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十三話:傍にいると伝えた夜

 王城の一室。夕陽が長い影を落とす頃、部屋には静かな緊張が漂っていた。


 神官長イスズ・エルガは、深く腰をかけ、両肘を膝に乗せた姿勢で前方を見つめている。


 その視線の先には、騎士団長ユーノス・ライトエース、王アリスト・アルファードと王妃シルビア・アルファード、そして――ユーノスの妻にしてノアの母、ローザ・ライトエースも同席していた。


「……今日はちょっと、“嫌な話”をしに来た」


 イスズは、いつもの軽口とは異なる調子で切り出した。


「何かが起きる。……そう感じてるんだ。まだ形もない、影のようなもの。でも、風の向きが明らかに変わってきてる」


 アリスト王は静かに頷いた。


「……その“影”の気配に、聖騎士ヴェントが呑まれたか。あの者からの報せが、まさか最期の通信になるとはな」


 ユーノスが唇を引き結ぶ。


「……あいつらしいよ。“最後の一手”で後を託して逝くなんてな」


 イスズは小さくうなずき、続けた。


「ノアの周囲に、妙に不穏な気配が寄ってる。“偶然”じゃ片づけきれないような出来事が、ここのところ立て続けに重なってる。ゼスト村の壊滅、魔物の活性、そして……報せにあった魂すら奪われたアストラの村。かつて我らの祖が逃れたその地で、再び同じ影が蠢いている」


 イスズは口を噤み、しばし思考に沈んだ。


 そして、言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。


「……ノアはまだ何も知らない。でも、あの子は“誰かのために動く子”だ。無理をしてでも、守ろうとする。……ヴェントと、似てるんだよ」


 王妃シルビアがそっと胸に手を当て、呟く。


「ヴェントの最期を思えば、余計に……ノアに同じ道を辿ってほしくはありません」


 ローザもまた、小さく震えるように言葉を絞り出した。


「……あの子が、誰かの背を守りたいと願うたびに、私たちは胸を締めつけられる。けれど、それを止めることもできない。あの子が“優しい子”だからこそ……」


 ユーノスは、黙って拳を膝の上に置いたまま、じっとイスズを見ている。


「備えておいてほしい。あたしも、すぐにどうこうするつもりはない。けど――動くべき時が来たら、たった一人に“誰かの命を背負わせる”ようなことは、あたしはもう……見たくないんだよ」


 イスズは目を伏せ、ため息をついた。


「ノアは今、まだ穏やかな日常にいる。それが、あの子にとってどれだけ大切なものか、わかってる。だからこそ、今のうちに支えてやってほしい。“選ばされる”前に、自分で道を選べるように」


 その言葉には、深い憂いと悔いのような熱が滲んでいた。


 ユーノスが、低く、静かに言った。


「ノアは……私たちの娘だ。どんな運命が来ようとも、あの子の背中に余計なものは背負わせん。私の名にかけて、必ず守る」


「……頼んだよ。あんたがそう言ってくれるだけで、少しは救われる」


 そう呟いたイスズの声は、どこか遠くを見ていた。


 ――その瞳には、いずれ訪れる戦火を映すような、静かな覚悟が宿っていた。



 静かな回廊を、ひとり歩く。

 暖かな風に白衣がふわりと揺れた。


 謁見の余韻は、まだ胸に微かに残っている。


 王と妃、そしてユーノスにローザ――誰もが、ノアを想い、未来を案じていた。


 それは、あの子にとって幸せなことだ。守られているということだから。


 けれど。――やはり、出てきたか。


 レガリア。

 かつて災厄をもたらし、世界を焼いた存在。


 一千年前、世界を焼いたその存在に、セレナは全力をもって立ち向かった。


 激戦の果て、ついにその力を封じることに成功した――だが、代償はあまりに大きかった。


 セレナは深い傷と、レガリアの呪いを受け、竜の身体では長く保てぬ状態に陥った。


 自らの肉体を水底へと沈め、彼女は人の姿――イスズ・エルガという仮初の身体を創り出した。


 以来、彼女は人の世界に紛れ、生きることを選んだ。


 だが十六年前、封印の綻びとともに、レガリアは再び目覚めた。


 力を補うためにセヴィル夫妻を襲い、その命を喰らった。


 それを感じ取ったセレナは、イスズとして現場へと駆けつけた。


 けれど、仮初の器ではあまりにも力が足りなかった。


 “かつて打ち倒した存在”に、今度は自分が敗れた。


 ……止めることはできなかった。


 再び、大切なものを守れなかった。


 あのとき、命を賭して抗ったのは、まだ若きセルシオだった。


 彼は独り立ち塞がり、命の炎を燃やして封じた。


 本来であれば、終わらせることができたはずだった。


 だが、それは「不完全な封印」に過ぎなかった。


 ……セレナの力が足りなかったのだ。


 仮初の器である人の身体では、力を十全に振るうことは叶わない。


 意識だけをこの肉体に移し、竜の本質は眠りに落ちたまま。

 全力など、出せるはずもなかった。


 それでも、動いた。後悔したくなかった。


 何もしなければ、すべてが消えると分かっていた。


 だから、戦った――傷だらけになると知りながら。


 結果、セヴィル夫妻は命を落とし、セルシオは深い傷を負い、ノアが残された。


 彼を戦わせるしかなかった自分が、心の底で許せなかった。


 ……セルシオ、すまない。


 すべては、自分の責任だった。


 封印は綻び、再び世界に不穏が満ち始めている。


 あのとき傷だらけで倒れていた彼女は、「邪竜の襲撃を受けた者」として処理された。


 それでよかったと、長くそう思ってきた。


 あの名が広まることで、恐れと憎しみが新たな災厄を生むことを、彼女は知っていたからだ。


 けれど――その思いを押し込めてきた年月の底に、別の問いが芽を出していた。


 自分は、何のために創られたのか。


 なぜ、“秩序の番人”であるはずの彼女に、感情が与えられたのか。


 長い時の中、幾度となくその問いが浮かんでは消えた。


 そして今、その答えがようやく形を成し始めていた。


 ――創世神イースは、すでにこの世界を託し、姿を還したのだ。


 自らの力を世界に還元し、永遠の循環へと溶け込んだ存在。


 セレナとセレスは、その最初の担い手として、理――生命の循環を守り、残された世界を守る務めを与えられた。


 イースは知っていた。


 神が永遠に在り続けては、この世界はいつまでも“選ばされる”だけの存在にしかなれないと。

 だから去った。


 命が、自ら考え、選び、歩む世界のために。


 命じられるのではなく、意志で守り、愛し、抗えるように。


 その未来を望み、イースは世界に心という火種を残した。


 番人にすら、感情という矛盾を抱かせて。


 ならば、今の自分は何なのか。


 背負わせたくないと願いながら、その未来をノアに押しつけようとしているのではないか。


 “選ばせる”前に、“選ばせない”判断をしていないか。


 それは果たして、イースが望んだ「自律」の世界といえるのだろうか。


 セレナは立ち止まり、沈む陽を見上げた。


 けれど、それでもなお、心に残ったのは、たったひとつの願いだった。


 ノアが、自らの足で歩けるようになるその日まで。


 誰かの言葉に耳を傾け、誰かを信じ、自分で進むことを選べるようになるその時まで。


 “番人”ではなく、“ただの姉貴分”として。


 この世界を見守る者として。


 あの子を、独りにはしない。


 感情を持ったこの身で、傍に立ち、支えてやりたい。


 それが、イースの去ったあとの世界で、最後に与えられた役目なのだとしたら。


 それを、誇りとして受け入れよう。



 白衣の裾が風に揺れた。


 その瞳には、もう迷いはなかった。風に吹かれながら、古き竜は静かに、心を決めた。




 ストーリア王国 王城・騎士寮区画――


 窓の外には淡い月明かりが広がり、夜の静けさを照らしていた。


 室内では蝋燭の灯が小さく揺れ、ノアの部屋にやわらかな光を落としている。


 ノア・ライトエースは、夜の帳が降りたころ、自室へ戻っていた。


 湯を浴びて髪を整え、いつもの寝間着に着替えても、胸の奥にわだかまるざわめきは消えていなかった。


 静かに灯る蝋燭のそば、彼女は窓辺の椅子に腰かけて、夜の庭を見下ろしている。


 月明かりが薄く差し込む中、その瞳だけがどこか遠くを見つめていた。


 机の上には、小さな封筒がひとつ――イスズ神官長から託された、魔導通信封筒。


 ノアはそっとそれに指先を伸ばし、表面をなぞるように触れる。


 たった一度きりの信号を、その人は「信頼」という形でノアに手渡してくれた。


 ……本当に、何もないまま終わればいい。そう願いながらも、指先に伝わる紙の感触は、希望というより“予感”として在り続けていた。


 ――そのとき、静かに扉がノックされた。


「ノア、僕だよ。……こんな時間にごめん。入ってもいいかな?」


 扉越しに届く、あの穏やかな声。


 午後に共に過ごしたばかりの人なのに、なぜか距離があるようにも思えた。


「……レクサス殿下?」


 言いながら扉を開ければ、そこには変わらぬ優しい笑顔があった。


 けれど、その目の奥――その光の奥には、薄く翳りが差していた。


「顔、見に来ただけだよ。昼の神官長とのやり取り……見ていたから」


 ノアは、何も言えずにいた。


 だが、やがてゆっくりと頷き、彼を部屋の中へと招き入れる。


「よければ……少し、ここで話してもいい?」


 彼が向けた視線の先にある窓際の椅子。


 ふたりは、そこに並んで座り、再び言葉もなく、沈黙のまま空を見た。


 その沈黙が、ただの静けさではないと、互いに分かっていた。


 ……それでも、この人が隣にいてくれるなら――そう思えたことだけが、今はほんの少しの救いだった。


 そんな思いが、ノアの胸に小さく灯る。


 窓の外には、まだ穏やかな光が差していた。


 けれど、部屋の中の空気には、言いようのない緊張が滲んでいる。


 レクサスはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。


「……不安、なんだね?」


 その言葉に、ノアは小さく息を呑んだ。


 否定することも、肯定することもできず、ただ指先がわずかに動いた。


「……分かりますか?」


「うん。君の顔を見れば、分かるよ」


 迷いのない声だった。


 けれど、優しさだけではなく、そこには彼自身の不安も透けていた。


 ノアはゆっくりと言葉を探すように口を開く。


「何かが……起きるような気がするんです。誰もまだ気づいていないのに、私だけが……何かを待っているような……そんな気がして」


 それは、自分でもうまく掴めない感覚だった。


 けれど、目の前の青年は、そんな曖昧な言葉にさえ真剣に耳を傾けてくれる。


 レクサスは、ふと横を向いてノアの顔を見つめた。


「……僕も、実は少しだけ感じてたんだ。いつもの空が、少し違って見えるって」


 そう言って、彼は目を細める。


「でもね、ノア。どんなことが起きても、僕は君の隣にいる。それだけは、変わらないから」


 言い切る声には、迷いがなかった。


 まるでそれが、彼の中で長く温められてきた答えのように。


 ノアは、ゆっくりとその言葉を胸の奥で繰り返す。


(……この人は、いつだって)


 頼ろうとしなくても、すでに傍にいてくれる。


 それが、どれほど救いになるのかを、今ようやく実感していた。


「……ありがとうございます、レクサス殿……レックス」


 ふと、照れたように視線を逸らしながら、ノアはその名を呼んだ。


 ほんの少し間があった後――レクサスは、目を丸くして、次いでふっと柔らかく笑った。


「……もう一度、いい?」


 ノアは思わず頬を染め、口を結んだまま首を小さく振った。


 けれど、その頬にはほんのりと笑みが浮かんでいる。


「……気が向いたら、また呼びます」


 その言葉に、レクサスは堪えきれず、嬉しそうに肩を震わせて笑った。


 それを感じて、ノアの頬も、ほんのわずかにゆるんだ。


 部屋には、先ほどまであった張りつめた空気が、少しだけ和らいでいた。


 まだ先は見えない。


 けれど――たとえ何が起ころうと、この手が誰かのために剣を握るのだとしても。


 この温もりだけは、守りたいと思った。


 それが、今のノアにとって、たったひとつの確かな答えだった。


 ……そのぬくもりに、もう一つの気配が加わった。


 そのとき、扉の隙間に白い鼻先がぬっと現れ、器用にちょいと押し開けるようにして、ふわりと白い影が滑り込んできた。


「きゅう」


 かわいらしい鳴き声とともに現れたのは、飛竜モコだった。


 どっしりとした体格に、ぬいぐるみのような毛並み。月明かりを受けた白い体毛が、柔らかく光を返す。


 ノアが目を瞬いた。


「……モコ?」


 モコは何も言わずにノアのそばへ歩み寄り、その前脚をそっと床にたたんで座った。その仕草に、ノアはふっと微笑む。


「……大丈夫です。もう平気。ありがとう」


 まるでそれを理解しているかのように、モコは目を細め、小さく喉を鳴らした。


 レクサスも、その様子を見て静かに笑う。


「モコはね、人の声や表情にすごく敏感なんだ。だから、君が少しでも笑うと、それだけで安心したように落ち着くんだよ」


 ノアはゆっくりと手を伸ばし、モコの額に触れる。


 ふかふかの毛並みの奥に、確かな鼓動が感じられた。


「……私も、モコに何度も救われています」


 その言葉は、静かな部屋に優しく響き、夜の沈黙に溶けていった。



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