序章:月夜に託されたもの
運命に翻弄された夜の記憶である。
満月の夜、暗い森を一人の青年が、赤ん坊を抱えて歩いていた。
森の奥は静寂に包まれ、木々の隙間から差し込む銀の光が、彼の顔を淡く照らす。
真竜族の青年セルシオ・セヴィルは、胸に抱いた赤子――妹のミラを見つめる。
「……すまない」
彼の声は微かに震えていた。
すやすやと眠るその子は、まだ何も知らない。
自分はただの真竜だ。特別な存在ではない。力も、誇りも、大したものじゃない。
それでも、この手の中にある小さな命だけは守りたかった。
けれど――世界は残酷だ。ミラの存在は、邪竜レガリアに狙われていた。
森を抜け、街道へと出る。巨木の根元に静かに膝をつき、セルシオは赤子をそっと寝かせた。
「朝になれば、このあたりの人通りは多いはず……」
何度も自分に言い聞かせる。
彼女を置いていくことが、最善なのだと。
「……どうか、幸せに生きてくれ」
最後に小さな額に唇を触れさせ、セルシオは踵を返す。
暗い夜空へとその身体を変化させ、黒銀の毛並みを持つ竜の姿となって舞い上がった。
目指すはアストラ大陸。邪竜レガリアが潜む、滅びの地。
(お前だけは……生き延びろ)
心の中で繰り返し祈りながら、セルシオは月光の下を飛ぶ。
そして――断崖の上に立つ朽ちた城の前で、その姿を捉えた。
「ふぅん、やっぱり来たんだ?」
人の姿をしたレガリアは、冷たい笑みを浮かべていた。
深紅の瞳が愉悦に揺れ、血のような舌が小さく覗く。
「その右目、まだ痛む?」
セルシオの右目には、深い傷跡が刻まれている。
ミラを守ろうとしたその瞬間、レガリアは彼の眼を抉り、魔力を引き抜いた。
「こんどは、君ごと全部、喰らおうかしら?」
その言葉に、セルシオは低く唸り声を上げた。
「黙れ……」
月を覆うほどの咆哮が、大気を震わせる。
その刹那、レガリアが静かに告げる。
「私が結局あの子を奪わなかった理由、知りたい?――まだ熟してなかったのよ。神竜の力は半端な覚醒じゃ意味がない」
次の瞬間、彼女の姿が揺らぎ、漆黒の竜へと変わる。紅い瞳が妖しく煌めく。
「それに、私も万全じゃなかった……でも、あなたがまだ生きてたのは誤算だったわ。でもここで狩り直すだけのことよ」
夜空に、二匹の竜がぶつかり合う。
――だが、セルシオには、戦い以外に目的があった。
彼女を、ここで終わらせること。
ミラを狙うこの邪竜を、二度と復活させないこと。
どんなに傷を負い、身を焼かれてもセルシオは退くつもりなどなかった。
鋭い爪と爪が交錯し、魔力の奔流が星空を裂いた。
しかし、力の差は歴然だった。レガリアはかつて世界を焼いた邪竜。対する自分は、ただの若輩者の竜でしかない。
それでも――逃げるわけにはいかなかった。
(せめて、この水晶で封印だけでも……!)
セルシオは、家族がレガリアに襲撃されたときその後を追ってきた満身創痍の女性に託された水晶を掲げる。
光の鎖が巻きつき、次第にその動きを封じていく。
爪を振るおうとするたびに、その腕を縛る鎖がきしみ、竜の身体を押さえつける。
レガリアは歯を食いしばり、悔しげに苛立ちの声を上げた。
「こんなモノで……この私を……ッ!」
咆哮とともに魔力を解き放つ。しかし、それすらも封印の力にかき消される。
「馬鹿な……!! こんなことが……!」
――否。
こんなところで負けるはずがない。
見下していた真竜族の青年ごときに、この私が――!
レガリアの紅い瞳が、怒りと憎悪に燃えた。
「私は……こんな檻の中で終わる存在じゃない……!!!」
全身の力を振り絞り、光の鎖を引き千切ろうとする。しかし、すでに封印は完成へと向かっていた。
焦りと怒りが入り混じった表情で、レガリアはセルシオを睨みつける。
「よくも……よくも、私をここまで追い詰めたな……!!あの女の入れ知恵か……!」
声が震える。それは怒りだけではなく――悔しさの滲んだ声だった。
この敗北だけは、絶対に認めたくなかった。
「お前ごときが……! 私に勝ったと思うなよ……!!!」
その瞬間、レガリアの口元が皮肉げに歪んだ。
「フフ……でもね……」
最後の最後まで、憎らしいほどに傲慢な微笑みを浮かべる。
「このまま私が終わるなんて、思ってないでしょう?」
水晶の中へと吸い込まれながら、レガリアは確信に満ちた声で囁いた。
「私は必ず、戻る。」
次の瞬間、邪竜の身体は光に飲み込まれた。
だが、セルシオも限界だった。
黒く染まった水晶と共に、彼の身体は断崖から海中へと落ちていく――
翌朝、森の街道に取り残されていた赤ん坊は、ストーリア王国の騎士に拾われた。
――それから、十六年の時が過ぎた。
セルシオと共に海へ沈んだ黒く染まった水晶は、長い眠りの末に、ある日海岸へと打ち上げられる。
波の音に混じるように、ひび割れた黒水晶の内側で、何かが囁いていた。
その声に導かれたのは、人間に母親を殺されたライカンスロープの少年――ルフレ・スターレット。
声は優しく彼の心に入り込み、囁いた。『私と一緒に、新しい世界をつくろう』と。
ルフレはそれを信じ、黒水晶を拾い上げ、かつての王城――朽ちた廃墟へと運び込んだ。
玉座の上に黒水晶を安置すると、彼はそっと頭を垂れた。
それは、まるで女王を迎えるための儀式のようだった。
――数日後。
夜の森を抜け、数人の盗賊が廃城の近くまでやってきた。
その耳に、どこからともなく子供の声が届く。
「ねぇ……知ってる? この先の廃墟……とってもすごいものがあるんだ」
「……誰だ!? 姿を見せろ!」
声の主は、どこにも見えない。
けれど、不思議と耳に残る。誘われるように、彼らは廃墟の門をくぐった。
「隠された宝……まだ誰の手にも渡ってない……誰にも知られていない」
「こ、この声……どこから……?」
草むらの奥、闇の中。
白銀の体毛を持つ狼が、じっと盗賊たちの背を見つめていた。
その瞳には、人間とは違う冷ややかな知性と、妖しい光が宿っている。
――廃城の奥、ひときわ広い王の間。
高い天井には無数の亀裂が走り、壁にはかつての豪奢な装飾の名残がある。しかし今や、そのほとんどは崩れ落ち、ただ静寂だけが支配していた。
その中心に、一つの玉座があった。
かつてこの城を統べていた者のものなのか。
玉座の表面は煤け、ひび割れ、もはや王の威厳を感じさせるものではない。しかし、その座に鎮座する黒水晶だけは異質だった。
光の届かぬはずの場所で、それは微かに輝いていた。
「おい、あれ見ろ……」
入り込んでだ盗賊の一人が、玉座の黒水晶を指差した。
「すげえ……こんなデカい水晶、見たことねえ」
仲間の男が近づく。息を呑みながら、ゆっくりと手を伸ばした。
「これ、いくらになるんだ……?」
指先が黒水晶に触れた瞬間、異変が起きた。
男の身体が一瞬、強張る。
「……おい?」
仲間が呼びかける。しかし、返事はない。引きつったような息づかいだけが返ってくる。
男の指は、黒水晶から離れなかった。いや、離れられなかった。
ふと、その肌が溶けるように黒水晶へと沈んでいく。
男は声を上げようとしたが、喉からは空気しか漏れない。
まるで玉座に座る王の供物のように、彼はゆっくりと引ずりこまれていった。
足が玉座に触れた。次の瞬間、彼の皮膚がひび割れ、中から黒い何かが滲み出る。
「う、ぐ……」
顔が歪む。目が見開かれ、何かを訴えようとするが、その口はもう動かない。
仲間の一人が男の腕を掴んだ。しかし――
腕が崩れた。骨と肉が、灰となって砕け散る。
「うわああああ!」
叫び声が響く。
男の身体は、もはや人の形を保てなかった。黒水晶がそれを喰らっていた。
滴るはずの血すら、黒水晶がすべて喰らっていた。
「やめろ! 離れろ!!」
仲間の叫びも虚しく、男の身体は飲み込まれた。
完全に取り込まれた。
そして、黒水晶はより深く、より禍々しく輝きどす黒い腕を伸ばしてくる。
残された盗賊は凍りついたように動けない。逃げられる者は、誰もいなかった。
最期の瞬間、男は感じた。
黒水晶の奥で、何かが目覚めつつあることに。
それを知らせる仲間など、もうどこにも居なかった。
柱の陰で、その様子を静かに見つめる少年がいた。
目を細め、唇を歪める。
微笑みが、その顔に浮かんでいた。
それは、凍りつくような微笑みだった。
やがて黒水晶が爆ぜ、破片が宙を舞う。
その中心に、彼女は立っていた。
黒く艶やかな髪、血のように紅い瞳。
その姿は人のものを模していたが、ただならぬ威圧と、底知れぬ狂気を纏っている。
邪竜レガリア――その名が、再び世界に蘇った瞬間だった。
ルフレはふらりと歩み出る。玉座の前で立ち止まり、目を潤ませながら見上げた。
「ねえ、ボク……ちゃんとできたよね?」
レガリアは彼を見下ろす。その瞳に浮かぶのは、興味。玩具を見るような愉悦。
けれど、その表情はすぐに柔らかな笑みに変わる。
「ええ。とても、よくできたわね。ルフレ」
そう言って、膝を折る。
そして、彼女の白く細い指が、ルフレの頬に触れた。
「あなたがいなければ、私は今もここにはいなかった」
「……じゃあ……ボク、役に立てたんだ……?」
「ええ。立派な、私の“鍵”だったわ」
ルフレの顔がほころぶ。微笑が浮かぶその様子は、年相応の子供にしか見えなかった。
「あなた、ひとりだったのね。とても、寂しかったでしょう?」
「うん……ボク……誰にも、必要とされなかった」
「可哀想に。でももう、大丈夫。これからは、私がそばにいてあげる」
レガリアは、そっとその頭を撫でる。
優しい手つき――けれど、その指先には、人を裂く爪が隠れていた。
「お母さんがいないなら……私が、代わりになってあげるわ」
「……うん……」
目を閉じ、彼女の手に頬を預けるルフレ。
レガリアは、その姿を陶酔したように見つめていた。
「ボク、なんでもするよ。レガリア様のためなら」
「いい子ね、ルフレ」
その笑みの奥にあるのは、ただの愛ではない。
欲望、執着、支配。そして――甘美なる破壊の予感。
玉座に立つ邪竜と、その足元にひざまずく少年。
物語が、静かに始まろうとしていた。