06
六
一夜にして袁傪は英雄となっていた。
仮に逆の立場であったとしても当然に思い付いたであろうこと、もしも袁傪が虜囚の虎であったとしてもそうしたであろうこと―――つまり、自分の命と引き換えに友の名声を高からしめるという意図は、おそらく李徴本人が予期していたよりもずっと大きな効果を挙げることになった。
たった一人で、それも折れた矛の柄で巨虎を屠った豪の者。噂は瞬く間に拡がり、どんなに賤しく貧しくとも、この長安で刑部尚書の名を知らぬ者はないほどであった。宮廷内でもそれまでは控えめで影の薄い存在であったのが、今や誰もが敬意と嫉妬の相半ばする眼差しを送る対象となっていた。そして結果としてこの出来事が彼の後の人生に思わぬ大きな影響を与えることになるのだが、それについて記すにはまた別の機会が必要となろう。
さて、巷間いまだ興奮冷めやらぬ処刑翌日の午下がり、袁傪は公儀の許しを得て、素儀、それから刑部の者と衛兵それぞれ数名を伴い、李徴の遺骸を城外へ運び出した。尊厳を保って連れ出してやりたかったが、あくまで死罪となった者という扱いである以上、こうして荷車に載せ筵を掛けてやるのが精一杯の計らいであった。
昨日とは打って変わって、冬の空は低く垂れこめていた。風が止み、鈍色の雲は流れることなくその場でただ形を変え続けているようにも見える。
城門から数里北へ進み、そこから脇の林道に入るとやがて木々の生い茂った小高い丘に行きつく。人気がなくひっそり暗いその丘を、刑吏たちは勝手に「咎山」と名付けていた。城内にて頸を刎ねられた罪人は、皆ここに運ばれ捨て置かれるのである。
袁傪は馬を下り、後ろに続く者たちと共に丘を登っていく。傾斜はそれほど急ではないものの、いつの間にか降り出した雪も手伝って虎の巨体を載せた荷車を運び上げるのは想像以上の難渋であった。道とも言えぬ道を刑吏のみならず衛兵も、果ては袁傪自らも加わり、大の男が寄ってたかってなんとか頂上まで辿り着いた。
そこは中央のおおよそ十大丈(36M)四方が切り拓かれ、土の露わになったその周りを高い樹木が囲む薄暗い空間であった。皆に休息が必要なことは分かっていたが、勢いを増す雪がその間を与えてくれなかった。袁傪は部下に命じて土の上に薪と藁を組ませ低い壇を作り、次いで遺骸を据えさせた。そして素儀だけを残し他の者には私費で労いを与えた上、先に丘を降りさせた。
「この時期にこれほどの雪になろうとは……。日も傾いて参りましたので急ぎませんと」素儀は差し掛けていた傘をいったん主人に預けると、荷車に一緒に載せてきた小さな行李から火折子を取り出した、「わたくしめがお点けいたしましょうか」
「いや、いい。私がやろう。火が点いたらお前は後ろの方に控えていてくれ」
「かしこまりました」
早くも白くなりつつある筵から雪を払うと、袁傪は火折子の筒の蓋を取り、そっと息を吹きかけた。ぽっと小さな炎が顔を出し、彼はその火種を素儀が傘で守る下で壇の奥へと挿し入れた。
煙は初め少量の濃灰色に燻り、それが薄まるとともにあらゆる隙間から溢れ出てきた。ぱち、ぱち、と薪の弾ける音が内側から聞こえる。そしてようやくちらと炎がのぞいたと思うと、あっという間に火柱となって立ち上がり、袁傪たちの背丈を優に超えて燃え盛った。
素儀が手渡そうとする傘を断り、袁傪は独り佇んで、炎に抱かれる友を見つめた。
舞い上がるように燃え尽きた筵の下、虎はだらりと舌を出したまま硬くなっている。眼は見開かれたまま、褪せた灰色に炎を映していた。
受け取ってほしい、と、あの時たしかに李徴はそう言っていた。
一体彼は何を託そうとしたのだろうか。そして自分はしかと受け取れたのであろうか。
それが虎殺しの栄誉でないことには、不思議と確信があった。彼が渡そうとしたのはもっと普遍的で、またそれとまったく矛盾することなく最も個人的な類のものでもある気がした。
そして今のところ、思い当たることはひとつだけであった。
死が喉元にまで迫った際、人は灯籠を回すのを見るようにその脳裏に何らかの光景が次々と浮かぶことがあるという。
袁傪にも経験があった。それは四年前この都から逃げ落ちる途、狭い山道に追い詰められ、足を踏み外し切り立った岩の斜面を転げ落ちたときのことでだった。
妙にゆったりと、しかし細切れに、故郷陳郡の生家と幼き日の自らの姿が次々と浮かんでは消えていく。可愛がっていた犬、厳しくも温かかった祖父、馬小屋に満ちる藁の匂い、お気に入りの独楽……、永く忘れていた情景が手を伸ばせばそこにあるように映し出され、胸が苦しくなるほどの強い懐古の情に捉われた。
帰りたい、帰れるのだという幸福と安心に満たされ、袁傪は現実も現在も忘れ果てていた。
しかし運命か偶然か、岩壁にへばりついて生えていた木の幹が我が身を受け止め、気付けば彼はほんの十尺(約3M)ほど落下しただけで助かった。
そして昨日、李徴の爪牙が頭上に閃いた際にも、袁傪は似た経験をした。ただし前と異なっていたのは、脳裏に浮かぶ光景のひとつひとつがすべて袁傪自身の記憶ではなく、李徴のものだったことである。
より正確を期すなら、それは記憶ではなく体験であった。あのとき袁傪は長安の刑場にいながら、同時に遠く漢陰県の山中にいたような気がしてならないのだ。
木洩れ陽の下、袁傪は静かな森の中に立っていた。目の前には苔生した岩窟が口を開けている。膝をつき半身を入れ覗いてみると、微かに獣臭が籠っていた。そして意外に奥深い穴の中ほどには、錆びかけの金子が重なっていた。
さらに奥の突き当りには、無数の爪痕が残されていた。気まぐれに付けられた傷ではない。すぐに文字であると直感した。
―――辞世……おそらくこれは李徴が遺した最後の一篇……。
判読しようと努めるが、虎の爪で走る筆脈は乱れ、途切れ、重なり、かろうじていくつかの文字を推量するのみ。それでも試みに前後の文脈を極力埋めるとするなら、おおよそ次のような詩意が仄めく気がした。
満つる月に咆えては もう□□(判読不能)のない遠い日の我が身を想う
陰陽の二物がこの姿を生み出し 今また欠けたままの月として朝の光に消ゆる
だが日輪の眩さをもはや怨むまい □□□□□□□
私という命を□□□ 数え切れぬ罪だけを残して
次の瞬間、彼は別の場所―――同じ山中と思われる竹藪に身を移していた。足下には真っ白な、一体の小柄な人骨が仰向けに横たわっている。指一本喰い荒らされた跡もなく、頭部の周りには長い髪がそのまま落ち、事切れたその刹那を封じ込めたような、いささか奇異な表現を許されるならそれはとても美しい死に姿であった。
髑髏は首をやや斜めにこちらを見つめている。ふたつの眼窩は空ろであるのに、生身の瞳よりもはっきり眼差しを感じた。
―――廖馥……。
と、その瞳の暗闇の奥で何かが蠢いたのを袁傪は見た。だが目を凝らすと、それはふっと闇に溶けて消えてしまった。
もしかすると、李徴はこれらの光景を見せるため敢えてあのとき自分に死の危険を感じさせたのではないか。袁傪は寝付けるはずもない昨夜の床でそう考えた。だとすると、あのとき初太刀を躱したことにも、あのように殺意を剥き出しにしたことにも説明がつく。
そしてそのすべては廖馥のため―――李徴の魂を癒したあの少女がこの世に生きていたという事実をせめてこの袁傪の記憶の中に留めることで残してほしいと、李徴はそう願ったのではあるまいか。
確信はなかった。そう考えることで己を慰めようとしていることも自覚していた。だが少なくとも今は、それが袁傪にとっての真実であった。
李徴の遺骸を取り巻いた火は一段と勢いを増している。見事だったあの毛皮が火鼠のように炎を纏い、まもなく全身が黒ずんでゆく。肉の焼ける匂いが……いやそうだ、匂いがまったくしないと袁傪が気付いたそのときだった。
火中の黒い塊が蝋の融けるように艶を帯び始め、次第に桃色に変わってゆく。ちょうど捌いた肉の色のようである。次いでその肉の塊が蠢き、ある容を取り始めた。頭、胴体、そして長い尾……それは蛙の卵が蝌蚪(※おたまじゃくし)へと変容していく様によく似ていた。
しかしこの怪異に袁傪は辟易ろがなかった。何が起ころうとも事の顛末を見届ける覚悟であった。
やがて。
はっ、と、巨大な蝌蚪が炎の中で息をつかまえると、その肉塊は気息に上下し始める。それと同時に滑らかだった表面のあちこちに凹凸が生じだした。
それは人間の顔であった。
蝌蚪の頭から尾まで、二十か三十か、人の顔がびっしりと浮かんでいる。
男もあれば女もある。齢も童から年寄りまで、実に様々な皮のない顔が浮かんでいた。
まもなく無数の顔はそれぞれの表情をとりはじめた。喜び、蔑み、怨み、慈み、憎しみ、妬み……各々が魚のように舌のない口を動かしては無音の感情を訴えている。言うまでもなく、それはあまりにも異様な光景だった。
だがそんな中、蝌蚪の腹の辺りにふたつ並んだ顔に目が留まった。
若い男女であった。
ふたりとも目を閉じ、穏やかなその表情は眠っているようにも見える。
ああっ、と袁傪は思わず声を漏らした。
李徴であった。出会った頃の李徴がそこにいた。
―――では隣にいるのは……廖馥、君なのだな。
少女は淑女へと花開いていた。その清澄な美貌は後宮の貴婦人たちにもまったく劣ることはない。この世にあらば今まさに自らの若さと美しさを楽しむ頃であろう。
袁傪がふたりに声を掛けることはなかった。彼は懐に入れていた小冊を、火中の彼らの前にそっと置いた。李徴の詩集であった。
パチ、と初めて脂の弾ける音がして、火炎は降りしきる雪に抗して野放図に激しく立ち上がった。
炎に巻かれ蝌蚪の身体がうねる。人面たちの表情が皆、苦悶に歪みはじめる。
しかしそんな叫喚なき焦熱地獄の中、李徴と廖馥だけは静かな瞑目を保っていた。
―――どうか安らかに……。
命が燃える。
夢が灰になる。
袁傪は重く降りかかる雪にも構わず、その白く赤い炎をいつまでも見つめていた。(了)