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2話 貪婪師匠





 先生が寝込まれて今日で十日になります。

 白井さんも、


「今回は長い……」


 と溜息を洩らしながら頭を抱えておられます。

 毎日色々な珍しいモノをお見舞いに持って来られる白井さんが気の毒に思え、先生の寝室のドアを叩いても、天岩戸よろしく先生が出て来られる事はありませんでした。


 先生の寝室に食事のお膳を運ばれる希世さんだけが、唯一先生が生きておられる事を確認出来る存在でした。


 希世さんが先生のお膳を引いて寝室を出て来られたのがわかりましたので、私は書斎の戸を開けました。


「如何でしたか……」


 希世さんに訊きますと、希世さんは首を静かに横に振られるだけでした。


「そうですか……」


 私はそう言うと、書斎の奥の椅子に座られる白井さんを振り返りました。

 白井さんはまた大きく溜息を吐いて立ち上がられました。


「今日は帰ります。また明日出直しますので……」


 そう仰ると大きな革の鞄を持って書斎を出られました。

 私は慌てて、白井さんを追いかけました。

 外は生憎の雨で玄関口に立掛けた蝙蝠傘を白井さんは力なく広げられました。


「要君、先生が欲しいモノがわかりましたら教えて下さい」


 そう仰る声にも力がありませんでした。

 私は肩を落として雨の中を帰られる白井さんが不憫でなりませんでした。

 白井さんに教えて戴きましたが、先生が書けなくなると、暫くの時間を要するようでございまして、いつも寝室に閉じ籠り何も受け付けなくなるそうなのです。


 私は希世さんと二人の食卓で夕飯を戴きました。


「先生は、お食事は……」


 私が希世さんに訊き終える前に、


「もうお済になられましたよ」


 と希世さんは言います。


「ちゃんと食事は、なされてるのですね……」


「ええ。朝、昼、晩。ちゃんと……」


 希世さんはそこまで言うと箸を止めて天井を仰がれました。


「そう言えば、この大根の葉の漬物を残されておられました」


 希世さんは私の顔を覗かれる様にして身を乗り出されました。

 私は少々身を引いて、


「そ、それ以外は……」


 そう訊き返しました。


「残さずに綺麗に……」


「き、綺麗に……」


 希世さんは沢庵を口に放り込まれると、


「ええ……綺麗に……」


 そう言ってにっこりと微笑まれました。


 どうやら食欲はあるようで、少し安心しました。


「明日の朝食の際に、先生のところにコレを持って行って下さいませんか」


 私は準備しておいた万年筆と原稿用紙を希世さんに手渡しました。

 希世さんはそれと交換するかの様に私の前に珈琲を置いて下さいました。


「承知致しました。先生にお渡しすればよろしいのですね」


 私は希世さんに微笑み、首を振りました。


「食事と一緒に置いて来て戴ければ結構です。先生の欲しいモノを書いて下されば、白井さんも喜ばれますので……」


 私は珈琲に砂糖を一杯だけ入れてかき混ぜました。






 翌朝も先生は寝室から出て来られませんでした。


 私が書斎で一人原稿を書いておりますと、玄関口から白井さんの声が致しました。

 私は書斎を出て、白井さんを迎えました。


「如何ですか……先生は」


 白井さんは靴を脱ぎながら開口一番そう訊かれます。

 私は首を横に振って、無意識に先生の寝室の方を見ました。

 物音一つ聞こえて来ない先生の寝室は物々しい空気を醸し出していました。

 先生の寝室の前に立つと、気のせいか周囲よりも冷たい空気を感じます。


「先生、今日はサイダーをお持ちしましたよ」


 白井さんはいつもと変わらず明るい声で寝室の中の先生に呼びかけられますが、先生の返事は相変わらずありませんでした。


 白井さんは力のない笑顔を作られて肩を落としたまま書斎へと入られました。

 そしていつものように窓際にある椅子に座り、深い溜息を吐かれます。

 そんな白井さんが痛々しくてなりませんでした。


「いつもは珍しいモノを持ってくると、とりあえず寝室からは出て来てもらえるのですが……。今回はどうにも……」


 白井さんは俯いて鞄とサイダーの入った袋を床の上に置かれました。


 書けなくなる事。

 先生にもあるのかと訊いた事がございました。


「書けなくなる事……。それはもちろんあるよ。シュポルツの選手が、いつもいい成績を出せないのと同じ事だよ」


 先生は微笑みながらそう仰いました。


「自分の中にゆっくりと溜まって行ったモノが一気に吐き出されて、その分、吐き出す圧力みたいなモノが弱まる時があるんです。そんな時、小説家は書けなくなります。要君にもいずれそんな時が来ます。そんな時は焦らず、ゆっくりと時を過ごしなさい……。それも小説家の大事な仕事なんです」


 私は如何にも先生らしい言葉だと思い、それを聞いてました。


「先生は今、誰よりも苦しんでおられるのだと思います」


 私はそう言って白井さんの向かいに座りました。


「わかります。わかりますけど……。私も苦しんですよ……」


 白井さんは頭を抱えられたまま、吐き出すようにそう仰いました。

 そしてふと顔を上げられました。


「そうだ……。要君……。先生の名前で原稿を書いてもらえませんか……」


 それは悪魔の囁きでした。


「私と要君だけの秘密です。もちろん誰にも分かりませんし……」


 私は眉を寄せて白井さんを見ました。


「白井さん……。お気持ちはわかります。それであなたの面目は立つでしょうから……。しかし、それは私たちが最もやってはいけない事なのではないでしょうか……」


 私がそう口にした言葉に白井さんはゆっくりと椅子に腰を落とされました。


「すみませんでした……。今の言葉は忘れて下さい……」


 そう言って頭を下げられました。


「失礼します……」


 その時、書斎の戸の向こうから希世さんの声が聞こえました。

 私が返事をすると戸はゆっくりと開きました。


「あら、白井さんもいらっしゃったのですね……」


 希世さんはそう仰ると白井さんに頭を下げられました。


「要さん、私は今から月島の方へ買い物に行ってまいります。申し訳ありませんが、お昼は外で済ませて戴いてもよろしいでしょうか」


 私は快諾して希世さんに微笑みました。


「あ、希世さん。これ、先生にお持ちしたサイダーです。冷やして飲んで下さい」


 白井さんは百貨店の袋に入ったサイダーを希世さんにお渡しになられました。


「いつもありがとうございます。珍しいモノを……」


 希世さんは改めて白井さんに頭を下げられました。

 そして、


「あ、そうそう……」


 希世さんは着物の袖口に手を入れて一枚の紙を出しました。


「先生からのお手紙……預かってました。先生が今、欲しいモノだそうですよ」


 希世さんのその言葉に白井さんは慌てて立ち上がられました。


 希世さんはその紙を白井さんに渡されると、立ち上がられました。


「では、私はこれで……」


 そう言ってそそくさと出掛けられました。


「これで先生の天岩戸も終わる……」


 白井さんは子供のように微笑みながら椅子に座られました。


「ね、要君……」


 その手に持った紙をなかなか開こうとはされません。

 少し怖いのかもしれないと私は思いました。

 先生はやはり物書きです。

 紙とペンがあると何かを書きたくなるのです。


 白井さんは私の顔を見ながら息を整えて、その紙を開かれました。

 そしてその紙を開いた瞬間に白井さんの表情が一変したのです。


「どうされました……」


 私は白井さんに尋ねました。

 すると白井さんは手に持った紙を私に見えるように開かれたのです。


「我欲金目千物」


 その紙にはそう書かれてました。


「カネメセンブツヲ欲ス……」


 白井さんは脱げ柄になったようにそう呟かれました。






 私は先生の寝室の外から声を掛け、白井さんを連れて近くのカフェへと向かいました。

 白井さんの手を引いて私はそのカフェの一番奥の席に座ります。

 流石に先生の家の中で話せる話ではない気がしたのです。


「カネメセンブツヲ欲ス……」


 白井さんは道中も念仏のように何度も先生の書いた言葉を呟かれておられました。


 正直、私も驚きました。

 それ程に先生らしからぬ言葉だったのです。


 私は女中にライスカレーを二つ注文して、出されたお冷を口にしました。


「白井さん……」


 私は身を乗り出して声を掛けました。


 白井さんは私の顔を見て力なく微笑み、


「要は先生に書いて欲しければもっと金を出せって事なのでしょうね……」


 そう言うとお冷を一気に飲み干して、テーブルに叩き付ける様にグラスを置かれました。


「見損ないましたよ……」


 私は白井さんの出版社が先生にどれ程の原稿料を払われているのか分かりませんので、何も言えません。


「金目千物って……万物ではない所が先生らしいって言えば先生らしいですけど……」


 白井さんがブツブツと文句を言っているところにライスカレーが運ばれました。

 私は白井さんを落ち着かせて、ライスカレーを食べようという事にしました。


「今までもこんな事があったのですか……」


 私は白井さんに訊きます。


「まさか……。先生とはもう十数年の付き合いになりますが一度もありません。それならそうと直接言って下されば良いのに……」


 白井さんは自棄食いするかのようにライスカレーを口に入れられます。


 私は匙を置いて少し考えました。


「私が居候しているからでしょうか……。原稿料を上げろっていうのは……」


 白井さんも私の言葉に匙を置かれました。

 そして口の周りにカレーを付けたまま真顔で私を覗き込まれます。


「先生にお支払いしている原稿料は役所の役人の給料の二十倍から三十倍。いえ……もっとかもしれません。そんなお金に困っている筈はないのですよ……」


 そ、そんなに……。


 私はその額に驚きましたが、顔には出さない様にしてライスカレーを口に入れました。


「先生が金の亡者だなんて初めて知りましたよ……」


 白井さんはそう言うとまたライスカレーを口に入れ、大声でお冷のお代わりを女中に頼まれました。


 先生はどんな意図があってこんなモノを書かれたのでしょう。

 もちろん小説を書く事を生業にされているのです。

 原稿料の値上げの主張も作家の仕事の一つだと思います。

 しかし、先生らしからぬ直接的な表現で、私自身も驚いてしまいました。

 そして少なからず、先生への印象が変わってしまったのも事実でした。






 そのまま私と白井さんは、お酒の飲める別のカフェへと向かいました。

 ライスカレーというモノは人を興奮させるようなモノでも入っているのでしょうか。

 白井さんの興奮は更に発展して行ったのです。


「もしかすると先生は、もううちで本を書くのを辞めたいと考えておられるのかもしれませんね……。金目千物なんて無理難題を私に押し付けて、聞き入れてもらえないのであれば他所の出版社へ移るって魂胆なのかもしれません」


 白井さんは物凄い速さで麦酒を飲んでおられました。

 私は既に温くなった麦酒のグラスを握りしめて、そんな白井さんに、ただただ苦笑するだけでした。

 白井さんの隣に座っておられる翠と名札の付いた女中も困惑しているようです。


「要君。最近、他所の出版社も来てるのでしょう」


「ええ、何社かは来られてますが……」


 それを聞いてゴブランのソファに倒れ込む様に顔を伏せられました。


「やっぱり来てるんだ……」


 そう言うと今度は勢いよく顔を上げられて、私をじっと見られます。


「どんな編集者……女性、若い……」


 私はそんな白井さんを見るのが痛々しく思えてなりませんでした。

 何も答えない私に、


「やっぱり、若い女性なんだ……」


 そう嘆きながら再びソファに顔を伏せられました。


「勝てませんよね……若い女性には……」


 何度か一緒にお酒を飲んだ事もあったのですが、ここまで取り乱す白井さんを見たのは初めてで、普段の白井さんからは想像もつかない姿でした。


 先生のところに幾つかの出版社が来ているのは事実です。

 その中に若い女性が居るのも事実。

 しかし、先生は私に仰いました。


「要君。今よりも良い条件で書いて下さいって言ってくる出版社はいくらでもある。しかしね、私は思うんだよ。私を世に出してくれた白井君の会社に感謝しなければいけないってね。そりゃ、私も男だ。若い女性の編集者と仕事してみたいって思う事もある。だけどね、そんな事くらいで白井君との縁を切るなんて私には出来ません。それ程に白井君にはお世話になっている」


 原稿を書く手を止めて微笑みながら、そう仰っていた先生の目に嘘はない筈なのです。


「人と人との繋がりっていうのは偶然じゃないんだよ。なるべくしてなった。そんな縁が繋ぐモノなんだよ……。君もその縁を大切にしなさい」


 時に先生の言葉は、私の過ごしてきた時間を洗い流してくれます。

 そうやって私は先生の言葉を噛み締めて、細く締め付けられる喉の奥に飲み込んで行きます。


 私はそんな先生の言葉を思い出し、顔を上げました。


「白井さん……」


 その私の言葉は背中合わせに座っていた男の声にかき消されてしまいました。


「お前さっきからうるさいんだよ……。俺たちが気分よく飲んでる横に何をグダグダ言ってるんだ」


 男は土足のままソファの背もたれを越えて、白井さんの横にやって来ました。


 私の横に座っていた女中が耳元で言います。


「この辺で有名なゴロツキです……」


 女中はそれだけ言うと逃げる様に席を立ちました。


「うるせえよ馬鹿野郎。こっちも金払って酒飲んでるんだ。どうしようと勝手だろうが」


 謝るかと思っていた白井さんもソファの上に立ち上がり、男に掴みかかりました。


 そうなると男の仲間たちも堰を切った様に雪崩れ込んで来ました。


「白井さん」


 私も男たちに何発も殴られながら、ただ白井さんの名前を呼んでました。

 そしてどうやらそのまま気を失ってしまったようでした。






 目を開けると警察の留置所の中でした。

 片目が開け辛い所を見ると、私もかなりやられたようです。

 ぼんやりと私の横でボロボロになった背広のまま横になる白井さんを見付けました。


「白井さん……」


 背を向けたまま横になる白井さんの背中に手を掛けようとしました。

 するとその白井さんの背中が小さく震えている事に気付きました。


「要君……」


 背を向けたまま涙声で白井さんは私の名前を口にしました。


「私は、何を間違えたのでしょうか……。そりゃ、多少図々しく希世さんのご飯食べに来たりしますよ……。だけど、ちゃんと編集者として、人として、先生に礼を尽くして来たつもりです。先生は何が不満だったのでしょうか……」


「白井さん……」


 私は白井さんの方を向いて座り直しました。


「良いんです……。他の出版社と仕事をしていただいても……。そんな事は良いんです……」


 白井さんは身体を小さくして破れた背広の袖で涙を拭われてました。


「要君……」


「はい……」


「私は先生が好きです。出来れば一生、先生と仕事がしたいんです。先生と離れたくないんです……」


 私は目を閉じ頷きました。


「私もです……白井さん」


 そう口にすると自然に涙が溢れて来ました。


 そうやって二人で泣いていました。


 どれくらいの時間が経ったのでしょうか。

 腰にサーベルを差した警察官が私たちの居る留置所の前にやって来ました。


「身元引受人が来た。出なさい……」


 そう言うと鍵を開けました。


 私と白井さんは顔を見合わせて、恐る恐る留置所を出ました。

 幾つかの書類に記名させられ、持っていたモノを返してもらいました。


「もう、喧嘩なんてするんじゃないぞ」


 警察官は無愛想に言うと、私たちを部屋の外に放り出す様に背中を押して、ドアを締めました。


「身元引受人って……」


 白井さんは私の顔をじっと見て言います。


「多分……」


「先生」


「先生」


 私と白井さんは警察署の中を走り表に出ました。

 途中「走るな」と言う声が聞こえましたが、そんな声は聞こえないふりです。


 表に出るとそこには寒そうに袖に手を入れた先生が立っておられました。


「先生」


 私たちは何度もそう呼びながら先生の傍に駆け寄りました。


 先生は無言のまま私と白井さんの顔をじっと見ておられました。


「えらくやられたな……」


 そう静かに仰います。


 私たちは申し訳なさそうに顔を伏せました。

 先生はそんな私たちを見て鼻で笑われました。


「とにかく帰ろう……。そんな形ではその辺のルンペンと間違われる」


 そう言うと先生は歩き出されました。






 帰り道に先生に色々と教えてもらいました。

 お店が警察を呼び、ゴロツキたちは一人残らず連行されたそうです。

 そして前科のあるゴロツキたちは、三年は出て来れないという事でした。

 先生にはカフェの方から連絡が行ったらしく、慌てて警察へとやって来たそうでした。


 ふと立ち止まり、先生は星空を見上げておられました。


「星というのは田舎に行けば行くほど見えるそうだ。何処でも同じように見えている訳ではないらしい……」


 先生はそう仰ると、後ろを歩く私と白井さんを振り返られました。


「都会に居ると見えるモノも見えない。そういう事なのかな……」


 私と白井さんはお互いの顔を見て、先生が何を仰りたいのか解らず、首を傾げました。


 先生がまた歩き出されましたので、私たちもその後ろを着いて行きます。


「何も星の話をしているのではないんだ。都会に居ると見えないモノ。人情やら、人の温かみやら……云々……」


 先生はそう仰ると立ち止まり、振り返られました。

 そして私と白井さんに頭を下げられました。


「色々とすまなかった」


 それに驚いて、私と白井さんも思わず先生に頭を下げていました。

 先生はゆっくりと頭を上げられました。


「希世さんに聞いたよ……。君たち二人が飛んだ天照大御神に頭を抱えておったとね……」


 先生はそう仰ると微笑み、橋の欄干に手を突いて流れる川の水面を見つめておられました。


「白井君が無理難題を押し付けるから、今回は苦しんだ……」


「無理難題……」


 白井さんは眉間に皺を寄せて私を見ました。

 私は何の事か解らず首を横に振ります。


「それに要君も同調して……」


 今度は私が白井さんの顔を見ます。

 白井さんが今度は首を横に振られました。


 それに気付いたのか、先生は振り返ってじっと私と白井さんの顔を交互に見られました。


「何だ……。覚えてないのか……」


 私と白井さんは二人で首を傾げました。


「白井君、言ったじゃないか、次回作はエロスでお願いしますと……。要君も、私も先生のエロスが読んでみたいですと……」


 私と白井さんはそれを思い出して、


「ああ」


 と声を出して頷きました。


「当の本人たちは忘れていたか……。何だ、悩んで損をした」


 先生はそう仰ると声を出して笑っておられました。

 私と白井さんもクスクスと笑いました。


「まあ、おかげさまで君たちの待ち焦がれる「エロス」が書けそうだよ」


 先生はそう言って歩き出されました。


「どうしても最後が決まらず、何日も閉じ籠ってしまった」


 そういう事だったんですね……。


 私は何故か安心しました。

 横を見ると白井さんも私と同じように思ったのか、嬉しそうに微笑んでおられました。


「さあ、早く家に帰ろう……。腹が減ったよ」


 先生は私たちに微笑むと少しだけ足を速められました。


「今日は金目鯛の干物だ。朝、希世さんに注文したら、わざわざ月島界隈まで買いに行ってくれたそうだ。金目は美味いぞ。脂が乗っていて……」


 私はふと、希世さんから受け取った先生の走り書きを思い出しました。


「白井さん……」


 白井さんは私の声に不思議そうな顔をしておられました。


「希世さんから受け取った先生の伝言……」


「あ、ああ……」


 白井さんは背広のポケットからその紙を出して、私に手渡します。

 私はその紙をガス灯の下で広げました。


「我欲金目干物」


「金目鯛の……干物」


 私の横で白井さんがそう呟きました。

 私はそんな白井さんがおかしくて笑ってしまいました。


「希世さん。帰ったぞ……。飯だ、飯だ……」


 玄関を開けてそう仰る先生の声が聞こえました。








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