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04-4

(承前)



 いつからか、小屋の外はすっかり静まり返っていた。話の再開を待つ間、袁傪の胸中にはこの親友についての印象が朧気(おぼろげ)ながらひとつの形を取りつつあった。

 若かりし頃の自嘲癖や冷笑癖はそのままに、やはりこの虎がかつての麒麟児(きりんじ)李徴であることを感じさせる。整然とした語り口もさすが昔を思わせた。が、それでもやはり、袁傪はどうしてもこの男の知的な衰えを感じずにはいられなかった。

 以前の李徴が口を開けば一瀉千里(いっしゃせんり)博聞彊識(はくぶんきょうし)の思考の極めて頴敏(えいびん)なるに比して舌の動きの緩慢なるを憎むがごとく、どこか常に急くような話し方をしたものだった。また一を聞いて十も二十も知ってしまうため、他人に対しても自身と同等の理解を想定し、論の過程を極端に省くという困った癖もあった。そして少なく見積もっても半分は自覚的にそのことを鼻に掛け、他者を見下し愉しむところがあった。それがかつての李徴という男であった。

 が、いま眼前の虎はどうだろうか。実に素直に、なんと素朴に語るではないか。記憶を手繰り、言葉を探し、今のこの語りようならばたとえそこらの稚児であっても難なく理解できるに違いない。そう、たとえば祖父から御伽噺を聴くように――……

 袁傪はそこまで考えてハッとした。

 ひょっとしたら、李徴はすでに年老いているのではあるまいか。

 枯れた声、随分と遅くなった口調や語りながら時々行き場を失ったように虚空を見つめる眼差し……たしかにいくつかの手掛かりはあるのかもしれない。

 しかし骨筋張ってはいるがその容姿に老いの影が差しているわけではなく、李徴の老憊(ろうはい)を確信させるのは、むしろまだ若々しいその肉体と、彼の纏う空気との極端な乖離だった。先刻この小屋に入って初めて言葉を交わしたとき覚えた違和感の正体を、袁傪は悟った。この落ち着いた雰囲気は、自若(じじゃく)ではなく諦念――過ぎ去った膨大な時の長さと重さに圧し潰された結果としての諦めのように感じられた。

 虎と姿を変えたその日から、この男の精神には人間とも獣とも異なる時間が流れ始めたのではないか、それも恐ろしい疾さで。いったい人の一年が彼にとっての何年に当たるのか、考えるだに背筋が寒くなるような気がした。

「さて」と喉を潤した李徴は、再び遠い目で記憶を手繰り寄せながら言葉を継いだ、「深い眠りから目覚めると、嵐に梳かれてやや広くなった森の空に陽が高かった。気付けば身体のあちこちに傷が走り、血と泥で赤黒く汚れていない箇所はないようだった。

 だがそんなことはどうでもよかった。すぐに娘を捜しに再び山を下っていく。と、山道を挟んでしばらく分け入ったところで、微かな臭いに脚が止まった。人糞の臭いだった。しかもまだ新しい。

 嵐は過ぎ去ったとはいえ山肌はまだぬかるみ滑りやすく、このような山奥まで人の分け入ってくることは考えにくかった。だとしたら……。

 臭いの元を辿ってまたしばらく下って行くと、大風によって織り込むように倒れ込んだ竹藪の向こうに、横たわる二本の白い足が見えた。心の臓が急に耳の奥近くに移ってきたかのような、強く速い鼓動を感じながら厚い竹垣を回り込むと、娘は――廖馥(りょうふく)はそこに仰向けになっていた。

 斜面のやや平らになった箇所に嵐が拵えたその空間は、何か彼女のための小部屋のような不思議な収まりがあった。音さえやや遠いようなそのひっそりとした中に、目を閉じた彼女の小さな息遣いがあった。

 生きている!

 そのことがどんなに嬉しく、この胸を安堵させたことか。普段彼女と同じような齢の少女をも喰い殺しておきながら、そんな矛盾には構わず、俺は天に奉拝万謝(ほうはいばんしゃ)して憚らぬ思いであった。

 だが。

 落ち着くまでもなく、彼女の無事ではないことは否応なく目に入ってくる。

 力なく横たわる全身には蔦の絡まるごとく跳ねた泥が固まり、どうやら遅くとも昨夜の土砂降りの頃からずっとこのままの体勢であったらしい。糞尿も垂れ流しであるところを見ると、ずっと意識を失ったままなのだろう。

 さてはぬかるみに足を滑らせたか。間近に検めると、枕としている土が赤黒く滲んでいる。鼻を寄せるとやはり血の匂いであった。

 しかし、不可解ではある。

 この緩い傾斜で、たとえそれが雨の降り出す前だったとしても、頭を打ったとてここまでの重傷(おもで)を負うことがあろうか。寝返りひとつ打てぬとは……考えながらふと目を移すと、彼女の片手に何か握られていることに気付いた。

 それは小さな布切れだった。褪せた柿渋色の、強い力で一気に裂けたらしい切り口だけが元の鮮やかさを見せていた。匂いを確かめると、気のせいかと思えるほど僅かではあるが、人の――それも男の垢の臭いが残っていた。男が着ていた物の切れ端であるらしかった。

 彼女の身に起きた事を、俺は直ちに了解したような気がした。

 昨日俺が惰眠を貪っていた間、すなわち昼過ぎから夕方にかけての時間に娘は例のごとく商売をしに山道まで下って行き、この着物の主に出会った。男は娘を値踏みした上でここへ連れて来た。そして事が終わって男は去ろうとするが、肝心の(あたい)を払おうとしなかったのだ。

 身体を差し出せば空腹を満たせる。それは彼女にとっての唯一の真理だ。善悪以前に、陽が東から昇るのと同じくこの世の真理なのだ。にも関わらず、この男は何もよこさず去ろうとする。おそらく娘はひどく混乱し興奮したことだろう。そして男の着物の端を掴んだ。逃がすまいとしたわけではないのだ。ただ起きていることが理解できなかっただけだ。

 しかし無論、男の受け取り方は違った。金や食物を惜しんだのかそもそも持ち合わせていなかったのか、娘に騒がれ焦った男は彼女を組み伏せ、その頭をまだ乾いていた地面に強く打ちつけた。それもおそらく一度や二度ではあるまい……。

 顔にへばりついた髪と泥を舐めて拭ってやる。するとまもなく、両の瞼が重そうに持ち上がった。

残夢に怯えるのかあるいは揺り戻された現実に慄くのか、しばらく空を見上げたまま震えていた瞳だったが、やがて視界の端に我を認めると嬉しそうに微笑んだ。唇は何か形作ったものの音はついてこなかった。

『だいじょうぶか?』

 滑稽にも初めて人語で語り掛けている自分がいた。娘は驚いた様子もなく、(またた)きで頷くようにも見える。

『うごけるか?』

 同じはずの瞬きに、ふと哀しみとも淋しさとも判らぬ翳りが差したような気がした。ああそうか、と俺は思う。これまでに意識は一度ならず戻っていたのだろう。そして自らの四肢のもはや動かぬことをすでに悟っているのだ。

 なんという潔さであろうか。取り乱すことも足掻こうとすることもなく、少女はただ静かに身に起きた事を受け容れていた。その瞳の奥に、彼女の凪いだ心の景色がひろがっている―――森に漉かれた光の(きざはし)が、澄みきった泉の面に七色の泡を立てていた。その上を万朶(ばんだ)(たわ)んだあちこちの枝から花々が舞い、中空や水面に甘い香りの航跡を描いている。広く、深く、静かな、それはこの山の森と地続きのようにも思えるが、ここではない幻の境であった。

 彼女はすでにそこにいて、木漏れ陽を両手で掬って遊んでいる。薄紫の絹物に身を包み、化粧(けわい)の顔は大人びて、金の(かんざし)が艶やかな髪に揺れていた。

 と、不意に察したようにあちらこちら見回した彼女は、やがて遠くに我が眼差しを捉えると嬉しそうに微笑んだ。唇は何か形作ったものの音はついてこなかった。

 全き幸福の中に廖馥はいた。飢えも痛みも、もう何ら彼女を縛るものはない。その身を汚すことはできない。時の軛から解き放たれたばかりの命が、歓びを抑えきれぬように軽やかに踊っていた。

彼女はそっと手招きする。

―――さあ、早くこちらへ……

 その声が、その言葉が、今度ははっきりこの心に響いた。

 だが、俺は目を背けた。我が身を惜しんだのではない。彼女を、廖馥を喪うことに耐えられなかったのだ。たとえ身体の自由を失い泥と汚物にまみれていようとも、それはこの世に生きているただ一人の廖馥であった。

 それから数日か数十日か……どれほどの時間であったか分からぬ。俺は里から盗んできた椀を咥え、川と彼女が横たわる茂みを日に何度も往復した。彼女は瞳の奥に桃源を映したまま、それでも俺の我儘に付き合ってくれたよ。かろうじて水だけを通す喉はみるみる痩せ細り、仰臥したままの肉体はやがて頭の傷のみならず血の巡りの滞った背側から腐臭を漂わせはじめた。

 初めて山に霜が降りた或る朝であった。目覚めると廖馥もまたちょうど夢から戻ってきたところであった。その顔には朗らかな微笑みが浮かんでいる。満ち足りた、春の訪れを頬に感ずるような顔色であった。

 ようやく、俺は彼女がもうこの世にはいないのだと悟った。あちらこそが帰る場所であり、本来いるべき場所なのだ。夢というなら今目の前にあるものこそが、束の間に見る夢なのだろう。

―――しばしの間、そちらで待っていてくれるか。後で必ず行くから

 胸の内でそう語り掛けると、彼女はゆったりとした瞬きで応える。薄く潤んだ瞳が、さざ波の立つように小さく揺れていた。

 彼女の頸に牙を立て、その脈が次第に弱まるのを感じる。口の中に温かな血が満ち、しかしあんなに甘美だったものが、今や酔いの醒めたように味を失っていた。 

 肉の強張りも震えもなく、廖馥の身体は初めから弛んだまま、痛みも苦しみも知らぬらしかった。脈は消え失せ、最後に残ったのは鳥の羽で(つづみ)を拍つような、弱く遠い心の臓の音だった。

 そしてやがてそれも凪ぎ、息の伴わぬ深い息をひとつ吐き、廖馥は絶命した。 

 静かであった。辺りを見回しても彼女が生きていたつい先ほどまでと、彼女が死んだ今と、森の中は何も変わらない。それは酷く理不尽なことに思われた。彼女が死んだのだ。そこらの犬猫が死んだのではない。廖馥が死んだのだ。だのに誰もそれを嘆こうとしない。悼もうとしない。こんなことが許されるだろうか。

 見開かれたままの少女の瞳は塗り込められたように黒く、もう何物も映してはいない。この虎の手では瞼を閉じてやることすらできぬ。己にできるのは目尻から伝った涙を舐め、せめてその骸が山の獣に荒らされぬよう見守ってやることくらいだった。  

 雪の肌が、日を経るごとに横たわる土に染められるように色を変えていく。それとともに、痩せ窪んでいた腹が内から腐る腸の臭気で膨らみ始め、臨月の女を遥かに超えて張り出し、とうとう鈍い音を立てて弾けた。その頃になると全身が流れ出る体の汁に溺れるように(ほと)び、皮はその下の肉から脱ぎ捨て去られるがごとくであった。

 凄まじい腐臭が周囲に満ち、あらゆる森の生き物たちを呼び寄せた。鳥や獣たちは我を恐れ遠巻きに隙を窺うのみであったが、無数の蟲たちを防ぐ術はなく、遺骸はすぐにびっしりと群がった無数の蟲であたかも全身を黒い布で包んだようになった。

 が、今となってはそれはむしろ感恩すべきことのように思える。

 少しずつ、黒い骸布(がいふ)の膨らみが萎んでゆくのが分かる。そして全身に蛆のやや黄みがかった色が目立つ頃になると、臭いもいくぶん和らぎ、所々に真っ白な骨がのぞくようになった。

 そもそも、その鋭い爪で穴を掘り彼女の墓としてやれなかったのかと、君は訝しむやもしれぬな。できることならそうしてやりたかった。しかし、死ぬゆく彼女の傍についていた間に、我もまた生き身ながら死の方にずっと馴染んでいたらしいのだ。

 気付けばこの身体は人の肉はおろか木の実ひとつ欲しなくなっていた。

 胃の腑の空である自覚は常にある。が、それは喰らわんとする欲と結びつかず、強いて言えば時々思い出したように喉が水を求める程度。故に飢えることを知らぬまま、この身体は徐々に痩せ細っていった。

 体力の衰えとともに我が身はより多くの眠りを必要とするようになり、廖馥の骸の傍らで眠るその間、彼女は待ちかねたようにいつも夢に俺を訪ねてきた。嗤ってもらって構わぬが、夢の中で俺はかつての人間李徴であり、しかも君と出会った頃のような若かりし姿であった。我々は並んで座り、土に還ってゆく骸を眺めながら様々語り合った―――互いの来し方、人として生まれ為したこと、成せなかったこと、あるいはあの嵐の日何が起こったのか……。

 彼女は饒舌だった。生きていたときは叶わなかった話すということが、面白くて仕方ないというふうだった。その鈴の優しく鳴るような声を隣で聴きながら、我が心はこの上ない安らぎを覚えていた。たとえ夢の中だけであっても、死を前借りする形であったとしても、この息があるうちに斯くのごとき平安を得たことは、自分にとって大きな救いであった。

 だがそれだけに、今や毛髪だけを残し全き骸骨となった彼女の姿を見るにつけ、ひとつの不安が(きざ)すようになっていた。

―――本当に俺は死ねるのだろうか?

 彼女が死んでからどれだけの日が過ぎたのか。いくら湿潤で腐敗が進みやすい条件とはいえ、一個の人間の遺体がこのようになるまで、こうして生きて見届けることになるとは思っていなかった。本来なら疾うに餓死し、彼女とともに我が身体も蟲どもへ供しておらねばおかしいはずだ。

 ところが、生きている。少しずつ、確実に衰えはしながらも、命数の尽きる予感はいっこうに訪れない。より実感に近く言うなら、生と死、いずれからも見放されたような凍える恐怖を意識せざるをえなかった。ひょっとしたらこのまま身体の自由だけが利かなくなり、かといって朽ち果てることも叶わず、己はこの森の奥で生ける岩のごとく風雨に晒され苔生しながら、永劫の時を過ごすのではないか。

 だから、だ、袁傪。過日、当地で山狩りの一隊に捕えられた際に胸を満たしたのは、ただひたすらの安堵であった。戯言ではなく、三途の渡りに舟を得た気分であった。これでようやく死ねる、素直にそう思った。

 運命などというものの在りや無しや、しかし不思議なものだな。さっさと屠られるものとばかり思っていたら、こうして再び懐かしい都の空気を吸い、のみならず君との邂逅に恵まれるとは。

 君にしてみれば決して気持ちの良い仕事ではなかろう。それでも、有難うと言わせてくれ。

 初めて出会った時、君はすでに人の道を外れていた自分と人間らしい友誼を結んでくれた。のみならず今日までそれを忘れず棄てず、我が妻子に対しても過分な御厚情を頂いている。

 そして今、永久に続くかと思われた苦しみから我を解き放ってくれようとしている。己の為してきたことを顧みれば、このような恩倖の全く相応しくないことは承知している。死すら(あたい)せぬこの獣に賜った数多の大恩に、この李徴、報いる術なくただこの通り頭を垂れるばかりだ。

 ……すっかり喋り過ぎてしまったようだな。もう言い遺す何物も残ってはおらぬ。さあ、もう朝が近い。刑場では虎として振る舞わねばならぬだろうから、今のうちに(なが)の別れをしておかねばなるまいな。

 さらばだ、袁傪。どうか君の健勝と栄達の末永く続かんことを。この身は滅び露と消えようとも、ここではない世からずっと祈っているよ」


 李徴、ここから逃げたくはないか? 君が望むなら、私は自らの地位と引き換えにでも手助けをするつもりだ―――本当はそう申し出るつもりだった。しかし斯くのごとき顛末を聞いてしまった後では、もはや詮無きことであった。

「それでも……だがそれでも……」袁傪は絞り出すように言葉を継いだ、「私は君に生きていてほしいのだ。君は我が友李徴だ。詩人李徴なのだ。私の机にある君の詩集には、類稀なる感受性に恵まれると同時に呪われて生きたひとりの人間の心の相克が、ありありと刻まれている。君は先に語る中で自らの詩業を軽んじ卑下したが、私は断じてそうは思わぬ。

 私には分かる。たとえ狂気に囚われようとも、君は力を尽くして闘ったではないか。人生を賭して詩に打ち込み、己の芸術の()さによって自らの心を善くあらしめんと努めたではないか」

「かたじけない。いま君の評を得てどんなに誇らしいことか。百万の読者を持つよりも、ただ一人の理解者を得たこと。それが袁傪、君であったこと。どんなに有難く思っているか。

 だが……、振り返って思えば、それこそが俺の限界であったのかもしれぬな。俺は詩を自らを救う手段にしようとした。詩を詠むこと、この世界の内奥の秘密に言の葉で触れる試み自体を、目的とすることができなかった。それ故とうとう詩に振り向いてもらえずじまいだったのだろう」

「そんなことは…」

「いや、よいのだ。もうよいのだよ」李徴は微笑みらしき表情を虎の顔につくろうとする、「すべてはもう過ぎ去ったことだ。後悔はない。―――ところでそうだ、俺のような三流詩人のことよりも、今この長安ではどんな詩が人口に膾炙(かいしゃ)しているのか、ひとつ教えてはもらえぬか。冥土の土産にするゆえ」

「流行詩か…そうだな……」袁傪は李徴の朗らかな調子と意外な願いに若干戸惑いながら、「では数年前のものだが、今や朱雀門の内では知らぬ者の少なかろう詩を口ずさんでみるとしようか。君は面識があったろうか、あの杜甫の作だ。


国破山河在 城春草木深

感時花濺涙 恨別鳥驚心

烽火連三月 家書抵万金

白頭掻更短 渾欲不勝簪


「―――ああ! 詩だ!」李徴は熱っぽく声を高くした、「これこそが詩だよ袁傪! 誦ずるに音端麗にして温雅、詩義は世情と私情を遠近自在に捉えて全く破綻なく共鳴させている。なんという力業! なんという絶唱であることか! こんな詩を生涯にたとえ一篇でもものせるのなら、この命などいつでも喜んでくれてやったものを……。無念だ、愛したものに愛されぬというのは実に無念なことだ」

 李徴は泣きはしなかった。しかし袁傪には李徴の心が流す涙が見えるような気がした。悟りきったような容子の一方で、心中にはいまだ燻っている残滓がある。恥ずべきことではない。それが人というものであり、故にこの親友があくまで人間として生きたと信ずべき、ひとつの証左にも思えた。

 袁傪は中座すると、すぐに水差しと盃二つを抱えて戻ってきた。

「久しぶりに一献どうだ。ただの水ではあるが、酒と思って呑むことにしようじゃないか。空が白んだって構うものか、昔はよく朝どころか昼まで呑み明かしたものだった」

 努めて明るいその口調に応えるように、李徴も大きくひとつ頷き、「頂こう。そういえば、最初ここへ入ってきたときの『すでに虎になっている』云々は良かったな、思わず吹き出しそうになるのを堪えるのに苦労したぞ。君は昔から堅物のように見えて、いつも可笑しなことを言っては気鬱な俺を笑わせてくれたな」

「吹き出せばよかったのさ。朋友(ともだち)じゃあないか、私たちは」

「そうだな……そうだ、君の言う通りだ。ただ笑えばよかったのだな」

 が、たとえ本物の酒を何盃(あお)ったとて、少しも酔えはしなかったであろう。彼らは互いの死に水をとるがごとく唇を湿らせただけで、もはや一言も発することなく目礼でもって別れた。

 一番鶏(いちばんどり)が鳴き、今日が始まる。誰かにとっての何気ない一日、そして誰かにとっての永遠の一日が。

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