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05



 掃き清められたように遮る物ひとつとてない初冬の空に、陽は早くもその日の旅程の半分を終えようとしていた。

 長安城西市の跡地は広さがおおよそ東西二里、南北一里ほど。城内における商業の中心であったことから、先の戦禍では最も激しい奪略と破壊を受けた区域のひとつである。それゆえ唐朝による首都奪回後も荒廃に任せて当座の瓦礫置き場とされ、ようやく更地として整備されたのはつい数か月前のことであった。

 その更地に、今は即席の処刑場が設えられている。十五大丈(約55M)四方に柵を巡らし、北側は壇を重ねて貴賓席に充て、残る三面はすでに群衆で埋め尽くされていた。その数いったい如何ほどか、頼りない木の柵の周りを幾重にも人垣が巡り、周辺の軒の屋根にまで見物人が上っていた。

 民衆の好奇の目は正面に居並んだ貴人たちや文武百官、そして何より刑場中央の覆いに向けられていた。その麻の覆いの傍には木材を何本も束ねた杭が深く打ち立ててあり、それが馬の手綱を縒り合せた太い綱で、覆いの下の獣と繋がっているらしかった。

「こっから見てもでけえなあ。あの下に虎がおるんかい」

「おるともさ。おらぁ、おとといあいつが城内に連れて来られるとこ見たもんよ。こーーんなでっけえ化け物だぞ」

「たしかにでかそうだなあ。何人喰い殺したんだっけか」

「五、六人くらいって聞いたぞ」

「おふたりさん、あんたら何言うとるんじゃ。喰いも喰ったり、百は下らんそうじゃぞ。でなきゃわざわざこんな見世物にまでして殺すもんかいな」

「はええ、そうですかい。なんにせよ、早よしてもらいてえもんだ。寒くてかなわんて。爺さん、こらあ明日あたり雪でも降りますぜ」

「そうともな。したら虎汁でも振る舞ってもらえんかのお、精がつきそうな」

「げははは、そら(ちげ)えねえ」

「なあ、おら小便してえ」

「またかよ。この人ごみじゃあもう身動きとれねえぜ、諦めな」

「弱ったなあ。早いとこ処刑してもらわんと漏らしちまう。――あ、今入ってきたの、ありゃあ天子様じゃあるめえか。すげえなあ、おら初めて見たぞ」

「ほっほ、天子様も小便済ましてきたところかの」

「しっ、爺さん声が高いぜ。あんたが頸刎ねられに来たわけじゃねえんだろ」

「おっと、こりゃいかん。くわばらくわばら。――さて、そろそろ始まりそうじゃな」

 薄い御簾(みす)の向こうの人影が着席したのと同時に低く鳴る銅鑼(どら)が幾度か打たれ、場の空気を支配した。その静けさの中、御簾の傍らに控えていた高官のひとりが威儀を正して声を張り上げる。事前の取り決め通り、儀式の元締めはこの礼部尚書であった。

「これより刑を執り行う」

 自然、群衆から上がった歓声を制するようにまた銅鑼の音が響き、声が続ける。

「古今、畜生一匹屠るに畏れ多くも皇帝陛下御自ら玉体を御運び給い、御目を汚し奉る(ためし)有らんや。ここに捕えられたる虎一匹、ただの獣にあらずして、不届きにも人肉の味を覚えたるなり。信賞必罰を以てする本朝の威光は遥か碧山の禽獣にすら及び、また天子の御慈悲は万民のいかなる悲泣をも聞き洩らし奉らず。よって本日その無念の情をしてここに晴らさしめんとするものなり」

 再びのまばらな歓声は無視して、礼部尚書は隣に立つもう一人の高官に目で合図した。

 同じく目でそれを受け取った刑部尚書袁傪が一歩進み出る、

「刑吏隊、柵内へ。武器の所持を許可する」

 五名ほどの甲冑を身に着けた刑吏たちが、木柵の入口で一人ずつ剣と矛を受け取ると、列を保ったまま駆け足で覆いを掛けられたままの虎を中心にして円形に囲んだ。そして各々が長い矛を伸ばして覆いとの距離を測り正円をつくると、そのまま大股で五歩後ずさりし、矛先と背筋を真っすぐ空に向け次命を待つ。

「除け、遮布」

 バサッという乾いた音とともに麻布が勢いよく柵外まで引かれた。遠目には分からぬがどうやら長い紐が縫い付けられていたものらしい。

 と、群衆から、いや正面の貴人たちからも静かなどよめきが起こった。

 亜麻色の布の下から現れたのは、鮮やかな黄に漆黒の紋が入った巨大な虎だった。伏せたままの虎は眩しそうに目を細めながら首をもたげ、ぐるりと周囲を見回す。

「でけえ…」

「なんでえ、ずいぶん痩せぎすだな」

「あたしたちがごちそうの山に見えてんのかしらねえ」

 場が落ち着くまで少しの間を置いた後、袁傪は再び口を開いた。

「意を通ぜぬ者ではあるが、定めにより下手人に問う。刑を宣するにあたり、未だ明かさざる事実、申し開きの条あらば腹蔵なく申せ。これが最後の機会である」

 虎は応えない。袁傪の方には一瞥もくれず、顔をあげたままじっと虚空を見つめていた。

―――李徴……。

 不毛な形式に痺れを切らすように、群衆のどこからか女の絶叫が聞こえた。

「早く! 早くその化け物を八つ裂きにして下さいませ! そやつは我が夫を喰い殺したのでございます!」

 おおかた礼部尚書辺りが仕込んだ輩なのか、あるいは戦乱がもたらした不幸をこの虎に映し出しているのか、怒気と殺気があっという間に大衆に伝染していく。

「そうだ! 仇討ちだ!」

「とっとと殺しちまえ!」

 騒然とした空気を抑えようとばち(ばち)を振り上げようとした下吏を、袁傪は小さく首を振って(いさ)めた。民衆の鬱憤を軽くしてやることがこの処刑の目的のひとつである以上、ある程度の混乱は致し方のないことであった。

「畜生の分際で人間様を飯にしやがって!」

「俺にやらせろ! 俺が一突きにしてやる!」

「早く殺せ!」

 だがそれも物が投げ込まれるようになると、さすがに潮時であった。激しく打ち鳴らされた銅鑼とともに、袁傪も声を高くした。

「者共、静まれ! 皇帝陛下の御前であるぞ!」―――といっても陛下の(ころも)を被った影武者だが……。「弁明なくば、改めて刑を申し渡す」

 分かりきった答えではあったが、打って変わって皆が奇妙なほど神妙に次の言葉を待った。

「下手人を即刻死罪とする」

 歓声と手拍子が起こる。虎はといえば、屋内から広い庭園を臨むように、柵の向こうの楽し気な表情のひとつひとつを大人しく見渡していた。

 袁傪が手で合図を送ると、今度は先程よりも高い音で鳴る銅鑼が一定の間隔と強さで打たれた。一音ごとに清められるがごとく、十を過ぎた頃には厳粛ともいえる空気が刑場全体に張り詰めていた。

「構え、矛」

 五本の矛先が一斉に虎に向けられる。ぬらりと虎が腰を上げる。袁傪は片腕を上げたまま振り返り、まず隣の礼部尚書の了承を得、次いで逆向きに頭を振り、御簾の向こうからの下知を待った。しかし偽皇帝は、ゆっくり深く頷くだけの簡単な役目を果たすのに不自然なほどの()を要した。。結局この者だけが、今まさに親友を殺さんとする人間の凄まじい表情を間近に見たのだった。

 御簾の向こうでようやく冕旒(べんりゅう)が揺れ、袁傪は正面を向き直る。

―――李徴子……。

 そして逡巡を断つように、上げていた腕を一気に振り下ろした。

(ざん)!」

 砂埃とともに速やかに円陣が萎む。五本の矛は余すことなく一つの身体を捉えた。ギャッという人とも獣とも知れぬ叫び声が上がり、まもなく囲いが解かれる。

 だが虎は斃れていなかった。肩、脚、腿……矛はすべてその身体に突き刺さったまま、しかしどれもが急所を外していた。

「グルルルル……シュルル」

 虎は牙を剥き、ぶるりと震えて矛のうち浅く刺さっていた数本を振るい落とすと、姿勢を低く威嚇しながら刑吏たちを()め付けた。そのあまりに苛烈な血まみれの殺気に、本来どちらが狩られる側であるか俄かに思い出したように、刑場全体に凍り付くような戦慄が走った。

「……ばっ、抜剣!」

 年長の刑吏の掛け声に、残りの四人も我に返ったように腰に佩いていた鉄剣を抜き放った。

「各自、頸を狙え! 焦らなければ大丈夫だ、綱でしっかり繋がれてある」

 しかし先程までとは打って変わって、刑吏たちは明らかに統制を失い浮足立っていた。

 無理もない。精鋭とはいえ、普段は無抵抗の罪人に刑を下している者たちである。鼠でさえ窮すれば猫と化すというに、目の前にいるのは死中の虎、しかも人の知恵持ち、人を殺すことに慣れきった猛獣であった。

 また、責任者たる袁傪にしても誤算があったことは否めない。今朝がた最終的に処刑の次第を確かめた際、先刻まで接していた李徴の衰弱しかつ落ち着き払った態度が脳裏にあったためか、きっと彼は従容と刑に甘んずるであろうとの思い込みがあった。ゆえに当初は十人であった刑吏の編成を半数にできぬかとの礼部尚書の打診を了としたし、猿轡(さるぐつわ)は不要と判じたし、頸を縛る綱が長すぎるという初歩的な過失にも気付けなかった。

 刑吏たちは入れ替わり立ち替わり、掛け声野太く切りかかったり、地面に落ちた矛で再び突こうと試みるが、虎はひらりとそれらを躱しては爪と牙を閃かせて刃圏を遠ざける。

「俺が正面で囮になる! お前たちは背後から仕留めろ!」

 言葉を解さない相手になら、あるいは上手くいったかもしれない。そろりと後ろを取ったつもりがするりと体を入れ替えられた上、綱に足を引っ掛け派手に転ぶ始末であった。

 五人の大の男と一匹の痩せ虎が、駆け、跳び、(まろ)び、交錯する。当人たちにとってみれば文字通り死に物狂いの遣り取りであるが、柵の外にあってはその光景は何か劇を観ているような非現実的な、しかもある種の喜劇を眺めるような、残酷な滑稽さがあった。

 緊張の切れはじめた群衆たちが少しずつ騒めき始める。

「おっ、いいぞ。それそこだっ! ああー、惜しい」

「早く済ませろよな。日が暮れちまうぞ」

「でもなんだかこうして見てると可哀そうなもんねえ、あの虎も」

「代わりの奴らを入れてやらな。皆もうずいぶん疲れとる」 

 弛んだ空気は疾うに壇上にも伝わっている。特に宦官連中などは卑猥な興奮と笑いを抑えるのに必死で、ヒッ、ヒッ、と不自然な童顔を赤くして隣同士で肘を突き合っていた。

 と、そうした居並ぶ百官の前を大股で横切り、袁傪に小声で話し掛ける甲冑の武者(むさ)がある。

「刑部殿、もうよかろう。(けい)の配下にもあの獣にも、これ以上は酷というものだ。虎一匹にこれ以上手こずるとあっては唐朝の名折れ、況や今は陛下の御前という(てい)でもある。卿の職権を侵す非礼は敢えて承知の上、あとは当方で引き受けたく思うが如何か」

 答えたのは袁傪ではなくその隣の礼部尚書だった。

「兵部尚書の仰る通りだ。うむ、それが良い。あの化け猫、妙に勘が鋭いというかしぶといというか……。土台あのような輩の手に負える相手ではなかったのだ。あ、いや刑部尚書、貴殿を(くた)そうというのではないぞ。ただ、こういう時にはやはり百戦錬磨の兵士どもでなくては。袁傪殿、ここはひとつ兵部にお任せしようではないか」

「………………」

「どうした袁傪殿、迷っている場合ではないぞ」

「……いえ……考えていたのです………」

 一本の杭を中心に、砂と獣の血で地面に複雑な文様が描かれてゆくさまを見届けながら、袁傪はひとつの事を考えていた。

 なぜ、李徴はあそこまで足掻くのだろうか。つい先ほどまで、あれだけ悟りきった口振りで死を待ち望んでさえいたというのに。

 夜を徹してのあの語らいは、すべて嘘だったのだろうか。

 否。そんなはずはない。あれは確かに心底からの、魂からの告白であった。

 ではどうして……。

 死を禁ずる生まれ持った内心の命令とは、それほどまでに強固なものなのだろうか。

 否。あれだけ強靭な、狂気を得るほどの意志を持った漢だ。そして誰より誇り高く、恥を憎む漢だ。死に臨んで怖じ気付くなどあろうはずがない。

 ではなぜ……。

 恥……誇り………

「ああっ! なんということだ! なんという愚か者なのだ私は!」

 いつも温厚な刑部尚書の突然の絶叫に、周囲は驚きというよりしばし呆気に取られた。

「如何された、刑部殿」

「そこまで御自分を責めることはなかろう」

 しかし袁傪は周りからの言葉などまったく耳に届かぬふうで、「こんな簡単なことに今の今まで思い至らぬとは……」ぶつぶつ呟きながら髪を掻き毟った。

 さては気でも触れたのかと礼部、兵部の両長官が顔を見合わせていると、今度はぴたりと狼狽の止んだ袁傪は、元のように背筋を伸ばし、冠の乱れを正す。

「……失礼、見苦しいところを御目に掛け申した」袁傪は二人の方へきちんと向き直り、「たかが獣一匹の始末にかかる醜態を演じ、御両省の体面にも傷をつけることになろうとは、この袁傪、何と御詫び申し上げればよいのか。かかる責は唯々、私めにのみございます。どうか小職の一命をもって、配下の者共には御咎めなきよう御願い申す」

 拱手(きょうしゅ)とともに謝し、偽皇帝にも形ばかりの一礼を捧げると、急に踵を返した袁傪はひらりと壇から地面へ跳び下りた。

「刑部殿っ、どうされた? 何処へ行かれるおつもりか」

「袁傪殿!」

 男はちらと振り返り頷きひとつで応えると、速足に門番の立つ刑場入口に回り込んだ。

「開けよ」

「は……」

「早くせよ。開門だ」

「あ、はいっ! かしこまりました!」

 柵が開かれ、袁傪は独り場内を進んでいく。

 一方、群衆はようやく訪れた変化に興味を新たにした。

「おい、なんか偉そうなのが出てきたぞ」

「防具も付けんと大丈夫かいね」

「なんでもいいや。もう飽きてきたよ俺」

 すると虎を囲んで疲労困憊の刑吏のひとりが、騒めきに気付いて振り返った。

「――閣下!」

 全員が砂埃だらけの顔を上気させながら駆け寄り、片膝をついた。

「お前たち、ご苦労だった。済まなかったな。皆、大きな怪我はなさそうで何よりだ」 

「どうして……閣下、ここは危険です! どうかお下がりください!」

「心配ない。皆、許せ。私の甘い考えのせいで大事な部下を失うところであった」

「不甲斐ない我々に勿体ない仰せ……」年少の刑吏が涙を流しはじめる。刑部尚書直々に言葉を掛けられるなど本来あり得ぬことであった。

「ここまでよくやってくれた、礼を言う。後は私が始末をつけるゆえ、お前たちは外へ出て傷の手当てをせよ」

「なっ…なんと仰います! 閣下御一人であの猛虎と相対(あいたい)されるおつもりですか⁉」

「ああ、そうだ」

「無茶です!」刑吏たちは異口同音に捲し立てた。「いくらなんでもそれは無謀というものです!」

「そうだな、『大丈夫だ』とは言えぬな。あそこに居られる兵部尚書ならともかく、私はひ弱な一介の文官に過ぎぬ」

「でしたら……」

「それでも、私に任せてもらえぬだろうか。どうやらこれは、私自身が一人で果たさねばならぬ仕事のようなのだ。要領を得ぬことを言ってすまぬが、上官としてではなく一人の男として請う。この袁傪の我儘、聞き届けてはもらえまいか」

 どうしたものかと、刑吏たちは互いの怪訝な顔を覗う。うち、最年長の者が口を開いた、

「引き揚げよう。閣下がこうまで仰るのだから」そして立ち上がると、それまで後ろ手にして礼を示していた剣を鞘に仕舞う。

「しかし刑吏長……」

「お前、閣下に恥をかかせるつもりか」

「いえ、そんなつもりは……」

「だったら立て。早く刑場(ここ)を出るんだ」

 五人の処刑人は各々剣を収めると、小走りで去っていく。しかし今しがた刑吏長と呼ばれていた年長の男がふと足を止め、袁傪の方を振り返った、

「四年前、勅使として嶺南へ向かわれる閣下の御供をいたしました」

「…そうであったか」

「あの虎はもしやあの時の……?」

「ああ、そうだ」

「やはり。左様でしたか」

「できれば――」

「はい。決して口外はいたしません」

「恩に着る」

「どうか御無事で。閣下が御自身で思われるよりも、皆あなた様の事を慕っております」

「かたじけない」

 再び歩き出した背中をしかし、今度は袁傪が呼び止めた、

「すまぬがお主の剣を借してもらえるか。勇んで入ってきたはよいが、さすがに素手で格闘するわけにもいかぬゆえ」

「? もちろんよろしゅうございますが、その御腰の物はお使いにならないので? こんな(なまくら)よりもずっと頼りになるとお見受けしますが」

 袁傪は腰に手をやった。たしかに、一振りの立派な剣を佩いていた。

 くつくつ湧きだした笑い混じりに言う、

「日頃、役目の特権として帯剣を常に許されているのに、永らく抜かぬうちにこれが剣であることを忘れていたよ。どうも人間、偉くなりすぎると碌なことはない。自らの手を汚すことも、自らに害が及ぶことも、あるはずはないと思い込んでしまうものらしい」

―――そうだ、己が直接手を下さずに済むことに、私は心のどこかで安堵していた……。

 刑吏たち全員が柵外に出たのを確かめると、袁傪は旧友の方へ歩を進めた。

 李徴は杭の傍で腹ばいになって休んでいた。赤い舌を出したまま、呼吸はまだ荒い。近くで見ると、かろうじて急所は外しているものの傷は多く、そのいくつかは十分に深手だった。

 重そうに、脚を震わせながら李徴は立ち上がる。その様子はあたかも足腰の弱ったどこぞの老翁が、それでも客を出迎えるに礼を尽くそうと力を振り絞っているようにも見えた。

 袁傪が剣を抜くと、群衆から大きな歓声が上がる。しかし間髪置かず同じ剣で杭に繋がれた綱が真っ二つに断たれると、歓声はどよめきに変わった。

「おい、あのお偉いさん何考えてやがるんだ。縛っておかねえとまずいだろうがよ。しかもたった一人でよ」

「まさかこっち来ねえよな。こんな柵、簡単に跳び越えられそうだぞ」

「ありゃあ相当な剣の使い手だぞ。見ろ、あの落ち着き払った立ち姿を」

「部下の手柄を横取りにしたと思われたくないんだろうさ。いやぁ、漢だねえ」

 一方、騒めき遠く、刑場内では二人の男が向かいあっている。

 袁傪が口を開き、互いにやっと聞こえるだけの声を送った、

「初めからこうすべきだったのだな」

「ああ」

「それにしてもよく晴れた。空があんなにも高い」

「ああ、そうだな」

「さらばだ、李徴」

「ああ、さらばだ袁傪。旧き友よ」

 縛めを解かれた虎が、機先を取って突っ込んでくる。鋭いが初めから僅かに方向をずらした踏み込みで、牙はガチリと砂埃を噛んだ。そして示し合わせたかのように無防備に晒された頸に、袁傪は思い切り剣を振り下ろした。

 が。

 そこにあったはずの頸はなく、剣はしたたか地面を打ち、強い反動と痺れで手から離れて中空に弧を描いた。

―――え……?

 袁傪は投げ上げた毬を見失った(わらべ)のように、反射的にきょろきょろ左右を確かめる。

 そして四方から悲鳴が上がるのと同時に、彼は背後からすっぽり覆いかぶさってくる大きな影を地面に見た。

「後ろです旦那様!」

 人垣から悲鳴に一瞬先んじて掛けられた声が耳に届いていたかは定かでないが、振り向いた袁傪はもつれた足で見事な尻もちをつき、目の前の光景を見上げていた。

 巨大な虎が後脚で立ち上がり、巨大な爪と牙を剥いてこの命を圧し潰そうとしている。血走った(まなこ)、飛び散る涎、鋭く尖った五つの爪……刹那の現実が奇妙な緩慢さで近付いてくる。

 そのせいか、袁傪の内心には自らの死を悟るだけの猶予があった。

 しかし一方で、彼の命は生を諦めていなかった。傍らに落ちていた先の折れた矛、その長い木の()を咄嗟に引っ掴むと無我夢中で真っすぐ上へ突き出した。

 ガチッ、と、牙が柄を真正面に噛んで受け止めた感覚が掌に伝わってくる。間髪置かず強い顎と頸の力が棒を振り落としにかかると思いきや、二本脚で直立したままの巨体は強靭な膂力(りょりょく)でぐいと勢いをつけてのしかかった。そして柄頭(つかがしら)が地面に接する一点でその体重を受け止めた瞬間、咥えていた切っ先を一息に呑み込んだ。

 厚い布を穿(うが)つような、ぶつりという鈍い音がした。

 ぐにゃりと肉を刺した感触、尖った棒の先がそのまま指先であるような生々しさだった。

 袁傪のみならず、例外なくその場にいたすべての者に束の間の放心があった。静寂の中、それでも本人がいち早く正気を取り戻したのは、ぼたり、と頬に落ちた大きな雫のためであった。

 彼はようやく、起こった事をその目で確かめることを思い出した。

 (ひる)の陽を背負った獣の身体が、だらりと矛の柄に串刺しになって垂れている。その黒い塊からまた雫が滴った。拭った手の甲は鮮やかな赤であった。

 いや、気付けば両の掌が切っ先を伝った血で(あけ)に染まっていた。そして喉を貫き通された巨体は、まもなく自重でずるりと柄を滑り落ちてくる。

 袁傪はそれを抱きとめた。というより下敷きになった。

「李徴!」

 叫び声は、群衆から湧き上がった地鳴りのような歓呼に掻き消された。群衆だけではない、壇上の者も身分を忘れ誰彼構わず抱き合って喜びを爆発させる。銅鑼が滅茶苦茶に打ち鳴らされ、刑吏隊を先頭に配下の者たちが柵内に雪崩れ込んできた。

「李徴!」

 袁傪は呼びかけ続け、覆いかぶさった身体を揺すっていた。横たわる地面はあっという間に血の海に沈んでゆく。理性はもはや返事のあるはずのないことを知っていたが、その同じ理性が理解を拒んでいた。

 だが―――。

『―――受け取ってくれ、袁傪……』

 友の最期の言葉は、聞こえたというより触れた気がした。心の内奥に言の葉という感触を確かに感じたのである。

 ただ触れただけであったが、心には激しい波紋が立ち、大きな力のうねりに圧倒された。喜怒哀楽に変わる前の感情そのものが心の水底から湧き上がり、行き場を失い、止め処ない涙として溢れた。

 考える余裕などあるはずもなく呆然と横たわる一人の男のそばに、大勢が駆け寄って来る。そして力を合わせ獣の死体を持ち上げると、彼を助け起こそうと無数の手を差し伸べた。

 しかし袁傪は誰の手を取ることもなく、ただ空を見上げて涙の流るるに任せていた―――乾元(かんげん)二年十一月のよく晴れた、だが北風のひどく冷たい日のことであった。


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