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 青み掛かった夜の淵で、袁傪(えんさん)は不意に目を覚ました。余韻のないきっぱりした寝覚めであったが、部屋の壁越しに感じる夜気(やき)はまだ深更(しんこう)のこまやかさを伝えてくる。床に漏れ落ちる光に誘われ格子(こうし)の傍に立ってみると、果たして明月いまだ空に高く、頬を撫づる風の尾はすでに初冬の肌触りであった。

――あれからもう四年になるか…。

 袁傪の瞳の奥では、頭上はるかな黄金色の(かさ)と、あの日の白々とした残月が重なっていた。

 李徴(りちょう)――虎と化した旧友。俊才ひしめく進士(しんし)の中にあって悧巧(りこう)群を抜き、また溢れる詩才を身に()けながら、狂気に囚われ狂気の(かたち)づくる虎の姿に呑まれた友…。

 それは異常な邂逅であった。四年前の秋、勅使として都から嶺南(れいなん)へ向かっていた袁傪一行は、まだ夜も明けやらぬ林の中で身の丈十二尺(約3m60cm)を超えようかという一匹の虎に襲われた。突如草叢から飛び出し袁傪に躍り懸からんとした巨虎はしかし、どういう訳か慌てて身を翻し元の草陰に隠れた。

 騒然と立つ土埃。

 隊列を乱すな! 衛兵前へ! 矛を連ねよ!

 恐慌をきたした自駒(じく)と部下を鎮め号令しながら、一方で袁傪の耳はさざめく草叢の向こうにひとりの人間の声を拾っていた。

 …った…あぶなかった……あぶないところだった………

 男の声。

 知っている声。

 なつかしい声。

 耳の奥の音像が脳裏で(おぼろ)な影像として立ち上がるや否や、袁傪はもう叫んでいた。

 李徴! そこにいるのは李徴、君なのか⁉

 今にして思うと奇妙なことに、あのとき袁傪は土埃と草叢の向こうの虎に向かって友の名を呼んでいたような気がする。そして事実、そこにいたのは先ほどの猛虎であり、同時に懐かしい友人であった。

 直接、といっても自らの異形(いぎょう)を恥じる李徴は草叢に身を潜めたまま頑なに姿を見せようとしないものの、ふたりが言葉を交わすのはおよそ七年振り、袁傪が華北、李徴が華南の地方都市へそれぞれ任官して以来であった。この朝、空が白みはじめ再び別れるまでのしばしの間に李徴の口から語られたことを、袁傪は決して忘れないだろう。詩を命と見立て約束された出世の道を辞し創作に打ち込んだこと。しかし詩家として世に出ること叶わず、やがて生活という現実に屈したこと。やむなく賤吏(せんり)に復するもまもなく狂気を得、失跡(しっせき)。気付けば虎に姿を変え、獣を、人を、貪り喰っていたこと…。

――李徴、今ごろどうしているか…。

 彼曰く、虎の姿は変わらないものの、一日のうち人間としての理性を取り戻す時間がいくらかはあるのだという。しかしその時間も日に日に短くなり、このごろではややもすると自分が元来人であったか虎であったかさえ判然とせぬことがある。きっとそう遠くないうちに自分の中の人間李徴は完全に死に絶え、自我を持たぬ一匹の虎として残りの命数を擦り減らしてゆくことになろう、と。

 あの日から早四年が経過している。

 そして袁傪にとっても、それは激動の四年間であった。

 当時東北部幽州(ゆうしゅう)に端を発していた安禄山(あんろくざん)史思明(ししめい)の両名による反乱は、地方勢力の局地的造反から瞬く間に戦火を拡げ、副都洛陽(らくよう)はおろか都長安(ちょうあん)を陥れる大乱となった。

 唐朝六代皇帝玄宗(げんそう)以下皇族連は辛くも都を脱出、遠く南西の(しょく)へ落ちてゆくそのわずかな供の中に、袁傪の姿はあった。文官ながらときには剣を取って追いすがる反乱軍を無我夢中で(かわ)し、またあるときは畏れ多くも皇帝の御衣(おんぞ)を借りて囮となり、いよいよ(かしず)く者が少なくなると名もなき貧家に一杯の稗粥(ひえがゆ)を乞うてまわった。二ヵ月弱、ゆうに千里(約550km)を越える逃避行の中、まだ若い袁傪はあまりにも多くのものを目の当たりにした。飢餓、憎悪、暴力、欺瞞、離反、淫欲、そして死。それはまるで厚く着こんでいた衣服を一枚ずつ脱ぎ捨てるように、人間がしだいに人間らしさを失ってゆく道行きにも思えた。かつて進士を目指し頭に叩き込んだ四書も五経も、この現実の前にはまったく無意味だった。「人の本性は善である」などと唱えてみたところで何をかせんや、目の前にあったのは自分が生き残るためには仲間であろうが主君であろうが平気で裏切る者たちの姿だった。

 心を失い一匹の虎として生きてゆく方が、おそらく自分は幸せになれるだろう――旅の途中、岩を枕に頭上遥かな星空を見上げながら、袁傪はふと林中での李徴の言葉を思い出すことがあった。今なら分かるような気がした。分かりたくはないが、分かってしまう己がいた。

 しかし一方で、別れ際のあのとき、李徴が遠間から響かせた咆哮が袁傪をして狂気に身を委ねそうになるのを引き止めていた。周囲の鳥獣を震え上がらせるはずの猛り声が、袁傪の耳には哀しく弱く、すすり泣くように聞こえた。それは孤独の咆哮であった。まるでこの世にもあの世にも居場所を見出せぬ亡霊のような、人にも虎にもなりきれぬ魂の悲痛な訴えであった。

 選ばねばならぬ、と袁傪は思った。人として死ぬか、獣として生きるか。そしてその選択と覚悟が今日の彼を形作っていた。


 月が薄雲に安らいだのを機に格子を閉じ床に戻ろうとした袁傪であったが、ちょうどそのとき部屋の戸を(たた)く音がした。

素儀(そぎ)か」

「はい、旦那様。お休みのところ申し訳ございません」

「構わぬ。入れ。何事が生じたか」

 袁傪の声には落ち着きとともに静かな緊迫があった。その口調は今日の天下の情勢をよく映していた。ここ長安をおよそ一年半で奪回し、叛逆の首謀者のうち安禄山は内紛によってすでにこの世にない。玄宗に替わって登極した第七代粛宗(しゅくそう)はその直情的、義侠的性格が世情とうまく噛み合い、これまでのところまずまずの善政によって乱勃発以来の混乱をなんとか小康状態にまで鎮めていた。

 しかし東の洛陽にはまだ史思明があって皇帝を僭称し、西、南、北の三方も異民族の動きが活発になっていて気が抜けない。袁傪がこうして昼夜を問わず部下に面会を許しているのも、今が紛れもなく有事であるからだった。

「洛陽に何か動きがあったか」袁傪は重ねて問うた。

「いえ」と、蝋燭の灯りを片手にうやうやしく入室してきた素儀は一礼しながら答える、「別儀にて。例の人喰い虎の件でございます」

「……どうやら本当にあるものらしいな、虫の知らせというものが」

「は?」

「いや、なんでもない。近う。詳しく聞かせてくれ」

 寝床に腰掛けた袁傪の膝元にまで寄った小柄な男は、部屋の燭台には火を移さぬまま小声で話し始めた。この宮城(きゅうじょう)に耳の付いていない壁というものは存在せず、ふたりきりのときはかえってこのように言葉を交わすのが常であった。

「今しがた金州漢陰(かんいん)県より早馬が参りまして、去る十月十一日、領内の山中にて人を喰らう虎一匹を捕縛したとのこと」

「漢陰県? 商於(しょうお)で見つかったのではないのだな?」

「は。そのようにて」

「しかも捕えたと」

「はい」

「生きて、捕えたのだな?」

「は。生け捕りにしたよし」伏目で答え次の下問を待っていた素儀であったが、主人の沈黙は思ったより長かった。痺れを切らし、ちらと伺った主人の表情には沈痛と安堵の入り混じった複雑さがあった。

「……だが、漢陰県というと商於からは南西に五百里(約280km)はあろうか」

「おそらくそのくらいかと」

「遠いな。いやしかし、あれから四年も経てば不思議はないか…」

「おそれながら、確言はできかねますがその人喰い虎が李徴様である可能性は決して低くないのではと」

 『李徴』という名に驚いたように、袁傪は素儀の顔に向き直った、「何故そう思う?」

「この報告をして参ったのは、現在漢陰県を治める王孜(おうし)様でございます」

「王孜……なるほどそうか、あの王孜か」袁傪は思わず少し声を高くした。

「はい。あの方もまた、当時商於にて李徴様のお姿を垣間見ておりますから」言いながら素儀は懐から取り出した書簡を差し出した、「正式な報告はこちらに」

 がさがさと封を開けた袁傪は、猫の駆けるような勢いで文字を目で追いながら「見覚えがある。たしかに王孜の筆跡に間違いない」と頷く。灯りを寄せる素儀も「左様で」と透ける紙背(しはい)を下から覗き込んだ。

「今日は何日……夜が明けると十九日であったな?」読み終わった手紙を素儀に手渡すと、立ち上がった袁傪は部屋の暗がりの中をうろうろし始めた。

「はい、相違ございません」

「つまりその虎を乗せた荷馬車が長安に向け漢陰を発ってから八日目ということか」

「なんと。ここへ運ばれてくるのでございますか⁉」

 夜闇の中で見えているかどうか、振り向いた袁傪はいちおう指を口の前に立て従者の興奮に注意を促しながら、「そのようだ。人に害なす獣の類を目撃したらば報告せよとは一帯に布令(ふれ)を出していたが、まさか生け捕りにした上、ここ長安まで送り届けてくるとはな。思いも寄らなんだ」

「荷馬車の足ですと都に到着するのは……山がちでございますから早く見積もっても月の改まる頃でございましょうか」

「であろうな」

「なるほど…」と、素儀は灯りの下で文面を追ってゆく、「王孜様ご自身にはその人喰い虎が李徴様であるという判別がつかぬため、旦那様自ら御検めいただきたいと」

 手柄が欲しい――そのような気持ちもあるのだろうと、袁傪は淡々と綴られた書簡の行間にかつての部下の野心を読み取っていた。部下といっても、この王孜という男は科挙に合格して官吏となったわけではなく、元々はいま目の前にいる素儀と同じように袁傪が私的に使っていた家人(けにん)であった。それがこの大乱の中で良く言えば機会を掴み、悪く言えばどさくさに紛れて異例の出世を遂げていたのだった。

「王孜は歳の頃は幾つくらいであったかな。私よりも十は上であったか」立ち止まった袁傪はやや唐突に訊く。

「十ではききますまい。もう少し上……たしか四十八くらいかと。わたくしめより二つ三つ年長のはずでございますから」

「四十八か。もう知命も近いというに」

「なかなか度し難いものでございますな。人の欲というのは」素儀は灯りの傍で小さく苦笑した。彼にしては珍しい本音の吐露に映った。

 再び寝床に腰掛けた袁傪は、まっすぐ素儀の目を見て問うた、「ところでこの報せ、誰か他の者の耳にも入っているか?」

「いえ。深夜の早馬が幸いして、使者と門番数名の他には城内に事情を知っている者はおりませぬ」

「その者たちの中に、四年前勅使として私に同行していた者はいるか?」

「おそらくその心配もないかと。この四年間、あまりに多くの人間が命を落としましたゆえ。特に当時都に詰めていた兵卒で生き残っている者はおりますまいし、いたとしても疾うに何処かへ逃げ落ちておりましょう」

「我々がそうだったように、か?」

「あ、こっ、これは不躾なことを申しました。どうかお許しを」

「戯言だ、気にするな。――ときに素儀、急なことですまぬがもうひとつ頼まれてくれるか」

「なんなりと」

「これから急ぎ二通ほど文をしたためるゆえ、それを携え夜明けとともに金州への街道に向けて出立してくれるか」

「かしこまりました。まずは荷馬車の一行を途中で止めさせるのでございますね」

「うむ。都は人目につき過ぎる。同じ検めるのでも他所が良い。王孜曰く、檻には厳重に覆いをし往来の目を防いであるそうだが、決して安心はできぬ」

「たしかに。人を殺め喰らった虎でございますから、この長安で公儀(こうぎ)の預かるところとならば……」

「ああ、処置はひとつしかない。そうならぬよう全て内々に済ませたいが、かといって時節柄、私は気安く長安を離れるわけにもいかぬ。そこでだ素儀、お前、李徴の姿かたちを憶えているか?」

「忘れよ、と命じられても無理でございます。たとえ一瞬でもあのお姿を目の当たりにすれば」

「愚問であったな。では行って、件の虎が李徴であるかどうか確かめてくれるか。お前にしかできないことだ」

「御意」

「仮にそれが李徴でなかった場合は、これから書く物のうち一通を現地の長官に渡し、虎の処分を委ねること。他方、やはり李徴に間違いないという場合は……その場合には、同じ金州石泉(せきせん)県に蔡真(さいしん)という男が暮らしているのだが」

「蔡真様、でございますか」

「ああ。代々石泉を根拠にしている豪農で、実質、当地では(おおやけ)よりも力を持っている男だ。街道で一行と出会い、荷が李徴だと確信したなら私の命令書の他方を渡して荷馬車ごと引き受け、王孜たちの使者はすべて漢陰県へ送り返せ。どこで一行と出くわすかは分からぬが、そこから石泉にある蔡真の屋敷まで荷馬車を牽いて行き、『陳郡の袁傪が新野(しんや)での貸しを返して貰いに来た』と言うのだ。それで話が通ずるはずだ」

「心得ました。つまりその蔡真様の下で李徴様を匿って頂くわけですな」

「ああ。いつになるか分からぬが、私自身が赴き、この目で確かめるときまでだ」

「承知致しました。では人手が要りますゆえ、わたくしめの子飼いの者を数名、連れて行っても?」

「うむ、仔細は任せるゆえ」と早速机に向かう袁傪は、素儀が火を移した燭台の下、灯影(ほかげ)に揺れる机上の一冊にふと目を留めた。無地の表紙に無題の薄い冊子。それは四年前のあの朝、李徴に請われて彼の消えゆく知性になお残る三十篇ほどの詩を口述筆記したものを後に清書製本したもので、いわば詩人としての李徴の生きた証、すべてであった。自分の詩集が都の風流人たちの机の上に置かれている、そんな様を虎と化した今でも夢寐(むび)するのだと、あのとき彼は自嘲したものだった。

 結局わたしは詩歌(しいか)の風雅からは遠い男だが、と、袁傪は(すずり)に墨を()りながら心中で語り掛ける――李徴子、君の詩は今もわたしの机の上にある。都から落ちのびるときもこれだけは手放さず、またこの机に戻ってきた。君は今どうしている? やはり覆いを掛けられた檻の中、詩家としての幸福を夢に見ているのか。それとも自我なき獣としての夢を見る幸福の中にいるのか……。

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