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21話 鉄砲師匠





 私は一睡もせずに、朝を迎えてしまいました。

 気が付くと希世さんが訪ねて来られる時間で、お勝手の戸が開く音で身体を起こしました。


 部屋を出て、居間に出ると、希世さんが外套を壁に掛けておられる所でした。


「あら、要さん。おはようございます」


 私は希世さんに挨拶をして、消え掛けた火鉢に練炭を入れます。

 ふと、顔を上げて、応接間を見ると、昨夜酔ってしまい泊っておられた律さんの姿が見えました。


 倉持律さん。

 建具師で私と先生の書斎の建具を作って下さる予定になっています。

 

 私が、応接間の律さんに声を掛けに行こうとしますと、希世さんが私の肩に手を添えられました。


「私が行って参りますので……」


 希世さんの手には手拭を持っておられます。

 こういった事は女性にお任せした方が良いのでしょう。


 私は希世さんに頭を下げて、縁側の戸を開けました。

 冬の厳しい寒さが一気に部屋の中に雪崩れ込んで来ます。


「寒っ……」


 私は上着の前を合わせると、その戸を閉めました。

 空気の入れ替えはこの程度で良いといつも先生が仰っておられます。


「おはようございます」


 と応接間から出て来られた律さんが私に声を掛けられました。


「おはようございます」


 私も挨拶をして、律さんに微笑みました。


 律さんは私が誰であるかを知っている……。


 ふと、昨夜、律さんに言われた「政貴」という名前を思い出しました。


 出来ればもうしばらく、「要」のままで居たい。

 寝ずに考えた私の答えです。


「昨日は変な事を申しまして、すみませんでした」


 律さんは私に頭を下げておられました。


「え……」


 私はもうそんな事は忘れた振りをして、律さんの顔を覗き込みます。

 これで、気に掛けない些細な間違いであると思ってもらえたでしょう。


 律さんはニッコリと微笑まれると洗面の方へと向かわれました。


「何かございましたか……」


 希世さんが応接から律さんの使われていた毛布を持ってやって来られました。


「え……」


 希世さんは私の傍に来て耳元で、


「律さんと何か良い事はございましたか……」


 良い事……。

 良い事とは……。


「あの……」


 私が声を発すると希世さんはクスクスと笑い、


「冗談ですよ……。律さんは気丈な方ですので、要さんの毒牙になど……」


 そんな事を言いながら毛布を片付けられます。


「毒牙って何でしょうか……。希世さん」


 私はそう言うと希世さんの背中を見て、息を吐きました。


 庭を見ると、シズカの飲み水が凍っている様で、それを舐めてシズカが身を震わせていました。

 私は今一度縁側の戸を開けると、庭に出て、シズカのお水の器の氷を割りました。


「お前、寒いだろう……」


 そう言うとシズカの首輪に指を引っ掛け、玄関へと連れて来ます。

 そして紐を首輪に通すと、玄関に付けた留め金にその紐を掛けました。

 寒い日のシズカは玄関で大人しく過ごします。


 あ、そうそう。

 言い忘れておりましたが、先生の家の縁側の下に居た猫たちはご近所にもらわれて行きました。

 ご近所過ぎてたまに遊びに来ている様子ですが。


「朝御飯は如何致しましょうか……。ご飯が良いか、パンが良いか……」


 希世さんは玄関で水を飲むシズカを見ている私に訊かれます。

 普段は先生に訊かれるのですが、先生が不在の時はこうやって私に訊いて来られます。


「あ、どっちが良いでしょうね……。律さんのご希望を訊かれては……」


 希世さんは、微笑んで、


「そうですね……。お客様のご希望で作りましょうか……」


 と洗面の方へと行かれました。






 朝食は和食になった様子で、鮭の塩焼きと卵焼き、お味噌汁にお漬物が並んでおりました。


「こんな朝食、うちではとても……」


 と律さんは嬉しそうに椅子に座りながら言っておられます。


 私はいつも先生がお読みになる新聞を広げて読ませて頂いておりました。


「さあ、温かいうちにどうぞ……」


 希世さんも椅子に座り、一緒に食事をされるようです。


 先生が不在なため、白井さんも朝から来るのは控えておられます。

 勿論、仕事の方も進みませんし。


 今日も大工さんたちがそろそろやって来られる時間でした。


 時折、律さんと目が合いますが、私はその度に目を逸らし、顔を見せない様にして食事を戴きます。

 しかし、私の事を知っている律さんは一体何者なのでしょう……。


 とにかく、あまり律さんに関わらない様にしようと思います。


「おはようございます」


 と玄関の方から大工の棟梁の声がしました。

 私は席を立ち、玄関へと向かいました。


「あ、要さん……。今日もよろしくお願いします」


 棟梁は威勢よく仰ると、頭を下げ、そこに繋がれたシズカの顎を撫でると、出て行かれました。

 棟上が終わり、改築の方に一人、建て増しした方に三人と大工さんも四人に減って、希世さんもお茶を準備するのが少し楽になった様子でした。


 私は食堂に戻ると、希世さんに、


「今日も四人ですね……」


 と伝え、また食事を戴きます。


 希世さんはコクリと頷くと厨へとお茶を淹れに行かれました。


 律さんと二人の食堂は少し気まずい空気です。


「要さん……」


 突然律さんに声を掛けられ、私は飛び上がる程驚きました。


「は、はい……」


 少し私の声が裏返っていたかもしれません。


「どんな訳があるのかわかりませんが……」


 律さんは箸を置いて私の顔をじっと見ておられます。


「要さんが隠されたいのであれば、私も黙っていますので……」


 そう言って微笑んでおられます。


 私の素性の事。

 隠したいと言うより、私は過去を捨てて先生の所へ来たつもりでした。

 出来ればもうしばらくは、「要」のまま此処に居たいと思っておりました。

 私は律さんにどう伝えようか少し考えました。

 そして大きく息を吐きます。


「律さん……。時が来れば自分で皆さんに話します。それまでは黙ってて戴いてよろしいですか……」


 私は箸を置いて律さんにそう言いました。


 律さんは何度も瞬きをしながら頷いておられます。


「わかりました……」


 そしてそれだけ仰ると、また箸を手に取られました。


「おはようございます」


 とまた玄関の方で声がしました。

 間違いなく白井さんの声でした。


 私と律さんは顔を見合わせ、クスリと笑いました。

 白井さんはどうやらシズカと戯れておられる様でした。


 しばらくすると白井さんは食堂に入って来られました。


「おはよう要君……」


 そう言うと座っておられる律さんを見て、


「おはようございます」


 と挨拶をすると、私の隣に座られます。


 希世さんも大工さんにお茶を出し終えて帰って来られました。


「あら、白井さん……。おはようございます」


 希世さんは白井さんに挨拶をされて、


「どうしましょう。白井さんの朝食、準備してませんわ……」


 と仰いました。


 白井さんは少し残念そうな表情をされ、


「ああ、良いですよ。今日は食べて来ましたし」


 そう言われます。


 そうなんです。

 実は白井さんは朝食を食べてからこちらにいつもいらっしゃるのです。

 そして二度目の朝食を此処で食べられるのでした。


 私はお味噌汁を戴きながら、


「白井さんって一日何食されるんですか」


 と訊きました。


「そうですね……。夜、遅くなった日なんかは五食くらいしてる日もありますね……」


 そう言うと私が横に置いた新聞を広げておられました。


 気のせいが、白井さんは少しお腹が出て来た様に見えました。


「ああ、そうそう……」


 と、白井さんは鞄から一枚の葉書を出されました。

 私はその葉書を受け取り、文面を見ました。

 それは先生からの手紙でした。


「昨日会社に戻ったら届いてたんですよ……」


 そう言うと、希世さんが淹れられたお茶を白井さんはすする様に飲んでおられました。


 我、鉄砲を食す。

 美味なり。


 それだけが書いてありました。


「鉄砲を……食す……」


 私は声に出してそれを読みました。


「鉄砲って何ですかね……」


 白井さんは湯飲みを置いて私に訊かれます。


「ふぐの事ですよ……。要君は食べた事ないですか」


 白井さんの話に私は頷きます。


「関東にはあまりふぐを食べる習慣が無いですからね……。先生はどうやら今、大坂に居られるようですね。大坂にはふぐの店が結構あるんですよ。そこでふぐを食べられたのでしょうね……。ほら、ふぐって毒があるので、当たったら死ぬじゃないですか、鉄砲もそうで、鉄砲の弾に当たると死ぬじゃないですか。関西の人の洒落の効いたところですね……。ふぐを鉄砲と呼ぶのは……」


 なるほど……。


 私は深く頷きました。

 そして、


「ふぐって美味しいんですか」


 私は白井さんに食いつく様に訊きました。


 白井さんは、再び広げようとした新聞を脇に置かれました。


「最高に美味しいですよ……。お刺身もお鍋も。最近は唐揚げなんていうモノも食べられるようですね……」


「トウアゲですか……」


 私はじっと白井さんを見つめます。

 勿論食べさせて欲しいという思いを込めて……。


「あ、ふぐ……食べたいですか……」


 白井さんは私を見てニコニコと笑っておられます。


「流石にふぐだけは希世さんにお願いしても食べられませんからね……。人形町まで行けば食べる事は出来ますけど……」


 人形町とは日本橋の一角で、高級料亭などがある場所です。


「ふぐは毒のある魚なのでね……。精通している者でないと料理出来ないんですよ……」


 希世さんが鮭を食べながら説明してくださいます。

 私はそれを聞いて頷きました。


「死ぬ覚悟がある様でしたら料理致しますけど……」


 希世さんはニッコリと笑いながら仰いました。


「いや……それはちょっと……」


「いや……遠慮させて戴きます」


 私と白井さんは同時にそう言いました。






 食事を終えて、珈琲を戴きながら、先生が白井さんに送られた葉書を見ていました。


「先生は大坂まで行っておられるのですね……。一体、何処に向かわれているのでしょうか……」


 私は白井さんに尋ねました。


 白井さんは新聞を捲りながら、


「多分、唐津まで行かれるのでは無いでしょうかね……」


 唐津か……。


「唐津はほら、先生の生まれ育った所なので……」


 私はその言葉に頷き、珈琲を口にします。

 白井さんは新聞をたたみ、私の方を向かれます。


「良かったら、要君も行ってみますか……」


 そう仰いました。


「え……。行くって何処に……」


「唐津ですよ……佐賀の……」


「唐津ですか……」


 私は少し考えました。

 地図で見た事はありますが、かなり遠い記憶があります。


「この時期の玄界灘は魚が美味しいですし……」


 白井さんは勿論、ご自分も行かれるつもりなのでしょう。

 何を想像しておられるのか、涎を拭いておられる様にも見えます。

 唐津に行かれたいのか、それとも美味しいモノを食べたいだけなのか、本当に白井さんは……。


「まあ、先生に留守を頼むと言われてますので、私も旅に出るっていうのはちょっと……」


 私は珈琲を飲み干して立ち上がりました。


「え、お仕事を……」


 白井さんは立ち上がった私を見上げながら仰います。


 しかし、仕事を出来る環境が今は何処にも無く、私は白井さんに微笑みました。


「書斎の改築の進み具合を見てこようと思いまして……」


 そう言うと食堂を出ました。

 白井さんも後ろから着いて来られます。

 私が書斎の入口で、棟梁と律さんの仕事を見ていると、横から白井さんが顔を覗かされました。


「何か良いですね……。お二人が此処で原稿を書かれる。何とも仕事が捗りそうで……」


 私は白井さんの言葉に咳払いをして、


「捗るって言っても、倍の量をこなせって言われても無理ですからね。先生も私も」


「いや……。倍くらいは書けるんじゃないですか……」


 白井さんは律さんの作業を見ながら呟く様に言われます。


「それは無理ですよ……。白井さんだって、倍の量のご飯食べろって言われると無理でしょ」


 その言葉に白井さんが私の方を向かれました。


「確かに……。それは無理かもしれませんね」


 そう言うと笑っておられました。


「要さん……」


 と突然棟梁が立ち上がられました。


 私は改築中の板張りの書斎に一歩踏み入れました。


「はい……」


 棟梁は私の前まで来て、


「この部屋なんですが」


 棟梁は図面を持って私の前に広げられました。


「窓が無い部屋をって先生に言われているのですが」


 私もそう訊いておりましたので、頷きました。


「それじゃあまりに部屋が暗いので、少し明り取りの窓を上の方に付けようと思うのですが……」


 棟梁は壁の上の方を指差して仰います。


「明り取りですか……」


 私も棟梁の指差す先を見ました。


「ええ、最近、西洋建築の部屋を見て来たのですが、結構そんな窓が多くて……。あ、明り取りの窓は光が大量に差し込む訳じゃないので、書き物の邪魔になるような事にはならないみたいなんですよ」


 私は棟梁の説明に頷きました。

 そして顎に手を当てて少し考えます。


「棟梁。少し待ってもらっても良いですか。先生から連絡が入ったら訊いてみますので……」


 棟梁は何度か頷くと広げた図面をたたまれました。


「私も明り取りあった方が良い気がしますよ……」


 壁の寸法を測っておられた律さんがそう言いながらこちらにやって来られます。


「一切窓が無いと相当暗いので、先生も要さんも目が悪くなるような気がしますので……」


 暗いと目が悪くなるのか……。


「暗がりでモノを見るってのは、目に負担を掛けますので……」


 建具師さんはそんな知識も持っておられる様です。


「なるほど……。確かに目は疲れますからね……」


 白井さんが私の横でそう仰いました。


「要君……。明り取りの窓。付けてもらいましょう」


 白井さんは私の顔を見て微笑んでおられます。


「もし先生が気に入らなければ塞いじゃえば良い訳ですし……」


 私は白井さんの言葉に頷きました。

 此処は建築に精通されておられる方にお任せした方が良いのでしょう。


「わかりました。ではそうしてください。先生にはまた伝えておきますので」


 私は棟梁と律さんに頭を下げて、書斎を出た。


 やはり、モノを作っている場所を見ると胸が躍ります。


 私と白井さんは食堂に戻りました。


 大工さんが色々と出入りされますので、邪魔にならない様に一日の大半を食堂で過ごす事が増えました。


 私は書斎から応接間に避難させておいた本を持って来て読む事が多くなりました。

 先生も、


「この際だから、普段読めない本をゆっくりと読むと良い。人の書いたモノを吸収できると、それも君の肥やしになる」


 と仰っておられました。


「何を読んでおられるのですか……」


 と向かいに座る白井さんは私の広げた本の背表紙を見ようと覗き込まれておられます。


 本も、洋書の真似をして、どんどん西洋風の装丁になって参りました。

 いくら読んでも、本がボロボロになる事が無くなったので、嬉しい限りです。

 その反面、どうしても重くなってしまい、行儀の悪い私の様に、寝そべっと読むには少し疲れてしまいます。


「あ、長谷川二葉亭先生です」


 長谷川二葉亭先生。

 一般には二葉亭四迷という名の方が知れ渡っているかと思います。

 しかし、物書きの間では二葉亭四迷先生とは呼ばず、先生の本名である長谷川の姓と二葉亭という筆名を組み合わせて長谷川二葉亭先生と呼ぶ事が多かったようです。


「ああ、写実主義……。興味あるの……」


 と白井さんは希世さんが淹れて下さった紅茶を飲みながら訊かれます。


 私は少し微笑むと、


「まだ私には写実主義が何かってのが、上手く理解出来てないんです……。それが少しでも解かるかと思いまして……」


 私の言葉に白井さんは小さく頷かれました。


「私は要君の作品は写実主義だと思ってるよ。飾らない、ありのままを上手く表現出来ていて、人間とは何ぞやって事を問いかける作品だと思うから……」


 写実主義……。

 リアリズムと西洋では言うらしいのですが、綺麗に人間を書くという事をどうやら私は出来ない様で、ありのままを書いてしまう。

 それが先生の書かれた作品にも多く、小説とはそんなモノだと思っておりました。


「まあ、物書きは写実主義もロマン主義も無意識に身につけてしまうのかもしれませんけどね……」


 白井さんは紅茶のカップを皿に置くと、目の前のクッキーに手を伸ばしておられました。

 そしてご自分も鞄から一冊の本を出して食卓の上に広げられました。


 私も紅茶を戴き、本を食卓の上に置きました。


「白井さんは何を読んでおられるのですか……」


 出版社の方が普段、どんな本を読んでおられるのか、それは凄く気になる所です。


「あ、これですか……」


 白井さんは手に持った本の背表紙を私の方に向けられました。


「私の尊敬する垣内先生の書かれた本です」


 垣内……。


 私はピクリと身体が動いた気がします。


「あ、読まれた事ありますか……」


 白井さんは本をたたんで、食卓の上に置かれました。

 私は目を伏せ、


「いえ、私はそういう類の本はあまり読みませんので……」


 そう答えた。


「一度、読んでみませんか……。何ならお貸しますよ」


 と白井さんは私の前にその本を差し出されました。

 私はその本の表紙に視線を落としました。


 垣内庸之助……。


 私はその名前から目を逸らし、白井さんにその本を返しました。


「白井さんが読み終わられたらお借りします」


 白井さんは本を手に取り、私に微笑んでおられます。


「凄いですよね……。大日本帝国の国会を作ったり、朝鮮を併合したり……。やはり歴史に名を遺す様な方は違いますね……」


 白井さんはその本を手に取り、嬉しそうに語っておられました。


 私にはどうもその名前が白井さんとは違って映るのです。


「どう……されました……」


 私の様子に気付いたのか、また白井さんは私の顔を覗き込んでおられます。

 それに私は気付き、白井さんに微笑みました。


「あ、いえ……。別に……」


 私は慌てて目の前の本を手に取りました。

 白井さんはその私の様子に違和感を覚えたのでしょう。

 また本を食卓の上に置かれ、じっと私を見ておられました。


「要君……」


 私は顔を上げて、


「はい……」


 と返事をして、本を置きました。


「要君……、少し外に出ませんか……」


 そう仰ると、外套を手に取られます。


「はあ……」


 私も、席を立ち、上着と外套を持って玄関に立つ白井さんの傍に来ました。


「希世さん……。少し出掛けて来ますので……」


 と私は大声で厨に居られる希世さんに言いました。


 希世さんは慌てて玄関まで出て来られ、靴を履く私と白井さんに、


「お昼は如何されますか」


 と訊かれました。


「ああ、何か食べて来ますよ」


 と白井さんがニコニコしながら返事をされ、戸を開けられました。

 私は玄関に繋いでいたシズカの縄を取り、庭へと連れて行き、繋ぎ直しました。

 日も照り少し暖かくなったので、シズカも外に居ても大丈夫でしょう。






 白井さんと私は、いつもは行かない様な料理屋に入りました。


「あら、白井さん……」


 その店の女将は白井さんに親しそうに話されます。

 白井さんはたまに来られているのでしょう。


「今日は何か、入ってる」


 白井さんは女将に訊かれます。


「今日は少しですけど、ふぐがありますよ」


 白井さんは私の顔を見て、


「要君……。ふぐ……。食べられるみたいですよ……」


 と嬉しそうに言うと、それを注文し、お座敷に通されました。

 少し格式高いお店の様で、私はそれだけで緊張してしまいます。


 私と白井さんは外套を脱いで、慣れないフカフカの座布団の上に座りました。


「たまにはこういう所も良いね……。先生も関西で美味しいモノ食べておられる訳ですし……」


 と白井さんは上機嫌です。

 そしておしぼりで手を拭くと、白井さんは息を吐かれました。


「要君……。いや、松本政貴さん」


 私はピクリと顔を上げて白井さんを見ました。

 そして顔を伏せました。


「松本政貴さん。垣内庸之助先生のご長男の息子さんですよね……」


 私は口の中がカラカラに渇くのを感じました。


 私は白井さんが仰るように、垣内庸之助の孫です。


 訳あって、母方の姓を名乗り、今は、要ととして生きております。


「私たちもそれなりに調べるのですよ……。世に出てもらいたい作家先生の事は……」


 白井さんは卓の上に肘を突いて身を乗り出されました。


「まあ、私も少し前に知ったのですが……」


 白井さんはそう言うと微笑み、座卓の背もたれに背中を付けられました。


 私は、顔を上げて、


「あの……」


 とだけ、渇いた口を開きました。


 白井さんは、私に何も仰いません。


「いつか、要君の口から話して頂ける時を待ちますよ……」


 白井さんは口髭を指で触っておられます。


「それまでは要君って事で……。勿論、先生もご存知ない事ですし……」


 私はただ黙って白井さんの顔をじっと見ておりました。








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