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 街道で素儀一行とすれ違った噂は、彼らが王孜の使者に出会うよりも早く長安に達していた。(はやて)のごとく街道を北上する間にそれは派手な翼や角を生やしていたが、捕らわれの人喰い虎が天子の裁きを受けるため移送されてくるという大意は一応の形を保っていた。

 元々は袁傪というひとりの若い有力者による私的命令のはずであった。しかし流言が禁中(きんちゅう)奥深く、玉座にまで達したことですべては一変した。要するに嘘から真が生まれてしまったのである。

 武勇を好む皇帝粛宗にとって、また混乱の中で即位し脆弱な支配基盤を危ぶむ新皇帝にとって、民に害なす猛獣を成敗するいうのは自らの威光を示すのに格好の物語であり、同時に今なお洛陽に巣食う逆賊を誅することの完璧な寓話であった。

 この噂の真偽について皇帝が最初に問い質した相手が袁傪であったことは、彼にとって幸運であったと言うべきだろうか、それとも不運であったろうか。日頃市中に放っている草の者からいち早くこの噂を耳にしていた袁傪は、即座に自身の計画の失敗と起こりうる帰結を悟っていた―――運ばれて来る虎は処刑される。見世物として殺される。そして刑部尚書(ぎょうぶしょうしょ)たる自分は、当然その執行と無関係ではいられまい。

 だとすれば、彼がすべきことはひとつ。かつての友であるかもしれぬその人喰い虎をできるだけ苦しめず、辱めを受けることなく逝かせてやることだけだ。彼は皇帝の下問に対しあくまで李徴の秘密については伏せながら、噂が概ね真実であり元々は自らの個人的な布令であったことなどを明かした上、虎の処分についての一切の権限を刑部――すなわち自らが管轄する部署に与え給うべく懇願した。

 普段は万事慎重で控えめな彼の切実な訴えは皇帝をもいささか驚かせたが、権謀術数渦巻く宮中においてはかえってそのことが周囲を刺激したのかもしれない。真っ先に横槍を入れてきたのは礼部(れいぶ)尚書であった。

(くだん)の虎は臣民を殺喰したるの悪逆によってのみ天刑下さるるにあらず。多年唐朝にかかる災いを祓い清めんがための(にえ)とすべし」―――つまりこの処刑は刑罰のみならず祭礼としての性格も持つのだから、宮廷内の儀式を司る礼部にも口を出させろ、というのである。

 しかし袁傪は頑として譲らなかった。表向きの職権では他に劣っていたものの、水面下であらゆる人脈縁故を駆使し宮廷内の他の勢力の干渉を排除しようと力を尽くした。たかが虎一匹、何がそこまで刑部尚書を執着させるのかと誰もが首を傾げたが、特に処刑後の虎の取り扱いに関して末席を許された御前会議では、この穏静(おんせい)な男をして斯様な迫力があったかと皆を一驚させた。

 当初主流だったのは宦官(かんがん)を中心とした一派の案で、虎を処刑したのち皮を剥ぎ、それを皇帝の御足下に置かしむることで悪行必罰の範となすというものであった。それに対し袁傪は反論する。

「君子、徳によりて人の上に立つも権によりて人を下に敷かず。生前人を滋肉(じにく)となしける獣毛を足下(そっか)にするは、すなわち臣民を足下にするも同じ。仁の根本は惻隠(そくいん)の心にて、親子供を歯牙にかけられたる民の哀しみを想わばたとえ四肢を八つに裂かんとも飽かぬところ、いずくんぞ猟果(りょうか)のごとくその皮を足下に留むべけんや。金州山深く都の煙を認めぬとは申せ、せめて遺骸を葬りたる火煙を雲に乗せ、死者の御魂を故地へ帰さしめるがこれ人倫にあらざらんや」

 敢然かつ堂々たる訴えを聞くや膝を打った粛宗は、言下(げんか)に袁傪の案を()れた。そして処刑に至るまでの儀式の取り仕切りを礼部および兵部に一任し、実際の執行とその後の処理を刑部が担う事として宮廷内の宥和を図る。処刑の日時は虎が長安に到着した翌々日正午、処は前の戦乱で焼失しそのまま広大な更地となっている西市の一角と定められた。


 長安城――東西十八里(約10km)南北十六里(約9km)四方を高い城壁に囲まれたこの世界有数の巨大都市は、今やその繁栄の絶頂が過ぎ去ったことをはっきりと自覚していた。

 二年前奪還したこの都に再入城したときには、誰もがその荒廃ぶりに言葉を失った。逆賊の支配下にあった期間はわずか一年半に満たなかったというのに、この荒れようはどうだ。あちこちで城壁は崩れ、(いらか)(こわ)れ、井戸は枯れている。それにこの臭い……獣なのか家畜なのか人なのか、脂と排泄物と死骸の臭いが混ざり合い、凄まじい異臭となって市中に溜まっていた。

 あの美しい都はどこに消えてしまったのか? 朱雀大路(すざくおおじ)には色とりどりの花びらが舞い、色とりどりの瞳をした万国の民が闊歩(かっぽ)していたはずだ。豪奢な飾りを纏った象や駱駝(らくだ)はどこへいった? 目に入るのは痩せこけて汚い鼠ばかりだ。金光門(きんこうもん)のほど近く、あの頬の落ちるような甘い飴を(ひさ)ぐ店はどこへ行った? 織物屋は? 櫛屋は?

 そもそも人が居らぬ。いや、居らぬというのは過言になるが如実に数を減らしているのは確かだ。細い路地裏まで毎日が祭のように活気付いていた街には、今やその後片付けに追われるような別種の慌ただしさと寂寥(せきりょう)があった。

 おそらく新皇帝の脳裏にも遷都という選択がちらついたはずである。しかし都はここ長安に留め置かれた。副都洛陽は依然反乱軍の手中にあり、またそれと睨みあいながら新都を造営することの不可能なことも、残存する国力に鑑みれば明らかであった。西域(さいいき)の古い諺に曰く、「痩せ衰えた駱駝でも馬よりは良い」という。砂漠を往くには瀕死の駱駝の方が馬よりもまだ役に立つという意味らしいが、いわば新皇帝はこの宮城にようやく一頭の痩せ細った駱駝を見出したのだった。

 以来、復興は急速に進み、都には人と物と活気が戻りつつある。しかし人類史上空前の精華とも言うべきあの熱量がもう還らぬことは、路往く誰もが肌に感じていた。


 そんな都に一匹の痩せ細った虎が運ばれていたのは十一月初旬、楊素儀一行が漢陰県への道途に王孜の使者と出会ってからおよそ一週間後のことであった。

 あらかじめ早馬で知らされていたとおり、正門である明徳門前に主人袁傪の姿はなく、代わりに出迎えたのは兵部(ひょうぶ)尚書、そしてその直属の配下である完全武装した精鋭数百名であった。

 兵部尚書は素儀らを召使いではなく勅使として遇し儀礼的な労いの言葉を掛けた上で、荷馬車ごと檻を引き取った。そして掛けられていた覆いを除き中を検めると、戦利品を携えるように城内へ引き揚げていった。分不相応なもてなしと行列の物々しさにいささか奇異の感を抱いた素儀であったが、列の末尾に付き従い城門をくぐるや否や認識を改めた。

―――これは大変なことになった。

 皇城へとまっすぐ長く伸びる朱雀大路の両側は、噂の人喰い虎を一目見ようという野次馬で溢れかえっていた。そしてそれを押しとどめるように、矛を携えた兵士が視界の奥の奥までずらりと左右に二列、威儀を正して並んでいる。

 この唐にまだこれだけの国力が残されていたかと素儀一行は馬上からの壮観に驚かされたが、言うまでもなく同じことを沿道の民衆に印象付けることこそが、この仰々しい出迎えの目的であった。

 立ち並ぶ兵士らの肩越しに垣間見る民衆の表情には、久方振りの明るさがあった。単純で残酷な、危うい明るさだった。

「ほんとにでかい虎だのお」

「ひゃあー、あんなのに襲われたらひとたまりもないわねえ」

「おい押すな! 危ないだろ!」

「ちゃんと餌やってるのかいな、あんなに痩せて」

「早く殺しちまえ! 百人も喰い殺したんだ、百回殺せ!」

「そうだ! 殺っちまえ!」

―――ああ、人と人の世のなんと愚かなことか…。あれだけの流血を見たばかりだというのに、この上まだ血を欲するとは。これでは酔うことの恥を忘れるため杯を重ねる酔漢と同じではないか。

 しかし一方で、素儀には大衆の憂さもよく分かる。もともと長安の貧民街に生まれ官位も持たぬ彼にしたところで、袁傪に仕えるという幸運に恵まれなければ今頃あの群衆の中のひとりとしてこの行列を見送っていたことだろう。

 たしかに、と素儀は思う――たしかに自分も旦那様も四年前、都から蜀への逃避行で地獄を見た。だが、この者たちは逃げ出すことさえできなかったのだ。自分たちに無関係な争いによって家を焼かれ妻子を犯されても、彼らは黙々と日々の暮らしの中で地獄を生きるしかなかったのだ。彼等が我々の長安奪還を熱烈に歓迎したのは、なにも皇帝陛下の御威光天下に(あまね)くに因るのではない。単に自分たちを踏みつけるその足が、反乱軍のそれよりも軽そうに見えただけのことだ。

 そんな抑圧され搾取され続ける民衆の鬱憤をたとえ束の間でも慰められるのなら、虎一匹の命など安いものではないか……。

「…そう、安いものだ」―――思わず呟いていた自分の声にハッとして、素儀は正面に向き直った。聞こえているはずはないのに前方遠くの檻を窺う。

 そもそも、仮にその耳に届いていたとしても障りはないはずだ。姿かたちにも身振りにも、あの檻の中の虎に人間らしい痕跡は何ら見受けられない。人語を解する知性があるとも思えぬ。そう報告したことに嘘はない。(いわん)や王孜の使者も自分の部下も、事情を知らぬ者たちの間にあれがかつて人であったと勘付く気配は露なかった。

 それでも素儀は、不意に波立った追憶に、曰く言い難い胸の騒めきを覚えずにはいられなかった。…………

 それはまだ幼かった頃のことだ。彼は近所の餓鬼連中と野良犬を打って遊んでいたことがある。犬の首と木の幹を縄で繋ぎ、枝切れで打ちつけ虐めるのである。「きゃん」と一番大きな悲鳴を上げさせた者が勝ちだ。彼はこの遊びが得意だった。好きだったとも思う。うっかり殺してしまわぬよう頭や腹は避けながら、後脚の節の辺りを鋭く打つとびっくりするくらい大きな声を響かせる。同時に上がる仲間の嗤い声も気持ちよかった。

 ある夏の蒸し暑い午後だった。素儀らがいつものように犬を打って遊んでいると、西の空が俄かに掻き曇り、まもなく激しい雷雨となった。犬の縄を解くことも忘れ慌てて散っていった彼らだったが、あばら家に戻った素儀はそのまま眠り込んでしまったものらしい。ふと目を覚ますと、穴だらけの天井にはすでに西日が滲んでいた。

 ひどく喉が渇いていた。そして静かだった。いつもなら屋内に満々としているはずの母親の怒鳴り声も妹弟の泣き声もなく、家とも言えぬ住処が初めて広く感じられた。

 厨に下り、柄杓(ひしゃく)で甕の水を掬う。皆どこへ行ったのか。頭上の格子には夕焼けの朱。がたつく玄関戸を払った先に、彼は見た。

 一匹の犬が、狭い路地を挟んだ軒下に座り、こちらを見つめていた。さっき自分たちが打ち据えていたあの犬だった。大きいが細っこく、元々の暗い褐色の毛はまばらで、皮膚の病なのか体の表の多くはちょうど今空に浮かぶ雲のような桃色の地肌を晒していた。それが路地に溜まりはじめた夕闇に紛れるように、じっとこちらを窺っている。

 あっ、と漏れ出た声と呑んだ息が喉奥でぶつかった。咄嗟に傍らの柄杓を再び掴んで振り上げる。

 来るなら来い。

 ()めつけた。睨めつけたが、それだけだった。すぐに飛び出して行って二、三発くれてやればいいものを、何故か足が動かない。昼間あれだけ簡単に振り下ろしていた腕も、小さな柄杓を握ったまま、決まりの悪そうに頭に雫を垂らしていた。

 犬は吠えるでもなく唸るでもなく、ただそこに座って素儀を見つめていた。それは先ほどの怯えきった眼差しとはまったく異なるものだった。

 怒りではない。恨みでもない。……(さげす)み? いや違う。

 哀しみ―――

 その瞳は玲瓏(れいろう)たる哀しみを湛えていた。磨き切った黒曜石のように美しい哀しみに射抜かれて、彼は身体の自由を奪われていた。

 目を逸らすことはできなかった。どれほどの間だったのか、幼い素儀は黒く丸い鏡に映る自らの黒々とした心を直視した。膿み(ただ)れた心だった。

 人として生まれ死ぬまで、自らの心を目の当たりにする者は少ない。心の臓の()つことは感じても、胸から取り出して眺めることはできぬのと同じだ。

 しかし彼は見てしまった。あまりに生々しいその姿を。自分よりも弱いものを虐げることで目を背けてきた、心根の最も暗く(よど)んだ部分を。

 陽が沈む。路地裏に伸びる長い影が宵闇に侵されはじめるとともに、こちらを見つめる瞳は別の色を帯びはじめた。

 いや、色ではない。それはどこまでも透きとおって痛い、透明な(あわ)れみだった。この少年の愚かさ、醜さ、卑しさを哀れむ眼差しだった。

 もう…やめてくれ……。

 頬を伝うのはもはや柄杓から滴る水ではなかった。

 悪かった…おれが悪かった……許してくれ………お願いだから、そんな目で見ないでくれ……。

 彼は崩れるように膝をつき、嗚咽した。両の掌で顔を覆って。

 ひどく喉が渇いていた。ひどく胸が虚ろだった。

 あのとき、もういちど顔を上げたとき、犬はまだそこにいたのだろうか。思い返そうとしても素儀の記憶は曖昧だった。ふたつ確かなのは、翌日あの木のもとに行ってみると千切れた縄しか残っていなかったこと、そしてあの日を最後に生き物を打擲(ちょうちゃく)したことは一度もないことだった。

 果たしてあれは本当にあったことなのだろうかと、後々ふとしたときに振り返っては(いぶか)しむこともあった。考えてみれば当時火点し頃(ひともしごろ)に誰も家に居らぬというのはおかしいし、またいくら犬の鼻が利き自分の風体が垢じみて汚かったとはいえ、あの土砂降りの後で路地裏まで臭いを辿れたとも思えぬ。ひょっとしたらあれは自分の良心の呵責が見せた夢、あるいは強い自責の念が作り上げた偽りの記憶ではなかったか。

 ただ、いずれにせよあの日の直後から、彼は自分の中のある力がこの異常な体験を少しずつ意識の底に沈め忘れさせようとするのを幼いなりに感じていた。そして素直にそれに身を委ね、成長とともに思い出す機会も減り、近年ではほとんど忘れたことさえ忘れていたはずであった。

 しかし一週間前、あの囚われの虎を見つめたとき、素儀の中ですべてがありありと甦ったのだった。昔日(せきじつ)の哀しみと哀れみが、山中の木漏れ陽を受ける大きな瞳に揺れていた。かつて自分が打ち据えた、あの犬の瞳にあった静かな光だった。

 都へ戻る道すがら、彼は思った。もしいま後ろにいる虎がかつて人間であったなら、ひょっとするとあの日自分が打った犬もまた、人が姿を変えたものだったのかもしれぬ。ともかく、あの目を長く見過ぎてはいけない。あの目を見つめていると、何か自分が普段確かだと信じ疑わぬ部分、芯のようなものが溶けてゆくような気がする。出会ったときは取り払われていた檻の覆いをすぐにまた掛け直させたのも、ただ主人への忠義だけがそうさせたのではなかった。率直に言って彼は(おそ)れていたのだった。


 唐朝再生の贄となるべき人喰い虎を運ぶ列は、ようやく朱雀門に近づきつつあった。素儀は自らの役目の終わりを実感し小さな安堵の息を漏らす。と同時に彼は着物の袖の中に腕をさすり、その感触を確かめた。獣らしい毛を生じているということはなく、彼はまだ人間のようだった。我ながらの小心を胸の内に笑い、ふと上に目を遣る。初冬の空は冴え冴えと晴れ上がり、どこまでも碧い。ひょっとしたら気の早い雪になるやもしれぬと彼は思った。

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