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6話 泪零師匠





 暑くなって参りました。

 今日は先生の原稿を高峰さんに届け、帰りに煙草を買って来て欲しいと言われ、久しぶりに一人で街に出ました。

 赤坂界隈は洋装の方が多く、私も洋装で来るべきだったと少し後悔しておりました。


 先生のお住まいのある青山から赤坂まではゆっくりと歩いても三十分程で、毎日白井さんが歩いて通われる距離ですので、そんなに遠くは無いのですが、この季節になると、やはり少し汗をかきます。


 高峰さんとは、先生が毎月随筆を書かれておられる雑誌の編集者で、私も何度かお目に掛かった事がございましたので、すんなりと原稿をお渡しする事が出来ました。


 来月発売の雑誌に載せられる先生の随筆は、森鴎外先生の発禁処分となった「ヰタ・セクスアリス」に関するお話で、先生は鴎外先生を擁護しておられました。


「性に関しての言論の自由を国は認めないというのか」


 と厳しい口調で仰っておられましたが、鴎外先生に諌められ、書かれた原稿は少し優しい口調になっていました。


 高峰さんと白井さん、会社は違うのですが、仲良くされておられますので、いつもなら白井さんにお預けして渡して頂くのですが、今回ばかりは内容が内容であるため、私が直接、高峰さんにお渡しする事になりました。


「そのような内容の話であれば、私ではなく、漱石先生にでもお願いするべきではないか」

 

 と先生は頻りに高峰さんに仰っておられましたが、どうやら漱石先生はここの所体調が芳しくなく、修善寺の方へ療養に向かわれる事になっているそうで、渋々書かれておられました。


 このところ先生も心労を内に溜めておられるようです。


 いつもの煙草屋で先生の煙草を買い、富風庵で饅頭を蒸かして頂き、私は家に帰りました。


 ふと、先生の家の前まで来ると、玄関の前で右往左往している男の姿が見えました。

 風呂敷包みを手に持ったまま、何度も玄関の戸に手を掛けようとして止め、それを繰り返している様子でした。


 私はゆっくりとその男に近付き、後ろから声を掛けました。


「先生に何か御用ですか」


 私の声に驚き、その男は数歩後ろに下がり、目を丸くして私を見ておりました。

 そして、姿勢を正すと、


「う、浦江清海の……つ、遣いで参った、み、三堂と申す。せ、先生にお目通し願いたい」


 その男は少しどもりがあるようでした。

 私はその男を玄関で待たせて、先生の部屋へと参りました。

 帰った事とその浦江清海という人の遣いが訪ねておられる事を先生に告げました。


「イチロクの遣いだと……」


 先生はそう仰ると立ち上がられました。


「その方を応接へお通しして下さい」


 先生は厠へと向かわれました。


 私は玄関に戻り、三堂さんを応接間の方へとお連れしました。


 そこに玄関が開く音がしました。

 そして白井さんが入って来られました。


「やあ、要君」


 と白井さんは私に声を掛けられます。

 そしてソファに座った三堂さんを見て、頭を下げられました。


「三堂君じゃないですか……。お久しぶりです」


 白井さんがそう仰ると、三堂さんも立ち上がって白井さんに頭を下げられました。


「し、白井さん、お、お、お久しぶりです」


 白井さんは応接の隅に鞄を置いて、三堂さんの向かいに座られました。


「イチロク先生はお元気ですか」


 白井さんも「イチロク」と言われました。

 多分、三堂さんの仰った「浦江清海」さんという方の事を差しているのだろうと思うのですが……。


「やあ、三堂君。久しぶりだね」


 先生が応接間へ入って来られました。


「要君、すまんが希世さんに冷たいモノを頼んでくれないか」


 そう仰ってソファに座られました。

 私は先生に頭を下げて応接間を出ました。

 そして厨へと向かい希世さんに飲み物をと思いましたが、既に希世さんは冷たい珈琲を準備しておられました。

 希世さんの仕事はいつも早いのです。


 私はどうも応接で同席してはいけないような気がしまして、一人食卓に着きました。


 珈琲を届けられた希世さんはすぐに戻って来られ、


「要さんも珈琲飲まれますか」


 と声を掛けて来られました。

 私が小さく頷くと、希世さんは私の珈琲をグラスに注いで、出してくださいました。


「イチロク先生のお弟子さんだと仰ってましたね」


 希世さんは自分の珈琲を持って私の向かいに座られました。


「イチロク先生……。浦江清海先生ですね……。ご存知ないですか」


 私は聞いた事の無い名前でした。


「浦江清海画伯ですね……。西洋画の画家です」


 私は希世さんを見て、首を傾げました。


「画家先生がうちの先生とどんな繋がりが……」


 そう訊ねると今度は希世さんが首を傾げられました。


「私も詳しくは存じ上げないのですが、かなり昔からのお付き合いだと思います」


 私が希世さんの話に頷いていると、食堂の入り口に白井さんが立っておられました。


「同郷なんですよ、先生とイチロク先生は」


 白井さんはそう仰いながら食卓に座られました。

 私と希世さんが白井さんをじっと見ていると、


「あ……。なんか同席しちゃいけない気がして……」


 白井さんは応接間を指差しながらそう言われました。

 そして手に持ったグラスをテーブルに置くと座り直されました。


「先生とイチロク先生は一緒に東京に出て来られたんですよ。お互いに、お前は小説で成功しろ、俺は絵で成功する。と誓われた仲でして……」


 白井さんの言葉に私は先生たちの友情を熱く感じました。


「仲良かったんですがね……」


 その白井さんの言葉に希世さんも頷いておられました。


「仲……悪いんですか……」


 私は身を乗り出してそう訊きました。


「犬猿の仲とはお二人の為にあるような言葉でして……」


 白井さんは顔を伏せられました。


「あ、経緯は聞かないで下さいね……。私もよく知らないんです」


 白井さんはグラスに残った珈琲を飲み干されました。


 私も珈琲に口を付けました。


「浦江画伯は何故イチロク先生って呼ばれているのですか……」


 私はグラスを置いて白井さんに訊きました。

 白井さんは開襟シャツの胸のポケットに入れたメモと万年筆を出して「浦江清海」と書かれました。


「浦江清海。全部の文字にさんずいが付くでしょ。「シ」が四つ。四四の十六。それでイチロク先生なんですよ」


「なるほど……」


 私と白井さんの横から覗き込まれていた希世さんはほぼ同時にそう言いました。


「あれ、希世さんもご存知ありませんでしたか」


 希世さんは白井さんにニッコリと微笑まれると立ち上がり、厨へと入って行かれました。


 私はイチロク先生のお弟子さんの三堂さんと先生がどんな話をされているのか気になり、じっと応接間の方を見ておりました。

 すると応接間の戸が開く音が聞こえ、先生の声が聞こえて来ました。


 私と白井さんは慌てて立ち上がり、食堂を出ました。


「三堂君がお帰りだ」


 先生はそう仰ると三堂さんに会釈され一人応接間へと戻られました。


「あ、あ、あ、ありがとうございました」


 三堂さんは私と白井さんに頭を下げると出て行かれました。

 三堂さんを見送ると私と白井さんは応接間に入りました。


 先生は額に入った絵を手に持って見ておられました。


「イチロク先生の絵ですか……」


 白井さんは先生の横に座り、その絵を見ておられました。

 私も先生の後ろへ回り、絵を見ました。

 残念ながら私には絵の善し悪しはまったくわかりません。

 しかし、綺麗な絵である事は判りました。


「これは立派な絵ですな……」


 白井さんはそう呟く様に仰います。


 先生は唸る様に声を上げられ、私を振り返られました。


「要君はどう思う……」


 私は息を静かに吐きました。


「立派な絵だと思います」


 それだけ言いました。

 白波を上げる海と沖に浮かぶ島が描かれ、裸の漁師たちが船の上で網を曳く絵でした。


「私の故郷の絵だ……。この絵はイチロクにしか描けまい……」


 先生はテーブルの上の珈琲を手に取り口に運ばれます。


「この絵を私に買えと言ってきた」


 白井さんはピクリと首を動かされ、再び絵に目を落とされました。


「イチロク先生が……ですか……」


 白井さんに先生はゆっくりと頷かれます。


「珍しい事もあるモンですね……」


 先生は手に持った額を白井さんに渡されました。

 そして立ち上がられると窓の外をじっと見ておられました。


「少し気になる事がある」


 先生はそう仰ると振り向かれました。


「要君。悪いが明日、白井君と一緒にイチロクを訪ねて来てくれ」


 私と白井さんは顔を見合わせてコクリと頷きました。






 翌日、昨日の事もあり、私は洋装でズボンにズボン吊をして白い開襟シャツを着ました。

 先生のお古のキャスケットを被り、白井さんが来られるのを待ちました。


 書斎の戸が開き、先生が出て来られました。


「要君……。悪いがこの手紙をイチロクに渡してくれたまえ。イチロクの事だ。その場で返事を書くだろう。それを貰って来てくれるかな……」


 先生は白い封筒を一枚、私に手渡されました。

 私はそれを受け取ると、鞄の中に入れました。


「先生が直接行かれた方が話は早いのでは……」


 私は先生と一緒に食堂へと移動しながらそう言いました。

 先生は咳払いを一つすると、自分の椅子に座られました。


「イチロクとはもう二度と会わない事になっとるんだ……。手を煩わせて済まんが……」


 先生は頭を深く、私に下げられました。


「あ、いえ……。私はそんな」


 私は慌てて先生の前に立ちました。

 相当な事でお二人の仲が険悪になったのでしょう。

 私は先生に頭を下げながら自分の椅子に座りました。


 先生は希世さんに珈琲を頼んでおられました。

 希世さんはすぐに冷たい珈琲を二つ持って食堂へ来られました。

 そして私たちの前にグラスを置かれます。


「希世さん、悪いがイチロクの絵を飾るのに額縁屋を呼んでもらえるかな……」


 先生は煙草に火を点けながらそう仰います。

 昨日の絵を購入される事を決められたのでしょう。


「何処に飾られるのですか」


 希世さんは盆を胸に抱いてそう訊かれました。


「この食堂に飾ろうと思うのだが……」


 先生は食堂の壁をじっと見渡されました。

 そして私の後ろの壁を指差して、


「その辺りにしようか」


 と仰いました。

 希世さんはニッコリと微笑むと頭を下げて厨へと引っ込まれました。


 先生は煙草の煙を吐きながら、珈琲に砂糖とミルクを入れて匙でかき回されます。


「イチロクと私は幼い頃から一緒だった」


 突然先生はそう話し始められました。

 私は先生の方に体を向け、じっと先生を見ました。


「昔から絵の上手い奴でな。イチロクに絵で勝てる奴など私の周りにはいなかったな」


 先生は煙草を消して、珈琲を飲まれます。

 私もそれを見てグラスに口を付けました。


「戦場画家になりたいと言っておった。どうして戦場画家なのだと私は訊いた。イチロクは平然と「金になるからだ」と答えた」


 戦場画家とは戦場の記録としてその状況を絵に残す画家の事で、帝国陸軍に従軍して絵を描くそんな仕事でした。


「しかし、アイツは体が弱くてな。陸軍に従軍するには体力も必要だ。試験を何度も受けたが、無理だった」


 先生は私を見て優しく微笑まれました。


「東京に行けば何とかなるかもしれんと言い出し、私と二人で東京へ出て来た。しかし、結果は同じだった。絵描きである前に軍人となる必要があったんだな……。鴎外先生に頼んで、何とか従軍出来ないかと思ったが、医者でもある鴎外先生も首を縦に振る事は無かった」


 私は先生の話に黙って頷いておりました。


「ある時、イチロクは名前を変えて、もう一度軍人になる試験を受けると言い出した。その時に付けた名前が今の「浦江清海」だ。もちろんそんな事をしても身体検査に受かる筈もない。私はイチロクを止めた。しかし奴は私のいう事など聞きもせず……。結局、公文書偽造などの罪も重なり、三年程刑務所で暮らしたんだ」


 服役を終えたイチロク先生は、そのまま軍人になる事を諦め絵描きとして生きる事を決めたそうです。

 そしてその才覚はすぐに結果を出し、二十名程の門下生を抱える画伯になったそうです。

 先生が何度イチロク先生を訪ねても居留守を使われ、会う事が出来なかったそうで、十年程して偶然に出版社で会うまで一度も会っていなかったらしいのです。

 そこで、二人は大喧嘩をして、互いの葬式まで絶対に会わないと啖呵を切り、現在に至る。

 そう先生は私に話して下さいました。


「つまらん子供の喧嘩の様だろう」


 そう仰る先生に私は微笑みました。

 確かにつまらない喧嘩です。


「バツが悪かったのだと思う……。私の言う事を聞いておれば服役などせずに済んだのだ」


 その服役のせいでイチロク先生は脚気を患い、左足が不自由になっておられたそうです。


「私も同じ立場なら、顔を合わせるのは少々気が引ける」


 先生はグラスに残った珈琲を飲み干されました。


「まあ、そんなつまらん喧嘩だ。会えるモノなら会いたいよ……。東京で会える、唯一の竹馬の友だからな……」


 先生はゆっくりと立ち上がり、私の肩をポンと叩かれ、そして書斎へと戻って行かれました。






 白井さんと訪ねたイチロク先生の工房は、浅草の外れにあり、隅田川の傍にありました。


「大勢の門下生がいらっしゃる筈」


 白井さんは道々そう言っておられたのですが、その工房の戸を開けられたのは昨日訪ねて来られた三堂さんでした。


「わ、わ、わ、わざわざ、す、すみません」


 三堂さんは頭を下げられて、私たちを工房の中へと招いて下さいました。


 私たちはその工房へ入ったのですが、人の気配を感じませんでした。


 三堂さんがお茶を入れて私たちの前に出して下さいました。


「せ、せ、先生を呼んで参ります」


 三堂さんは頭を下げて奥へと行かれました。


「おかしいですね……。お弟子さん沢山おられたのに……」


 白井さんは首を伸ばして周囲を見ておられます。

 すると奥の部屋からコツコツと杖を突く音が聞こえて参りました。

 曲がらない膝を庇うように杖を突いて歩くイチロク先生がやって来られました。

 そして私と白井さんに頭を下げるとゆっくりと椅子に座られました。


「わざわざご苦労だったね」


 先生に訊いて私が勝手に作り上げた想像とはかけ離れたイチロク先生でした。


「画伯……。ご無沙汰しております」


 白井さんは深く頭を下げられました。


「白井君か……。久しぶりだね……。まだアイツの担当をしとるのかね」


 イチロク先生は声を上げて笑っておられました。


「はい。一生、先生に着いて行くと決めましたので」


 白井さんもニコニコと笑いながら答えられました。


 イチロク先生は私の方を見られます。


「君は……」


 私は頭を下げました。


「先生の弟子で要と申します」


「アイツの弟子か……。アイツが弟子を取るなんて、余程君が変わっていたのだろうね」


 私は口を真一文字にして頭を下げました。


「弟子と言えば、先生のお弟子さんたちは何処に……」


 白井さんはテーブルの上のお茶に手を伸ばしながら尋ねられました。


 イチロク先生は周囲をゆっくりと見渡す様にして微笑まれました。


「暇をやった……。今はあの三堂だけしかおらん」


 白井さんはその言葉に驚かれ、部屋の隅に座られる三堂さんを見られました。

 どうも訊いてはいけない事を訊いたような気がしました。

 私は慌てて鞄の中にいれた先生からの手紙を出し、テーブルの上に置きました。


「先生からの手紙です……。これだけを預かって来ました」


 イチロク先生はゆっくりと体をお越してその手紙に手を伸ばされました。

 そして荒々しく封を千切ると手紙を開かれました。


 部屋は静寂の時間に包まれておりました。

 白井さんが私の横で唾を飲む音さえ聴こえて来ます。


 しばらくするとイチロク先生はニヤリと笑われ、手紙を封筒に入れられました。


「すぐに返事を書きたい。しばらく待っていて貰えるかな……」


 そう仰ると三堂さんの介添えで立ち上がり奥の部屋へと歩いて行かれました。


 半時間程、私たちはその部屋でイチロク先生を待っていたでしょうか。

 再び杖の音がして、イチロク先生が私たちの前まで来られました。


「待たせて済まなかったね……」


 イチロク先生は手に持った封筒を私の前に差し出されました。


「これをアイツに渡してくれ」


 そう言うと頭を下げられました。


「承知致しました」


 私もイチロク先生に頭を下げました。

 先生は私の肩を叩き、奥の部屋へと戻って行かれました。


 私と白井さんはその背中に頭を下げると工房を出ました。


 しばらく隅田川沿いを歩いていると、後ろから声が聞こえました。

 三堂さんでした。


 三堂さんは息を切らしながら、私たちの前に立たれます。


「きょ、今日は、あ、ありがとう、ご、ご、ございました」


 白井さんは首を横に振り、三堂さんの方に手を添えられました。


「座ろうか……」


 白井さんはそう仰ると、三堂さんの背中を押して、堤防の混凝土の階段に腰掛けました。


 堤防で売っていたラムネを三本買って、白井さんは戻って来られました。


「落ち着いて下さい」


 そう言って白井さんが三堂さんにラムネの瓶を渡されると、三堂さんはその瓶に口を付けられました。


 三堂さんを挟む様に私と白井さんは座ります。

 そして冷えたサイダーを飲みました。


「せ、せ、先生は……、も、もう、な、長くないです」


 三堂さんが口にした言葉に私と白井さんの手は止まりました。


「どういう事ですか」


 私は慌ててそう三堂さんに訊きました。


「肺びょ……肺病、なんです」


 私は白井さんの顔を見ました。

 白井さんはいつになく神妙な面持ちで頷かれました。


「病院には」


 三堂さんは首を横に振られました。


「び、病院に、い、行った時には既に、お、お、遅くて……」


 白井さんは目を閉じられておられました。


「それで門下生にお暇を……」


 三堂さんはコクリと頷かれました。






 書斎の先生にイチロク先生からの手紙を渡し、私は俯いたまま、先生が手紙を読み終えるのを待っておりました。

 白井さんは窓際のいつもの椅子に座り、窓の外を見ておられました。


「俺の絵は折りたためば鍋敷きくらいにはなるが、貴様の小説は尻を拭くにも硬すぎると来たか……」


 先生は声を上げて笑いながらイチロク先生の手紙を読んでおられました。


「イチロクめ……」


 そう言うと私と白井さんの顔を交互に見られました。


「どうした……」


 私と白井さんは顔を見合わせ、頷くと、先生の方を向きました。


「三堂君が言うには、イチロク先生は肺病を患っておられるようです」


 白井さんは先生の前に座りながら言われました。

 手紙を持つ先生の手は止まります。


「門下生にも全員お暇を与えられ……三堂君だけが残っていました」


 先生は焦点の合わない目で壁を見ておられました。


「白井君……医者だ……、ほら肺病に長けた医者が居ただろう。鎌倉の方に」


 先生は取り乱したように声を上げられました。


「すぐにその医者に連絡してくれ、金なんて幾らかかっても構わん、急いで連絡……」


「先生」


 白井さんは先生の肩を掴まれました。


「その鎌倉の医者にイチロク先生は掛かっておられたそうです」


 白井さんも声を荒げておられました。


 先生は項垂れて、手に持った手紙をクシャクシャに握っておられました。


「イチロクが死ぬだと……。アイツが死ぬ……」


 先生の胸を締め付ける様子が伝わります。

 私も苦しい胸をどうする事も出来ず、強く目を瞑りました。






 それからしばらくしてイチロク先生が亡くなられた知らせが参りました。

 そしてその知らせと一緒に先生宛ての手紙も。

 イチロク先生からの手紙でした。


「絵の代金は三堂へ渡してくれ。私の葬儀は貴様に任せる」


 その二行だけがその手紙には書いてありました。


「しばらく誰も入れるな」


 先生はそう仰ると寝室へと入って行かれました。


 私と白井さんはその先生の背中を見送る事しか出来ませんでした。


 蓄音機から流れる「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」だけが先生の寝室から響いておりました。






 数日後に行われたイチロク先生の葬儀を先生はしっかりと取り仕切っておられました。


「あ、あ、ありがとうございました」


 三堂さんは先生に頭を深く下げておられました。

 先生はその三堂さんに鞄から封筒を出して渡されました。


「イチロクの絵の代金だ……。君に渡してくれと言われた」


 そう言うと三堂さんの肩を叩いて、じっと彼を見ておられました。

 その先生の目から溢れ、零れた涙は光りながら頬を伝っておりました。








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