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十六話:月の下、揺らぐ心

 陽が高く昇りはじめた王都の街は、穏やかな活気に包まれていた。

 石畳を行き交う人々の声、市場から漂う焼き菓子の甘い香り、空を横切る飛行艇の影――どれもが、平和の象徴に思えた。


 けれどルフレには、それらがどこか、自分から少し遠いものに感じられた。

 昨夜まで身を寄せていた聖堂を離れ、今日は「王都の様子を見ておくといい」と案内役の騎士に勧められて外へ出たばかりだった。


 通りの向こう、街角の噴水広場に差しかかろうとしたとき、人だかりが目に入った。

 ただの騒ぎではない。集まった人々の視線の先にいる人物が、目を引いていた。


 ――白銀の長髪が、陽光を受けて淡く輝いている。

 ストーリア王国の紋章を背にした、ロイヤルブルーの制服。その裾は膝丈のプリーツスカートで、歩くたびに軽やかに揺れる。

 膝下までを覆う黒革のブーツが、騎士としての気品と機動性を備えていた。


 その整った姿は、まるで物語の中から抜け出してきたようだった。


 ノア・ライトエース――そう、案内役の騎士が口にしていた名だった。

 若くして聖騎士に任じられ、王国の希望とも謳われる少女。


 彼女は地べたに座り込んだ子どもに膝を折り、目線を合わせて話しかけていた。

 子どもは手渡された布を強く握りしめ、やがて小さく笑った。


 ……その瞬間、胸の奥で、かすかに何かが反応した。

 熱ではなく、痛みでもない。

 ただ、“同じ”とも“違う”とも言えない、正体のない微かな感覚。


 得体の知れない感触だけが、しばらく胸に残った。


 それが何を意味するのか、自分でも分からない。

 ただ、何かが違うという感覚だけが、薄く尾を引いたまま残っていた。

 あの銀の髪が風に揺れ、騎士服のスカートが陽の下でひらめくのを、ルフレは黙って見つめていた。


 まるで、誰よりも人々に寄り添っているはずの彼女こそが、どこか遠い存在のように思えて――その姿は、人混みにまぎれて見えなくなった。


 ……ふいに、少女がわずかに顔を上げた。

 まるで、何か――声にならない気配に呼ばれたように、ノアがそっと視線を巡らせる。

 その動きに気づいた人混みがざわめき、視線の先で、ルフレとノアの目が一瞬だけ合った。


 ルフレは思わず身をこわばらせる。


 深い青の瞳。穏やかで、それでいて何かを見抜くような静けさを湛えた眼差しだった。怒りでもなく、憐れみでもない。ただ、そこに在るというだけで、心の奥に揺らぎを落とすようなまなざし。


 噂の聖騎士。人々に慕われ、誰よりも人に寄り添う存在。

 なのに、なぜか――あの瞳の奥に、自分と似た何かを感じてしまった。


 ノアは、数拍遅れて小さく会釈する。

 その礼儀正しい仕草に、ルフレは返す言葉もなくただ目を伏せた。


「……ルー、こんなところにいたのか」


 背後から掛けられた声に、ルフレは肩をすくめる。

 案内役の若い騎士が、苦笑まじりに声をかけていた。


「人が多いだろう。あまり離れちゃだめだ。神殿の方に戻る時間だよ。案内は、また今度にしてもいい」


「……うん」


 小さく頷いて、ルフレは再び最後にノアのいた場所を見やった。

 だがそこに彼女の姿はなかった。人々に囲まれながら、どこかへと歩いていったらしい。


 さっき感じた不思議な感覚は、今はもう、霧の中に消えてしまった。


 それでも――


 胸の奥に、どこか微かな温度だけが、確かに残っていた。


 王都の喧騒を抜け、小さな石橋を渡るころには、陽も少し傾きはじめていた。

 ルフレは、しばらく無言で歩いていたが、やがて思いついたようにぽつりと口を開く。


「……さっきの、あの騎士。白い髪の」


 案内役の青年騎士がちらりと横を見る。


「ああ、ノア様のことだな。見かけたんだ、君も」


「うん。……有名な人?」


「かなり有名だよ。若くして聖騎士に任じられたし、実力も評判も申し分ない。王都じゃ“銀の聖騎士”なんて呼ばれてるくらいだ」


「ふうん……」


 ルフレの声は淡々としていたが、その瞳はほんの少しだけ遠くを見ていた。


「ま、人柄も立派だよ。弱い者に優しく、偉ぶらない。城の人間だけじゃなくて、街の子どもたちや、庶民にもよく顔を出してるし、頼られるとほっとけない性分らしい」


「……そういうの、疲れないのかな」


「さあな。でも本人はどこか楽しそうだよ。人々の相談にもよく乗ってる。困ってる人がいたら放っておけないってタイプなんだろうな」


 騎士は肩をすくめたが、その声には尊敬の響きがこもっていた。


「それでいて、いざ戦えばすごく速い。柔らかな物腰に騙される者もいるが……あの子の動きは、気づいたときには敵の背後にいる――なんて噂もあるくらいさ」


 ルフレは返事の代わりに視線を落としたまま、ゆっくりと歩を進めた。

 人々に慕われ、庶民にも気さくに接し、強く――それでいて、偉ぶることのない聖騎士。


 まるで“理想”そのものだ。


 なのに、あの広場で感じた微かな違和感は、今も胸の奥に残っていた。

 あれは何だったのか。ただの気のせいか、それとも――


 神竜の気配――そう思えなくもなかったが、確信には遠かった。


 ただ、ひとつ確かなのは。


 あの人に、自分は目を奪われていたということだった。

 何かを見つけるように。何かを思い出すように。


 ノア・ライトエース――その名が、胸の奥に静かにとどまっていた。


「聖堂まで戻るのに、こっちの路地を抜けた方が早い。ついておいで」


 ルフレは小さく頷きながら、彼のあとをついていく。

 その背を見ながら、さっき感じた違和感――いや、“揺らぎ”のようなものが、再び心に浮かび上がる。


(あれが、本当にただの人間なら……)


 最後まで言葉にはならなかったが、その問いだけが、いつまでも胸の底で燻る。


 “聖騎士”。“王国の希望”。“人に優しく、戦えば速く強い”。


 言葉の羅列だけなら、ルフレにとって何の意味も持たなかった。どれだけ称賛されようと、どれだけ善良だと語られようと、それは“人間”がつけたラベルにすぎない。


 ――けれど。


 あのとき見た姿は、誰かに飾られた称号なんかより、よほど胸に刺さった。


 子どもに膝を折った、その姿勢。

 誰かの視線を意識したわけでもなく、ただ目の前の存在と向き合うようなその目。


 なぜか、母の背を思い出した。


 かつて、川辺で濡れたルフレを叱りもせず、そっと抱きしめてくれたあのぬくもり。

 人間と共に生きようと願った、あの人の声がふいに蘇る。


「……違う。そんなはず、ない」


 小さく口の中で否定する。

 けれど、その声には力がなかった。


 復讐のはずだった。

 世界を壊すことに迷いはなかったはずなのに――


 胸の奥で、何かがざわめいていた。

 名前も理由もない、正体不明の波紋。


 それはノアの姿を思い出すたびに、静かに広がっていく。


 なぜだ。

 何が、自分の中でこんなにも反応している。


 振り払おうとした感情が、足もとに絡みつく。


 歩みを進めながら、ふと――

 言葉にもならない思考が、心の奥で小さく囁いた。


 ただの気のせいかもしれない。

 意味などないのかもしれない。


 ノアのあの姿を思い出すたびに、心のどこかが、ずっと黙ったまま何かを問いかけてくる。


 あれすらも、偽りなのだろうか。


 もし、あれが偽りでなく、“本当”の姿だったとしたら――。


 その一言が、まるで石を投げ入れた水面のように、静かに彼の内側に広がっていった。


 ――違う。思い出せ。

 自分は何のためにここにいる。


 レガリアの声、託された言葉、『見極めろ』と。


 それが、“ボクの役目”だ。


 ――感傷に引きずられて、何を見誤っている。 


 彼女がもし、神竜なら。レガリアの言う“滅びの唄”を紡げる者なら。

 自分は、それを見極めるためにここへ来た。


 “選ばれた存在”として、自分は、もっと冷静でなければならない。


「……任務だ」


 その言葉を噛みしめて、ルフレは黙って歩みを進めた。


 日は傾き、通りの影は少しずつ長く伸びていく。

 どこかの鐘が、夕刻を知らせるように遠くで鳴った。


 聖堂では、日が暮れる前に簡素な夕食が振る舞われた。

 パンと温かいスープ、それに甘く煮た果実。ルフレは黙ってそれを口に運びながら、窓の外に目を向けていた。


 ……あの広場のことが、まだ胸に残っている。


 光に包まれたような、あの騎士の姿。

 人に寄り添うような眼差しが、ふとした拍子に思い出される。


「ルー、食べてる?」


 声をかけられ、慌てて頷く。

 視線を落とすと、皿はいつの間にか、きれいに空になっていた。


 その夜。

 就寝時間を告げる鐘の音が静かに響き、聖堂の明かりがひとつ、またひとつと落ちていく。


 ルフレは静かに身を起こし、薄手の外套を羽織った。

 寝息の広がる聖堂の一室を抜け、月光の差す窓辺へと歩を進める。


 そっと開けた窓から、夜の冷気が流れ込んだ。


 (……今なら、誰にも気づかれない)


 躊躇いはなかった。

 気配を殺し、身をひとつの影へと溶かすように、ルフレは王都の夜へと足を踏み出した。


 夜の王都は、昼の賑わいとは打って変わって、静けさに包まれていた。


 石畳を照らす街灯の光が、濡れたような影を長く引き、衛兵の足音が遠ざかるたびに、空気はしんと音を吸い込む。


 屋根と屋根の間を、風のように駆ける小さな影があった。


 ルフレ・スターレット――いや、今の姿は、もはや少年ではない。


 月の下、狼の血がゆっくりとその肉体を変化させていた。


 獣に姿を変えてはいないが、その瞳は夜目に輝き、呼吸音ひとつ立てずに壁を這う。


 ――ライカンスロープ。


 月の加護を受けた彼らのもう一つの能力、それは“影を渡る感覚”だった。


 ……この影の感覚は、ただの視覚や聴覚じゃない。

 感情の温度、思念の残滓、願いの痕跡――それらを“匂い”として捉える力。


 目に映る世界は、闇に沈んではいなかった。


 いや、むしろ“闇”そのものが色を持ち、匂いを持って語りかけてくる。


 人々の残した記憶の熱、地に落ちた涙の冷たさ、血のにおい、怒り、祈り、恐れ。


 全てが、世界の“影”に染み込んでいた。


 ルフレは、身を屈める。


 王都の北区、騎士団寮の近く。かつて火急の任務で駆け抜けた騎士たちの記憶が、石畳にわずかに残っている。


 だが、それよりも濃く、鮮やかな“何か”が、すぐ近くで波打っていた。


 ――彼女だ。


 ノア・ライトエースの痕跡。


 日中に見かけた騎士少女の残した“気配”が、鮮やかすぎる輪郭で、この夜の空間に焼き付いていた。


(……やっぱり、普通じゃない)


 力がある。それはわかる。けれどそれだけじゃない。


 光のような何かが、彼女の通った道を照らしている。人に寄り添うような、あまりにもまっすぐな足跡。


 ――もし本当に、“神竜”なら


 レガリアの言葉が、脳裏をよぎる。


『神竜の気配を感じ取ってきて。見極めて。もし揺らぎがあるなら……君になら分かるはず』


 だが今、ルフレがこの王都の“夜”に感じているのは、ただひとつ――


 “温かさ”だった。


 それが恐ろしい。


 違う。こんな感覚、あってはならない。


 ルフレは唇を噛んだ。


 足元の影がわずかに震え、体内の熱が呼応するように揺らいだ。


 影は知っている。彼の中に芽生えはじめた迷いを。


 ――心を揺らすには、光など不要だ。影の深さを知った者ほど、それに触れるだけで揺らぐ。


 ノアという光は、まさにそれだった。


 ほんの一瞬、気配を消すことを忘れていた。その理由は、言葉にするまでもなかった。

 ――ただ、街が、美しかった。高く澄んだ空。石畳に揺れる灯。


 夜の王都は静かで、どこかあたたかく、まるで“守られている”と錯覚しそうな穏やかさがあった。

 その中に身を置いていたことが、気配を研ぎ澄ますよりも先に、心を和らげてしまっていた。


「……もう少し。観察を続ける」


 ルフレは再び身を沈め、王都の影へと溶けていった。


 聖堂の高窓から、白衣の神官が静かに月を見上げていた。


 イスズ・エルガ――神官長にして、その正体はエンシェントドラゴン・セレナ。

 人の姿のまま、気配に耳を澄ませる。


「……へぇ」


 微かな魔力の震え。

 夜風にまぎれていたそれは、人でも魔物でもない“異質な気配”だった。


 けれど、そこに宿っていたのは――敵意ではなかった。

 むしろ、もっと別のもの。好奇心。観察。探ろうとする視線。そのどれもが、鋭く研ぎ澄まされているのに、毒気がない。


 ――レガリアの“匂い”も、ほんのかすかにあるにはあるが……それだけで決めつけるには、まだ若すぎる。



(……こいつ、自分で気づいてないな)


 イスズは口の端をゆるめる。

 警戒が甘いわけじゃない。ただ、あの子……あの街の夜に、ちょっとだけ見とれてただけだ。


 ふわふわの空気と、静かな光に、少しだけ気を取られた。そういう無自覚な“隙”が、一番子どもっぽくて、嫌いになれない。


 気配の動き方が、妙に素直だった。


 まるで、自分でも気づかぬままに誰かを追ってしまっているような――そんな、幼さすら混じる追跡。


 イスズはわずかに目を細め、窓辺から離れる。


「……もしあれが敵になるなら、そのときはそのとき。けれど今は――ただ、迷い込んだ子どもにすぎない」


 肩をすくめながらも、目の奥には観察を終えた者特有の静かな確信が宿っていた。


「下手に手を出せば、かえって火種になる。ああいう子は、自分で答えにたどり着かなくちゃいけないのさ」


 ぽつりと呟いた言葉に、誰が答えるわけでもない。


「今は、興味で動いているだけだろう。……そのうちノアが、ちゃんと“触れる”。アタシなんかより、ずっと真っ直ぐにね」


 ぶつぶつと独りごちながら、イスズはゆっくりと階段を下りていった。

 その背には、ただの見逃しではない、“静観”を選んだ太古の竜の重みが滲んでいた。

 一方その頃。


 王都の屋根の上で、ルフレは何かを探るように、ただ黙って視線を走らせていた。


 あの神官――気づいていたのかもしれない。


 何も起きなかったことに、わずかに違和感を覚える。


 だが、追ってくる気配はない。むしろ、初めから“見逃された”ような感覚があった。


 バレても構わなかった……はずだった。


 そう思いながらも、ルフレの内側では小さな不思議が生まれていた。


 なぜだろう

 ……昔、母と手を繋いで歩いた夜の村を思い出した。


 あのときも、空はこんなふうに高く澄んでいて、街の光はぬくもりに満ちていた。


 ……安心した? そんなはずない。

 けれど胸の奥で、ふいに“あの手”を思い出していた。

 小さくて、でも温かくて――夜の道を共に歩いてくれた、母の手を。


 その理由に、彼自身はまだ気づいていない。

 遠く、どこかの屋根の上で、夜風がそっと幕を揺らした。

 ルフレの心にも、似たような波が、まだ名もなく漂っていた。


 一方その頃、聖騎士の詰所。

 ノアは、執務の合間にふと窓辺へ立ち、夜の街を見下ろしていた。


 風が静かに吹き込み、カーテンの端が揺れる。

 月の光が差し込むなか、彼女の視線は、どこか一点を探すように遠くを彷徨っていた。


 何かが――通り過ぎた気がした。


 けれど、それが何かは分からない。

 呼吸を整えるように、ノアは一度まぶたを閉じる。


 胸の奥に、小さく波紋が広がる感覚。

 懐かしいような、けれど触れたことのない、淡い揺らぎ。


 やがてノアは、そのまま窓を閉じた。

 静かに踵を返しながらも、背後に残る夜の気配に、ほんの一瞬だけ振り返りかけ――けれど、何も言わずに歩き出す。


 音もなく閉じた扉の向こうに、微かな気配だけが、まだ残っていた。


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