04-1
四
再会した主人の前に跪き自らの失態を謝した素儀であったが、無論袁傪が罰を下すことはなく、むしろ忠臣に報いるに十分な褒賞を約しその働きを労った。
虎は檻のまま、城内の一隅でかつて飼い葉を積んでいた襤褸小屋に据え置かれた。本来ならば袁傪こそが誰よりも早くここへ駆けつけたかったであろうことは想像するまでもない。しかし刑部の長としてまさにその訪う相手を処刑する準備に忙殺され、また小屋の警固を管轄する兵部との軋轢を避けるためそれなりに事前の調整も必要であり、ようやく足を運ぶことができたのは刑執行の前夜、それもずいぶん遅くなってからであった。
付き従うのは素儀と他の家人が二名のみ、あくまで私的な訪問として警護は付けなかった。ここ数日の冷え込みも手伝って、昨晩から虎一匹に寝ずの番を強いられている衛兵たちの士気は低い。素儀らが挨拶がてら詰所に酒を振る舞うと、皆喜んで呑みはじめた。
小屋の前に立ちながら詰所で始まった宴会が気になって仕方ない当番の兵卒らにも微笑交じりの黙許を与えると、袁傪は提灯を片手にひとりで小屋の中へ入っていった。
広い間口の戸を閉め切ると、塗り込められた闇に藁の残り香が懐かしい。故郷、陳郡の厩の匂いだった。しかし今は郷愁に浸るときではない。掲げた灯りをゆっくり左右に振ると、格子の太い檻の端が左手に覗いた。
―――あそこか…。
そろりとそちらへ足を向ける。
と、闇の奥から
「グルルルルル…」遠雷の微かに鳴るような唸り声がした。
びくりと本能が足を止めさせたが、袁傪はまた歩を進める。次第に灯りは檻の前方を照らし、次いでその奥行きを仄明るく捉えた。
虎は、その巨体を檻の奥に横たえたまま、頭だけ擡げてこちらを窺っていた。
十二尺……いや、ひょっとすると十三尺(4m)に近いのではないか。間近にしてみると異様の感さえ覚える巨躯であった。全体としても大きいが、瞳、耳、口、脚、爪、尾……身体のどの部分を取ってみても大きい。背側の橙色と腹側の白の対比が見事な毛皮には、頭から尾まで極太の縞模様が連なっていた。
―――なんと立派な……。
しかしそれだけに、痩せ衰えた姿も目立って見えた。
浮き出た肋骨、骨筋張った四肢、細った胴体とは不釣り合いに大きさを保った頭部。提灯の光を檻に触れるほど近づけてみると、毛並みの悪さはやはり隠せなかった。
「グルルル……ガウルルルル………」
やおら起き上がった虎は白く鋭い牙を剥き、尾を鞭のようにしならせながら檻を隔てたすぐ傍までにじり寄って来る。長い舌が異様に赤く湿っていた。
「痩せたな、李徴子」
「ガルルル…」
「だが、思ったよりも息災のようだ」
ガッ! と、咆哮と巨体の檻にぶつかる音が同時に響き、まもなく後ろで小屋の戸が開いた。
「旦那様! 御無事で⁉」
「素儀か。心配ない、大丈夫だ。すまぬがしばらく誰もこの納屋に近づけぬようしてくれるか」
「御意…」
静々と戸が閉められると、袁傪は傍らに放ってあった低い床几を檻の前に置き、腰掛けた。払った埃で虎がひとつ嚏をしたので、袁傪は思わず小さな笑みを浮かべた。
「いや、これは失敬。まあ楽にしてくれ。本当なら酒でも酌み交わしたいところだが、君は呑まずしてすでに文字通りの大虎になっているしな」
虎はそれ以上檻を軋ませることなく、飽きっぽい猫のような気怠さで頭を袁傪の足元に、尾を檻の奥にする形でその場に横たわった。
「虎よ、お前のことを『李徴』と呼ばせてくれるか。かつて若き日にわたしの親友だった男の名だ」
虎は静かに寝そべったまま、見開いた瞳に提灯の灯りを映している。
「今こうしてお前の姿をよく眺めるに、わたしにもお前がかつてのあの李徴であるかどうか、判然とせぬ。そうであるような気もするし、そうでないような気もする―――ああいや、昔わたしが虎と友誼を結んだというのではないぞ。李徴は歴とした人間だ。人間だった。しかしあるとき虎に姿を変えてしまったのだ。自分の意志とは関係なく突然に、な。
その虎となった李徴と再会したのが四年前、わたしが勅使として嶺南へ赴く途中のことであった。ちょうどお前のような、大きく立派な虎だった。
人が虎になることだけでも驚きだが、さらに驚くべきは彼が姿を変えてもなお人の心を保っていたことだ。わたしは四年前、草叢を隔てて虎である彼と言葉を交わし、その来し方を聞いた。そして行く末についても。
曰く、彼が人としての理性と知性を保っていられるのは一日の内にわずかの間、しかもその時間さえ次第に短くなっているのだという。彼は人間としての自分の死期が近いことを悟り、遺言代わりの詩数十篇と妻子の後見をわたしに託し、林の中に姿を消した。とまあ、掻い摘んで話すとこういう事なのだが、お前にはあまり興味のない話であろうな」
傍らに横たわる虎は、いちおう眼は開いているものの胸を上下する息はゆっくりと深く、ほとんど眠っているようにも見えた。
「長旅で疲れていような。眠たければ目を瞑っても良いのだぞ。だがそれでも虎よ、もう少しだけ勝手に喋らせてくれるか。あまり邪魔にならぬよう、声の高くならぬよう気をつけるゆえ」
蛇腹の提灯を虎の顔から少し遠ざけ地面に置いた袁傪は、檻に対して床几ごと横向きに座りなおすと、剥き出しになった蝋燭の火に両手を翳してささやかな暖とする。小屋の中の闇は大きくその領分を取り戻した。
「ところで李徴、四年前に商於の林中で君の話を聞いたときから、わたしの頭の中にはいくつかの疑問があったように思う。それは初め、自覚するのさえ難しい微かな違和感に過ぎなかった。また今日まで続く大乱によって、ものを考える余裕などなかったのも確かだ。
しかし、作物の種が一時地中に眠り芽吹きのときを待つように、わたしの中にはその小さな疑問の種が消えずに残り続けていた。
そして今なら分かるのだ。自分があのとき何を疑ったのか」
前屈みに視線を落として語る袁傪は、傍らの虎というより掌中の灯りに向かって語りかけているようにも見える。
「いや、正しくはあの日君と再会する少し前、残月いまだ色濃い夜明け前に宿を出立する際、彼の地の駅吏と言葉を交わしたときからそれは始まっていたのだ。
今でもはっきり憶えている。彼はこのように我々に忠告したのだった。
『このまましばらく駒を御進めになると、道は林に入ります。そしてその林中には近ごろ一匹の人喰い虎が住みついているのでございます。旅人は白昼でなければ決して通ることはできませぬ。危のうございますゆえ、どうか明るくなるまで今しばらく御待ち下さいますよう』
しかし先を急いでいたわたしは耳を貸さずに出発した。そしてめでたく君に襲われたというわけだ。
だが、考えてみるとおかしいとは思わぬか? もしあのとき駅吏の忠告に従い夜明けを待っていたら、我々一行は君に襲われずに済んだのであろうか?
虎が夜闇に紛れてしか狩をせぬなどという話は、わたしはこれまでついぞ聞いたことがない。昼夜を問わず、腹が空けば兔を狩る、家畜を襲う。それが虎という生き物であろう?
あるいは、陽の光があればいち早く危険に気付けるのだからいくらかは安心だと、あのとき駅吏はそう言いたかったのだろうか。いや、そうではなかろう。仮にも勅使を相手に起こりうる危険を知りながら道案内をしたとなれば、その責を問われるのは必至。罰は免れまい。
であるのに、そのような中途半端な進言をすることに何の得があろうか。誰があの者の立場であったとしても、『この道は往かず迂回した方が安全だ』と、そう勧めるのが自然ではあるまいか。実際あの辺りには多くの支道があるのだから。そしてそれは、百歩譲って本当に夜にしか人を襲わぬ虎がいたとして、当地に暮らす経験から昼日中には林道を通るに懸念なしと分かっていたとしても変わらぬだろう。念のため別路を案内するのが無難というもの。君も知っていようが、官吏とはまったくそのような生き物なのだ。
にもかかわらず、あのとき駅吏は『白昼でなければ通れない』、つまり言い換えれば白昼であれば通れることを示し、別の道を勧めることもしなかった。何故だ?」
無論、傍らの虎は答えない。どうやら横になったまますでに目を閉じているようだった。袁傪は視線を灯りに落としたまま続けた。
「おそらく少なくともあとひとつ、我々の安全を確信する大きな事由があの者にはあったのではないか。常に事勿れと願う者が事勿ろうと信ずるに足る何かが。わたしはそう考えてみた。
ではその何かとは何か。
我々の一行が数で勝り、かつ武装した衛兵に護られていたことだろうか? それも今言ったのと同じ理由で違うだろう。とにかく虎に出会わぬに越したことはないのだ。
もっと分かりやすく、襲われる心配はないと信じるに足る経験則―――それに気付いたのはつい先日のこと、君を迎えるため家臣を漢陰県へ向け遣ってからだった。
実は、駅吏はその答えをはっきりと口にしていたのだ。『旅人は白昼でなければ通れない』と。
そうだ、明るい時分であれば我々が林を通過しても安全である理由―――それは我々が旅人であったことだ。
言わずもがな、虎が現地の民のみを餌食にし、旅人は見逃してやっていたなどと推し量るのではない。問題はこの『旅人』という言葉が何を指し示していたかということだ。
それを紐解くには往時の時勢を思い返してみればよい。すでに安史は唐朝に反旗を翻し、また大きな声では言えぬがそれ以前から先帝陛下晩年の御失政から天下の安寧秩序は大いに乱れ、各地に盗賊山賊の跋扈していた頃だ。そのようなときに旅をする者……。もちろん、戦の間も世は動く。人も物も動く。兵士、商人、職人、そしてわたしのような賤吏も旅をした。そうした者たちに共通していたことがある。
それは、男であるということだ。
四年前からすでに、世は女子供や年寄りが行脚するには難しいものになっていた。あのとき勅使の列も男ばかり、道中で旅装の女子供とすれ違うことはほとんどなかったように思う。
ということは、当時駅吏としても特に意識することなく『旅人』という言葉に『男』という意味を含ませて使っていたのではないか。『皆様方は男でいらっしゃいますから、明るいうちであれば人喰い虎に襲われる心配もなく林を通り抜けられます』もしかしたらあの者はそう言わんとしていたのではなかったか。
妄言だと思うか? わたしも初めは自分の考えの突飛さに苦笑したものだ。いったいどこに喰う肉の性別を選り好みして狩をする獣があろうか。
けれどもこの考えが脳裏に浮かんだとき、同時に酷く嫌な胸騒ぎがしたのだ。
わたしは急ぎ筆を執り、あくまで私信の形で各地に問い合わせてみた。商於、漢陰、それからもしやと思い漢陰に程近い石泉に住まう昔の知己にも早馬を立てた。
果せる哉、返書はいずれも同じことを語っていたよ。
すなわち、これら三つの土地ではここ数年来、女ばかりが殺されたり行方知れずになったたという記録がいくつも残されていた。はっきり獣に襲われたと分かるもの、下手人の明らかでない凶殺、神隠しと記されていたものもあったが、いずれも短い間に妙齢の女性ばかりが忽然と姿を消したという訴えが各地の集落からなされていた。
もしこれらの多くが君の所業であったとしたら、そして駅吏の忠告の真意が私の推察の通りだったとしたら、ひとつのことが明らかとなる。それは君が陽の光の下、目を頼りに獲物の男女を区別し、襲う相手を見定めていたということだ。
このことが意味するものを理解したとき……いや、悲しいなどとこの歳になって初心な物言いはすまい。だが李徴、君は四年前わたしに嘘をついていたのだな。
もっと早くに気付くべきだったのだ。あのとき別れ際に君は妻子の後見をわたしに頼んでこう言ったな。
『家族はまだ我が故郷、虢略にいる』
君との約束を果たすべく後日使いを遣ってみると、たしかに君の細君と子息は当地にいた。だが何故だ? 何故あの時点ですでに虎となり一年を経ていた君がそれを知っている? こう言ってはなんだが、かつての蓄えは詩業に専念する数年の間に底を尽き、出戻りの地方官吏の薄給で妻子を養うのはかなりの苦労が要ったはずだ。そこに突然君という稼ぎ手を失ったのだから、暮らしはたちまち立ち行かなくなったことだろう。
そういうとき誰もが真っ先に頼るのは親きょうだい、おそらく君たち夫妻にとっては細君の実家であったろう。君に親類縁者が少なく細君に多いことは、昔君たちの祝言に招かれた際に見て知っている。そしておかしな話だが、わたしは普段からあの華燭の典で細君から聞かされたのろけを時々思い出すことがあるのだよ。
『都で知り合いましたのに、話してみると虢略の出というからびっくりいたしましたわ。わたくしはそこから十里と離れていない隣り村で育ちましたのに。もっと早くに見つけてくれていたら、わたくしもこの歳まで行き遅れることもなかったでしょうにね』
使者を長安から送り出す際、わたしはこのように下知した。
『念のためまずは虢略へ赴け。しかしおそらく母子はそこにはおるまい。付近の民家に消息を訊ねつつ、そこから十里の内にある集落を回って捜すのだ』
滑稽であろう? あの利発な細君をして夫の帰り待つため子を飢えるに任せて留守を預かっていたはずはない。きっと近くの実家を頼るはずだ―――他人のわたしでも当たり前に推し量るはずのことを、夫である君がおくびにも出さなかった不思議に当時は気付かなかったのだから。
あのとき、例えば君はこのように頼むべきではなかったか。
『おそらく我が妻子は今頃あれの実家に身を寄せていることだろう。虢略におらぬときは某という村を訪ねてみてはくれぬか。虢略とは目と鼻の先にある集落だ』
しかし、君は細君の郷里の名を出すことさえせず『まだ虢略にいる』と断言し、保護を求めた。
何故だ? 言葉の綾などとは言ってくれぬなよ? 昔から事物を捉えて常に過不足なく、解釈などという愚鈍な曖昧さを何より嫌っていた君のはずだ。
李徴、君はすべて自分で見て知っていたのだな。その虎の目の形をした人の目で。君は少なくとも一度、叢を掻き分け、山野を越えて故郷虢略へ戻った。そして山裾遠くから、意外にも妻子がいまだ元の家に住み続けていることを知ったのだ。
なおいっそう冗長な推論を重ねてみてもよいだろう。もし君の心が次第に虎に近付き理性を失いつつあるのなら、君はいったいどうやって商於から虢略へ戻れたのだ? その虎の姿で街道を往くこと能わず、草藪生い茂る山の中を二百里近くも、どうやって途切れ途切れの自我で一所を目指し進むことができようか。いや、よしんばそれが可能であったとしても、わたしが君の境遇なら決して故郷に近付くことはすまい。それは四年前に君自身がわたしに頼んだのと同じ理由だ。
『君が嶺南で役目を終え都へ戻る際には、決してこの道を通らないでほしい。そのときに俺が自我を失っていたら、きっと君たち一行を襲い、喰い殺してしまうだろうから』
そうだ、本当に妻子の身を案ずるなら近付こうなどとはゆめ思わぬはずだ。
だがおそらく、君は故郷へ戻った。自分の爪牙が家族に危害を加えぬことを知っていたからだ。
わたしは確信している。君は虎にその姿を変えながらも、常に人としての心を保ったままなのだ。自我を失い一匹の獣として過ごす時間など刹那としてなかったはずだ。君はかつての人間李徴のまま、女性を喰らい続け命を繋いできた。それこそが君の抱えてきた地獄だったのだな」