表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/9

04-3

(承前)



 深い息をつき一旦そこで言葉を切った李徴は、一杯の水を所望した。久しぶりに操る人語は少なからず彼を消耗させるようだった。

 小屋の外ではすっかり酔いの回った衛兵たちがどっと笑う声が聞こえる。ぺろぺろと器用に水を飲む友の姿を間近にしながら、袁傪は友誼というものについて心を暗くせずにはいられなかった―――いったい自分はこの男の何を知っていたのだろう。たった今も幼稚な憶測によって君の本性を暴き理解した気になっていたのだ、出会った頃からその身の内にあった君の苦しみに気付きもせず。結局、私は悦に入っていただけなのかもしれない。孤立しがちな君にさりげなく寄り添う心優しい自分……そんな自己像に浸っていただけなのかもしれない。本当はずっと、心の何処かで上手く世を渡ってゆけぬ君を嘲笑っていたような気さえする。己の方が君に多くを与えていたつもりが、実際は何も与えずただ奪い続けてきてしまったのではないか……。

 袁傪が伏せていた目を上げると、すでに椀を空にした李徴がまっすぐ、静かに彼を見つめていた。そしてこくりと励ますような頷きをひとつ送ると、ふたたびその虎口を開いた。

「そのような事情があったのなら、知り合ったときにも四年前にも、何故そう言ってくれなかったのか、どうして嘘をつく必要があったのかと君は思うかもしれない。互いに胸襟を開き終生の友としての絆を結んだつもりになっていたのは自分だけであったかと、気を悪くしているやもしれぬ。

 だがそれは逆なのだ、袁傪。君との友情を掛け替えのないものと思っていたからこそ、俺は真実を告げられなかった。幼少の(みぎり)より他者と打ち解けなかった俺にとって、君は初めて気心の通じたと思える唯一の友であった。天才の名声よりも科挙の狭き門を潜ったことよりも、俺はこの都で君という親友一人を得たことの方がずっと嬉しく誇らしかった。

 そんな大切な友に、この身の内に巣食う狂気を晒すことは到底できなかった。君と酒を酌み交わし馬鹿話に興じながら、己の手の血に汚れていることを覚られはしないかとただ不安だった。四年前もそうだ。もし俺が虎の身のまま常に自我を保っていることを知れば、君のことだ、折に触れて俺を訪れてくれたことだろう。その過程できっと俺が女だけを襲っていることに気付くはずだ。そしてそのことから昔の噂を連想することだろう。俺にはそれが耐えられなかった。かつて人間の姿であったときからすでに俺が獣であったと君に知られてしまうことが怖かったのだ。そこで俺は自分が詩によって狂い、日々理性を失いつつあるという物語を仕立て上げ君を遠ざけようとした。へぼな詩を書き取らせてまでな。

 赦してくれとは言えぬ。だがせめて有難うと言わせてくれ。君との出会いでどれだけこの心が救われたことか、この感謝は……いや、感傷に浸るのはよそう。話を先に進めねばなるまい。四年前の君との邂逅から今までの事、そしてこの痩骨についても語っておくべきだろう。

 あの日君と別れてからも、俺はただ己の命を繋ぐために他人の命を奪い続けた。もはや良心の呵責というものは感じなくなっていた。かつて人間であった頃、器の上の肉が元々は生き物の身体の一部であったと頭では分かっていても何ら痛痒を感じなかったように、今や自分にとって人とは肉であり食料にすぎなかった。

 やがて石像の風化しその輪郭を失うに等しく、時とともに心そのものが摩耗し、鈍麻していった。精神だけが駆け足に年を取ってゆくような、しかもそれを感ずるのもまた精神なのだから始末が悪い。すべてが曖昧模糊として境を失い、解けていく。皮肉にもかつて君に聞かせた作り話の通り、俺は全き一個の虎に近付きつつあった。

 暦を忘れて久しく判然とせぬがおそらく三、四ヵ月ほど前、夏の初めのことであった。俺はしばらく狩場としていた漢陰県中の某山に身を潜め、路傍に獲物の通りかかるのを待っていた。いきなり余談だが、俺にとっての狩りはどこでも気ままに為しうるものではなかった。人里から遠すぎず近すぎず、人気(ひとけ)はないがときおり人が通りかかり、この身を隠すことができて川からも程近い。そのような場所はありそうで意外に少なく、良い狩場を探すのに苦労したものだ。

 それはまだ日の南に高い時分、疎らに虫や鳥の鳴く外はしんと静まり返った山中遠く、一人の女の声が聞こえてきた。声色から察するに四十がらみか。俺は脚の草叢に擦らせる音も微かにそろりとそちらへ歩を向けた。

 少しずつ近づくにつれ、声は繰り返し人の名を呼んでいるらしい。おそらく自身の子、それも幼子であろう様子は狼狽した調子から容易に聞き取れた。さては逸れた我が子を探しているところか、だとすれば子の方も……空腹に痺れた俺の頭は早くもそんな皮算用を始めていた。

『リョウフク』と、女は必死に呼ばわっていた。音からして广まだれの『(りょう)』に香部(こうぶ)の『(ふく)』とでも字を当てるのであろうか、今となっては確かめようがない。草叢から飛び掛かった俺が、命乞いをする暇も与えず母親を噛み殺してしまったのだから。

 半分近くをその場近くで喰らいひとまず空腹の虫を落ち着かせると、女の衣服を包み代わりに残りの肉を当時寝床にしていた小さな山窟へ咥えて帰った。そして満腹と久方振りに飢えから解放された安堵から、俺はまだ日も高いうちからとろとろ寝入り、目覚めたときには辺りはすっかり暗くなっていた。横たえていた我が身体を何の気なしに起こそうとすると、腹に思わぬ重さを感じた。喰ったものが重いのではない、腹の上に何かが乗っていたのだ。驚き飛びのいた俺は全身の毛を逆立て、虎らしく唸って威嚇した。塗り込められたような山の夜闇の中でもはっきり分かった。腹に残る温もりは生き物のそれだったのだ。

 だが唸っても哮っても、その生き物からは反応がなかった。正直なところ俺は困った。人でも獣でも、この虎の姿を間近にして平静を保っていられる者にそれまで出会ったことがなかったからだ。しかも耳を澄ませば()()はどうやらぐっすりと寝息まで立てているようではないか。

 おそるおそる歩を寄せ、鼻を近付ける。血と肉の強い匂いがした。先ほど殺した女の衣だ。そしてそれに混じった別の匂い……。

 人間だ。別の人間の女、それもまだ年若い。

 合点がいった。しかし不可解でもあった。先刻殺した母親の声色は幼子を呼ばうときの丸く甘たるいもので、まだ物心つかぬ童女がすでに秋近い夕べにたまさか見つけた我が毛皮に温もりを求めたというのなら百歩譲ることもできよう。しかし匂いから察するに、この娘はたしかに若いが幼くはない。無知故に猛獣を恐れぬ頃はとうに過ぎている。

 いったい何者なのか。仇を討とうとするでもなく、あまつさえ枕代わりにするとは……。満腹も手伝って食欲よりも嘗ての人間としての好奇心が勝った俺は、その場で娘を殺すことはせず夜明けを待つことにした。どうせなら目を覚ました際の驚く顔も見てみたい、元のごとく娘の身体を包むように丸くなり、俺は再び眠りについた。

 翌朝、白んだ森の光と群がる蠅の羽音に瞼を開くと娘の姿がない。傍らには赤黒く染まった昨日の母親の衣服が、洞穴の入口にはその手足が散らばっていた。

 さては逃げられたか。塒から出てみすみす糧を得る好機を逃した酔狂を悔いていると、突然、目の前の藪のがさがさ鳴る音とともに一人の人間が飛び出てきた。

 あっ! と虚を衝かれた俺は危うく人としての声を上げるところであった。そんな俺の様子を見て、娘はケタケタ笑っている。顔身体、着物のあちこちにこびりついた血糊にも、乱れた長い髪に絡まった枝や葉にも、何より眼前に転がっている肉塊にも、頓着する気配は露見られなかった。

 母親の変わり果てた姿を目の当たりにし気が触れたか。年の頃は十五、六といったところ。目鼻立ちは整って肌も雪の白、齢にやや釣り合わぬ化粧(つくろい)瀟洒(しょうしゃ)な着物の崩れを直してやれば、すでに十分な美婦の兆しがあろう。

 しかし当人に美醜や恥じらいといった分別がないことは明らかであった。急に思い出したように真顔になると、少女は裳を手繰り上げて陰部を晒し、突っ立ったまま放尿し始めた。

 俺は呆気にとられてその野生を眺めていた。この娘は昨日今日狂ったのではない、生まれついて知恵が遅れているのだ。自分の中の理性が、あるいは狂気がそう教えていた。

 今、ここで殺す―――それが最も善いことのように思われた。いづくの令嬢かは知らぬが、この痴愚で独り乱世を渡ってゆくことは到底できまい。ならば親子ともども我が牙に掛けるのがせめてもの情けではあるまいか。

 用を足し終えた娘は幼児のように親指を咥えながら傍らにしゃがみ込むと、足下に転がっている母親の右足に気まぐれな興味を移していた。意を決した俺は、一足飛びにその側面を襲い押し倒した。そしていつものように喉元に牙を立てようとしたその時……、この耳を(つんざ)いたのは娘の甲高い泣き声だったのだ」

「泣き声?」それまで聞き入っていた袁傪が思わず反応した。

「ああ、泣き声だ。幼子が、いや赤子が全身を声にして泣くがごとく、娘は泣いた。今君が正しく意外の感を抱いたように、まさに命を奪われんとするに及んで啼泣する者に、俺は虎となってこのかた出会ったことがなかった。無論ほとんどの狩が涙一粒こぼす暇も与えず終わるというのもあるが、我が巨体に組み伏せられ我を見上げる双眸は恐怖に凍り付いているのが常であった。

 だが、娘は泣いていた。しかもおそらく眼前の獣や自らの死を恐れて泣くのではなかった。まるで兄弟(はらから)にでも()たれた時のように、言うなれば単に癇癪(かんしゃく)を起しているのであった。

 俺は気圧された。単純な、純粋な、剥き出しの感情の発露が我が決断を圧していた。すでに獣形に堕して久しく、このごろでは或る大きな摂理――自然とでも呼ぶべきものにこの身を委ねたつもりでどこか安心していた己がいたものだ。しかしそれが錯覚であり、甘えであったと気付かずにはいられなかった。自然というならこの娘こそ自然そのものであった。所詮、俺はこの卑小な自我を捨てきれぬ。狂いきれぬ。人にも獣にもなりきれず、この世の理の境を漂う生身の幽鬼に過ぎぬ。

 恥辱と劣等感に牙を折られ、どれほどの間その場に立ちつくしていたろうか。気付けば我が身体の下で仰向けになったままの娘が、今度はにこにこと機嫌良く俺の髯を引っ張り戯れているではないか。

 もはや殺意は失せていた。そして不思議なことに、その後どんなに空腹に苛まれようとも、この娘に食欲が向かうことはなかった。異民族の中には狂人を神懸かりとして崇める風習があると聞いたことがあるが、大げさに言うのならそのようなある種の畏怖にも似た感情がこのとき芽生えていたのかもしれぬ。

 こうして、少女との奇妙な生活が始まった。

 ところでそう聞くと、ひょっとしたら君は斯様に想像するかもしれぬな。すなわち、野に放たれた飼い猫があっという間に野生に還るように、俺の傍で暮らすことで少女がより一層人間らしさを失っていったと。俺自身、初めはそうなることを予期したものだ。

 しかし、山は彼女を思いもかけぬ風に変えていった。絶えず跳ね回り、飛び回り、喚き、嗤い、泣き叫ぶ……出会った当初はそのように荒れ狂っていた身体と情緒が、時とともに少しずつ落ち着きはじめたのだ。悪い夢を見るのか夜も洞穴で俺の毛皮にしがみつき魘されていたのが、日を経るに従い深い眠りに安らぐようになる。穏やかな寝息を夜闇に聞いていると、間違って寝言に何か(さか)しいことでも口走るのではないかと思ったものだ。

 だが、かといってそれは君たちの言う意味での「理性」が芽吹いたのでもない。歪に()めようとする力が失せたことで、すでに立派に育っていた命が本来の形を取り戻し始めただけのことだ。

 森の他の生き物と同じく朝の陽とともに起き出し、川の水で渇きを潤し、少女はよく遊んだ。生まれて初めての自由を謳歌しているようでもあった。俺は彼女が周りでうろちょろするのに任せ、付かず離れずその様子を見守っていた。……そうだな、少なくとも「見ていた」というよりは「見守っていた」と表すべきであろうか。故郷に残してきた幼い娘の面影を、この少女に全く重ねなかったといえば嘘になろう。空腹から目につく物なら何でも口に入れようとする彼女のため、山道に旅人を驚かしてはその放り出した荷を漁り、また我のみならば決して下りぬ人里に忍び入り、穀物を盗んできたことも一度や二度ではなかった。髪を梳くことも火を(おこ)してやることもできぬこの獣の手で、気付けば滑稽にも親の真似事をしている己がいた。

 さて、そうこうするうちに不可解なことが起こるようになった。時折、俺が洞穴で午睡から醒めたときなど、傍らに少女の姿がない。川に水でも求めに行ったか……そう思って待つともなく待っていると、やがてちゃんと帰って来る。おかしいのは、時折その手に大根やら芋やらの食物が握られていることだった。

 どうやって手に入れたのか、この娘を相手に言葉で問うことは用をなさぬ。だが一見して分かるのは、彼女が嬉しそうにそれらを俺に示し、共に食べるよう勧めているらしいことだった。

 盗みを働くほどの知恵はない。となれば大方その辺りで出くわした物売りなどが、憐れみから少しばかり施してくれたのであろうと最初は気に留めなかった。しかし同様の事が何度となく繰り返されるとさすがに不審に思えてくる。より奇っ怪なのは、時に食料ではなく金子(きんす)を持ち帰ることがあり、しかもそのたび頻りにその金を俺に渡そうとすることだった。

 ……君にはもう話が見えているものらしいな、袁傪。この時世に生きる人間であれば当然であろう。だがもはや人とはいえぬ俺は、すぐにそのことに思い至らなかったのだ。

 或る昼下がり、眠り込んだふりをした俺は、案の定ふらりと出掛けて行った娘の後を尾けた。山道まで下りた娘は道端にぺったり座ると、ぼんやり虚空を眺めたり、かと思うと鼻唄交じりに土に模様を描いてみたり、何をしているのかと俺は半ば微笑ましい気持ちで藪の中からそれを覗っていた。

 しばらくして、山頂の方から一人の農夫が下ってきた。ひょろりとした猫背に薪を負い、かいていない汗を拭った顔には無関心を装いながら娘の視線を意識せずにはいられぬ幼さがある。

 と、すっくり立ちあがった娘が、目の前を通り過ぎる若い男の腕を掴んだ。ぎょっとして立ちすくむ男。すると娘はその腕を強引に自分の胸元に突っ込んだ。

「なっ…、なんじゃ!」

 青年は慌てて腕を振り解き、勢いの余り危うく尻もちをつくところであった。応える言葉を持たぬ娘は白い胸のはだけたまま、口元にもっていった自分の手で物を食む仕草をして見せる。

 はむ、はむ。はむ、はむ。

「な、な、なんだっ、食うもんなんかねえ!」

 男はこぼれた薪も拾わず、一目散に細い道を逃げ下って行く。娘といえば碌に襟も直さず何事もなかったようにまた道端に腰を下ろして土を弄りはじめた。

 あっという間の出来事であったが、事情を悟るにはそれで十分だった。

 娘は遊女であった。これまで身体を売って生きてきたのだった。過日俺が喰い殺した女、本当に母親であったと思いたくもなかったが、あれがこの子を飾り立てて商売をさせていたのであろう。山中で目を離した隙に消えた商売道具を探していたというわけだ。

 やがて通りかかった二人組の翁を同じように吃驚させた少し後、三番目に立ち止まらせた壮年の山賤(やまがつ)らしい男は、大して驚きもせず彼女の言わんとすることを飲み込んだようだった。

「お前、(おし)か?」

 あむ、あむ。

「いや、気が触れとるんかな」男は手を入れたままの娘の胸の感触と周りの様子をちらりと確かめた上で「食い物は持ち合わせとらんが、払いは銭で構わんか?」

 はむ、はむ、はむ。

 うむ、と独り頷いた男は娘の手を引き、山道をはずれ茂みの向こうへ分け入っていった。

 引け目―――洞穴へと踵を返した俺の心に去来した感情を名状するとしたら、あれはやはり引け目であったのだと思う。おそらくあの娘は今自分がされていることの意味すら知るまい。知っているのは男に己の身体を好きにさせれば飯がもらえるということだけだ。そしてそれだけが、あの者がこの世と関わる術なのであろう。

 卑しいことだ。愚かなことだ。だが卑しくとも愚かしくともひとつの方途に忠実であること、自分にとってのこの現世(うつしよ)が揺るがぬこと、それこそがかつての人間李徴をして最も欠いていたことであった。

 真夜中、月明かりの射し込む洞穴の隅に少しずつ嵩を上げてゆく金子(きんす)を見、まだ微かに男の臭いの残る彼女の体温を我が横腹に感じながら思う。実のところ、俺はもっと以前からこの娘が身体を売っていることに気が付いていたのだろう。人の知恵と獣の嗅覚が組み合わされば直ちに推し量れるはずのことから、目を背けていただけなのだ。

 ……許せ、話が少し逸れたようだな。先を急ぐとしよう、夜明けはもう遠くない。

 山の短い夏はとうに過ぎていたが、その日は未明から温く湿った風が斜面を吹き上げては低い雲を生み、足早に北へと押し流していた。朝に狩へ出たものの、獣の勘というより人としての経験からまだ遠い嵐の到来を予感した俺は、午過ぎには巣穴に戻ることにした。いつもより早く帰ってきた玩具に大はしゃぎの娘にひとしきり付き合った後、今度はころりとこの腹を枕に寝息を立てはじめたのにも合わせ、自分もまたいつの間にか岩窟の奥で眠り込んでいた。

 不意に目を覚ますと、夢の中よりも暗い闇があった。鼻先も分からぬ宵闇であった。

 しかしこの目で確かめるまでもなく、洞穴の外では切っ先鋭い雨風が唸りを上げて木立という木立に打ちつけ葉を飛ばし枝を折り、幹を軋ませてはときおり洞穴の入口で甲高い笛を吹き鳴らしていた。

 やはり嵐になったか、そう思いながらふと我が方を向くと、娘の姿がなかった。

 瞬間、意外なほど狼狽(うろた)えている自分がいた。飛び起きた拍子に頭上の岩で頭をしたたか打ったのも構わず、狭い巣中の暗闇を腕で掻き、匂いを探る。確かに娘は消えていた。

 我が毛皮に残る匂いはごく薄く、おそらく日暮れ前か、娘がこの洞穴を出てからすでにたっぷりと時が過ぎていることを告げていた。

 嫌な予感がした。いやしかし、思い過ごしかもしれぬ。ひょっとしたら嵐を面白がっていつものように巣穴の前で遊んでいるのかもしれぬ。見えないと分かっていながら外を覗うと同時に、突然の稲妻が夜闇と我が願いを打ち消した。刹那に映ったのは四方八方に捻じ曲げられた梢に囲まれ、ぽっかりと役者の去った舞台のようになった空隙であった。

 本能の制止を振り切って、俺は夜の嵐の直中へ飛び出した。目と鼻が利かぬ今、頼りは脚が憶えている道筋と気まぐれに閃く稲光、それから袁傪――あの日君と語らって以来発していなかった人語だけだった。

 大声でなんども娘の名を呼ばわりながら泥濘に脚を取られ斜面を転げつつ川近くまで下ってゆくと、幅も高さも普段の三倍になろうかという濁流が轟音とともに激しく山裾を削っていた。

 魚も溺れそうな奔流に沿って娘の行方を捜す。否、途方に暮れて彷徨っていたと言う方がよいか。それでもひょっとしたらそこらの木陰に雨風を避けて隠れているのではないかと、目を凝らし耳を澄ませ川際をしばらく往復した。

 やがて水嵩を増す続ける流れに追い上げられるように再び山に入った俺は、その後も自分の巣穴への帰路も見失ったまま上へ下へ、右へ左へ一晩中娘を捜して歩き続けたものの、ついにその姿を見つけることは叶わなかった。

 そして夜明けとともに嵐は去り、芯まで濡れた毛皮の重さを引き摺るように洞穴まで這い上がって来たが、やはり娘の戻った形跡はない。曙光(しょこう)の下もう一度捜しに出ようと気ばかり急くが、もはや爪先ひとつ動かす力さえ残ってはいなかった。

 焼けるような喉の痛みとともに気が付いたときには……すまぬ袁傪、珍しく喉が渇く。水をもう一杯もらえぬだろうか」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ