十二話:報せは風に乗りて
ストーリア王国領、エテルナ神殿――
白石の回廊に、穏やかな潮風が吹き抜ける。
エテルナ島。大陸から離れたこの地で、イスズ・エルガは午前の祈りを終え、神殿の外縁にてひと息をついていた。
彼女の傍らには、木陰に座り込んで欠伸を噛み殺す男の姿。
軽装の神殿騎士――ネイキッド・シーマ。
「ふあぁ……。午後も仕事あんの? ねぇ、神官長」
「ん? あんたがサボってるなら、たっぷり用意するよ?」
イスズが笑うと、ネイキッドは肩をすくめて手をひらひら。
「いやいや、真面目に聞いてんだけどなあ……お?」
ふと、空気が変わった。
天の彼方から、光の鳥が舞い降りてくる。
ネイキッドが目を細める間に、イスズはすでに立ち上がっていた。
羽ばたくように魔力の風を纏い、真っ直ぐにイスズのもとへと降りてくる。
それは――彼女自身が作った魔導通信だった。
受け取ると、鳥の姿はふわりとほぐれ、光の羽根が舞いながら封筒の形に変わる。
しかし、その封蝋には小さな“裂け”があった。
魔力の断絶。発信者の――死を示す兆候。
「……ヴェント。あんた、ギリギリだったんだね」
ぽつりと呟き、封を解く。
そこに記されたのは、アストラ大陸外れの小村に起きた“壊滅”。
魂の気配がないこと、焦げ跡、巨大な爪痕、竜かそれに類するものの、気配。
イスズは書面を閉じた。
笑っていた唇から、表情がすっと消える。
「……まさかとは思ってたけど、やっぱり臭うね。あのバカ女の残り香が」
「姐さん。何か来てたの?」
ネイキッドが覗き込む。
イスズは書簡を指でひらひらと持ち上げて見せるだけに留めた。
「まぁね。けど、今すぐどうこうできるって話じゃない。だから備えといてくれたまえよ。あんたみたいな、“一応戦えるやつ”にはね」
「一応とは失礼だな……でも了解。剣、研いどくわ」
ネイキッドは軽く笑いながらも、すぐに表情を引き締める。
「周りにも伝えとくよ。今のうちに、動けるやつは備えておくようにな」
ネイキッドは肩をすくめ、立ち上がる。
イスズは、ふと空を見上げた。
もう、光の鳥の痕跡は残っていない。
「……ヴェント。まだ、あんたは独りで剣を振ってたんだね」
風が、すっと通り抜ける。
それは、かつて隣に立っていた誰かを思い出す、ほんの一瞬の間。
「若い子たちは、あんたの名前すら知らないかもしれない」
「……けど、それでいいのかもね。無名のまま、誰かの盾になったって、そういうやつだったし」
かすかに目を伏せ、笑ったような、笑っていないような顔をする。
「――報せ、ありがと。もう、十分さ」
再び、イスズはネイキッドに視線を向けた。
「だからって、あたしがすぐ動くと思ったら大間違いだよ」
「無策で突っ込んで、また無駄死に出すのは――ごめんだね」
鋭さと優しさが交錯する声。
それは、古き竜が人を見守るときの、静かな熱だった。
報せは届いた。だが、それだけだった。
祈りも、返事も、ヴェントの声も――もうどこにもない。
「……あたしが動くのは、もう少し先。けど、そろそろ根っこから火がつくよ」
誰にともなくそう呟き、イスズは背を向けた。
白衣が風に揺れ、足音もなく回廊の奥へと消えていく。
ストーリア王国、王城の中庭――
日も高くなり始めた空の下、噴水が朝の光をきらめかせ、澄んだ空気が中庭を包んでいた。
ノア・ライトエースは、槍術訓練を終えたばかりの身体をほぐしていた。
ぎこちない手のひらには、訓練槍を握り続けた痕が赤く残っている。
「……まだ、握りが甘いな……」
小さく呟き、傷む指をさすりながら顔を上げた。
広い空。心地よい風。
けれど、ほんのわずかに張りつめたものが、彼女の胸に絡みついていた。
そんなノアの姿を、少し離れた回廊の影から見守るふたりがいた。
レクサス・アルファード。
そして、近衛騎士隊長イスト・スタウト。
いつものように付き従う護衛として、レクサスの傍に控えていた。
ふたりは言葉を交わさず、ただ黙ってノアの努力を見つめていた。
レクサスの瞳に、どこか柔らかな色が滲む。
イストは静かに目を細め、その成長を黙認するように見守っていた。
そこへ、ふわりと軽い声が降ってくる。
「おーい、ノアちゃん。ちょっといい?」
振り向けば、軽装の神官服に身を包んだイスズ・エルガが、手をひらひらと振りながら近づいてくる。
今日はエテルナにいるはずなのに、いつの間に――。
ノアは思わず眉をひそめるが、神官長が“どこから湧くか”を考えるのはやめにした。
「イスズ神官長……お疲れさまです」
慌てて立ち上がり、頭を下げるノアに、イスズは笑いながら手を振った。
「いいよいいよ、そんな堅苦しくしなくてさ」
そう言って懐から取り出したのは、掌に収まるほどの小さな封筒。
淡く光を帯びた封蝋が、わずかに魔力を滲ませている。
ノアは思わずじっと見つめた。
(……変わった封筒。これ……何?)
そんなノアの視線に気づいたイスズが、ひょいとそれを揺らして見せる。
「“魔導通信封筒”ってやつさ。緊急時に一度だけ、君の魔力で信号を飛ばせる。宛先は――このアタシ」
それをイスズはためらいもなく、ノアに手渡す。
「たくさん作れないから、誰彼かまわず渡せない代物なんだけど……今回は特例ってことで」
言葉は軽いが、目は冗談を言っていなかった。
ノアは慎重にそれを受け取る。途端に、胸の奥にひやりとしたものが走る。
理由は分からない。ただ、訓練槍の重みとは違う、別の重さが指先に宿った。
「……何か、起きるんですか?」
問いかけに、イスズはしばし空を仰ぐ。
澄み渡る青空。けれど、その眼差しはどこか遠い。
「直近ではないけど……風向きが変わりそうな気がするんだ」
彼女はそっと、ノアの頭を軽く小突く。
「君は真面目すぎるくらい真面目だけど、たまには“感覚”を信じるんだよ。嫌な予感って、案外当たるもんさ」
「……はい」
ノアはまっすぐに頷きながら、空を仰いだ。
この国を覆う空は、こんなにも広いのに。
その奥に、なにか大きな、冷たい影が潜んでいる気がする。
(私は……まだ、何も知らない)
――だけど……それでも、この手で守りたいものがある。
懐にしまった封筒の重みが、静かにノアの背筋を伸ばした。
遠巻きに見つめていたレクサスとイストもまた、表情を引き締めていた。
さっきまで微笑ましさだけで眺めていたその視線が、今は静かな警戒と、わずかな憂いを帯びている。
ノアの背に、小さな違和感が生まれた。
その気配を察したのか、レクサスが静かに歩み出る。
彼女の張りつめた表情に、ふと目を細め、いつもの柔らかさを保ちながらも、どこか決意をにじませて、そっと声をかけた。
「ノア」
やさしい声音だった。
硬さをほどくように、冷えた空気を少しでも和らげるように。
「……訓練、お疲れさま。無理はしていないかい?」
「……はい。ありがとうございます、レクサス殿下」
そう口にして、ふと息を飲んだ。
(……また“殿下”って言っちゃった)
“二人の時くらいは、もっと自然に呼んでくれていいんだけどな”
そんな彼の声がふと蘇る。
案の定、レクサスは苦笑していた。
少しだけ肩をすくめて、けれど何も言わない。
言わずとも、仕方ないよね、とでも言いたげな、優しい顔だった。
「……ねえ、ノア。少し、昼を一緒にどうかな?」
「訓練で疲れただろうし、君の好きなリンゴの焼き菓子も用意してあるよ」
突然の誘いに、ノアはきょとんとした顔をしたが、やがて小さく笑みを浮かべた。
「……気遣い、過剰です」
呆れ半分、でもどこか嬉しそうに。
その表情は、長年の気安さを滲ませていた。
ノアは視線を伏せかけたが、そっと顔を上げて彼の目を見た。
差し出された手のひらに、少しだけ躊躇ってから、自分の手を重ねる。
その温もりが、胸の奥に残る不安を、ほんのわずかに和らげてくれる。
その様子を、少し離れた石影から、イスト・スタウトが静かに見守っていた。
視線はまっすぐにふたりへ向いていたが、そこには一切の邪魔立ての気配がなかった。
――隊長として、護衛として、そして年長者として。
いまは言葉も、気配さえも慎まねばならない。
気づかれぬよう、そっと視線を逸らす。
だが、その目元には、ごくかすかに――安堵の色が灯っていた。
(……あの子も、もう“背中を預けられる”側に近づいている。そう思えたのなら、少しは……報われる)
世界はまだ静かだ。
だが、その静けさは、嵐の前のものだと、誰もが本能で感じていた。