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4話 相々師匠






「要君、要君」


 先生が大声で私の名前を呼びながら、家の中を探しておられるようでした。

 私は庭で白井さんと一緒に犬のシズカとその子供たちにご飯をあげておりました。


「はい。庭におります」


 私も大声で返事をしますと、先生が縁側にやって来られました。


「ここに居たのか」


 先生はそう仰ると縁側に胡坐をかいて座られました。


「気が付くと後ろに居なかったので、探したよ」


 そして先生は煙草を取り出して火を点けられました。


 探し回る程広い家でもありません。

 私が言うと失礼にあたるのかもしれませんが。


「どうかなさいましたか」


 私は先生の傍に行き、縁側に置いてある灰皿を先生の前に置きました。


「明日、上野に行こうと思っている。要君も一緒にどうかと思ってね」


 先生は煙を吐きながら口を真一文字にされました。

 私は微笑んで是非と返事をしました。


「上野なんかにどんな用事があるのですか」


 シズカたちの相手を終えて、白井さんも傍に来られました。


「うん。新しい蝙蝠を買おうと思ってな」


 先生はニコニコと微笑まれながらそう仰いました。

 蝙蝠とは蝙蝠傘の事で、最近は洋風のハイカラな蝙蝠傘が流行っているようです。


「そんな事なら私が買ってきますよ。先生は原稿の方を……」


 そう仰られる白井さんの言葉を先生は遮る様に言われます。


「白井君は私に息抜きもさせてくれんのか。飛んだ鬼編集者だな……」


 先生は苦笑いがとにかく下手な方で、笑いにならず、単なる膨れっ面になるのです。


 私はそれを見て、白井さんを宥めました。


「白井さん。先生にも息抜きは必要ですよ。良い小説を書くには、世間を見る必要もありますので」


 私がそう言うと先生も白井さんも目を丸くして私を見られます。

 私はそんな二人の視線に気づき身を引きました。


「如何なされましたか」


 私がそう言うと先生と白井さんは声を上げて笑われました。


「いや、要君も言う様になったな」


「先生の影響ですよ」


 そう言いながら二人で大声で笑っておられました。


「な、何がおかしいんですか」


 私は顔を赤くしてその場に立ち竦んでいました。






 翌日、どんよりとした空を玄関を出たところで見上げておりましたら、後ろから先生が、


「早く蝙蝠を買わんと雨が降るな」


 そう仰いました。


「傘、持って行きましょうか」


 私は玄関にある傘を手に取ろうとしましたが、先生は私の手を掴んで首を横に振られました。


「傘を買いに行くのに、傘を持って行くのはおかしくないか」


 先生のその言葉に私は、少し考えます。

 確かに余分に傘を持っている自分の姿を考えると滑稽でした。


「それもそうですね」


 先生は口を真一文字にして微笑まれておられました。


「希世さん。行ってきます」


 先生は家の奥にそう言われ玄関の戸を閉められました。

 そして二人で歩き始めました。


「傘の事を西洋ではオンブレルと言うらしい」


 先生は西洋の文化を研究しておられる事もあり、色々を私にも教えて下さいます。

 私は初めて聞く言葉を思わず復唱しました。


「日本の傘も良いのだが、重くて肩が凝る。西洋の傘は軽くて良い」


 先生は自分の肩をトントンと叩かれながら仰います。

 先生の肩凝りは酷く、私が日に何度か解すのですが、それでは追い着かない程です。


「昼は蓮玉庵で天婦羅と蒸籠蕎麦を食べる予定だが良いかな」


 先生が外出なさる時は既に食事は決まっており、今日は漱石先生や森鴎外先生等も通われる蕎麦屋の様です。


「はい。私も蓮玉庵の蕎麦は大好きですので」


 私の言葉に満足そうに先生も頷かれました。


 多分、先生は蝙蝠傘よりもこの蓮玉庵のお蕎麦を目当てに上野に出ようと仰られたのではないでしょうか。


 街の方へと出ると人通りも多くなり、近頃ではスリやひったくりと言う輩もいるそうで、帯刀した警官も多く見られました。


 街行く紳士たちが手に蝙蝠傘を持っておられるのを見ました。


「今日は降るのでしょうね」


 先生は立ち止まり空を見上げておられます。


「そうですね。一段と曇って参りました」


 私も一緒に空を見上げます。


「急ぎましょうか。ずぶ濡れになっては美味しく蕎麦が頂けませんから」


 先生の足取りは早くなりました。

 私は先生の背中を見て、


「やっぱり」


 と呟き、先生を追いました。


「要君は何故「蝙蝠」と言うか知っているかな」


「見た目が蝙蝠みたいだからですよね」


 先生はにんまりと笑われました。


「その答えでは半分しか点をやる事は出来んな」


 先生は私の顔を覗き込む様に見て口を真一文字にされました。


「ペリーが黒船で日本にやって来た時に傘を差しておったらしい。それを見た者が、「その姿、蝙蝠のように見える」と言ったそうだ。そこから洋傘の事を「蝙蝠」と言う様になったそうだ……」


 私はまた先生に一つ教えられました。


「小説など何も教える事はない」


 なんて仰っていた先生。

 しかしもう何千というモノを教えて頂いております。


 御徒町を抜けて上野へと出ました。

 微妙な空合の中でも上野は人で溢れておりました。

 

 先生は傘屋へ向かわれるのかと思いきや、足は蓮玉庵のある広小路へと向いておりました。


「先生、傘屋はこちらだと思いますが」


 私はニヤニヤと笑いながら先生にそう言いました。


「傘屋。そんなモノは後だ。先に蕎麦を食う」


 先生は私の事を見る事もなく、足を早められました。


 堀の角を曲がると蓮玉庵が見えて参ります。

 私も何度か連れて来て頂いた事もあり、その場所は記憶しておりました。


 ふと蓮玉庵の前を見るとこっちを向いて立っておられる方の姿が見えました。


 先生は足を止めて、そのお方をじっと見つめられました。


「白井君だな……」


「ですね」


 目聡い方です。

 白井さんは先生が蓮玉庵を目当てに上野に出て来られた事を悟っておられたようです。


「先生。要君」


 手を振りながら白井さんは大声で呼ばれました。


 私と先生は白井さんの前まで来て、顔を見合わせて笑いました。


「良くここだってわかりましたね」


 私が白井さんに訊くと、


「はい。昨日の希世さんの料理はお肉だったので、今日は精養軒ではないだろうと」


 白井さんはニコニコしながら仰います。


「しかし、他の店に入る可能性もあるぞ」


 先生の言葉に白井さんは首を横に振られました。


「何年、先生に付かせて頂いていると思っておられるのですか。さぁ、入りましょう。天婦羅と蒸籠ですよね」


 白井さんは蓮玉庵の戸を開けると先生と私の背中を押されました。

 先生が召し上がられるモノまで把握されておられました。






 大きなテーブルに蒸籠蕎麦と天婦羅が並びます。


「さあ、頂きましょう」


 白井さんはお箸を手に取られました。

 しかし、白井さんは先生が最近覚えられたお蕎麦の作法をまだご存知ないのです。

 先生の蕎麦奉行ぶりの恐ろしさを……。


 白井さんは山葵と葱をつゆの中に入れようとなさいました。

 その白井さんの手を先生は扇子で叩かれました。


「白井君。蕎麦の食い方の作法は知らぬようだな……」


 先生は悪戯っぽくニヤリと笑われます。


「さ、作法……ですか」


 白井さんは慌てて箸を膳の上に置かれました。


「作法は知っておいた方が良いぞ」


 先生は最近、鴎外先生に教わったという作法を私にも教えて下さいました。

 私はニコニコ笑いながら白井さんを見ていました。


 先生はゆっくりと箸を手に取られました。


「良いかな……。江戸前の蕎麦はまず水に浸けて頂くんだ」


 先生はお水の入った小さな器を手に取り、お蕎麦をひとすくいするとそのお水に浸けてすすられました。


「こうやって頂くと蕎麦そのものの味を楽しめる」


 白井さんは先生と同じように蕎麦を水に浸けて口に運ばれました。


「なるほど。蕎麦の甘味が」


 先生は満足そうに頷かれます。


「次は塩で蕎麦を頂く」


 そう言うと今度は蕎麦に塩を付けてすすられます。

 白井さんも同じ様に。


「なるほど。これも美味い」


 先生はゆっくりと頷かれ、


「こうやって通は食べるんだよ」


 白井さんは納得したかの様に首を縦に振られました。

 そして今度こそはと薬味を取り、つゆの中へ入れようとなさいます。

 その手を先生はまた扇子で叩かれました。


「山葵はつゆに溶かない。蕎麦に乗せて食べるのですよ」


 先生は蕎麦に山葵を乗せて、塩を付けてすすられました。

 白井さんも同じようにしてすすられました。


「ほう……これは美味いですね」


 先生は満足げにニコニコされておられます。

 そしてようやくお蕎麦をつゆに浸けられました。


「こうやって山葵を乗せて食べるのですよ」


 白井さんは先生の箸先を目で追いながらキョロキョロと周囲を見渡されました。


「先生。葱は……」


 先生は口を真一文字にされ、


「葱は蕎麦の風味を解らなくしてしまいます。だからつゆには入れないのです」


「だったら何故付いて来てるのでしょうか……」


 白井さんの疑問はもっともです。


「葱はね、蕎麦湯を飲むための薬味なんですよ」


「なるほど」


 白井さんは納得されたのか、何度も頷かれました。


 私はその様子を見て、天婦羅を口に運びました。


「いやぁ……先生のお話を聞いた上で改めてお蕎麦を頂くと」


 白井さんは箸を止めてじっとお蕎麦を見ておられました。


「美味しいですか」


 先生は白井さんを見て微笑んでおられます。

 そして、


「私は鴎外先生からこの作法というモノを聞いた後のお蕎麦は不味かったですね」


 白井さんは呆気に取られた表情で先生を見ておられました。

 私はそれがおかしくて思わず笑ってしまいました。

 私の時も同じ事を訊かれましたので、それとなくわかっておりました。


「作法というモノは知っていれば良い。私はそう思っています。お蕎麦を食べるのに作法が存在するのかどうか……。それも疑問ですが、要は美味しく頂けば良いのです。店主も作法をどうこうよりも私たちが美味しく頂く事を望んでおられるでしょう。西洋ではスパゲッチなる麺があります。彼らはその麺を、音を立てずに食べる事が作法、向こうの言葉でエッチケットと言うらしいですが、私は音を立てずにお蕎麦を食べるなど有り得ません。そんな詰まらぬ事より美味しく頂く事が、一番なのですよ」


 白井さんは黙ったまま先生の言葉を聞いておられました。

 先生は白井さんに微笑むとつゆの中に葱と山葵を入れてそれを箸の先でかき混ぜられました。


「こうやって食べるお蕎麦は格別です。自分の食べたい様にして食べる。それが一番なのですよ」


 私に仰った事と同じ事を白井さんにも話しておられました。

 そして先生は私の方を見られました。


「要君。これは小説にも言える事です。小説とはかく在るべきなどというモノではありません。もちろん作法などありませんが、こう書くべきなんていう風習が雑誌などで言われています」


 私も先生に届く雑誌に書いてある記事を読み、遺憾に思っていたところでした。

 私は箸を置いて、姿勢を正しました。


「そんな小説を書いておれば、誰が書いても同じような小説になってしまいます。書き手によってその手順や言い回しが違うからこそ小説というモノは面白いのです」


 私は静かに頷きます。


「君は君の小説を書く。私は私の小説を書く。だから面白いのですよ」


 先生は硬直したままの白井さんに視線をやられました。


「ですよね。白井君……」


 その言葉に白井さんは我に返り、大きく頷かれました。


「そ、その通りです」


 そう言うと箸を置かれました。


「編集者によっても違うんですよ。ある者は面白い、傑作だと言いますが、ある者はくだらない、駄作だと言います。そうやって世に出なかった作品は埋もれて行くのです」


 先生はにんまりと笑われ、お蕎麦に手を伸ばされました。


「私はこの白井君に出会えて運が良かったのですよ。白井君でなければ、私の作品など少し硬い尻拭き紙になっていたかもしれませんからね」


 先生はそう仰って声を上げて笑われました。


「先生……食事中ですよ」


 私は慌てて先生の袖を引っ張りました。


 先生は咳払いをして、頭を下げられました。


「これは失敬した……」


 そう言ってまた笑われました。


「さあ、お蕎麦を食べて珈琲を飲みに行きますよ」


 先生のその言葉を合図に私たちはお蕎麦を頂きました。


 




 白井さんは蒸籠を更に二枚追加されておられました。


「もうお腹いっぱいです」


 と一人でお腹を擦りながら私たちの前を歩いておられます。


「そんなに食べると、甘いモノが食べられませんよ」


 先生は白井さんの背中にそう仰いました。

 白井さんは足を止めて振り返られました。


「甘いモノは別腹ですよ」


 そう仰るとニヤリと笑って突き出たお腹をポンポンと叩かれました。

 それを見て私と先生は苦笑しておりました。


 先生が足を止めてカフェの看板を見上げておられます。

 私は先生の顔を覗き込む様に見ました。


「このカフェがどうかなさいましたか」


 私は先生に訊ねました。


「うん。どうやらこの店だな……」


 先生はそのカフェの戸を開けられます。

 どうやら珈琲を飲む店も決められておられた様でした。


「白井さん。珈琲飲みますよ」


 私は少し前を歩いておられた白井さんを呼びました。

 それに気付き、白井さんは慌てて引き返されました。


「この店ですか……」


 白井さんは看板を見てそう仰られました。


「ええ……その様です」


「何故、この店なのでしょうか」


 私と白井さんは首を傾げて先生の後を追い掛けました。


 先生は奥の席に座り、扇子で扇ぎながらソファに座られておられました。

 私と白井さんも先生の向かいに座りました。

 すぐにハイカラな女中がやって来て、冷たいお水をテーブルに置いてくれます。

 先生は懐から煙草を取り出して、


「氷珈琲とシュークリームを頼む」


 そう仰いました。

 私と白井さんは顔を見合わせて頷き、同じモノを頂く事に致しました。


 女中はペコリと頭を下げると厨房へと戻って行きました。


「氷珈琲とは……」


 白井さんは身を乗り出して先生に訊かれました。

 先生は煙草に火を点けると煙を吐きながら、また口を真一文字にされました。


「こう暑いと冷たいモノが欲しくなるだろう……」


 白井さんは上着を脱がれ、シャツの袖を捲りながら頷かれます。


「そうですね。熱い珈琲も良いのですが、こう暑いとソーダなども美味しいですよね」


 私は氷珈琲の意味が解りました。


「もしかして冷たい珈琲が飲めるのでしょうか……」


 私の言葉に先生はニッコリと微笑まれます。


「先日、明治文化研究会の石井さんに聞いてね。冷たい珈琲が頂ける事をね」


「石井さんと言いますと、あの石井研堂さんですか」


 白井さんは目を丸くして仰られました。

 私には石井さんが誰なのか判りませんでしたが、かなり著名な方の様です。


 先生は煙草の煙を燻らせながら頷かれます。


「それにシュークリーム……」


 シュークリームとは西洋の靴を磨く時に使うクリームの事だと私は把握しておりました。

 しかし、カフェで頼むくらいですので、そんなモノではないのでしょう。


「フランスの菓子のようですね。これも美味いと言っておられましたよ」


 私には白井さんが唾を飲み込む音が聞こえて来ました。


 しばらくするとグラスに入った冷たい珈琲とシュークリームなるモノを女中がテーブルに並べました。

 冷たい珈琲は何となく味も想像できましたが、シュークリームと言うジャガイモのような菓子をどうやって食べればいいのか、良くわかりませんでした。

 私と白井さんはそのシュークリームを先生がどのように食されるのかをじっと見つめておりました。

 それに気付いたのか、先生は私たちを見て氷珈琲のグラスを置かれました。


「何をしてる。シュークリーム、早く食べてみなさい」


 そう仰られました。


「先生。どうも作法が」


 白井さんはそう仰ると頭を掻いておられます。


 先生は白井さんを見て、ニヤリと笑い、手でシュークリームを掴み口に入れられました。

 ジャガイモのようなモノの中からカスタアドクリームが溢れ出て先生の膝の上に落ちました。

 先生は慌てて膝に口を付けられるとそのクリームを吸う様に舐められました。


「白井君。言っただろう。作法よりも美味しく頂く事の方が大事なのだよ」


 先生は口の周りにクリームを付けたままそう仰られ、残りのシュークリームを口に放り込まれました。


「何とも食べづらい食い物だな……」


 私はそんな先生がおかしくて、思わず微笑んでしまいました。


 先生は咳払いをして、おしぼりで口の周りのクリームを拭いておられます。


「これからどんどん西洋のモノが日本に入ってくる。そんなモノにいちいち作法などあったら私たちの脳は満腹になり、覚える事も出来ませんよ。これから覚える新しい事は作法などより、それをどう自分の中に取り込むかですよ」


 先生はそう仰ると氷珈琲を一気に飲んでおられました。


 私と白井さんはそんな先生に微笑み、シュークリームと氷珈琲を頂きました。






 カフェで氷珈琲とシュークリームを頂いた後、ようやく傘を買いにやって来ました。


「要君。君の傘も買いましょう」


 先生はそう仰られました。

 私は恐縮してしまい、首を横に振りました。


「私の傘など、結構です。傘は家にもありますので……」


 私は先生に言いました。


「君は雨の中、頼み事をする事もある。それでは私の気が済まない」


 先生はご自分の選んだ傘に名前を彫って頂くために店員に名前を書いた紙を渡されておられました。


 私は先生の気持ちを嬉しく思いましたが、やはり遠慮させて頂きました。

 先生も頑固でどうしても傘を選べと仰られ譲られません。


 白井さんは私の横で「買ってもらいなさい」と言われます。


 私は二人にそう言われて、耳を塞ぎたくなりました。

 そしてふと思いつきました。


「では、私に、先生が使われていた古い蝙蝠を下さい。その方が私も嬉しいです」


 私のその言葉に先生と白井さんは言葉を無くされた様でした。


 先生はニコニコと微笑みながら私の肩を叩かれました。


「良いでしょう。私の古い蝙蝠を要君に差し上げましょう」


 先生は名前の入った新しい蝙蝠傘を満足げに手に持っていつまでも微笑んでおられました。


 店を出たところで白井さんは会社に戻ると言われ、足早に人混みの中に消えて行かれました。

 私と先生は帰りも歩こうという事になり、先生の自宅の方へと歩き始めました。


 しばらくするとポツポツと雨が降り始めました。

 ずっとどんよりとした空合でしたので、ようやく来たかという感じでした。


 先生は買ったばかりの傘を広げられました。

 オイルを塗ったような匂いがしました。


「要君。君も傘に入りなさい」


 先生は並んで歩く私を傘の下に入れられました。


「いえ、私は大丈夫ですので、先生が濡れないように」


 私はそう言うと少し先生から離れました。


「何を言っている。大きな傘だ。君一人くらい一緒でもどうと言う事はない」


 先生はまた私を傘の下に入れられます。

 そして今度は無理矢理私の腕を先生は掴まれました。

 私は少し恥ずかしくなり顔を赤らめておりました。


「要君。漱石先生の『虞美人草』はもう読んだかな……」


 先生は私を覗き込む様にしてそう仰いました。


「はい」


 私は小さな声で答えました。

 先生はニッコリと微笑み、前を向かれます。


「あの話の中に、電信柱に描かれた相々傘というモノが出て来るんですよ。相々傘はご存知ですか」


 私は小さく頷きました。

 想いの相手の名前と自分の名前を一つの傘の下に書き込む。

 そんな古い風習の事である事は知っていました。


「私はそんな落書きにどんな意味があるのかよくわかりませんでした」


 先生はまた私の顔を覗き込まれます。


「しかしね。今は何となく解ります。想いの相手の傍に居たい。それが叶わぬならば名前だけでも隣に書きたい。そういう事なのでしょうね」


 雨足はどんどん強くなって行きます。


「先程、君が私の傘が欲しいと言った時にふと思ったのです。私も敬愛する人に傘を贈られるより、その人の使っていたモノを頂く方が嬉しいだろうと」


 先生の横顔は嬉しそうに見えました。

 私はそんな先生を見て、顔を赤らめてしまいました。


「嬉しい言葉でしたよ」


 先生はそう仰いました。


 その後、家まで相々傘で先生と帰りました。

 私は殆ど濡れていなかったのですが、先生の肩はびしょ濡れでした。

 翌日から先生は夏風邪をひいておられました。








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