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24話 東京師匠





先生が唐津に旅立たれてから二月が経ち、すっかり春になってしまいました。

ご近所の桜も満開で、その花びらが家の外にも漂っております。


先生の家の建て増しも終わり、大工さん方も片付けとお庭の手入れに入っておられ、建具師の方々の作業も昨日終了したと報告を受けました。


家政婦の希世さんも先週末に離れに引っ越して来られ、お部屋の片付けも終わられた様です。


私は建て増しの間、別の場所に保管していた蔵書を新しい書斎に作りつけられた棚に並べる作業をしておりました。

ようやくこれで、此処で執筆が始められる事になります。

先生は旅に出ておられましたが、私はその間、食堂の食卓で執筆をしておりました。

やはり、環境が変わるとどうしても効率が落ちて、編集者の白井さんに何度か、お小言を戴きました。


先生の蔵書は多く、それを棚に立てるだけでも一苦労なのですが、今後、探しやすい様に分類し棚に並べているので、時間がかかっております。

更に、以前より納屋に保管していた本も持って来て、並べています。

希世さんにも手伝って戴き、今日は二人掛で本を並べておりました。


「お部屋が板張りになったので、掃除は楽になりますね」


と希世さんは嬉しそうです。


「要君」


と、その時、玄関から声がしました。

編集者の白井さんです。

今日はいつもより遅く、早い時は朝食の最中に来られる事もあるのですが、今日はもうお昼に近い時間でした。


「た、大変です」


ドタドタと音がして、白井さんは廊下で滑りながら書斎に入って来られます。


「どうしたんですか……。お昼の準備はまだ出来てませんよ」


と、白井さんに希世さんは言われて、クスクスと笑っておられます。


「え、まだなんですか」


白井さんは希世さんにそう言われましたが、直ぐに我に返ると、


「そんな事より、大変な事になりました」


と私の傍まで来られます。


「何ですか……」


私もその白井さんの様子が可笑しくて、笑ってしまいました。


「映画です……。キネマですよ」


さっぱりわかりません。


「キネマがどうかしたんですか……」


私は手に持った本を棚に立てます。


「決まったんです。先生の『横濱輪舞』が映画になるんです」


私はじっと白井さんを見つめました。


「映画……」


無意識にそう呟きました。


「横濱輪舞が……、映画に……」


「そうなんですよ。映画会社から今朝、連絡がありまして。是非、先生の『横濱輪舞』を映画にと……」


私は嬉しくて今にも飛び上がりそうになるのを押さえておりましたが、しっかりと拳を握っておりました。


希世さんは私たちのやり取りをじっと見ておられる様でしたが、その頬を涙が伝っておられました。


『横濱輪舞』は先生の代表作でもあり、私も大好きな作品でした。

私が「キネマの様な小説を書きたい」と思う切っ掛けになった小説です。


「あの、先生へ連絡は……」


私は白井さんに訊ねました。


「今朝、唐津のご実家に電報を打ちましたが、返事はありません」


既に先生は唐津のご実家を出ておられる可能性もあります。


「これで先生も銀幕作家ですよ」


銀幕作家という言葉が正しいのかどうかわかりませんが、とにかく凄い事なのは充分に伝わりました。


「お昼はお赤飯にしますわ……。私、買い出しに行ってきます」


と希世さんは割烹着を脱ぎながら書斎を出て行かれました。


「希世さん、出来れば尾頭付きも」


と希世さんの背中に白井さんは大声で言われました。






食卓に富風庵のお赤飯が置いてあり、鯛の尾頭付きが真ん中にありました。


「これは御馳走ですね……」


白井さんも思ってた尾頭付きよりも大きな鯛が置いてある事に驚いておられました。


「先生がご不在でお祝いも申し訳ない気がしますが……」


と希世さんはお吸い物の椀を持って食堂にやって来られました。


「いえ、三日三晩、パーチーをやっても良い程ですよ」


白井さんは嬉しそうに椅子に座られました。


「蒸かし立ての富風庵のお赤飯です。美味しいですよ」


と希世さんはお椀を私と白井さんの前に置かれました。


「戴きましょう」


と希世さんも座られました。


私たちは手を合わせて、お赤飯に箸を付けました。


「しかし、凄いですね……。キネマになるなんて……」


私はお吸い物を戴きながら言いました。


「ええ、日本のキネマ界はこれからです。しかし、この日本程、きめ細やかな小説がある国は他にありません。日本のキネマはそれが土台になって、今後どんどん世界に進出して行く筈です」


白井さんの箸は尾頭付きへと延びています。

私もその意見には同感でした。

人を書く事に関しては日本の小説は本当に丁寧に書かれている気がします。

特に先生の書かれる小説に関しては息遣いさえ感じる程の作品です。

銀幕の中でそれがどう表現されるか、楽しみで仕方ありません。


「まあ、弁士の腕にもよるのですけどね……」


弁士とは映画の解説を銀幕の横で行う人の事で、この活動弁士によってその映画の良し悪しが左右されます。


「とにかく、うれしいですね……。これでまた先生の名が一躍広がりますよ」


私は白井さんの言葉に頷きます。


「しかし、これでまた先生は忙しくなりますね……。他の出版社からも依頼が増えるんじゃないですかね……」


白井さんは私の言葉に咽ておられました。






私は昼食を戴いた後、また書斎に入り、本を棚に並べておりました。

先生の作品を棚に立てながら、『横濱輪舞』を手に取りました。

私もこの本は持っており、装丁が擦り切れる程に何度も読み返した作品です。


「何度、読みましたか」


書斎の入口で白井さんの声がしました。

そして白井さんはゆっくりと書斎に入って来られ、傍にある本を棚に立てて行かれます。


「もう、何度読んだかなんてわかりませんね……。先生のこの作品を読んで、私も小説を書いてみたいって思った作品ですから……」


私はその本を棚に立てました。


「私は、先生のその作品で確信したんですよね……。先生に一生付いて行こうって……」


白井さんは微笑みながら言われました。


私もその言葉に頷きます。


「先生って不思議なんですよ……。作品の中の喜怒哀楽が凄く直接的なんです。だけど、その感情のすべてが何処となく優しいんですよね……。先生の人柄が表れているのかもしれませんね……」


喜怒哀楽のすべてが優しい……。


私はそれを聞いて気付きました。

日本が戦争ををやっている事への怒りや哀しみに関しても優しく表現されている。

力の無い自分の情けなさが、作品を一つ上の品格を醸し出している。


なるほど……。


私はコクリと頷きました。


「その先生は今、何処におられるのでしょうね……」


棚に本を立てながら白井さんは微笑んでおられます。


「早く、この事をお伝えしたいのですが……」


「そうですね。もう唐津には居られないのでしょうか……」


「電報を読んでおられたら、もう電話の一本もあって良いと思うのですが……」


私たちは二人で頷きました。






その日の夕方、先生の蔵書を棚に立て終え、食堂で希世さんが淹れてくれた珈琲を飲んでおりました。


「では、私は会社に戻って、もう一度先生に電報を打つ事にします。一気に戻っておられるのか、手紙も無いですからね……」


確かに、手紙も無いので、もしかすると東京へ一気に帰っておられるのかもしれません。


「あ、先生の『横濱輪舞』は増版する事が決まりましたので、増版分の本には解説を入れようと思ってます。それを要君にお願いしたいと……」


私は口元でカップを止めました。


「え……」


「お願いしますよ……」


白井さんは口角を上げて私に微笑みます。


「いや、それは私ではなく……」


白井さんは無言のまま首をゆっくりと横に振られました。


「これは先生の唯一の弟子である、要君の仕事ですよ……」


私は硬直したまま、じっと白井さんを見つめます。


「では、今日は帰ります」


白井さんは鞄を手に、食堂を出て行かれました。

私は慌てて白井さんの後を追い、玄関まで見送ります。


「白井さん……。解説はもっと有名な先生に頼まれた方が……」


白井さんは靴を履いて、顔を上げられました。


「私が知る上で、先生の作品を一番理解しておられるのは要君……、君でしょう」


すると、私の後ろに希世さんが立たれます。


「あら、白井さん。夕飯はよろしいのですか」


希世さんは濡れた手を拭きながらそう訊かれます。


「ええ、今日は会社に戻ってもう少し仕事をしますので……。あ、先生から連絡がありましたら、電話下さい」


そう言うと出て行かれました。


私は白井さんに頭を下げると大きな溜息を吐きました。


「どうされたんですか……。大きな溜息」


希世さんはクスクス笑いながらそう仰います。


食堂に戻り、私は飲みかけの珈琲を戴きます。


「先生の本の解説を書けと言われまして……」


私は白井さんのカップを厨に下げようとされる希世さんに言いました。


「あら、よろしいじゃありませんか……。先生の作品を一番ご理解されておられるのは要さんでしょうから……」


私はカップの中で波紋を作る珈琲を見ながら黙り込んでしまいました。


「それに、先生が今、一番読みたいと思われる解説は要さんの解説だと思いますよ」


希世さんはそう言うと厨へと入って行かれました。


私は今一度大きな溜息を吐いて、カップに残った珈琲を飲み干しました。






真新しい書斎の机の前に座り、私は、机の上に原稿用紙を置きました。

引出から万年筆を取り出し、その真っ白な原稿用紙をじっと睨み付けます。

無意識に「うーん」と何度か唸っていたのでしょうか、書斎の入口に立つ希世さんが笑っておられました。


「どうされたんですか……」


と希世さんは私の机の前に来られました。


「解説の事、悩んでおられるのですか……」


私は無言でコクリと頷きました。


「私が解説を書く事によって、先生の作品の品を落とす事にならないかと……」


希世さんは顔を綻ばせて、片付いた書斎の中を見渡されました。


「要さん……。先生を一番理解されているのは要さんです。それと同時に要さんを一番理解されておられるのは先生ではないでしょうか……」


希世さんは棚に立てた本を一冊手に取られます。

そしてその本を開いてパラパラと捲られました。


「その先生が要さんの書かれたモノに酷評を付けられる事が、私は想像出来ません……。要さんだってそうでしょう。先生の作品を酷評する事なんて出来ないでしょう」


それは当たり前の事で、先生の作品を酷く言う事など、私には出来ません。


「でも、中には居られるのですよ。師匠の作品を読んで幻滅し、弟子をお辞めになられる方も……。先生は要さんに幻滅される作品は書けないと、自分に言い聞かせて執筆しておられるのです……。そうやってご自身を奮い立たせていつも書いておられるのですよ。ですから、要さんが此処に来られる以前よりもずっと執筆に時間が掛かっておられるのですよ……。まあ、白井さんが其処に気付いておられるかどうかはわかりませんけど……」


希世さんはクスクスと笑っておられました。


「要さんの解説や感想は、今の先生にとっては、最高の賛辞だと私は思いますよ……」


希世さんは手に持った本を棚に戻すと、私を見て微笑まれました。


「そろそろ夕飯が出来ますよ……。もっとも、お昼の残りになりますけど」


と言って希世さんは書斎を出て行かれました。


私は、希世さんが出て行かれた後の書斎で、じっと机の上に置いた先生の本と、原稿用紙を見つめておりました。






翌朝、少し冷え込む日になりました。

私は、居間に置いた火鉢に久しぶりに火を入れ、部屋を暖めます。

希世さんは厨で朝食を作っておられます。


希世さんが離れに引っ越して来られて、変わった事があります。

いつも和装だった希世さんが洋装になった事です。

街にも洋装の人が多くなり、動くのが楽だという事で、洋服を売る店も増えてきました。


私は作務衣を着る事が多いのですが、街に出る時などは洋装で出る事が増えました。

先生も同様で、洋装の事が多くなったと感じております。

もっともこの二か月程、旅に出られたままですが。


「あら、起きておられたのですね……。おはようございます」


と希世さんから声をかけられました。

私は立ち上がり、希世さんに頭を下げて挨拶をしました。


「朝食が出来ましたので、どうぞ……」


と希世さんは食堂に入って行かれました。

私もそれに付いて食堂に入ります。


ハムエッグと野菜、それにこのところ希世さんが良く買って来られるレーズンパンが並んでおり、それとコーンスウプから湯気が立っておりました。


「今日は洋食にしました」


私は基本的に希世さんの作られた食事に文句は言いません。

それどころか、いつも満足させて戴いています。


希世さんは私の傍に珈琲を置いて行かれ、ご自分の食事を持って来られて食卓に座られました。


「昨日は遅くまで、書斎におられた様ですが、進みましたか……」


希世さんはレーズンパンを口に入れられるとそう訊かれました。


「ああ……。少しだけですけど……」


希世さんが離れに来られた事で、私の夜更かしもすべて知られております。

それもあって、朝、私を起こす事も躊躇っておられるのかもしれません。


「今日は少し出かけてきますね……」


私はハムエッグを口に放り込みます。


「あら、何方へ……」


「銀座ですね……」


私は銀座で万年筆のペン先を買おうと思っておりました。


希世さんはスウプを口にして、


「ごゆっくりどうぞ。白井さんが来られたら伝えておきますので……」


私はコクリと頷き、食事を戴きました。






約一年掛かりの建て増しも終わり、家の中はもちろん、外から見ても先生のご自宅は見違える様に綺麗になりました。


私は出かける用意をして外に出ると、先生の自宅をじっと見つめました。

今までなかった二階の部屋も出来て、その二階に私の寝室はあります。

寝台を作って戴き、西洋風な暮らしになってきました。


私は誇らしげにその家を見ると家を出ました。


「あら、若先生……」


と道行く人に声を掛けられます。

先生の事は「大先生」、私の事を「若先生」と呼ぶご近所さんが増えてきました。

それも先生の自宅改築の際に棟上げなどをやった事で、近隣の方々とも打ち解けた事が功を奏したのでしょう。


私は頭を下げると、銀座へと歩き始めました。

一時間と少しの距離になるでしょうか。

この程度の距離だと先生も白井さんも歩かれます。

白井さんに関しては毎日赤坂から青山の先生の家まで歩いておられる様です。

銀座までの距離はそれよりは遠いですが、春の陽気の中を歩くには良い距離です。


半分程度歩いたのでしょうか。

虎ノ門付近に差し掛かった時、私は少し休憩しようと、一軒のカフェに入る事にしました。

珈琲を女給に注文し、カフェに置いてあった普段見る事のない雑誌を手に取ります。

俗物的な雑誌をあまり目にする事がないので、新鮮に感じました。

ふとその中の記事に目が留まります。


映画にして欲しい本。

そんな記事でした。

するとその順位の三番目に先生の名前と『横濱輪舞』の名がありました。


世間でも人気なんだな……。


私はそれを読んで嬉しく思いました。






私はその後、銀座まで一気に歩くと、ペン先を購入して、そのまま新橋の駅へと出ました。

そこで昼食を戴こうと考えておりました。


ふと、駅を見ると、蒸気が上がっていて、機関車がホームにいるのがわかります。


先生は今何処におられるのでしょうか……。


そんな事を考えながら、私は先生に連れて行ってもらった事のある鰻屋の大和田に入り、鰻重を戴きました。

すると、店の奥で、


「すまんが、今度は白をもらえるか」


という声が聞こえました。

先生に連れて来られた時に教えてもらったのですが、鰻重には紅白があり、紅はタレの掛かったいわゆる蒲焼の事で、白とは鰻の白焼きをそのまま重に載せたモノ。


「通は白を頼むんだよ」


と先生に教えて戴きました。


へぇ……。

やっぱり「通」っているんですね……。


と私はその客を見ました。


そして驚いたのです。そこには二か月振りに見る先生の姿がありました。

私は思わず立ち上がり、先生の前へと足を滑らせながら向かいました。


「せ、先生……」


先生は紅の鰻重を口いっぱいに頬張りながら、私を見て驚いておられました。


「か、要君……」


私は涙が出そうになるのを堪えて、先生の向かいの椅子に腰を下ろします。


「帰ってらしたのですか……」


先生は、鰻を食べる手を止めずに、何度か頷いておられました。


「さっき、着いたんだ……」


湯呑のお茶を一口飲まれてそう仰いました。


その時、私は堪えていた涙が頬を伝うのがわかりました。


「もう、連絡して下さいよ……」


私は通りかかった女給に、席を移る事を伝えて、先生をじっと見つめました。


「先生にお伝えする事が山盛りあるんですよ」


先生は食べ終えた重を卓の上に置いて頷いておられました。






先生と私は大和田を出て、家路を歩きました。

馬車に乗るかどうか迷ったのですが、先生と話しをしたかった事もあり、私は先生の重い鞄を手に持って、とりあえず歩く事にしました。


そして『横濱輪舞』が映画になる事を先生に伝えます。

しかし、先生はその話に喜びはなく、曇った表情を浮かべられました。


「先生……」


私はその先生の表情を見て、眉を寄せました。


「どうされたんですか……」


数か月ぶりの先生との会話です。

私も少しぎこちなさがあったのかもしれません。


「キネマか……」


先生は立ち止まり、そう呟かれました。

そして、


「要君……。このまま赤坂に寄るぞ」


と足早に歩き始められました。

私は返事をすると、重い鞄を引き摺る様に先生の後を付いて行きます。






先生は赤坂の白井さんの会社に着き、戸を開けると、


「白井君は居るか」


と大声で仰いました。


「先生」


と白井さんは立ち上がり、慌てて傍に来られました。


白井さんは応接室を準備して、先生と私をその部屋に通されました。


「おかえりなさい」


と白井さんは深く頭を下げられます。


「ああ、挨拶は良い……。それより要君に聞いたが、『横濱輪舞』を映画にする話だが……」


「ああ、はい。そうなんです」


白井さんは嬉しそうに微笑みながら言われます。


「凄いですよね……。映画化ですよ。いやぁ、私も嬉しくて……」


「断ってくれ」


先生は食い気味にそう仰いました。


私と白井さんはその言葉に硬直しました。


「え……」


声にならない返事を白井さんは発せられます。


「一体、どういう……」


「だから断ってくれ……」


白井さんは一旦、持ち上げた腰をゆっくりと革張りの椅子に落とされます。


「先生……」


私も思わず、先生の名前を呼びました。


先生は卓の上に出された湯呑のお茶を口にされました。

そして深くその椅子に背を付けられ、


「白井君……」


先生は湯呑を卓の上に戻すと、話始められました。


「君があの話を読んで、君の頭の中に浮かんだ情景と同じモノを映像に出来ると思うか……」


私は先生の言葉に動きを止めました。


私の中の『横濱輪舞』の方が、色彩も人の動きも数段上に思えます。

映画化する事が先生の作品を陳腐化させる事になる。

そんな風に思えました。


「私はキネマの様な小説を書きたい。それはこの要君に言われて思った事だ。しかし、それは今の活動写真の事ではない。もっと人が肉眼で見えている世界の様なキネマの事だ。色彩も匂いも、息遣いも伝わらん様な映像にはしたくないんだ……」


私は、じっと足元に視線を落として考えました。


確かに、キネマよりも私の頭の中の『横濱輪舞』の方が数段上を行く……。


「先生……」


白井さんは身を乗り出し、先生に頭を下げられます。


「白井君……」


先生はまた湯呑を取るとお茶を口に含まれました。


「気付いたんだよ……。私が書きたい世界を」


先生はそう言うと立ち上がり、白井さんの肩を叩かれます。

すると白井さんもゆっくりと微笑まれました。


「わかりました……。今回は断ります」


その言葉に先生は頷かれました。


「ありがとう」


と先生は頭を下げられ、久しぶりに先生の笑顔を見た気がしました。


「さあ、今晩は一緒に飯を食おうじゃないか……。」


先生はそう言って部屋の戸を開けられました。








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