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7話 甘酒師匠





 毎日暑い日が続いております。


「今日も暑いですね」


「そうですね」


 と、これが挨拶のように交わされ、軒下のぶら下げた風鈴の音色さえ暑苦しく感じるようになって参りました。


 今年は油蝉が大量に発生し、ミンミンと煩く、夜中でもその声を収める事が無い程でして、先生もその暑さに少々参っておられるようです。


「蝉は七年に一度、大量発生するようですね」


 パタパタと扇子で扇ぎながら、白井さんは一人アイスキャンデーを食べておられました。


 その白井さんの様子に先生も焦燥感を隠しきれず、不愉快そうに睨んでおられました。


「夏の間は涼しい所に行く事にしようか」


 先生は足を投げ出し、私に小声で仰いました。


「涼しい所って何処ですか」


 私も自然と小声になってしまいます。


「軽井沢とか、涼しいと聞きましたが……」


 先生は傍らに積んだ雑誌を手に取ってペラペラと捲られました。


「朝晩は寒いくらいだそうですよ」


 先生は避暑地の特集が載っていた頁を開き、私の前に置かれました。


「何ですか、軽井沢ですか……」


 私より先に白井さんが食いついて来られました。


「良いですね……。先生が軽井沢に別荘を買われるのでしたら、私も夏の間はお供しますよ」


 アイスキャンデーの棒を振り回しながら白井さんはそう仰います。

 それを聞いて、先生は机に戻られました。


「白井君も来るなら、やめておくか」


 私には先生の呟きがしっかりと聞こえましたが、白井さんにはどうやら聞こえなかったようでした。


「白井さんって、先生以外は担当されてないのですか」


 私は白井さんの顔を覗き込んで訊ねました。


「もちろんしてますよ」


「そちらには訪問しないで良いのですか」


「ええ……」


「どうして……」


 白井さんは軽井沢特集の書かれた雑誌を持って窓際の椅子に戻られました。


「皆さん、ちゃんと締切前に原稿を上げて下さいますので」


 私はその白井さんの言葉に「不味い事を訊いた」と思い、先生の顔を見ました。

 先生は苦虫を噛み潰したような表情で、額に汗まで浮かべておられました。


「はいはい。どうせ私は出来の悪い物書きですよ……」


 先生は拗ねた声でそう仰いました。


「甘酒、甘酒、甘酒いらんかえ……」


 通りからそんな声がしました。

 先生はピクリと顔を上げて、窓の外を見られました。

 夏の暑い日に甘酒売りがやって来ます。

 先生は毎日それを楽しみにしておられるのです。

 冷たく冷やした甘酒を夏の午後の楽しみにしておられます。


「来たな……」


 先生は背中越しに座る私の顔を覗き込んでニヤリと笑われました。


「来ましたね」


 私も同じように笑うと、二人で同時に立ち上がりました。

 そして先生と競う様に書斎を出て、玄関に向かいます。


 甘酒売りは他にも来るのですが、この時間に来る甘酒売りだけが冷たい甘酒を売っているのです。


 下駄を履いて二人で慌てて表へ飛び出します。

 しかし毎日先生が甘酒を買われる事を甘酒売りも解っており、先生の家の前に大八車を止めて待っておられました。


 白井さんも後から出て来られました。


 大八車を牽く老人と娘、この甘酒売りの甘酒は絶品で、冷たく美味しいのです。


 しかし、今日は娘さんが一人で大八車を牽いておられました。


 先生はその娘さんに指を三本出して、


「三杯下さい」


 と仰いました。

 しかし、この三杯は私と白井さんの分と言う訳ではなく、ご自分で三杯召し上がられる分です。


 娘さんが器に注いだ甘酒を先生は美味しそうに飲んでおられます。

 その後ろから私と白井さんが同じように一杯ずつ注文します。

 私は娘さんから冷たい甘酒を受取りながら、


「今日はお一人ですか」


 そう訊きました。


「ええ、今日は本業の方が忙しくて」


 娘さんはニコニコと微笑み、白井さんにも器を渡されました。


「本業って……」


「あ、うちの本業は氷室なんですよ。ですから冷やした甘酒を……」


 私は甘酒を飲みながら頷きました。


 なるほど……。

 氷室か……。


 こう暑いと氷屋も忙しいようです。


「夏の間に売る氷を冬に作ります。ですから、うちは夏も冬も忙しくしてます」


 先生は娘さんの話を聞きながら三杯目の甘酒を飲み干されました。


「こう暑いと熱い甘酒を飲みたいとは思わないですよね……」


 白井さんがお代わりを頼みながらそう仰いますと、


「あら、そんな事無いですよ。冷たい甘酒なんていらないってお客様も多いんです」


 娘さんはニコニコしながら白井さんに器を渡されました。


「昔は暑い時には熱いモノを飲む方が良いって言ってたからね……」


 先生は大八車に器を置いて手を合されました。


「ご馳走様でした」


 私も先生が置かれた器の上に、飲み干した器を重ねました。


 白井さんは娘さんに代金を支払い、器を戻されます。


「明日も頼みますよ」


 先生はそう仰ると家へ入って行かれました。


「氷が無くなると、冬までお休みなんですか」


 私は娘さんに訊ねました。


「ええ。でも、それでは食べていけないので、こうやって甘酒や焼き芋なんかも売っています」


 私は納得して頷き、娘さんに頭を下げました。

 娘さんは大八車を持ち上げて、ゆっくりと歩いて行かれました。


「甘酒、甘酒、甘酒いらんかえ」


 その娘さんの声が遠くなって行くのを私は見送りました。






 その夜、私が寝ておりますと、先生が部屋の前に立たれました。


「要君」


 蒸し暑く寝苦しい夜でしたので、私もすぐに起きました。

 戸を開けると先生が麦酒を持って立っておられました。


「良かったら一緒にやらんかね」


 先生も寝苦しかったのでしょう。

 寝間着の前は完全に肌蹴ておりました。

 私は快諾し、先生と一緒に風通しの良い縁側に座りました。


「この家は此処が一番風が通るね」


 先生は麦酒の栓を抜くと、グラスに注がれます。


「こう暑いと本当に寝不足になってしまう」


 先生はそう仰ると、麦酒のグラスをぶつけ殆ど一気に飲み干されました。

 私もそれを見て、グラスに口を付けました。


「そうですね……。氷室で寝たい気分ですね」


 私は昼間の甘酒売りの娘の話を思い出しました。


「流石に氷室は寒いでしょうけどね」


 先生は灰皿を引き寄せ、煙草に火をつけられました。


「人ってのは贅沢なモノで、暑いと涼しさを求めて、寒いと暖かさを求めます。無いモノ強請りなんですね……」


 低くなった月を見ながら先生は微笑んでおられました。


「白井君も同じです。私が毎回ちゃんと締切を守っていたら、うちに来る口実が無くなってしまい、文句を言う筈なんです」


 私はその言葉に笑ってしまいました。

 薄々感付いてはいたのですが、白井さんは先生が締切を守ると多分不愉快な筈なのです。

 白井さんは白井さんで上手く先生を理由に会社を抜け出しておられるのでしょうから。


「あの甘酒売りの娘……。良い年頃でしたね」


 意外な先生の言葉に私は麦酒のグラスを止めました。


「要君もそろそろ結婚など考えてみてはいかがですか」


 先生の悪戯っぽい笑みに私の顔は引き攣っていたかもしれません。


「身を固めるとまた書けるモノも違ってきますよ」


「はぁ……」


 私はグラスに残った麦酒を一気に飲み干しました。


「あの娘さんと結婚すれば、氷室で寝る事も出来ますしね」


 先生は私のグラスに麦酒を注がれました。


「先生もおかしな事を仰る」


 私は注いでもらったグラスを手に取ると微笑みました。


「おかしいですか……。私は良い案だと思ったのですけどね。英語ではグッドアイディーアと言うそうですが」


 先生は私が困る顔をすると嬉しそうにされます。


「独り身は先生も同じではありませんか」


 今度は先生がグラスを止められました。

 そしてクスクスと笑われます。


「私があの娘を娶ると、若い衆が羨ましがるでしょう。娘程の年齢でしょうから、ちょっとした犯罪者扱いですね」


 先生の発想は本当に面白い。

 最近はそう感じるようになりました。

 白井さんも先生の発想は他には類を見ないと仰っておられました。


 私は星空を見上げて、時折、ジジと啼く油蝉を目で探します。


「私は一人前の物書きになるまで結婚はしないつもりです。一つくらいそんな戒めが無いと、ダメになってしまいそうで……」


 先生は私の横顔を見て頷いておられました。


「だったら、もう少しですね……。お祝いの品を準備しておかなければ……」


 また先生は悪戯っぽく微笑んでおられました。


「私は独り身ですので、要君の仲人は出来ませんが、要君が結婚してくれたら、私の仲人をしてもらいますよ」


 私はその言葉に麦酒を吹いてしまいました。

 それを見て先生は声を上げて笑っておられました。

 先生は結婚されるつもりなのでしょうか……。






 翌日、白井さんが私の部屋の戸を開けられました。

 どうやら、調子に乗って麦酒を飲み過ぎたようでした。


「要君、おはようございます」


 白井さんはわざと大声でそう言われました。


「おはようございます……」


 私はゆっくりと重い頭を振りながら体を起こしました。


「さ、顔を洗って、朝ご飯を食べて下さい」


 白井さんは頭に響く声でそう仰ると書斎の方へと向かわれました。

 そして先生が書斎におられない事を確認すると、今度は先生の寝室のドアを大きな音でノックされてました。


 私はそれを見て苦笑し、部屋を出ました。


 本当は行水でもしたかったのですが、とりあえず顔を洗い、服を着替え、食堂へと参りました。

 希世さんが、遅い朝食の準備をしてくれてました。

 白井さんが来たので、そろそろ起きる頃だと思ったのでしょう。


「おはようございます」


 希世さんは姿勢を正して頭を下げると、そう仰いました。


「おはようございます」


 私は希世さんに挨拶をすると自分の席に座りました。


「昨夜は随分とお飲みになったのですね……」


 希世さんは麦酒の空瓶を私に見せながらそう仰いました。


「すみません……。寝苦しくて、つい先生と一緒に……」


 希世さんは微笑みながらその瓶を厨に引っ込めると、


「暑い夜は西瓜をおすすめしますよ。西瓜は体を程良く冷やしてくれるそうです。何かの雑誌で読みましたよ」


 希世さんは私の前に白米と魚の干物を出して下さいました。

 先生の洋食へのこだわりもこのところ少々冷めて来たようで、最近は和食の朝ご飯が増えて参りました。


 希世さん特製のお味噌汁が湯気を上げています。


「暑い時は熱いモノを召し上がるのが良いそうです。特にお味噌汁は体に良いですから」


 希世さんはニコニコと微笑んでおられます。

 今日のお味噌汁には油揚げと茄子が沢山入っていました。

 希世さんのお味噌汁は出汁に使ういりこがそのまま入っています。

 苦味が出るという事でいりこの頭と内臓を丁寧に取っておられるのを何度か手伝った事もあります。

 これは先生の田舎が鰹や昆布で出汁を取るのではなく、いりこで取られるようで、それを希世さんは真似ておられるようでした。

 お味噌も麦味噌で、麦を発酵させて作られたお味噌です。

 どれも私には馴染みがなく、新鮮に感じられるモノでした。


「先生は起きられませんね……」


 そう言いながら白井さんが食堂に入って来られました。


「希世さん。私はご飯大盛りでお願いします」


 白井さんはそう仰って自分の席に着かれました。

 希世さんも解っていたのか、すぐに白井さんの前に私と同じモノを持って来られました。


「美味しいですね……。希世さんのお味噌汁は」


 熱いお味噌汁をすすり、白井さんはニッコリと微笑んでおられます。


 白井さんの遠慮を知らない所が気持ちいいと希世さんも仰っておられました。

 最近は私もそう思います。

 遠慮なさる白井さんは想像も出来ませんが。


「あ、そう言えば要君」


 白井さんは箸で私を差しながらそう言われました。


「あの甘酒売りですが……」


「はい」


 私は箸を止めて、白井さんを見ました。


「どうやらかなり大きな氷室の娘ですね。江戸の時代から幕府に氷を献上していたような店でしたよ」


 私は口を真一文字にして白井さんを見ました。


「調べたんですか」


 白井さんはお味噌汁に口を付けると、顔を上げ、


「調べるも何も、かなり有名な氷室でしてね」


 鞄から雑誌を取り出し、テーブルの上に広げられました。


「信州から氷を運んでいるそうです」


 私はその雑誌に目をやりました。

 するとその雑誌が不意に視界から消えました。

 起きて来られた先生がその雑誌を手に取られたのでした。


「おはようございます」


 私は箸を置いて先生に挨拶をしました。

 先生は起き抜けの様子で髪の毛も立ったままでした。


「あ、要君の嫁さんの店か」


 先生はそう仰り、雑誌を持ったままご自分の席に着かれました。


「え、要君、結婚するの」


 白井さんは目を丸くして私を見ておられます。


「しませんよ」


 私は半ば呆れて干物に箸を付けます。


「先生が勝手にそう仰ってるだけです」


「要君は一人前の物書きになったら結婚するらしい」


 先生は雑誌をたたむと白井さんの傍に置かれました。


「だから白井君、早急に要君を一人前にしないといけなくなった」


 先生は至極真面目な表情でそう仰ってました。

 こうなると何処まで真面目に話しておられるのか解りません。


「なるほど……。そういう事ですか……」


 白井さんも真面目に頷いておられます。


「あの甘酒売りの娘は器量も良いし、働き者だ。要君の相手には申し分ないだろう」


 先生の前にも希世さんが食事を並べられます。

 その間も先生は話をやめられません。


「先生……。酔った上での話では無かったのですか……」


 私は堪らず先生にそう言いました。


 先生は真面目な顔で私を見て、


「私は至って本気だが……」


 先生の言葉に白井さんも力強く頷いておられました。


 私は二人に呆れて息を吐きました。

 その様子を厨に隠れて希世さんがクスクスと笑っておられました。






 私はシズカにご飯を上げて、縁側に座っておりました。

 先生は佳境に入り、白井さんも先生に張り付いておられます。

 午前中は比較的涼しく感じられ、先生の筆も進むようです。

 そこに希世さんが西瓜を持って来られました。


「要さんも大変ですね……。偏屈者の戯言のネタにされて……」


 希世さんは私の横に座られ、縁側に足を下ろされました。


「ええ、危うく結婚させられるところでしたよ」


 私は冷たい西瓜に塩を振って頬張りました。


「私も何度かお会いしましたが、芳乃さんは良い方ですよ。私もおすすめします」


 私は西瓜を頬張ったまま、希世さんを見ました。


「冗談はやめて下さいよ。希世さんまで……。って言うか、芳乃さんって仰るんですね」


 希世さんはニコニコ笑いながら、


「ええ、箱崎の大きな氷室の御嬢さんですよ。白井さんが直ぐに調べちゃう程の……」


 希世さんは何故か嬉しそうです。

 私は手に持った西瓜をじっと見ていました。


「氷ってまだまだ一般庶民には高価でなかなか口に出来ないモノですけどね。それを庶民にも何とか味わって欲しいって芳乃さんは甘酒を売っているそうですよ」


 私は頷きながら希世さんの話を聞いていました。


「その内、こんなに暑い夏は過ごさずに済む様になるのでしょうね……」


 希世さんはそう言って微笑まれると立ち上がって背伸びをされました。


「西瓜、冷たい内に食べて下さいね」


 私は希世さんに頭を下げて、手に持った西瓜に噛り付きました。

 庭でシズカが西瓜を欲しそうにじっと見ていました。






 私は先生たちとお昼ご飯を頂き、庭に水を撒いておりました。

 気のせいか少しだけ涼しく感じます。

 シズカは喜び、私が水を撒く場所に立ち全身にその水を浴びておりました。


 表で大きな音がしたので、桶と柄杓を置いて表に出てみたのです。

 そこには甘酒売りの娘、芳乃さんが座り込んでおられました。


 私は芳乃さんの傍に駆け寄り、顔を覗き込みます。


「大丈夫ですか」


 芳乃さんは虚ろな目で私を見て力なく微笑まれました。

 私は芳乃さんに肩を貸し、縁側に連れて行きました。


「白井さん、白井さん」


 私は白井さんに助けを求めます。


「どうしたんですか……」


 白井さんは先生の書斎から扇子を片手に出て来られました。


「あら、甘酒売りの娘さんじゃないですか」


 白井さんは縁側に寝かせた娘の額に手を当てられました。

 先生も書斎から出て来られ、私たちを覗き込む様に見ておられます。


「熱射病ですね……。すぐに冷やさねば」


 白井さんは厨におられる希世さんを大声で呼んでおられました。

 私は表に出て、芳乃さんが牽いていた大八車を先生の庭に入れました。

 表に置いていては通行の妨げになります。


 希世さんは氷を手拭に包んで、芳乃さんの額に当てておられました。


「要君、塩を持って来なさい」


 先生はそう仰ると裸足のまま庭へと下りられ、甘酒を器に注がれました。

 私は厨へ行き塩を皿に入れて持って来ました。


 先生は庭から部屋へ上がると、芳乃さんに塩を舐めさせて、甘酒を飲ませておられます。


「希世さん、白湯を……」


 先生は顔を上げて希世さんにそう言われました。

 希世さんは小走りに厨へと行くと白湯を湯呑に入れて持って来られました。

 その湯呑を芳乃さんに渡されると一気に冷えた白湯を飲み干されました。

 すると額に浮いた汗が徐々に消えて行き、芳乃さんに顔色が戻って来ました。


「もう大丈夫だろう……」


 先生は縁側に座り、団扇でパタパタと扇いでおられます。


 芳乃さんの話だと、昨日帰ってから今日の分の甘酒を仕込み、気が付くと朝になっていたので、一睡もせずにまた大八車を牽いて、甘酒を売りに出たそうです。

 そんな無茶をしては芳乃さんでなくても倒れてしまいます。


 芳乃さんは希世さんの作ったおにぎりを食べておられました。

 お腹も空いていたのでしょう。

 茄子と胡瓜の浅漬けもポリポリと音を立てて口に入れられました。


「この車を牽いて箱崎からここまで来たのですか」


 庭に出て芳乃さんの重い大八車を持ち上げ、白井さんが訊ねておられました。

 芳乃さんはおにぎりを頬張りながらコクリと頷かれました。


「女がてらに大したモンだよ……」


 白井さんはゆっくりと車を下ろされました。


「先生がうちの甘酒を楽しみに待っておられると思って……」


 芳乃さんはニッコリと微笑んでそう仰いました。

 その笑顔に私と白井さんは顔を見合わせ、釣られて微笑んでしまう程でした。


「ほら、要君。この子は本当にいい子だと思うよ……。この期を逃すと……」


「何を言ってるんですか……」


 私は白井さんの背中を叩き、言葉を遮りました。


「芳乃さん。甘酒、どのくらい残っていますか……」


 芳乃さんは目を丸くして、


「はい。後四十杯分程残っている筈ですが……」


 そう答えられました。


「それ全部下さい」


 私がそう言うと、先生と白井さんは勢いよく振り返り私に視線をやられました。


「今日はこれで売り切れです。少しここで休んで下さい」


 先生は口を真一文字にすると下駄を履いて庭に出られました。


「では私も頂こうかな……」


 そう言うと先生は甘酒を器に注ぎ、飲み始められました。


「お、ならば私も……」


 白井さんも先生に続けと甘酒の樽に手を掛けられました。


「白井さんは、先に、御代を払って下さい」


 白井さんは私を見て、口をあんぐりと開けておられました。


 先生は小さく頷き、二杯目の甘酒を器に注いでおられます。


「そうですよ、白井君……。君は先に御代を支払いなさい」


「え、先生までそんな事を……」


 私はいつもの図々しい白井さんの真似をしました。

 白井さんは書斎に置いて来た鞄から財布を出し、芳乃さんに御代を支払っておられました。


「いつも希世さんの美味しい食事をタダで食べているのですから、これくらい罰は当たりませんよ」


 先生はそう仰ると、美味しそうに甘酒を飲んでおられます。


「私も頂いてよろしいでしょうか……」


 希世さんも庭に下りると冷たい甘酒を注ぎ、美味しそうに飲んでおられます。


「あー。ひんやりして美味しいですわ」


 白井さんだけがブツブツ文句を言いながらチビチビと甘酒を持って縁側に座っておられました。


 その日、先生は芳乃さんの夕飯も希世さんにお願いし作って頂き、五人で食事をしました。

 その後、芳乃さんの店の方が迎えに来られ、大八車を牽いて帰って行かれました。

 芳乃さんは振り返り何度も何度も礼を言っておられました。


 芳乃さんは夏が終わると北海道の函館に転居されご結婚なさる事がわかりました。


「危うく結婚を申し込むところでしたね……」


 先生は芳乃さんたちを見送りながらそう仰いました。


 私は告白もしていないのに振られたようです。








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