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十四話:この火が、ぬくもりになるまで

 詰め所の片隅、静かな陽光が差し込む机に向かって、ノア・ライトエースは巡回記録に細やかな文字を走らせていた。まっすぐな筆致が、彼女の几帳面な性格をよく表している。


 けれど、その筆がふと止まった。心の奥に小さなざわめきが生まれたのは、そのとき、静かな扉越しに、控えめなノックの音が響く。


「失礼いたします、ノア様。神殿の方からお迎えが参りました。……火竜が、大聖堂に姿を現したとのことで」


 報せを受けたノアは、帳簿をそっと閉じ、静かに顔を上げた。


「火竜……? なぜ、私の名を?」


 神官は一呼吸おいてから答えた。


「名乗られたのは『イグニス』という名です。水竜からノア様の噂を聞いて、相談に訪れたのだとか」


 ノアの胸に、かすかな緊張が走った。竜族が人に自ら相談を持ちかけるというのは、容易なことではない。


 それはきっと、深い葛藤の末にたどり着いた決断なのだろう。


「……分かりました。すぐ向かいます」


 ――ストーリア大聖堂の庭。石畳に残された熱の名残が、炎の記憶のようにたゆたっていた。


 庭園の一角には静寂が広がり、神官たちは距離を保ったまま様子を窺っている。


 その中心、噴水のそばに、赤銅色の体毛をまとった一体の火竜が、じっと身を伏せていた。


 その大きな身体の周囲には、芝が柔らかく揺れ、近くの草花も微動だにせず咲き誇っている。


 本来なら焼け焦げてもおかしくない距離――それでも、焦げ跡ひとつ見られなかった。


 見守る神官の一人が、小さく息を呑む。


 それは、ただ力を誇る竜ではなく、自らを制御する術を持った者の姿だった。


 やがて、細やかな足音と共に、ノアが姿を現す。


 彼女が静かに礼を取ると、火竜もまた、その巨体をかすかに傾けて応じた。


「……俺はイグニス。真竜族の火竜だ。ノア・ライトエース、水竜から聞いた。お前に、話がある」


 低く、しかし確かな響きを持つ声だった。


 言葉の端々には不慣れな様子も見えたが、それゆえに誠実さが滲む。


 ノアは微笑を浮かべ、ゆるやかに首を傾けた。


「私でよければ、お話をうかがいます」


 イグニスはひとつ息を吐いた。喉の奥でくぐもった熱が揺れ、たてがみが静かに揺れた。


「……俺は、どうすればいいのか分からない。人間と……どう向き合えばいいのかが」


 その言葉に、ノアはわずかに目を伏せた。竜の横顔には、確かに迷いが宿っていた。


「俺は人間が嫌いじゃない。むしろ、好きな方だ。……昔、村の子どもと遊んだことがあるんだ。けど、最後には“違う”ってだけで、距離を置かれた。……俺の炎が怖いって。実際、燃やしてしまったこともあるから、仕方ないが」


 イグニスは、視線を遠くに向けたまま言葉を継いだ。


「俺たちは長く生きる。力も強い。怒れば地が裂け、吠えれば山が焦げる。……感情の波も、人とは違う。そんな俺が“分かり合いたい”なんて、笑われるかもしれない」


 ノアは一歩、竜の傍らへと歩み寄り、静かに膝を折った。


 ただ、彼のそばに座る。それだけで、隔たりが少しずつ溶けていくように感じられた。


「……私も、同じように悩んだことがあります。言葉は通じても、気持ちが届かない。伝えようとしても届かない。だから、怖くなるんです。自分が“違う”のではないかと、思ってしまうこともある」


 彼女の声は穏やかで、まっすぐだった。


「でも、“違う”ということは、本当は悪いことではありません。違うからこそ、向き合いたいと思える。分からないからこそ、“知りたい”と願えるんです」


 イグニスは、しばし沈黙したまま彼女の言葉に耳を傾けていた。


「イグニスさんがここに来てくださった。それだけで、もう、伝えたい気持ちは届いています。きっと、人々も、それを感じ取ってくれるはずです」


 沈黙のあと、火竜は長く息を吐いた。


 その呼気には、どこか安堵に似たぬくもりがあった。


「……俺の炎が、誰かを温められるなんて……思ってもみなかった。ただ“燃やすもの”だと、そう思っていた」


 ノアは柔らかな笑みを浮かべた。


「大丈夫です。少しずつでいい。あなたの“火”が、誰かを守る形に変わっていく道を、見つけていきましょう」

 イグニスはしばらく黙っていたが、やがて視線を少し落として言った。


「……実は、少し前に火事があった村があっただろ。俺が……原因かもしれないんだ」


 ノアが目を細める。


「……ええ、すぐに消し止められたと聞いてます」


「あの時、子どもが崖から落ちそうになって……助けようとした。うまくやったつもりだったけど、木に火がついて……すぐに消し止めたが、俺の炎を見て、怯えて逃げた」


 イグニスは喉の奥で言葉を噛み、続ける。


「その子がどうなったかも分からなくて……それに、もしかしたら、まだ火が残ってて、それがその後の火事につながったのかもしれない。だから、確かめたいんだ。ちゃんと、自分の目で」


 ノアは黙って頷いた。


 その頷きには、責める色も、疑いもなかった。


「……分かりました。では、その村へ向かいましょう」


 ノアはイグニスに軽く会釈し、すぐ近くに控えていた神官にそっと声をかけた。


「これから、この方と共に、近隣の村へ向かいます。……何かあれば、神殿経由で王城へお伝えを」


 神官は驚いたように瞬きをしたが、すぐに深く頷く。


「承知いたしました。……お気をつけて」


 ノアは静かに礼を返し、イグニスの方へと向き直った。


 その言葉に、イグニスは静かに頷いた。


 その瞳の奥に、微かな光が宿りはじめていた。


 ――朝靄の残る森を抜けると、遠くに小さな村の輪郭が現れた。


 木と石を組み合わせた素朴な家々が、まばらに点在している。けれど、その空気にはどこか張りつめた気配が漂っていた。


「……ここだ。あの子を見たのは、この村だった」


 イグニスが、低い声でそう言った。


 その巨体は森の縁に留まりながらも、視線はまっすぐ村を見据えている。


 ノアは彼の隣に立ち、前方の村の入口を見やった。


 いくつかの槍を携えた村人たちが、厳しい面持ちで門を守っている。その様子は、平和な暮らしには似つかわしくない緊張感を帯びていた。


「ここから先は、私が参ります。イグニスさんは少し離れて、森の中から様子を見ていてください。……急に竜が現れては、村人たちも驚いてしまいます」


 火竜はしばし迷ったようだったが、やがてゆっくりと頷いた。


「……分かった。俺が原因でなかったとしても、確かめなければならない」


 ノアが一歩、村へ向けて歩み出すと、警戒するように村人たちがざわつき始めた。


 白銀の髪と騎士の装い、背負われた剣。そして、背後の森にちらと見える大きな影。


「おい……まさか、竜か?」


 動揺の声が上がる。だが、ノアは落ち着いた調子で片手を掲げ、村人たちの前に立った。


「ご安心ください。初めまして、私はストーリア王国所属の聖騎士、ノア・ライトエース。本日は、火災に関する調査のために参りました」


 すると、年配の村人が一歩、前に出た。


 やや戸惑いを浮かべながらも、真摯なまなざしで彼女を見つめている。


「竜の仕業……と噂もありましたが、実は我々も、それは違うのではないかと思い始めていましてな」


 ノアはわずかに目を見開いた。


「……どういうことでしょうか?」


「つい最近のことです。村の子どもが、崖から落ちかけましてな。すると、大きな火の塊のようなものが現れて、その子を救ったと……ただ、その際に木に火がついてしまいまして。子どもは驚いて逃げ出し、誰にも言えずにいたようです」


「……けれど、その子は言っていたのです。『助けてくれた気がした』と」


 ノアは静かに頷いた。


「……それが、イグニスさんだったのですね」


 そう言いながら、彼女は背後の森に向かって声を放った。


「イグニスさん。……あの子は、あなたに助けられたと感じていました。怖くて逃げてしまったけれど、本当は、覚えていたんです」


 木々の間に潜んでいた火竜の瞳が、わずかに揺れた。


 迷いと共に、自責の念が滲む。


 ノアが言葉をかけようとした、そのときだった。


 微かな風が、焦げた匂いを運んできた。ノアの眉がわずかに動く。


「……煙の匂い?」


 村の奥――林の一角。風下にあたる場所の空が、かすかに色づいていた。


 白銀の髪が風に揺れ、ノアの目が細められる。


「火事……!?」


「誰か水を! だが、川は遠いぞ!」


 村人たちが叫び、混乱が走る。


 その瞬間、小さな叫び声が林の奥から聞こえた。


 ノアの目がはっと開かれる。


 ――子ども。

 火の筋が迂回し、草むらの向こうに、逃げ遅れた小さな影が見えた。


「危ない――!」


 ノアは躊躇なく駆け出しかけた。だが、その足が地を蹴るより早く、背後から熱の気配が迫る。


 風を裂いて、赤銅の影が飛び出す。


 火竜・イグニス。その咆哮にも似た唄が、空気を震わせた。


 風を切って、森から赤銅の影が飛び出す。


 低くうなるような声。


 それは咆哮ではなかった。怒りでも、威嚇でもない。


 熱を帯びた鼓膜の奥をくすぐるような、しかし、どこか旋律のある音。


 イグニスの胸の奥から放たれた唄の魔力が大気を包み込む。


 火の力を責めるのではなく、「そばにいてくれていい」と告げるような――。


 唄は、火に語りかける。


 まるで、疲れた獣の背をそっと撫でるように、熱の奔流が静まっていく。


 祈りにも似たその唄に応えるように、枝を舐めていた炎が、ぱち、と音を立ててしぼんだ。


 風にあおられていた火筋が逆らうように揺れ、やがて、草を焼かずに静かに消えていく。


「……歌?」


 誰かが呟いた。


 ノアが駆け寄る。


「イグニスさん、今の……あれは……」


 火竜はしばし口を閉ざしていた。


 唄は声ではない。肉体の器官を通した音ではなく、内なる核から放たれる魔力の波。


 けれど、たしかに何かが消耗していた。


 力の芯から練り上げて放つあの“音”は、彼の心と魔力を削っていたのだ。


「……魔物だ」


 イグニスが、低く息を吐くように呟いた。


「見えた。小さいやつが……風に紛れて、火を吐いてた。もう逃げたが……」


 ノアは力強く頷き、振り返って声を張った。


「皆さん、火は鎮まりました! 火竜イグニスさんが、唄で沈めてくださいました!」


 しん、と静まり返る空気。


 ごく小さく「……すごい」と誰かが呟いた。


「唄……だったのか……」


「燃やしてない……あれは、止めるための……」


 感嘆と驚きの声が、少しずつ広がっていく。


 その沈黙のなか――ひとりの小さな影が、ノアの脇を抜けて前へ出た。


「……おじちゃんの火、あったかかった」


 イグニスが、驚いたように瞳を見開いた。


 そこに立っていたのは、あのとき助けた子どもだった。


 震えながらも、まっすぐに立ち、竜の顔を見上げる。


「こわくなかったよ。……ありがとう」


 イグニスの肩が、かすかに揺れた。


 ゆっくりと、たてがみの奥で瞳が細められる。


「……ああ。……よかった」


 その夜、小さな村の広場には、ひとつの焚き火が灯されていた。


 輪になって座る村人たちのあいだに、火竜の影があった。


 誰もが最初は戸惑っていたが、それでもこの火は、決して恐れるべきものではないと、誰かが気づきはじめていた。


 火は、誰かを焼くだけのものではない。


 温めるものでも、あったのだと――


 焚き火の揺らめく明かりのなかで、イグニスがぽつりと呟く。


「……今も、少し怖い。俺の火が……また誰かを傷つけるんじゃないかって」


 ノアはそっと微笑んだ。


「でも、それでもここにいてくれた。それが、もう答えです」


 火竜はしばし火を見つめ、それから、ほんのわずかにうなずいた。


 朝靄のなか、村の石畳はまだ冷たさを宿していた。


 緩やかな坂道の途中、ノアとイグニスは並んで歩いていた。


 昨夜、火を囲んだ場所はすでに視界の向こうだが、そのぬくもりだけは、まだ背にやさしく残っているようだった。


 ノアが振り返り、軽く会釈する。


「……本当に、ありがとうございました。イグニスさん」


 その礼に、火竜は少し照れたように鼻を鳴らし、視線を逸らした。


「礼を言うのは、俺の方だ。……あの炎を鎮めることはできても……誰の心にも届かなかったと思う」


 自嘲に近い響きを含んだ言葉に、ノアはふっと微笑を返す。


「でも、鎮めたのはイグニスさんです」


 イグニスはわずかに首を傾け、何かを確かめるように遠くを見やった。


「……あれが、俺の火、か」


 その声には、ひどく小さな安堵が滲んでいた。


 まだ揺らいでいる。けれど、その揺らぎさえも、今の彼には確かな証なのだ。


「まだ、うまくいくかはわからねぇ。でも……また誰かに、“ありがとう”って言われる火になりたい」


 その言葉に、ノアはためらいなく頷いた。


「きっと、なれます。……いえ、もう、なっていますよ」


 そのとき、遠くから風に乗って子どもの声が届いた。


「ノアさーん! 竜のおじちゃんもー!」


 坂の下、村の入口に小さな人影が見える。


 先頭に立っていたのは、あの少年だった。


 小さな腕が、これでもかというほど大きく振られている。


 イグニスはゆっくりと振り返った。たてがみが風に揺れ、瞳の奥にかすかな光が射す。

 誇らしさ――その感情に、ようやく名を与えられたような、静かな瞬きだった。


 しばらく空を見つめていた彼が、ふいに呟く。


「なあ、ノア。……送ってくぜ、ストーリアまで。背に乗れ」


 言葉に滲む照れは隠しきれない。

 けれどそれを茶化すことなく、ノアは小さく目を見開き、すぐに微笑んで頷いた。


「……はい。よろしくお願いします、イグニスさん」


 火竜はどこか気恥ずかしげに鼻を鳴らし、ゆっくりと身をかがめた。


 ノアがそっとその背に手を添え、慎重に跨がる。


 竜の体から伝わる熱は、もう鋭くなかった。


 朝陽の中でそっと背を撫でられるような、穏やかなぬくもりだった。


「……あたたかい」


 その小さな言葉に、イグニスの肩がほんの少し揺れた。


 風が吹き抜ける。翼が静かに広がる。


 そして、ふたりの影は石畳を離れ、朝の空へと舞い上がった。


 下では、子どもたちが手を振っていた。


 その隣で、大人たちは言葉を持たぬまま、ただ静かにそれを見上げていた。


 火は、誰かを焼くためだけのものではない。


 誰かのそばに、そっと在ることもできる。


 それは、きっと――


 “この火が、ぬくもりになるまで”


 その願いが、ほんの少しだけ、叶いはじめた朝だった。


 ストーリア王都が見えてきたころ、イグニスの瞳がわずかに細まった。


「……王城側が、俺を認識したな。魔力の揺れが変わった。迎えが来るかもしれないな」


 ノアは風の中で軽く頷いた。


 彼女もまた、王城の中庭に誰かが立っている気配を、感じ取っていた。


 ――ストーリア王城、中庭。


 朝霧がまだ芝の上に薄く漂い、石畳は夜の冷気をわずかに残していた。


 空を裂くように、ひと筋の影が降りてくる。


 広げた翼の下に見えるのは、赤銅の竜の背――その背に、白銀の髪をなびかせた少女の姿があった。


 ノア・ライトエース。


 見慣れた城の中庭に、彼女の姿が戻ってくる。


 その様子を、三人が出迎えていた。


 神官長、イスズ・エルガは、石柱に凭れかかり少々眠そうな顔で。


 その隣には、軽く背を伸ばしたまま空を見上げる王子、レクサス・アルファード。


 そして、いち早く駆け出したのは、白い飛竜――モコだった。


 竜の翼がゆるやかに閉じると、イグニスが脚をそっと地に下ろす。


 火を感じさせることなく、ただ静かに。


 ノアは背から降り、軽く足元を確かめてから、迎えてくれた三人に向けてひとこと告げた。


「……ただいま、戻りました」


 その声を合図のように、モコがノアの元へと駆け寄り、勢いよく頭を押しつけた。


「わ、モコ……ちょっと、くすぐったいです」


 笑いながら、ノアはその頭をなでた。


 モコは目を細めて鼻を鳴らし、しっぽをぱたぱたと揺らす。


「……ただいま」


 ノアがそう囁くと、モコの尾がいっそう大きく揺れた。


 すぐ後ろから、レクサスが数歩だけ近づいてくる。


 光を受けた髪がふわりと揺れ、その眼差しはやわらかい。


「ノア。おかえり。……早かったね」


 ノアは小さく頷きながら、微笑を返す。


 言葉はそれだけで十分だった。


 イスズがゆるく肩をすくめる。


「もうちょっと掛かるかと思ったが、朝のうちに戻ってくるなんて……まるで空の便の到着報告だね。律儀な竜だ」


 その軽口に、イグニスがわずかに鼻を鳴らした。


 だが否定することもなく、ひとつだけ空を見上げる。


「……送るくらい、当然だろ。……あれくらいの距離ならな」


 彼の声は、思ったよりも穏やかだった。


 どこかで、“ここ”という場所をようやく持てたような、そんな響きがあった。


 ノアが振り返り、静かに言葉を添える。


「イグニスさん。ありがとうございました。……あの村でも、皆さん、とても感謝していました」


 その言葉に、火竜はしばし黙したまま、ほんの小さく頷いた。


 やがて、静かに背を向ける。


「……そろそろ行く。逃げた魔物も気になるからな。また呼ばれたら来るよ。火のことで困ったら、な」


 レクサスが一歩進み出て、胸に手を当てる。


「火竜イグニス。君がノアに助けを求め、共に向かった先で――君の力が、人々を救ってくれた。そのことに、王国として礼を」


 一度、言葉が途切れる。


 レクサスの視線はまっすぐだったが、そこには慎重な迷いがほんのわずかに揺れていた。


 どう言えばいいのかを測るように、短く息を整える。


「……そして、君の手で、ノアをこうして無事に、この場所まで届けてくれたことにも。ありがとう」


 振り返ったイグニスはその言葉を、しばし無言で受け止めていた。


 そして、ゆっくりと頭を垂れた。


「……礼を言うのは、俺の方だ。話を、聞いてくれて。……信じて、くれて」


 語調は低く、けれど、確かな重みと温かさがあった。


 照れくさそうにイグニスは少しだけ目を細め、それ以上の言葉は残さずに翼を広げる。


 大きな羽ばたき。けれどそこに、熱も咆哮もない。


 ただ風を巻き上げ、空へと舞い上がっていく。


 あの背に宿っていたのは、もう疑いや怖れではなかった。


 火は誰かを焼くためでなく、誰かのそばに在るために――ただ、空へと昇っていった。


 モコは横に座り込んだまま、最後までその背を見送っていた。


 ノアもまた、隣に並ぶようにして、空を仰いだ。


 ――ぬくもりが、誰かの力になる日がきっと来る。


 赤銅の翼が遠ざかっていく、その背中に――そんな想いを重ねながら。


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