十五話:知らぬまま、すぐ傍に
薄暗がりに包まれた旧離宮の一室。
再生の魔力が静かに満ちるその中心で、銀色のオルゴールが微かに震えた。
それは、かつてエリュシオン王がレガリアに贈った大切な記憶の品だった。
蓋が音もなく開き、淡い光の粒がふわりと舞い上がる。
その光の中から、黒髪をゆるやかに巻いた少女が現れた。
フリルのついた可憐な侍女服。丸い眼鏡の奥で、紫の瞳が夢見るように瞬いている。
「……んん~……ふわぁぁあ……? あら……?」
彼女――ベルタは、しばらく夢見心地のまま瞬きを繰り返し、やがてふわりと床に足をつけた。
足音はなく、空気すらもその存在を穏やかに受け入れていた。
「まぁ……戻って……いらっしゃるのね……」
壁、柱、天井。
全てが壊れる前と同じ姿でそこにあり、否、魔力により再現されていた。
空間に満ちる気配を肌で感じながら、ベルタは一歩、また一歩と進む。
そして、目の前に立つその姿を見つけた。
「……ベルタ」
懐かしさと静けさを含んだ声。
振り返ったベルタは、瞬時にスカートの裾を摘み、恭しく一礼する。
「レガリア様っ……! またお目にかかれて、嬉しゅうございますわ……!」
顔を上げ、ぱあっと花が咲くような笑みを浮かべる。
紫の瞳が潤み、眼鏡がほのかに曇った。
「こうして、またお傍に……ああ、ベルタは……ずっと、この時を……!」
喜びの声は明るく響いた。
だがその胸の奥には、誰にも見せぬ悲しみが静かに沈んでいた。
目の前のレガリアは、確かにかつての主君。
しかし、あの頃に感じた温もりが――感じられない。
それでも。
「ふふ……でも大丈夫ですわ。ベルタは信じておりますの。レガリア様が目的を果たされた暁には……きっと、昔のような優しさを取り戻してくださいますわ♪」
その微笑みに、迷いの影はなかった。
レガリアが歩み寄り、ベルタの黒髪にそっと触れる。
「あなたは……変わらないのね。そこだけは、嬉しいわ」
「ええ、変わるわけありませんもの! レガリア様の専属お世話係として、永劫変わらず、お仕えいたしますわ~!」
ベルタはくるりと身を翻し、まるで再会が祝福に満ちていたかのように笑みを浮かべた。
だがその紫の瞳の奥には、誰にも触れさせぬ小さな影が確かに揺れていた。
再生された離宮の謁見の間。
冷えた空間に、二つの影が並び立つ。
一人は黒翼を背に持つ、無表情な男――ハリアー・ブレイド。
もう一人は銀髪のあどけなさを残した少年――ルフレ・スターレット。
正面の漆黒の玉座には、かつての守護竜――レガリア。
「……紹介するわ、ベルタ。彼らが、私に忠誠を誓ってくれている子たち」
「は、はいっ!」
勢いよく膝を折っていたベルタが顔を上げる。
レガリアが頷き、二人へと視線を向けた。
「彼女がベルタ。私のオルゴールに宿った精霊。私に仕える侍女であり、この屋敷の守人でもあるわ」
ルフレは眉をひそめる。
「……この子が、精霊?」
ベルタはにこにこと微笑みながらルフレに向き直り、くるりと一礼した。
その銀髪、大きな瞳、無愛想な表情。
すべてが彼女にとって完璧な“ツボ”だった。
紫の瞳がきらりと輝く。
「まぁぁぁ……! なんて、なんてお可愛らしいのですこと~!」
まるで宝石を見つけた子どものような顔で、ベルタは駆け寄る。
「はじめましてルフレ様っ……! ご紹介にあずかりました、ベルタと申しますの~!」
「……は?」
困惑するルフレをよそに、ベルタはその周囲をくるくると回りながら観察する。
「すべすべのお肌に、絹のような髪……目元のあどけなさと、不機嫌そうな口元の対比……ああ、まるで神が創りし宝珠ですわ……!」
「……宝珠?」
「ふふ、いえいえ、どうぞお気になさらず、ベルタ、感動で胸がいっぱいですの~!」
テンションは最高潮だった。
ルフレは若干引いて、レガリアに小声で囁く。
「……この子、本当に大丈夫なの?」
「ええ。忠実よ。少々テンションが高いだけで」
レガリアは、わずかに微笑んだ。
その横で、もう一人の従者――ハリアーは沈黙のままベルタを見つめていた。
感情の読めぬ眼差し。だが、観察するような静けさをたたえている。
ベルタはすぐにそちらにも向き直る。
「そしてこちらは……まぁ、お強そうなお方ですこと! 荒削りなお姿ですが、手をかければきっと、誰もが振り返る御方に……!」
「……必要ない」
ハリアーは冷たく返し、視線を逸らす。
「おやおや? 不器用な方ほど、お手入れのしがいがあるものですのにぃ」
「ベルタ、ほどほどにね」
レガリアが咳払いのように声を立てると、ベルタは慌てて一礼した。
「も、申し訳ありませんっ、つい趣味が出てしまいましたの!」
その様子を見て、ルフレは小さくため息をつく。
「……めんどくさい侍女だ」
「まぁっ、それは褒め言葉として受け取っておきますわね~?」
満面の笑みでウィンクする。
やり取りを無言で見守るハリアー。
レガリアは静かに告げる。
「ベルタには、この屋敷の管理と、外出時の衣装や身分の整備なども任せてあるわ。……つまり、今後あなたたちの“顔”を整えるのは、彼女の役目になる」
「顔?」
「偽装、変装、礼儀作法――そういったこと全般よ。……ベルタはそれが得意なの」
「もちろんですわぁ!」
ベルタはくるりと回って一礼し、巻き髪をふわりと揺らす。
「レガリア様の大切な方々ですもの! ベルタ、心を込めて仕上げさせていただきますわ!!」
その声は明るく、天真爛漫。
だが、レガリアの瞳にはわずかに懐かしさが宿っていた。
かつての騎士たちと過ごした穏やかな日々。
決して戻らぬ過去を、一瞬だけ幻のように呼び起こしていた。
「……ふふ。賑やかになってきたわね」
その呟きは、かすかに湿った響きを含んでいた。
だが誰もそれに触れず、ただ日常のような静けさが満ちていた。
再生された離宮の一室。
窓辺に佇むレガリアが、静かに遠い空を見つめていた。
その背後では、ルフレとベルタが跪いている。
「……あの子は、生きている」
ぽつりと落ちた言葉に、ルフレの眉がかすかに動く。
「昔、一組の天竜夫婦を殺した。……正確には、“殺したかった”が正しいのかもしれないわね」
声音には、皮肉めいた響きが滲んでいた。
「私の邪魔をした。だから殺した。でも――」
レガリアの視線は、空の彼方を泳いだまま。
「そのとき傍にいた赤子だけは、殺さなかった。神竜の気配があったから」
「神竜……? 使えると思ったの?」
ルフレが問うと、レガリアは頷く。
「ええ。“滅びの唄”を発動できるのは、神竜だけ。世界を創り替えるその唄は、神竜の命と引き換えにしか紡げない」
その言葉は、静かでありながら酷く冷たかった。
「だから、泳がせた。いずれ、その命をもって世界を変えるために。どこかで生き延び、時を待つなら――それは、私の望む未来に繋がる」
ルフレは何も言わずに耳を傾けていた。
「……そして今。ストーリア王国の空から、あの気配が届いた。微かに、でも確かに、目を覚ましかけている」
ようやくレガリアが振り返り、まっすぐにルフレを見つめる。
「姿も名もわからない。ただ、“完全には目覚めていない”ことだけは分かる。なら、今のうちに確かめたい。“引き寄せることができるか”を」
ルフレは静かに頷いた。
「ボクに、見極めろってことだね」
「そう。もし神竜の力が兆しているのなら――その心に揺らぎがあるなら。君なら、それを見抜けるはず」
言い終えると、レガリアはわずかに視線を逸らす。
ほんの一瞬、どこか苦い記憶に触れるような横顔になった。
けれど、それ以上は語られない。
夫婦の息子、セルシオ・セヴィルに封じられた記憶を、自ら明かすことは決してなかった。
それが彼女の矜持だった。
そして――
「ベルタ」
「はぁいっ 支度は万全ですの~」
ベルタが明るい声で立ち上がる。
「お洋服の用意、すべて完璧に整っておりますわ! ルフレ様を“とびきり可愛い孤児”に仕立てあげて差し上げますわ!」
「……頼んでない」
「任務ですからっ♡」
ふたりの間に、妙な空気が流れる。
レガリアは唇の端をわずかに上げた。
「セレナがまだ潜んでいる可能性がある。……私自身が動けば、すぐに気づかれるでしょう。今回は、信徒に任せるわ」
「はい! “例の方”にすでに運搬依頼済みですの」
ベルタの声に、レガリアは頷いた。
「行ってらっしゃい、ルフレ」
運命の糸は、今、静かに結ばれ始めていた。
アストラ大陸の東岸。
夜の港町。濃霧に包まれた無人桟橋の奥、影のように停泊している帆船があった。
その傍らに立つのは、くたびれた服を纏った中年の男――レガリアの血を受けた信徒である。 その瞳は虚ろで、けれど命令には忠実だった。
「……乗れ」
短く言われ、ルフレは乗り込む。 足元には、小さな荷袋と、くしゃりと折れた紙切れが挟まれた手帳。
ふわふわの布で包まれた旅服が添えられている。
傍らではベルタが、手際よく最終チェックを終えていた。
「靴紐、よし……頬の汚れも、哀れみを誘う程度に……ふふ、これで“仕上がり”は万全ですわ」
「……これ、ほんとに拾われるよね?」
「もちろん! 人間は、可哀想な子にとことん甘いんですのよ~」
ベルタは満面の笑みで頷く。
「港近くの斜面に、ちょうど巡回兵が通る時間を狙ってルフレ様に行ってもらいますの♡ 泣く必要はありませんわよ? 少ししょんぼりしていれば、人間って勝手に“かわいそうな子”として拾ってくれますもの」
ルフレは無言で荷袋を見つめた。
(……本当にやるんだ、これ)
「あの国の庇護施設では、迷子や保護対象の子を受け入れる体制が常に整っているそうですわ。ですから――」
ベルタはいたずらっぽくウィンクし、耳元でそっと囁いた。
「“誰かが拾ってくれた”と思わせればいいんですの」
「……“捨て子”って言わないんだな」
「だって違いますもの♡ “拾わせてさしあげる”のですわ~」
ルフレは遠く、夜の海を見つめた。
空は深く暗く、だが雲間にはわずかな光が差していた。
「……行くよ。言われた通り、“観察”する」
「はいはい、お気をつけて♡」
夜の港町を離れた帆船が、霧の海を静かに渡っていく。
風を孕んだ帆が軋み、黒く染まった海面が時折、星のような泡を散らす。
甲板には、レガリアの血に操られた“信徒”たちが寡黙に操船していた。
誰ひとり口をきかず、命令だけに従って動く、音のない船。
帆船はゆるやかに進み続ける。
海の色は、夜の黒から、かすかに青色へと変わりつつあった。
甲板には、相変わらず無言の“信徒”たちがいた。
風を読むでもなく、互いに声を掛け合うでもなく、ただ淡々と帆を調整し続けている。
彼らは、かつて意志を持った“人間”だった。
レガリアが潰した村や集落から、ただ“使えそうだ”というだけで拾い上げられた者たち。
そして、血を与えられたその瞬間から――もはや、“主の道具”としてしか存在しない。
その様子を、ルフレは船縁にもたれながら静かに眺めていた。
まるで人形のような彼ら。
命令に従うだけの躰。意思も、感情も、もはや残されてはいない。
レガリアの血を与えられた者たちは、そうして“信徒”と呼ばれる存在へと変わる――それは彼女が皮肉を込めて名づけた、支配の器。
それと同じではない。彼はそう思っていた。
そう――思っていたはずだった。
彼は、自分で選んだつもりだった。
レガリアの言葉に、理想に、心を動かされたのは確かだ。
だが、それだけではなかった。
もっと根の深い場所で、彼は気づいていた。
――自分は、彼女の“眼差し”を求めていたのだと。
誰よりも強く、誰よりも孤独なその存在に、「お前が必要だ」と言ってもらえることが、何よりも心を満たしていた。
けれどもし、彼女が言うのをやめたら。
もし、もう不要だと、切り捨てられたら――。
その瞬間、自分には何が残るのか。
自分という存在は、ただの捨てられた“道具”になるのか。
それとも、気づきもしないまま、笑って従い続けるのか。
嫌だ――その思いだけが、確かに胸にあった。
そんな未来は、どうしても受け入れられなかった。
自分は、人形じゃない。
誰かの血で動かされる“信徒”とは違う――そう、強く思っていた。
だが、その確信すら、海風にかき消されていくような気がした。
――そのとき、船がふわりと揺れた。
視界の先、うっすらと陸影が現れる。
海の色は白みはじめ、空もわずかに明るくなっていた。
イオス大陸。
目的地は、もうすぐそこだった。
ルフレは、ゆっくりと顔を上げる。
思考の渦はまだ収まりきらない。だが、今は――
「……任務を遂げる。それが、ボクの役目だ」
唇からこぼれたその声は、小さく、そして静かだった。
船は、音もなく速度を落とし、風を手放すように帆がたたまれていく。
信徒のひとりが無言で縄を解き、小舟を静かに海へ下ろした。
沖合で止まった帆船から、ルフレと荷物が乗せられたその舟は、潮に乗ってゆっくりと浜辺へ向かっていく。
舟を漕ぐ男もまた、血に染められた信徒。
その瞳は虚ろで、ただ命令に従って動いていた。
朝霧の中、舟は岸へ辿り着き、男は無言でルフレを浜辺に下ろす。
最後に袋を置き、紙片を握らせる。
「……手配通りに」
それだけ言い残し、男は再び舟を返した。
「……ほんとに捨てられた気分になるな、これ」
森を背に、丘の先を見上げる。
朝靄に霞む中、遠くに人の気配――町の灯りがかすかに見えていた。
「……王都、か」
がさり、と草を踏む音だけが返ってくる。
「……まあ、いいや。任務だし。べ、別に迷子でも捨てられたわけでもないし……!」
独り言が虚しく響く。
肩の袋を引き直し、ぼやきながら丘を登っていく。
足元は朝露に濡れてぬかるみ、旅服は重く、髪は頬に貼りついていた。
「うわ……アストラよりはマシだけど、やっぱ寒いな……ていうか、お腹減った……」
どう見ても、ただの疲れ果てた少年の姿だった。
(……これ、本当に保護されるんだろうか……?)
疑念を抱えながら、坂道を越えたその先――
ようやく街道へと抜け、石造りの城門が姿を現す。
まだ開門前。だが、門の近くには巡回兵と衛兵の姿があった。
ルフレは、とりあえず門の脇にある石段に腰を下ろし、ひとつ深く息を吐く。
視界の端で、騎士服の青年がこちらに気づいた。
眉をひそめながら、彼が近づいてくる。
「……君、こんな時間に? あれ、ひとりか? どこから来たんだ?」
ルフレは反応が遅れ、疲れた声でぼそりと返す。
「さあ……どっからだろ」
その声があまりにも素で、“迷子感”にあふれていたせいか、青年は「……保護案件だな」と小さく呟き、すぐさまストーリア大聖堂への連絡を飛ばすことになった。
やがて、淡い青の神官服を纏った女性が小走りで現れ、ルフレの前に膝をつく。
「……おはようございます、坊や。寒かったでしょう?」
その声は優しく、けれど手慣れた響きを帯びていた。
ルフレは、うっすらと彼女を見上げる。
声を出す必要はなかった。ただ、少し肩をすくめれば、それで十分だった。
「震えてるわね……」
女性がそっと額に手を当てると、ルフレはわずかに身を引いた。
だが拒絶の意思は感じられなかった。
「身元もわからないし……応急庇護ですね」
そう判断した聖堂職員たちは、手早く対応を進めた。
大きなマントでルフレを包み、簡易の担架に寝かせて移送する。
言葉を必要以上に交わすことはなかったが、ひとつの“保護案件”として、城下の神殿へと搬送された。
聖堂の診療室。
日の光が差し込む高窓の下、ルフレは淡いリネンのシーツにくるまれていた。
熱はなかったが、身体は冷えていた。
旅装は清められ、汚れた服はすでに洗濯籠の中へ。
ベッドの脇には、控えの神官が座り、書類を整えている。
だが、ルフレはその様子をぼんやりと見ているだけだった。
――計画通りだ。
寒さも、空腹も、すべて“演出”の範疇。
けれど、そのなかに混じる“ほんの少しの本物”が、妙に胸の奥を引っかかせた。
(……想像以上に、やさしい)
誰も問い詰めず、責めず、ただ手を差し伸べる。
それが、少しだけ――痛かった。
「お名前、言えるかな?」
そう尋ねられたルフレは、一瞬だけ口を開きかけて――はっとして言葉を飲み込んだ。
「……ル……ー……」
かすかに呟いた音を、神官は聞き取ったように頷く。
「ルー、ね。……じゃあ、それで記録しておくわね?」
ルフレは小さく頷いた。
胸の奥で、冷たい汗がにじむ。
――危なかった
ごく自然に“本名”が出かけていたことに、自分でも気づかなかった。
“ルー”という短縮が口をついて出たのは、咄嗟のごまかしだった。
けれど、それがそのまま“今の名前”として扱われていくのだろう。
安堵と、わずかな違和感が、心の奥に沈んだ。
それでも、言葉にはせず、ただ静かに頷いた。
「よかった……。では、今日からここで、しばらく休んでもらいましょう」
神官の声はあくまで穏やかで、事務的ではあっても、冷たさはなかった。
聖堂職員たちは、ルフレに“迷子”として最低限の生活を与える。
身寄りが見つからない間は、王都の庇護下に置かれることになる。
やがて、湯気の立つハーブティーと、温かいパンが運ばれてきた。
「冷めないうちに食べてね。きっと、お腹すいてるでしょう?」
ルフレは、小さく「……ありがとう」とだけ呟いた。
それは演技ではなく、ほんの少しだけ本心だった。
その様子を見届けた神官は、安堵したように頷いて部屋を出ていく。
静けさが戻る。
窓の外には、朝陽がやわらかく差し込み、鳥の声が微かに響いていた。
ルフレは、少しだけ顔を布団に沈め、瞳を閉じる。
(……“揺らぎ”を見つけろ、か)
レガリアの言葉が、思い出される。
この地に本当に神竜がいるのか。
それを見極めるための“観察”が、今、始まったばかりだった。
だが、彼の胸の奥では、すでに別の感情が生まれかけていた。
それは、彼自身もまだ気づかない、柔らかな戸惑いだった。
神官がそっと扉を閉めたあと、白い柱の立ち並ぶ回廊に足音が重なる。
聖堂の朝を告げる鐘が鳴り終わる頃――祈りを終えた少女が、静かに祭壇の前から立ち去っていく。
長い銀髪に朝の光が差し込み、淡い青の騎士服が揺れる。
少女はふと立ち止まり、庇護室へと続く奥の廊下へ一度だけ視線をやる。
(……何か……風の流れが、少し違う)
彼女はその感覚に、名も意味も与えず、軽く瞬きをして歩き出した。
ただ、その向こう――
一枚の扉の奥では、今まさに“彼”が目を閉じていた。
ルフレとノア、すれ違いの朝。
まだ知らぬ二つの命が、同じ祈りの空気を吸っていた。




