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5話 唐柿師匠





 先生はこのところ、庭に植えた唐柿、フランス語ではポム・ダールと言うらしいですが、所謂トマトを育てるのに熱中しておられます。

 白井さんがトマトの苗を持って来られ、それを庭に植えられました。

 白井さんが何処からか一輪車で運んでこられた土が肥えていたのか、どの幹にも見事なトマトが下がっております。


「先生、唐柿とはまたハイカラなモンを育てられてますな」


 と、リヤカーで野菜を売りに来られた八百屋の喜八さんが庭に入って来られてそのトマトを見ておられるのが嬉しいようで、先生は煙草をお呑みになられながら、微笑んでおられます。


「東海の後輩に苗を送ってもらったんです。どうやらトマトケチャップを作って売るそうです」


 白井さんは縁側に座り、汗を拭いながらそう仰いました。


「ほう。日本も西洋のモノがどんどん入って来てハイカラになりますな。その内、刺身にケチャップを付けて食べる時代が来るのかもしれませんな」


 喜八さんはそう言うと大声で笑っておられました。


 希世さんはリヤカーに積まれた野菜を物色しながら、籠に入れておられました。

 希世さんはいつも「喜八さんの野菜は間違いの無いモノ」と仰られます。

 確かにいつも美味しい野菜を頂いている気がします。


「このトマトってモノはどうやって食べるのが一番美味いのかな……」


 先生は煙草の火を灰皿で消しながら喜八さんに聞かれました。


「唐柿は万能な野菜でしてね。生でかぶりつくのも良し、潰してジュースにするのも良し、刻んでスープやカレーなんかに入れるのも良いんですよ。その辺りは私より希世さんの方がご存知ですよ」


 喜八さんは希世さんからお金を受取りながら先生に説明しておられます。


「漱石先生がね、切ったトマトに蜂蜜を掛けて食べておられた。先生は甘党だからね」


 先生はまだ赤くなり切っていないトマトの実を指で揺らされました。


「早く赤くなりなさいよ……。私も蜂蜜を掛けて食べてみたいからね」


 トマトに愛情を注がれる先生を見て、私は先生の優しさを感じ、嬉しくなります。


 シズカが下の方にぶら下がる青いトマトを舐めています。


「こらこらシズカ……。お前にも分けてやるから、赤くなるまで待ちなさい」


 先生はシズカのお尻を叩かれました。






 その夜は蒸し暑く、私も夜中に何度も目が覚めてしまいました。

 風もなく静かな夜は良いのですが、窓を開けていても一向に涼しさを感じる事が出来ません。

 私は辛抱堪らず縁側に出て、そこに大の字になりました。

 星が綺麗な夜でございます。

 部屋にいるよりは幾許か涼しく感じる事が出来ました。


「何だ、要君も眠れないのかね……」


 突然頭の上から声が聞こえて私は飛び起きます。

 先生がサイダーを手に立っておられました。


「せ、先生……」


 私は座り直そうとしましたが、先生はそれを制し、微笑みながら私の横に座られました。


「夏はまだだというのに、こう暑いとな……」


 そう仰ると空を見上げられました。

 私も先生の視線を追う様に空を見ました。


「私は田舎の生まれでね……」


 先生はふと私を見られました。


「前にも話したかな……」


 私は小さく首を横に振りました。


「目の前には海があって、寝ていても耳を澄ますと波の音がいつも聞こえていました。朝早くから漁に出る漁師の声が聞こえ、海鳥の声、鳶の鳴く声なんかも聞こえていましたね」


 先生のそんな話を聞くのは珍しく、私は興味深く聞いておりました。


「裏は山で、夜中でも蝉が鳴くんですよ。この時期だと蜩、もう少し暑くなるとクマゼミ。あまりに山が近いモノで、家の明かりにカブト虫やクワガタが飛んできていました」


 先生は傍らに立てたサイダーの瓶に口を付けられ、袂から煙草を出され、火を点けられます。


「家の裏にあった畑にね……」


 そう仰ると庭に植わった唐柿、トマトを指差されました。


「母が植えていたんです。トマトを……」


 月明かりに光る青いトマトに私も目をやります。


「そのトマトをね、夏になると冷やして塩を振って食べるんですよ。これが美味しくてね……。トマトだけじゃない、胡瓜や西瓜なんかも」


 私は先生の前に灰皿を置きました。


「こことは比べものにならない程の田舎でね。夏は海で泳ぐくらいしか楽しみも無い。海から帰って来るといつもトマトや西瓜が冷えてるんですよ。それに塩を振って噛じるんです。それは美味しかったですよ……」


 先生の煙草の香りが漂います。

 そしてその煙は夜空に消えて行きました。


「もう一度、あのトマトを味わってみたくて、植えてみたんです……。違うな……。あのトマトの味を要君や白井君にも食べて欲しくて」


 先生は私を見て微笑まれました。


 シズカが小屋から出て来て、縁側に居る私たちの前に座りました。

 ヘッヘッと荒い息遣いでシズカも暑そうでした。


「良いですね……。先生の生まれ育ったところ、見てみたくなりました」


 私はシズカを見つめたまま言いました。


「何にもない所ですよ。こんな都会にいると、何にもない所もたまには良いですね」


 先生は煙草を消しながら微笑んでおられました。


「機会があれば、一度行ってみましょうか……。私の田舎に」


 私は微笑みながら頷きました。

 先生も微笑んでおられました。






 朝、目が覚めると先生は食堂で新聞を読んでおられました。


「暑い時は無理に寝ようとせずに、涼を取り、いつの間にか眠っていたというくらいが丁度良いのです」


 先生は昨夜、そう仰って部屋に戻られました。

 私は東の空が白み出すまで縁側で横になっておりました。

 朝早くに希世さんが訪ねて来られるのですが、その少し前に部屋に戻り眠った記憶がございました。


「おはようございます」


 私は先生に挨拶をして自分の椅子に座りました。

 すると厨から希世さんが顔を出されました。


「要さん。おはようございます」


 希世さんは私に丁寧に頭を下げて挨拶されます。

 私も希世さんに挨拶をすると、


「昨日は暑くて寝苦しゅうございましたね」


 そう仰り、私の前に朝食を出してくださいました。


「私はもう先に食べた。君も食べなさい。そろそろ白井君も来る頃だよ」


 先生の言葉に柱に掛かる時計を見ました。

 もう九時を回っておりました。


 最近、先生は洋風の朝食を好んで召し上がられます。

 私の前にも焼いたトーストとソーセージ、炒り卵、それに野菜が並びました。

 そして、昨夜から準備されていた冷たい珈琲が出されました。


 希世さんは先生の要望に何でも応えられます。


「西洋の朝食なるモノを食べてみたいな」


と一言先生が仰ると、翌朝にはそれが食卓に並ぶのです。


 片言の日本語で商いをするドイツ人の店に行き、ソーセージを買ってこられ、それを茹でたモノを朝から準備しておられました。


「このソーセージはダンケルさんのお店のモノですか」


 私は希世さんに訊ねます。


「ええ、この辺りではダンケルさんのお店でしか売ってないモノですから……」


 そう仰ると西洋辛子の瓶を私の前に置かれました。


「ダンケルさんはドイツからアメリカへ行かれて、その後日本に来られたそうですよ」


 希世さんはそう仰ると厨へと戻られました。


 すると玄関の戸が開く音が聞こえ、白井さんの声がしました。

 白井さんは半分家族の様なモノで、白井さんがいらしても出迎えにも行きません。


「おはようございます」


 白井さんは食堂の入り口でそう仰ると頭を下げられました。


 私と先生は白井さんに挨拶をして、先生は新聞に、私は食事に戻ります。


「おはようございます」


 希世さんが厨から白井さんの前に冷たい珈琲を置かれました。

 多分、希世さんには白井さんが来られる時間が解っているのでしょう。


「しかし、昨日の夜は暑かったですね……。なかなか眠れなくて……。おかげで今日は寝不足ですよ」


 白井さんはそう仰ると冷たい珈琲を殆ど一気に飲み干されました。


「あらあら、お代わり入れましょうか」


 希世さんがそう仰ると同時に白井さんはグラスを差し出されました。

 希世さんはクスクスと笑いながら厨へと行かれました。

 私もおかしくて笑ってしまいました。

 先生と白井さんは目を丸くして、何がおかしかったのか解らなかったようでした。






 今日は原稿の締め切り日で、白井さんは先生の原稿が出来上がるまで帰らないと仰り、じっと書斎の椅子から動かれません。

 流石にそれが気になるのか、先生はペンを置いて、私を呼ばれました。


「頼むから白井君を何処かへ連れて行ってくれないか……」


 そう小声で私の耳元にそう仰いました。

 私はじっと蝋人形のように座っておられます白井さんを見て、


「わかりました」


 と先生に返事をしました。

 そして白井さんの手を引いて書斎を出ました。


「ダメですよ。今日は先生が逃げ出さない様にちゃんと見張っていないと……」


 白井さんは逆に私の手を引き、書斎へ戻ろうとなさいます。

 私は無理矢理縁側まで白井さんをお連れし、座らせました。


「要君」


 白井さんはそれでも書斎へ戻ろうとなさいます。


「先生もじっと見られててはペンが進まない様です。私たちは此処でお待ちしましょう」


 私は庭に出て金盥に水を張り、白井さんの前に置きました。


「さあ、足を浸けて下さい。気持ち良いですよ」


 私も同じ様に盥を用意して足を水の中に浸けました。


 白井さんは渋々靴下を脱いでズボンを捲られます。

 そして足を盥に浸けられました。


「確かにこれは良い」


 白井さんはニコニコされながら周囲を見渡されます。


「先生の田舎の様に海が近ければ泳ぐのですけどね」


 私も膝に手を突いて周囲を見渡します。


「唐津ですか……。良い所ですよ」


「白井さんは行かれた事があるのですか」


 私は白井さんの横顔を見ました。


「ええ、旅行でね。その時は先生の田舎だとは知りませんでしたが、海が綺麗で、食べ物が美味しくて……」


 先生の田舎が唐津だという事は初めて知りました。


「要君は、田舎は何処なのですか……」


 白井さんの質問に私は微笑んだだけで答えませんでした。

 白井さんも察しなされたのか、また周囲を見渡されます。


「私は愛知です。近くに熱田神宮って大きな神社がありましてね……。梅雨の時期になるとお祭りがあるんですよ。お祭りの日は朝から楽しみで楽しみで……」


 足先で盥の水をチャポチャポと鳴らしておられます。


「こんな盥に氷と水を入れて、トマトやら西瓜やらを冷やして食べるんです。それが美味しくてね……」


 私はクスクスと笑ってしまいました。


「どうしたんですか……」


 白井さんは私の顔を覗き込む様にして訊かれました。


「先生も同じような事を仰ってたので」


 私も足先で水を鳴らしました。


「場所は違えど、美味しいと感じるモノは同じなんですね」


 白井さんは微笑んで頷いておられました。


「おや、幾つか赤くなってきてますね……」


 白井さんは下駄を履いて庭のトマトの方へと行かれました。

 私も白井さんの後ろからトマトの実を覗き込みました。

 確かに赤くなって来ています。

 白井さんは私を振り返るとニッコリと笑われました。


「熟すのが楽しみですね……」


「はい」


 私たちは長い事、縁側からトマトの実を見ていました。







「これは一体、何と言う食べ物なのでしょうか……」


 白井さんはお昼に希世さんが準備して下さったお皿を前に硬直されておられました。


「お素麺ですよ」


 希世さんはニコニコされながら仰います。


「ただ、お素麺だけでは栄養が偏ってしまいますので、お素麺の上に胡瓜、錦糸卵、椎茸、それにダンケルさんのところで買ったハムというモノを細く切って乗せ、上からお出汁を掛けてみました。関西の方ではこんな感じで食べられているそうですよ」


 先生はそのお素麺を一口食べられると、顔を綻ばせて感嘆の声を上げておられます。


「これは美味い……。ほら、君たちも食べてみなさい」


 私と白井さんは顔を見合わせて希世さん特製のお素麺を口にしました。


「なるほど……。これは美味しいですね」


 白井さんはずれる眼鏡を上げながら何度もそう仰ってました。


「出汁はアゴ……飛魚のお出汁です。私の知る限り、飛魚のお出汁は最高に美味しいですよ」


 希世さんは自分のお皿を持って食卓の隅に座られました。


「お代わりもございますので……」


 そう仰られ自分も食べ始められました。


「うん。美味い」


 何度も先生と白井さんはそう言っておられました。


 いつも希世さんには頭が下がります。

 この希世さんの食事に刺激されて先生の作品が生まれているのかもしれません。

 先日、私は希世さんが露西亜語の本を読んでおられるのを見ました。


「希世さんは露西亜語が読めるのですか」


 と訊ねましたら、


「挿絵を見て、何となく読んだつもりになっているだけですよ」


 と言っておられました。

 どうやら露西亜語で書かれた料理の本の様でしたが、事細かく図解がしてありました。

 そこまで先生のために勉強熱心な希世さんに私は敬服しました。


「そう言えば先生、トマトの実が幾つか赤くなってきましたよ」


 私は二杯目のお素麺を食べておられる先生に言いました。


「そうか、それは楽しみだね……」


 白井さんは三杯目のお素麺のお出汁を飲み干しながら、


「このお素麺にも合うかもしれませんね、トマト」


 と、言っておられました。


「まあ、最初の実は先生が食べて下さい。ノスタルジックな想いに浸りながら……」


 白井さんはお素麺のお皿を希世さんに差し出そうとされました。

 しかし、その白井さんよりも早くに、


「もうございませんよ」


 と希世さんは仰られました。






 昼食の後、先生は書斎に戻られました。

 私と白井さんは先生の邪魔にならぬように、また縁側へと座り、庭を見ておりました。


「トマトって植物は、元々山に自生していたモノみたいで、肥料や水はそんなに必要ないらしいんです。そんな厳しい環境で育ったトマトの方が甘くて美味しいんですよ」


 シズカと遊び疲れた白井さんは縁側に戻り、そう仰いました。


「と、この苗をくれた後輩が申しておりました」


 白井さんはまた足を盥に浸けて、温くなった水をチャプチャプ鳴らしておられました。


 私は白井さんの盥にバケツで差し水をします。

 少しは冷たくなるでしょう。


「私も調べましたよ」


 私はそう言いながら座りました。


「トマトは東洋医学では「医者いらず」と言うそうです。トマトの実が赤くなると医者が青くなるって最近では言うそうですよ」


 私と白井さんはお互いを見て声を出して笑いました。


 白井さんがじっと何かを見ておられる事に気付きました。

 私もその白井さんの視線を追って、玄関の方を見ました。

 そこには一人の女性が立っていました。

 その女性は私と白井さんに小さく頭を下げると、私たちの傍へと近付いて来られました。


「あの……何か……」


 私はその女性に訊ねます。


 するとその女性は私たちの前に膝を突いて、頭を下げられました。


「この先の長屋に住んでおります菊田と申します」


 私も白井さんも只事ではない事は感じておりました。

 その女性を立たせようと二人で女性の前にしゃがみ込みます。


「どうされたのですか、お顔を上げて下さい」


 私はそう言います。

 しかし、女性は庭に手を突いて、更に深く頭を下げられました。


「実は、子供が病で、何か精の付くモノを食べさせてやろうと思ったのですが、そんな高価なモノを買うお金もなく……」


 女性は顔を上げて、私たちを見ておられます。

 目に涙を溜めて、


「このお屋敷の前を通りかかったら赤い唐柿が見えまして……」


 私と白井さんは黙ったまま顔を見合わせました。


「もしよろしければ、あの唐柿を一つ分けて頂けないでしょうか……」


 女性は庭のトマトを見て、そう言われました。

 先生も楽しみにされておられるトマトです。

 私は困惑して周囲を見渡しました。


 白井さんは今一度女性の前にしゃがみ込まれました。


「子供さんは、お医者には……」


 白井さんの言葉に女性は首を横に振られました。

 白井さんは小さく何度か頷かれ、ゆっくりと立ち上がられました。

 そしてトマトに近付くと、赤くなっているモノから幾つかを千切り、持って来られました。


「ほら……。子供さんに食べさせてあげて下さい」


 白井さんはそう言って、女性の手を取り、トマトの実を渡されました。


「ありがとうございます……。ありがとうございます」


 女性は何度もお礼を言っておられました。

 私はその女性を立たせて、着物の膝の部分を払います。


「早く良くなると良いですね……お子さん」


 私もその女性に微笑みました。

 そしてその女性が去ろうとしたその時でした。


「待ちなさい」


 部屋の奥から、希世さんの声がしました。


 私と白井さんは希世さんを振り返って見ました。

 希世さんは縁側まで来ると、笊をその女性に差し出しました。


「卵と胡瓜、それにハムです。これも子供に食べさせてあげなさい」


 希世さんは裸足のまま庭に下りて、その笊をなかなか受け取らない女性に押し付けるように渡しました。


「あ、あの……」


 震える小さな声で、上手く聞き取れない程でした。

 希世さんはその女性の肩を叩くと、微笑まれました。


「困った時はお互い様です。もう明治の世になったというのに……。ちゃんと子供をお医者に連れて行くんですよ……」


 希世さんは女性の手を取り、笊を持たせ、背中を押されました。


「ほら、早く食べさせてあげなさい」


 菊田と名乗った女性は何度も頭を下げながら去って行きました。


「きっと先生も同じ事をされましたよ」


 希世さんはそう仰ると、足の裏を払い、厨へと戻って行かれました。


「子供さん……。大した病気じゃないと良いけどね……」


 白井さんはそう言って女性の去って行った方をじっと見つめておられました。







「出来たぞ」


 先生は夕食前に原稿の束を持って書斎から出て来られました。

 白井さんはその原稿を受取り、ペラペラを捲るとトントンと揃えて鞄に入れられました。


「ありがとうございます」


 白井さんは先生に頭を下げられました。


「書き終えたらトマトを食べようと思ってな」


 先生はそう仰って声を出して笑っておられました。


 私と白井さんは苦笑しながらお互いを見ておりました。


「先生、申し訳ありません。トマトの実、赤くなっていたと思ったのはどうやら私の勘違いだったようで……」


 白井さんはそう仰り、また頭を下げられました。


「勘違い……。まだ青かったか……」


 先生は少し残念そうな表情でそう仰いました。


「夕飯の支度が出来ました」


 希世さんが傍まで来られて仰います。


「すみません」


 白井さんはそう仰い、床に置いた鞄を持たれました。


「では、私はこれで失礼します」


 白井さんは足早に玄関の方へと向かわれました。


「何だ、飯、食って行かないのか」


 先生は白井さんにそう訊かれました。


「え、ええ……。今日はこのまま会社の方へ……」


 白井さんは靴を履き、先生に頭を下げられました。


 先生はクスクスと笑われ、その声は次第に大きくなって行きました。


「白井君。長屋の婦人にトマトをやった事くらいで私が怒ると思うかね」


 先生は笑いながら白井さんの肩をポンポンと叩いておられます。


 先生はやっぱりご存知だったのですね。


「このまま逃げ帰ると、明日此処へ来辛くなるだろう……。晩飯、食って帰りなさい」


 先生はそう仰ると笑いながら食堂へと行かれました。


 白井さんも私も、まだまだ先生には敵いません。

 私が白井さんに微笑むと、白井さんは私の腕をポンポンと叩かれました。


 食卓に着くと、先生は既に食事を始めておられました。


「すみませんでした」


 白井さんは先生に頭を下げておられました。

 私も一緒に頭を下げました。

 先生は顔を上げて、私たちにニッコリと微笑んでおられました。


「母親は、子供の為なら何でも出来るという。私の母親も私が病気にならぬようにと思い、畑でトマトを作っていたんだろうな……」


 先生はスープを飲む匙を止めてそう仰いました。


「医者いらずとは良く言ったモノだ」


 私と白井さんも座り食事を始めました。


「それはそうと、次の締め切りはいつだったかな」


 先生は食事をしながら白井さんに訊かれました。


「次は来週の火曜ですよ……忘れないで下さいよ、先生」


 白井さんの言葉に先生は息を飲まれました。

 そして私の方を見て、


「要君、「編集者いらず」という野菜を探してきてくれ」


 そう仰いました。








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