十一話:静寂を喰らうもの
アストラ大陸――
かつてエリシオン王国が栄えたその地の外れに、草原に沈みかけた小さな村があった。
朝霧が薄く漂い、瓦屋根を撫でる乾いた風だけが、寂れた家々をかすかに揺らしている。
ストーリア王国にかつて仕え、今は遊歴の身として各地を巡る聖騎士、ヴェント・ニーヴァスは、走竜を降り、無言で村の入り口に立つ。
だが、すぐに異様な静けさに気づいた。
聞こえるべき音が、何ひとつない。
人の声も、家畜の鳴き声も、薪を割る音も――。
「……誰も、いない……?」
ヴェントは目を細め、足を踏み入れる。
道端に転がった手籠。開きっぱなしの扉。
生活の痕跡はある。だが、生の気配は、どこにもなかった。
広場へ進むと、異様なものが目に映った。
地を穿つような、黒い焦げ跡、巨大な爪で引き裂かれたかのような、深く歪んだ痕跡。
傍らには、倒壊しかけた民家の残骸が散らばっている。
まるで、巨大な何かが無造作に踏み抜いたかのように。
焦げた地面の隅、焼けた破片の間に――。
何かを掴むように伸びた、食いちぎられた腕が転がっていた。
骨が露出し、肉は無惨に引き裂かれている。
生きた者が、抵抗する間もなく喰われた証。
「……まさか」
剣の柄に手をかける。
ざらり、と靴底が踏みしめたのは、灰。
それが、ここにいた人々の――名残である可能性に、ヴェントは黙して目を伏せた。
すぐに彼は判断した。
これ以上の滞留は、命取りになる可能性がある。
ただちに王国へ、知らせなければならない。
魔導通信の封筒を取り出し、震えを抑えながら急ぎ文をしたためる。
宛先は――ストーリア王国、神官長イスズ・エルガ。
封筒は空に放たれ、魔力を帯びた銀光が彼方へと消えた。
聖騎士ヴェント・ニーヴァスは、走竜の首筋を一度だけ撫でた。
撫でた手の下で、光に透けるような淡金色の滑らかな毛並みが微かに揺れた。
鳴き声は小さく澄んでいて、時折くぅと鼻を鳴らしては、主人に甘える癖があった。
その耳がぴくりと動いたのを最後に、走竜は静かに息をひそめた。
急がねばならない。だが、それより先に、確かめておくべきことがある。
――この村に、まだ、祈るべき魂はあるか。
彼は剣を胸元に立て、短く静かな祈りを捧げようと目を閉じる。
だが。
何もいなかった。
空気の中に、漂うはずの魂の気配が……ひとつも存在しなかった。
喰われた者。焼かれた者。
この世に未練を残した魂が、彷徨うことすらできずに消え去っている。
――いや、違う。
“喰われ、奪われた”のだ。命も、魂も、何もかも。
(……これは、ただの魔物の仕業じゃない)
ぞっとするものが背筋を這う。
剣を腰に戻し、走竜の鞍に足をかけた――そのときだった。
耳の奥に、細く高い“音”が走り、風のないはずの空気が裂けた。
何かが飛んだ――否、切り裂いたのだ。視界に映ることなく。
走竜が呻くように鳴き、首を振る間もなく、喉元から血が噴き出す。
あの、小さく澄んだ声が、かすかに悲鳴のように漏れ、毛並みに血飛沫が散る。
そのたった一度の嘶きが、ヴェントの心を一瞬だけ凍らせた。
「な――ッ!」
ヴェントは本能で身を翻す。転がりながら剣を抜いた。
だが、腕に。脚に。腰に。何か細いものが絡みついていた。
視線を下げるよりも早く、それは鋭く締まり、彼の動きを奪った。
(糸……? 違う。鋼――鋼糸だ!)
――気づいていなかった。
広場の惨状に気を奪われ、警戒すべき存在を見落としていた。
崩れかけた民家の影。
まるで最初から風景の一部であったかのようにそこに、“いた”。
剣を片手に、もう一方の手に絡ませた鋼糸が、陽の光すら寄せつけぬように鈍く煌いた。
黒い髪。漆黒の翼。表情はない。怒りも、誇りも、憐れみすらもない。
あるのは、ただ命令を果たすためだけに存在する静けさ。
ヴェントは震える唇で、かすかに呟いた。
「翼人……何者だ、お前は……」
その問いに、男は応えなかった。
鋼糸が一閃する。
空気が裂け、ヴェントの視界が傾く。
斬られた感覚さえなかった。
意識だけが宙に浮かび、身体はどこか別の場所に置き去りにされたようだった。
地に伏す己の姿が、歪んだ視界の中で崩れていく。
(せめて、あと一手……一太刀でも……)
それはもう、叶わない。
魔導通信は――飛ばした。
あれが届いてくれるなら、それだけでいい。
そう願った瞬間――胸の奥で、かすかな“祈り”の灯火が、音もなく消えた。
──騎士を止めて。
男――ハリアーの耳に、かすかにその声が響いていた。
少女の声。命令。
それだけだった。
村を潰したのは、主である“彼女”だ。
彼の役目は、そこへ現れる障害を排除すること。
それ以上の意味も、疑問も感情も、言葉も必要ない。
命令を果たした。それだけだ。
ハリアーはただ、剣を収める。
走竜の死骸に目もくれず、祈りを封じられた男の亡骸を背に、風のない夜を静かに飛び去っていった。
その背から広がる翼は、かつての白ではない。
深い夜を纏うように、煤けた漆黒の翼――レガリアの血によって変質した、忠誠の証。
彼にとって、世界はすでに終わっている。
命じられる限りだけ、“存在している”。
同じ頃、アストラ大陸東部、廃城跡――
崩れた石積みの隙間から、冷たい風が吹き抜ける。
高く昇り始めた太陽の光に照らされ、二つの影が静かに立っていた。
ひとりは、まだ幼い少年。ルフレ・スターレット。
もうひとりは、黒くつややかな髪をなびかせる紅い瞳の少女。レガリア。
かつて、人と共に生きた竜のひとり。
ルフレは胸元から黒水晶の破片を取り出し、見つめた。
それは、レガリアを縛っていた忌まわしき封印の、砕けた残骸。
レガリアはちらりとそれに目をやり、やがてそっと視線を逸らす。
もはや、砕かれた檻など、どうでもよかった。
ただ、ルフレがそれを大切そうに握ることを、彼女は咎めなかった。
空の彼方を、ふと見上げる。
薄雲の切れ間を、一筋の銀光が横切っていくのが見えた。
――魔導通信。誰かが、何かを知らせたのだ。
レガリアは目を細めて、その光をしばし見つめる。
何の感慨もない、静かな瞳で。
「……飛んだのね。止めきれなかったか」
その声には、怒りも焦りもなかった。
ただ、ひどく静かな、薄く笑うような調子だけがあった。
「まぁいいわ。届いたところで、もう遅いもの。……彼らに、それをどうにかできるだけの“力”があるなら、ね」
ルフレは黙って彼女の横顔を見つめる。
言葉にできない何かが、胸の奥に沈みかすかに目を伏せる。
「……たとえ彼らに“力”があったとしても、止めさせない。ボクたちで――全部、終わらせるから」
少年の声に、レガリアは静かに微笑む。
それは、かつての理想を映した竜の微笑みではなかった。
――世界を呪い、焼き尽くす者の微笑だった。
「ええ。私たちで、すべてを終わらせ、造り変えましょう」
微かな風が、黒水晶の破片を鳴らした。
それは、過去への哀悼か、あるいは――新たな滅びの予兆か。
レガリアは一歩、崩れた石畳の上を進む。
「……ここは、あの人と共に過ごした場所。一時の安らぎが、まだ世界に在った頃の……」
足元の瓦礫を踏みしめながら、かつての記憶をなぞるように、指先をゆっくりとかざすと、空気がわずかに震える。
「滅びてもなお、この場所だけは……奪わせない」
低く呟くと、足元から淡い魔力の靄が立ち上る。
歪んだ空間が波紋のように揺れ、石積みが音もなく積み上がり、折れた柱が、割れた床が、ゆっくりと元の形を取り戻していく。
その様は、まるで――時を巻き戻すようだった。
壁面に残っていた古い紋章が、鈍く光を反射する。
それは、王が彼女に贈った数多の品のひとつ。
けれど、レガリアはふと、かつての声と温もりを思い出していた。。
「……あの人が、この手を取ってくれた日のこと、忘れてはいないわ」
レガリアはその紋章に指を這わせ、しばし目を閉じた。
だが、すぐに瞼を開き、静かに言い放つ。
「けれど――今の私は、かつての私ではない」
再生された離宮は、もはやかつての優雅さだけを宿す場所ではなかった。
それは外観こそ美しく整えられたが、世界の再編を始める“最初の祭壇”だった。
傍らで見ていたルフレが、どこか寂しげに呟く。
「レガリア……ここを、拠点にするの?」
「ええ。この地から、“再誕”を始めましょう。私たちの、新しい世界を」
冷たい風が廃城を巡る。
だが、その中心に立つふたりの姿だけは、揺らがなかった。