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九話:水竜の祈り

 聖騎士の詰め所は、王城西棟の一角。白い石造りのその建物は、まだ歴史こそ浅いものの、清らかな空気に包まれ、人々の祈りと悩みが行き交う場所となっていた。


 ノア・ライトエースは、そこに腰を据えて一月ほどが過ぎていた。小さな依頼をこなすうちに、周囲の人々とも打ち解け、詰め所の生活にも自然と馴染んでいった。老女の落とし物探し、近隣の不和の仲裁、古井戸の点検――日々の仕事は地味といえるものも多いが、それが誰かの支えになるなら、それでいい。そんなふうに思える自分が、少しだけ誇らしくもあった。


 聖騎士としての名は徐々に広まりつつあり、詰め所にはときおり王都の住民たちが訪れるようになっていた。そんなある日、扉をノックする音が響いた。


「こんにちは。ノア、少しだけいいかな?」


 顔を覗かせたのは、王子レクサス・アルファードだった。


 時折こうしてふらりと立ち寄っては、気まぐれに差し入れを持ってきたり、他愛ない話をして帰っていく。今日もきっとそんな風だろうとノアが微笑みかけた、そのときだった。


 詰め所の窓辺に、ひとりの使いが現れた。王国の紋章を刻んだ小箱を携え、静かにノアへと手渡す。


「こちら、詰め所宛の特別信です。……なんだか妙な話ですが、港の警備隊のところに“波打ち際に置かれていた”って届けられたそうです」


 差出人の名はなく、封には水紋のような文様が浮かんでいた。紙面には、ごく簡素な文が記されていた。


『我らの子らが、密猟者の手に晒されようとしています。力による報復ではなく、対話の道を求めます。人の祈りを知る“聖騎士”に、どうか耳を傾けていただきたい。王都西の入り江、夕刻にてお待ちしております。』


 筆致は丁寧で、紙には濡れた形跡もないのに、かすかに潮の香りがした。


「……不思議な手紙ですね」


 隣から声をかけたレクサスが、そっとノアの横顔を覗き込む。


「その顔……行く気だね?」


 ノアは短く頷いた。


「はい。行って、確かめてみます」


 声にわずかな熱がにじむ興味を隠せない声音で、レクサスは言った。


「じゃあ、僕も行くよ」


 その言葉に、ノアはわずかに驚きの色を見せたものの、彼の眼差しの真剣さを受け止めて、静かに頷いた。


 彼が自分と同じ方向を見ようとしてくれている――そのことが、ほんの少しだけ心強く思えた。


 入り江は王都の西端、港の喧騒から少し離れた静かな一角にあった。詰め所からはさほど距離もなく、夕刻の散策のようにして向かえる場所だ。


 夕刻の入り江は、空を淡い朱に染め、波もまた静かに揺れていた。


 その水面から、滑るように姿を現したのは――ひときわ大きな水竜だった。


 深い海に染まる体毛、澄んだ瞳、優美でしなやかな体躯。その姿は幻想的な輝きをまとっていた。


 その姿が、静かに揺らめく光に包まれていく。次の瞬間、水面からひとりの女性が現れた。濡れ羽色の髪を持ち、水のように静かな瞳を湛えている。水色を基調とした衣の裾を引き、彼女はノアの前に歩み寄った。


「私の名はアクア。“真竜族”――水竜種のひとりです」


 その言葉にノアが小さく頭を下げた、そのときだった。


 ぽこ、ぽこ――水面が泡立ち、小さな影が次々と顔を出した。まるまるとした身体、ふわふわとした毛並み、ぱっちりとした瞳。


「ひとだー!」「きらきらー!」「つるつるしてるー!」


 小さな水竜たちが、好奇心の塊のようにノアのまわりへわらわらと集まってくる。ノアは目を見開いたまま一瞬固まり、それから困ったように笑った。


 その隣で、レクサスも目を丸くしていた。


「これは……歓迎されてる、でいいのかな?」


「レクサス殿下、動かないで。囲まれます」


「もう囲まれてるよ」


 レクサスの周囲にも、数匹の子水竜たちが集まっていた。彼の袖をくんくんと嗅ぎ、しっぽで足元をくすぐるようにふれてくる。


「こ、こんにちは……順番に、ね?」


「はーい!」「じゅんばんってなにー?」「このおねえちゃん、いいにおい!」


 ノアとレクサスがどうにか子水竜たちに対応している様子を見ながら、アクアは苦笑する。


「連れてくるつもりはなかったのですが……“人間を見てみたい”と、あまりにも強く望みまして」


 ノアは、敵意のかけらもない小さな瞳たちを見つめながら、そっと頷いた。


「我らの中でも、特に幼い子竜たちは、まだ“人の姿”を知りません。その子らのもとへ、“密猟者”と呼ばれる者たちが、再び現れようとしています。霧の向こうから響く船の音、魔導の痕、唄に怯える気配……まだ何も起きてはいません。けれど、気配は日に日に濃くなっています。……今夜にも、密猟者が現れるかもしれません」


 アクアの声は、波のように静かだった。


「――私は、同じ過ちを繰り返したくはないのです。力で排すことはできます。けれど、それは、子らに“人は恐ろしいもの”と教える行為になってしまう。だから、あなたに頼みました。祈りを知る者として、剣なき力で――人の優しさを示してほしいのです」


 真っ直ぐに向けられたアクアの瞳は、深海のように澄んでいた。

 アクアの声に宿るのは怒りではなく、母としての祈り。ノアはその響きに胸を突かれた。


 ノアは、その瞳の深さと訴えに、言葉もなく頷いた。――力に頼らず、命を守るということ。その困難と尊さを、彼女は知っていた。


 アクアの願いを胸に、ノアとレクサスは並んで港へと向かった。


「海に出るなら、たしか飛行艇団の艇庫に、水上用の小型艇もあったはず。……ラクティス団長に相談してみようか」


 そう提案するレクサスの声に、ノアはすぐに頷いた。


 夕方の空は朱に染まり始め、港に停泊する飛行艇の影が長く伸びている。整備区画では、団長のラクティス・ジーニアが艦体に腰をかけ、何やら魔導板を眺めていた。


「よう、ノアにレク坊。おつかれさ……って、なんか真剣な顔してんな?」


 ノアは静かに頷き、少しだけ言葉を探すように口を開き、一通の手紙を差し出した。


「依頼で……沿岸に、密猟者の気配があるそうです。海に出て、確かめたいと思っています」


  ラクティスはそれを受け取り、一読したあと、目を細める。


「なるほど、密猟者か。……そりゃ放っとけねぇな。ちょうど手が空いてたとこだし、俺も行くぜ。殿下まで行くなら、なおさらだ。港に戻ったときに“遺書書け”とか言われたくねぇし。完璧主義な誰かさんにさ」


 ラクティスは肩をすくめて、軽く苦笑した。


 その気軽な言い回しに、ノアは小さく息を吐いて、微笑んだ。


「ありがとうございます。心強いです」


「そういや……」


 ラクティスは思い出したように顎を指先でこする。


「最近出番がなかったけど、水上用の小型艇〈アズール〉があったな。整備だけはちゃんとしてある。俺らだけで海を進むにはちょうどいいサイズだ」


「ありがとうございます」


 そのときだった。城側の通路から、白い影が駆けてくる。


「モコ?」


 ノアの声に応えるように、白い毛並みの飛竜が「きゅっ」と鳴いて近づいてきた。その大きな頭を彼女の腰にこすりつけるように甘える。鞍をくわえており、まるで自分も行く気満々のようだった。その愛らしい仕草に、胸の奥がふっと温かくなる。


 それを見たレクサスは、思わず笑みをこぼす。


「『自分も連れてけ』だってさ」


 モコの姿を追ってきたのか、背後から足音が一つ。整った制服姿に銀の眼鏡――近衛騎士団隊長、イスト・スタウトが立っていた。


 彼は静かに一歩進み、ノア、レクサス、ラクティスの順に視線を巡らせる。


「――殿下が“行くべき”と判断されたのであれば、私はそれを尊重します。ただし、条件が一つ」


 ノアが小さく首を傾げると、イストは迷いなく言った。


「私が殿下の出立を許すのは、君が共にあるという前提があってのことだ。……どうか、無事に帰還するよう努めてくれ」


「……ありがとうございます。必ず、無事に戻ってきます」


 イストは無言で頷き、口元にわずかな笑みを浮かべた。


 水上艇が出航準備を終える。朱に染まる空を背に、三人と一頭を乗せた艇が、西の海へと、静かに滑り出す。


 その航路の先に待つのは、まだ姿を見せぬ密猟者。そして、無垢な小さな命たち。


 ノアは胸の奥で、静かに誓った。


 ――剣を抜かずに、命を守る。そのためにこそ、私は“聖騎士”であるのだと。


 夜の海は、月明かりを受けて銀色にきらめいていた。


 波は静かに揺れ、世界は、ただ在るだけで美しかった。


 澄んだ夜空に溶ける、小さな命のきらめき。


 それはまだ、恐れも痛みも知らない。


 ただ、世界を讃えるように、そっと紡がれる唄だった。


「この唄……あの子たちの誰かが……」


 それは恐れでも、不安でもなかった。


 ただ、幼い命が、月の光に微笑みかけるように。


 波に身を委ね、星の瞬きに心を寄せるように。


 無垢な存在たちが紡ぐ、世界への小さな讃歌。


 ノアは目を閉じ、静かに心を澄ませた。


――守りたい


 理由などいらなかった。ただ、その唄に、心からそう思った。


 水上艇は、波間を静かに進んでいく。


 艇を操るラクティスは、気配を殺すように慎重な手つきで舵を取り、


 レクサスもまた、静かに視線を巡らせていた。


 やがて、月明かりの下、岩礁の陰に潜む古びた帆船が姿を現した。


 外装には無骨な鉄が取り付けられ、密猟者たちの手で改造された痕跡が残る。


「……いたな」


 ラクティスが低く呟き、肩に担いだマスケット銃をそっと構える。


 密猟者たちは、まだ動き出してはいなかった。


 だが、彼らの手には、捕獲網や檻――そして、幼い命を縛るための道具があった。


「……ほんとにいたな、水竜の子。こいつは当たりだ」


「毛並みが白いのもいる。珍しいタイプだ。……高く売れるぞ」


「へっ、騎士団の目なんて、こんなとこまで届かねぇさ」


 月光に溶ける夜の海を、櫂で静かに進んでいたその船の甲板では、数人の男たちが低く笑い交わしていた。

 このまま放っておけば、あの無垢な唄が、悲鳴に変わるだろう。


 ノアは、モコの背にそっと手を添えると、迷いなく言った。


「モコ、お願い」


「きゅっ!」


 その言葉と同時に、モコの背に乗り艇を飛び出した。白い毛並みを月光に輝かせ、滑るように海面を渡っていく。


 ノアはモコの背から静かに降り立ち、甲板に響く、わずかな着地音。


 突如として甲板に降り立ったノアの姿に、密猟者たちは一瞬たじろいだ。


「ストーリア王国所属、聖騎士ノア・ライトエースです。あなたたちの行動、ここで止めさせていただきます」


 男のひとりが慌てて短剣を抜いたその瞬間、風が止まった。ノアの右手がわずかに動く。次の瞬間、乾いた音が夜を裂いた。


 手元の刃が弾かれ、男は悲鳴を上げて手を押さえる。


 狙撃されたのは刃先だけ。人は傷つけていない。だが、その正確無比な射撃に、密猟者たちは一斉に身を強張らせた。


 遠く、水上艇の上で、マスケット銃を肩に担いだラクティスが口元にいたずらめいた笑みを浮かべていた。


「悪いな。……こっから先は、好き勝手させねぇよ」


 ノアは小さく息を呑みながら、その頼もしい姿に視線を向けた。


 ――誰も傷つけず、ただ行く手を閉ざすその一撃。


 剣を抜かず命を守るために、彼もまた、ここにいてくれるのだと。


 ラクティスの隣で、レクサスもまたわずかに目を細め、静かに息を吐いた。


「……相変わらず、すごいな」


 その声音には、驚きと――心強さを覚える響きがあった。


 一瞬の静寂。


 誰も殺されてはいない。けれど、誰一人動けない。剣すら抜かれていないのに、彼女の放つ“気”が空気を制していた。


「命を物として扱う行為が、どれほどの罪か。……あなたたちには、理解できないかもしれませんが」


 ――言葉も力も、過剰にならないように。


 その静かな怒りは、確かに力を持っていた。


 一言と、視線だけで、密猟者たちの動きを止めた。


 ノアは、怒気を湛えた瞳で、ただ静かに彼らを見据えていた。


 その視線は鋭く、けれど澄んでいた。


 ひとり、またひとりと、鎖を手放し、膝をつく。


 ――だが。


 甲板の隅で、まだ抵抗を諦めぬ影がわずかに動いた。


 その刹那。


 水上艇は、波を裂き、船へと寄せられていた。


 甲板に跳び上がる銀の影――レクサス。


 剣に手を添え、静かに一言。


「動かないでください」


 低く、凍てつくような声。


 密猟者は怯えたように硬直し、それ以上の行動を諦めた。


 ノアの集中を乱すことなく、そっと後ろを支える。


 それが、今の自分にできる役目だと知っていた。



 密猟者たちはその場で拘束され、水上艇に繋がれて曳航の準備をされた。その後、戻った入り江では、アクアが静かに波打ち際に立っていた。


 ノアが艇から降り立ち、静かに頭を下げる。


「密猟者は、すべて捕らえました。……もう、子らに危害が及ぶことはありません」


「……ありがとう」


 アクアは、そっと目を伏せ、波間に小さく礼を捧げた。


 だがその横で――


「きゅっ?」「きゅるる~!」


 ふわふわの白い飛竜、モコに子水竜たちがわらわらと群がっていた。


「もっこもっこー!」「やわらかいー!」「きもちいいー!」


 もふもふを触り放題である。


 モコはというと、されるがままになりながら、


「きゅうぅ……」とうっとりした顔をしている。


 さらにその隣では――


「うわっ、ちょ、やめろって! 勝手にポケットあさんな! それは非常食用のナッツだって!」


 ラクティスが子竜たちに群がられ、襟元をつつかれ、必死に服を守っている。


 それでもどこか楽しそうに、声を上げている。


「ナッツくれるのー?」


「違う!やめろ!ナッツは俺のだーーー!」


 すっかりわちゃわちゃである。


 ノアは、そんな光景を見て思わず微笑んだ。


 レクサスも肩をすくめ、そっと彼女に囁く。


「……守れてよかったね」


「……はい」


 ノアは小さく頷いた。


 この小さな命たちの、無邪気な笑顔。それを守るために、自分たちは剣を取ったのだ。


 アクアはそんな彼らの様子を静かに見つめ、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。


「……あなたたちは、“祈り”を、守ってくれたのですね」


 月の光の下で、波のきらめきと、子らの笑い声が静かに溶け合っていた。


 そして、海にはただ、静かな余韻が残った。


 波打ち際に立つアクアは、ふたたびノアたちに向き直った。


「改めて――心から、感謝を」


 静かな夜の海に、凛とした声が響いた。


「あなたたちは、祈りを守ってくれた。力ではなく、優しさで――」


 アクアは一歩進み、子水竜たちがモコやラクティスに群がる様子を、穏やかに見やった。


「この子たちの、無垢な心を信じさせてくれた。私たち真竜族にとって、それがどれほどの救いか……、あなたたちには、伝えきれないかもしれません」


 ノアは、ただ静かに頷いた。


 この海と、ここに生きる命を――守りたかった。それだけだった。


 アクアは、胸元に手を当て、深く一礼した。


「あなたたちに、この入り江と、我らの未来への信頼を託します」


 月光の中、彼女の言葉は、真珠のように静かに輝いていた。


 子水竜たちはというと、


「きゅー!」「ナッツちょうだい!」


 と、なおもモコやラクティスにまとわりついている。


「わ、わかった!ナッツ半分だけ!だから落ち着けって!」


 ラクティスが必死に取りなしているのを見て、ノアは思わず小さく笑った。


 レクサスも、隣でそっと肩をすくめた。


「……本当に、守れてよかった」


「……はい」


 月と波が、静かに頷くように輝いていた。


 * * *


 王都の城壁を越えた夜空に、月が静かに浮かんでいた。


 その光を浴びる城の裏庭――


 人の気配もない静かな小径に、ふたつの影が並ぶ。


 ひとりは、濡れ羽色の髪を持つ女性――アクア。


 もうひとりは、金の髪を持つ、白い祭服を纏った神官長――イスズ・エルガ。


 アクアはそっと笑った。


「――見事なものでした」


「だろ? アタシが目をつけた子だよ」


 イスズは軽い口調で笑いながら、月を仰ぐ。


「手加減なしだったんだろう? アクア」


「当然です。……子らを守るには、偽りなど不要ですから」


「それでいい。ノアには、ちゃんと“本物”を見せたかったんだ」


 月光の下、二人はふたたび静かに目を交わした。


「さて、これからが本番だ。……あの子が、どこまで辿り着けるか」


「――見届けましょう」


 夜風が、静かにふたりの間を通り過ぎる。


 王都の夜は、ただ静かに、深く、輝いていた。

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