表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/36

十一話:静寂を喰らうもの

 アストラ大陸――


 かつてエリシオン王国が栄えたその地の外れに、草原に沈みかけた小さな村があった。


 朝霧が薄く漂い、瓦屋根を撫でる乾いた風だけが、寂れた家々をかすかに揺らしている。


 ストーリア王国にかつて仕え、今は遊歴の身として各地を巡る聖騎士、ヴェント・ニーヴァスは、走竜を降り、無言で村の入り口に立つ。


 だが、すぐに異様な静けさに気づいた。


 聞こえるべき音が、何ひとつない。


 人の声も、家畜の鳴き声も、薪を割る音も――。


「……誰も、いない……?」


 ヴェントは目を細め、足を踏み入れる。


 道端に転がった手籠。開きっぱなしの扉。


 生活の痕跡はある。だが、生の気配は、どこにもなかった。


 広場へ進むと、異様なものが目に映った。


 地を穿つような、黒い焦げ跡、巨大な爪で引き裂かれたかのような、深く歪んだ痕跡。


 傍らには、倒壊しかけた民家の残骸が散らばっている。


 まるで、巨大な何かが無造作に踏み抜いたかのように。


 焦げた地面の隅、焼けた破片の間に――。


 何かを掴むように伸びた、食いちぎられた腕が転がっていた。


 骨が露出し、肉は無惨に引き裂かれている。


 生きた者が、抵抗する間もなく喰われた証。


「……まさか」


 剣の柄に手をかける。


 ざらり、と靴底が踏みしめたのは、灰。


 それが、ここにいた人々の――名残である可能性に、ヴェントは黙して目を伏せた。


 すぐに彼は判断した。


 これ以上の滞留は、命取りになる可能性がある。


 ただちに王国へ、知らせなければならない。


 魔導通信の封筒を取り出し、震えを抑えながら急ぎ文をしたためる。


 宛先は――ストーリア王国、神官長イスズ・エルガ。


 封筒は空に放たれ、魔力を帯びた銀光が彼方へと消えた。


 聖騎士ヴェント・ニーヴァスは、走竜の首筋を一度だけ撫でた。


 撫でた手の下で、光に透けるような淡金色の滑らかな毛並みが微かに揺れた。


 鳴き声は小さく澄んでいて、時折くぅと鼻を鳴らしては、主人に甘える癖があった。


 その耳がぴくりと動いたのを最後に、走竜は静かに息をひそめた。


 急がねばならない。だが、それより先に、確かめておくべきことがある。


 ――この村に、まだ、祈るべき魂はあるか。


 彼は剣を胸元に立て、短く静かな祈りを捧げようと目を閉じる。


 だが。


 何もいなかった。


 空気の中に、漂うはずの魂の気配が……ひとつも存在しなかった。


 喰われた者。焼かれた者。


 この世に未練を残した魂が、彷徨うことすらできずに消え去っている。


 ――いや、違う。


 “喰われ、奪われた”のだ。命も、魂も、何もかも。


(……これは、ただの魔物の仕業じゃない)


 ぞっとするものが背筋を這う。


 剣を腰に戻し、走竜の鞍に足をかけた――そのときだった。


 耳の奥に、細く高い“音”が走り、風のないはずの空気が裂けた。


 何かが飛んだ――否、切り裂いたのだ。視界に映ることなく。


 走竜が呻くように鳴き、首を振る間もなく、喉元から血が噴き出す。


 あの、小さく澄んだ声が、かすかに悲鳴のように漏れ、毛並みに血飛沫が散る。


 そのたった一度の嘶きが、ヴェントの心を一瞬だけ凍らせた。


「な――ッ!」


 ヴェントは本能で身を翻す。転がりながら剣を抜いた。


 だが、腕に。脚に。腰に。何か細いものが絡みついていた。


 視線を下げるよりも早く、それは鋭く締まり、彼の動きを奪った。


(糸……? 違う。鋼――鋼糸だ!)


 ――気づいていなかった。


 広場の惨状に気を奪われ、警戒すべき存在を見落としていた。


 崩れかけた民家の影。


 まるで最初から風景の一部であったかのようにそこに、“いた”。


 剣を片手に、もう一方の手に絡ませた鋼糸が、陽の光すら寄せつけぬように鈍く煌いた。


 黒い髪。漆黒の翼。表情はない。怒りも、誇りも、憐れみすらもない。


 あるのは、ただ命令を果たすためだけに存在する静けさ。


 ヴェントは震える唇で、かすかに呟いた。


「翼人……何者だ、お前は……」


 その問いに、男は応えなかった。


 鋼糸が一閃する。


 空気が裂け、ヴェントの視界が傾く。


 斬られた感覚さえなかった。


 意識だけが宙に浮かび、身体はどこか別の場所に置き去りにされたようだった。


 地に伏す己の姿が、歪んだ視界の中で崩れていく。


(せめて、あと一手……一太刀でも……)


 それはもう、叶わない。


 魔導通信は――飛ばした。


 あれが届いてくれるなら、それだけでいい。


 そう願った瞬間――胸の奥で、かすかな“祈り”の灯火が、音もなく消えた。


 ──騎士を止めて。


 男――ハリアーの耳に、かすかにその声が響いていた。


 少女の声。命令。


 それだけだった。


 村を潰したのは、主である“彼女”だ。


 彼の役目は、そこへ現れる障害を排除すること。


 それ以上の意味も、疑問も感情も、言葉も必要ない。


 命令を果たした。それだけだ。


 ハリアーはただ、剣を収める。


 走竜の死骸に目もくれず、祈りを封じられた男の亡骸を背に、風のない夜を静かに飛び去っていった。


 その背から広がる翼は、かつての白ではない。


 深い夜を纏うように、煤けた漆黒の翼――レガリアの血によって変質した、忠誠の証。


 彼にとって、世界はすでに終わっている。


 命じられる限りだけ、“存在している”。


 同じ頃、アストラ大陸東部、廃城跡――


 崩れた石積みの隙間から、冷たい風が吹き抜ける。


 高く昇り始めた太陽の光に照らされ、二つの影が静かに立っていた。


 ひとりは、まだ幼い少年。ルフレ・スターレット。


 もうひとりは、黒くつややかな髪をなびかせる紅い瞳の少女。レガリア。


 かつて、人と共に生きた竜のひとり。


 ルフレは胸元から黒水晶の破片を取り出し、見つめた。


 それは、レガリアを縛っていた忌まわしき封印の、砕けた残骸。


 レガリアはちらりとそれに目をやり、やがてそっと視線を逸らす。


 もはや、砕かれた檻など、どうでもよかった。


 ただ、ルフレがそれを大切そうに握ることを、彼女は咎めなかった。


 空の彼方を、ふと見上げる。


 薄雲の切れ間を、一筋の銀光が横切っていくのが見えた。


 ――魔導通信。誰かが、何かを知らせたのだ。


 レガリアは目を細めて、その光をしばし見つめる。


 何の感慨もない、静かな瞳で。


「……飛んだのね。止めきれなかったか」


 その声には、怒りも焦りもなかった。


 ただ、ひどく静かな、薄く笑うような調子だけがあった。


「まぁいいわ。届いたところで、もう遅いもの。……彼らに、それをどうにかできるだけの“力”があるなら、ね」


 ルフレは黙って彼女の横顔を見つめる。


 言葉にできない何かが、胸の奥に沈みかすかに目を伏せる。


「……たとえ彼らに“力”があったとしても、止めさせない。ボクたちで――全部、終わらせるから」


 少年の声に、レガリアは静かに微笑む。


 それは、かつての理想を映した竜の微笑みではなかった。


 ――世界を呪い、焼き尽くす者の微笑だった。


「ええ。私たちで、すべてを終わらせ、造り変えましょう」


 微かな風が、黒水晶の破片を鳴らした。


 それは、過去への哀悼か、あるいは――新たな滅びの予兆か。


 レガリアは一歩、崩れた石畳の上を進む。


「……ここは、あの人と共に過ごした場所。一時の安らぎが、まだ世界に在った頃の……」


 足元の瓦礫を踏みしめながら、かつての記憶をなぞるように、指先をゆっくりとかざすと、空気がわずかに震える。


「滅びてもなお、この場所だけは……奪わせない」


 低く呟くと、足元から淡い魔力の靄が立ち上る。


 歪んだ空間が波紋のように揺れ、石積みが音もなく積み上がり、折れた柱が、割れた床が、ゆっくりと元の形を取り戻していく。


 その様は、まるで――時を巻き戻すようだった。


 壁面に残っていた古い紋章が、鈍く光を反射する。


 それは、王が彼女に贈った数多の品のひとつ。


 けれど、レガリアはふと、かつての声と温もりを思い出していた。。


「……あの人が、この手を取ってくれた日のこと、忘れてはいないわ」


 レガリアはその紋章に指を這わせ、しばし目を閉じた。


 だが、すぐに瞼を開き、静かに言い放つ。


「けれど――今の私は、かつての私ではない」


 再生された離宮は、もはやかつての優雅さだけを宿す場所ではなかった。


 それは外観こそ美しく整えられたが、世界の再編を始める“最初の祭壇”だった。


 傍らで見ていたルフレが、どこか寂しげに呟く。


「レガリア……ここを、拠点にするの?」


「ええ。この地から、“再誕”を始めましょう。私たちの、新しい世界を」


 冷たい風が廃城を巡る。


 だが、その中心に立つふたりの姿だけは、揺らがなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ