだったが、心の底に届いた。

 ノアは小さく頷き、立ち上がった。


 聖堂を出たノアは、王城の高窓を見上げた。

 小さく首を振る。けれど、両親のもとへ向かう足は動かなかった。


(……今はまだ、聞きに行かない)


 答えを求めるのではなく、自分で見つけたいと思った。

 自分の足で、自分のままで。

 その思いが、背筋をわずかに伸ばさせた。


 ――王城の一角、夜の廊下に、柔らかな足音が響いていた。

 ユーノス・ライトエースは、しばし歩みを止め、廊下の窓から庭を見下ろす。

 その眼差しは、遠い過去を追っていた。


 今朝の事件――

 王都での魔物襲撃と、ノアが発した“唄”のような力。


 報告書に目を通したとき、彼の胸の奥には、かすかな痛みが生まれていた。


 あの子の中に眠るものが、とうとう目を覚ました。


「……やはり、来たか」


 呟きは誰にも聞こえないほど小さい。

 それでも、それはずっと覚悟していた言葉だった。


 数歩後ろから、足音が近づく。ローザが、静かに隣に立った。


「ノアが……唄を使ったそうですね」


 彼女の声は穏やかだったが、揺れていた。

 娘のように育ててきた少女が、もう戻れない道を歩み始めたことを、母の直感が告げていた。


「神官長からの報せで、力の兆候は確かにあったと」


「……そう。あの子、自分で気づいたかしら」


「いずれ分かる事だ。もう――目を逸らす訳にはいかんな」


 ローザはそっと目を伏せる。


「……でも、あの子は知らないのよ。自分が“何者か”なんて、考えたこともない顔をして……いつもみたいに笑って、困って、考え込んで……ただ、騎士として頑張ってるだけなのに……」


 ユーノスは答えず、代わりにローザの肩へそっと手を置いた。

 言葉にしなくとも、共有している想いがそこにあった。


「あの子が笑えるようにと、そう願ってきた。そのために、我々は……何も伝えなかった」


 それが、正しかったのかは分からない。

 けれどあのとき、寒空の下で泣いていた赤子に、自分たちがかけてやれる最も確かな祈りだった。


 竜であるということ。それらは、彼女が自ら辿り着くべきもので、与えられるものではない――そう信じた。


「それでも、伝えるときが来るんでしょうね」


 ローザの声には、どこか覚悟がにじんでいた。

 ユーノスは小さく頷いた。


「……そのときは、私が話そう。たとえ、あの子が傷つくとしても。自分で向き合おうとしたのなら――そのときこそが、本当の意味で“あの子の始まり”だ」


 沈黙が落ちる。

 けれど、それは重苦しいものではなく、静かな決意と共にあるものだった。


 彼女が、あの笑顔のままでいられるように。

 もし、それが叶わなくなったとしても――彼女が選んだ道を、受け止めることができるように。


 それが、"親"としての、自分たちの役目なのだと。

 二人は静かに、夜空を見上げた。


「……きっと、今日は来ないわね」


「ああ、おそらく向き合おうとしている」


 ユーノスの声は低く、しかし迷いなかった。


「だからこそ、今日は来なかったんだろう。聞きに来るのではなく、探そうとしている」


 ローザはそっと目を伏せる。


「……ええ。なら、見守りましょう」


 それが、今のふたりにとって、何より大切なことだった。



 ――夜が更け、大聖堂の高窓から月が差し込む。

 イスズ・エルガは窓辺の椅子に腰掛け、ゆったりと湯気の立つ茶器を手にしていた。

 月の光を浴びる彼女の金髪は、どこか金属のように艶めいている。


「……とうとう、目覚め始めちゃったか」


 呟いた声は、どこまでも静かだった。

 その目は遠くを見ている。けれど、その視線の先にあるのは、月でも、王都の街でもない。


 神竜。


 特別な記憶を継いでいるわけでも、過去の何かを思い出すわけでもない。

 それでも、力は確かに巡っていく。

 目覚めの時は、いつも突然で、そして残酷だ。


「……竜であることもその子自身。だけど、できれば、もっと別の形で生きられたら――って、思ってしまうんだよ」


 “神竜としての力”――その真名は、まだ彼女自身さえ知らない。

 けれど、あの光が王都を照らした今――その揺らぎを、“あの女”が感じ取っていないはずがない。


 レガリア。

 封じたはずの災厄は、いずれまた、目を覚ます。

 そして、あの子の中に宿る力を狙わないわけがない。

 イスズは、わずかに目を細めた。

 手にした茶器が、かすかに震えていたのは、湯気のせいか、それとも――


「……さぁて、どうしたもんかね」


 ティーカップを傾けながら、軽く肩をすくめる。

 その仕草はいつも通りのふざけた風を装っていたが、目の奥は決して笑っていなかった。


 誰よりも長く生きて、誰よりも多くの唄を聞いてきた者の目だった。


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