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20話 周遊師匠





 先生の家の建て増しと改築に当たり、とうとう家の中の工事が始まりました。


 先生の寝室だった部屋と書斎だった部屋が大きく一部屋になり、新たな書斎へと改築されます。


 私と先生は部屋を追い出され、応接間だった部屋でしばらく執筆していたのですが、仕事にならないという事で、白井さんと相談し、先生と私はしばらくお休みを戴く事になりました。


「少し旅に出て来る」


 先生がそう仰って家を出て行かれてから、もう五日が経ちます。

 先生も何年も休みも無く書いておられたので、しばらく旅行も良いだろうと白井さんも首を縦に振られた様子でした。

 二年程前に漱石先生のお供をされて以来の先生のご旅行になります。


 希世さんが郵便を受け取り、家の中に戻って来られました。


「要さん、先生から葉書が来てますよ」


 と私に葉書を手渡されました。

 二枚の葉書が一緒に届いておりました。

 私はその葉書を見ながら食堂へと入りました。


 こちらを出て、先生は熱海に一泊された様でした。


「寛八の煮付け、蛸の酢の物、地魚の刺身。朝には鯵の干物、渡り蟹の味噌汁」


 私は葉書を読み上げました。

 そして二枚目の葉書は三島に来たという内容で、


「浜名湖の鰻、駿河湾で取れた魚で寿司を……」


 私は二枚の葉書を見て、


「これは献立表ですかね……」


 と希世さんに訊きました。

 希世さんはクスクスと笑いながら、


「美味しいモノを食べている事を要さんにもお伝えしたいのですよ。先生は美食家ですしね……」


 私は希世さんが出して下さった珈琲を飲みながら、苦笑しておりました。


「要さんもご一緒されたら良かったのに……」


 希世さんは私の前にチョコレートの付いたクッキーを出しながら仰いました。


「いや、先生もたまには一人の方が良いのかと思ってしまって……。ただでさえいつも一緒ですし、私からもうるさい白井さんからも解放される時間も必要でしょうしね……」


 私はそう言ってクッキーを一枚手に取りました。


「誰がうるさいんですか……」


 食堂の入口からそんな声がして、振り返ると白井さんが立っておられました。

 そして眉を寄せながらいつもの席に座られました。


「先生が居られなくて寂しいかと思って、やって来たら……。まったく……」


 小声でそう言いながら外套を横の椅子に掛けられました。


 希世さんはその白井さんの外套を衣文掛けに掛けて壁に吊るされました。


「白井さんも珈琲……」


「戴きます」


 と食い気味に返事をされます。


「どうやら先生は熱海、三島に寄られた様ですよ」


 と私は先生から来た葉書を白井さんの前に差し出しました。


「知ってます。私にも葉書が来てました。美味しいモノを食べたって報告だけが書かれたモノですが……」


 どうやら私宛の葉書と内容は同じ様です。


「何か、それを読んで悔しくて悔しくて……」


 白井さんは本気で悔しそうでした。


「要君……」


 と白井さんは身を乗り出して来られます。


「はい」


 私は二枚目のクッキーを手に取り口にしました。


「先生ばかり良い思いして悔しいので、私たちも行きませんか……」


 私はクッキーを珈琲で流し込んで、


「行くって何処に……」


 そう訊きます。


 白井さんは少し考えて、


「吉原なんてどうですか」


 私は口元でカップを止めて目を見開きました。


「よ、吉原ですか……」


 吉原。

 正式には新吉原という所で、言わずと知れた遊郭の町です。


「ええ、たまには良いじゃありませんか、二年前の大火の後、幾つか店も建て直っていると言いますし……」


 明治四十四年に吉原は大火事でその殆どが焼失してしまった様で、その後、少しずつ再建されている様子でした。


「いや、その様な所はちょっと……」


 私は俯いて珈琲カップを口にします。


「別に廓に行こうと言っている訳じゃないですよ、美味しいモノを食べて、お酒を飲む。そんな感じで遊びましょうよ」


 白井さんは何時に無く必死に誘われます。


 するとそこに希世さんが白井さんの珈琲とクッキーを持ってやって来られました。


「あら、良いじゃありませんか、行って来られては……」


 希世さんは白井さんの前にカップを置きながら仰います。


「間夫は男の憂さ晴らしって言いますし……」


「流石は希世さん。わかってらっしゃる」


 白井さんは熱い珈琲を口にして目を白黒させておられます。


 間夫って……。


 私は苦笑してカップを皿に置きました。

 間夫とは遊女の情夫の事で、女性を買う事は憂さ晴らしになるという事なのですが、私にはそんな経験も無く、苦笑するしかありませんでした。


「じゃあ、大門だけ見に行きましょう、大門。焼けた大門が新しく建て直されたらしいですし」


 必死に仰る白井さんが可笑しくて、私は笑うしかありませんでした。


 ちなみに大門とは遊郭の入口にある門の事で、何処の遊郭にもあると何かで読んだ事があります。

 しかし、一つ違うのは、吉原だけはこの大門を「おおもん」と呼び、他の遊郭は「だいもん」と呼ぶのです。

 江戸時代に江戸城の大門と区別するためだったのかもしれませんね。


「門なんて見ても楽しくないでしょう……」


 私は残った珈琲を飲み干しました。


「そんなに行きたいなら白井さん、一人で行けば良いじゃないですか」


 私は手を合わせて、


「ご馳走様でした」


 と言いました。


「えー……。要君ってもしかして女性が嫌いなんですか……」


 白井さんは少し拗ねた様子で、目の前のクッキーを口に入れておられました。


「もしかして男色家ですか」


「な、何を言っておられるんですか、わ、私はちゃんと女性が好きですよ」


 その私の言葉に、白井さんと希世さんは顔を見合わせて声を上げて笑っておられます。


「ちゃんと女性が好きって……」


 白井さんは大声で笑われます。


「それを聞いて安心しました」


 希世さんもそんな事を仰って厨へと戻って行かれました。


「いや、要君のそんな話を聞いた事が無いので、少し心配してたんです」


 白井さんはカップを置いて、鼻の下の髭を触りながらクスクスと笑っておられます。


 希世さんは大工さんたちにお出しするお茶とお茶菓子を持って出て来られました。

 そろそろ十時になるところでした。


 私は希世さんを手伝って、お茶菓子を持って食堂を出ました。

 これ以上白井さんに付き合ってられません。


「お茶が入りましたよ」


 と希世さんは改築中の先生の寝室へと入られます。

 大工の棟梁と若い衆が二人、そして見慣れない女性が、作業着の上に半纏を羽織り、棟梁と一緒に図面を見ておられました。


「あら、新しい方ですか……」


 希世さんは台の上にお盆を置きながら訊ねられました。


「ああ、建具師の倉持さんです」


 私も台の上にお茶菓子を置いて、頭を下げました。


「初めまして、倉持です」


 とその女性が頭を下げられました。

 髪を今風に短く切って男勝りな感じの女性でした。


「いつも建具を頼んでいる職人が怪我をしてしまった様でして、その一番弟子の彼女が今回はやらせて戴きますので」


 と棟梁は湯飲みを手に取りながら微笑んでおられます。


「女性の建具師さんも珍しいですね」


 希世さんはお茶菓子の載ったお盆を前に出しながら、その女性を見られました。


「実は怪我をした職人は私の父でして、娘の私も幼い頃から、父の仕事を見て来たモノですから、一人っ子なので、私が父の弟子に……」


 私は頷きながら、その女性の姿をじっと見ておりました。

 ふと、その女性倉持さんと目が合いました。


「まあ、彼女も父親に劣らず、いい仕事をしますので、安心してください」


 大工の棟梁はそう言って豪快に笑っておられます。


 私と希世さんは今一度頭を下げて、部屋を出ました。






 お昼は白井さんと一緒に鰻を食べに行き、そのままカフェで麦酒を飲んで帰って参りました。

 白井さんはそのまま会社に戻られたのですが、もう日暮れに近い時間になってしまってました。


 私は、酔い覚ましに庭のシズカと遊んでおりますと、大工さんたちは仕事を切り上げ、帰って行かれました。

 大工の仕事は日が落ちて暗くなると終わりなので、夏と冬では働く時間が大きく違う様です。


「では要さん、また明日、よろしくお願いします」


 棟梁はそう言って帰って行かれました。


 家に入ると夕飯の匂いがしておりました。


「今日は鱈の鍋にしますね」


 と希世さんが言っておられたのを思い出しました。

 こう寒いと鍋は一番のご馳走です。


 私はふと思い出し、応接間に置いた原稿を取りに行きました。

 すると先生の寝室と書斎を繋げた部屋で物音がします。


 私はそっとその隣の部屋を覗きました。


 そこには蝋燭を片手に、部屋の寸法を測り、図面に数字を書き込んでいる倉持さんがいらっしゃいました。


 倉持さんは私に気付き、バツの悪そうな表情で、


「すみません。もうすぐ終わりますので……」


 と仰いました。


「いえいえ、しかし大変ですね……」


 と私は部屋に入ります。


「良かったら灯り、持ちましょうか」


 と私が手を伸ばしますと、


「いえいえ、これは私の仕事ですので……」


 と倉持さんは黙々と仕事を続けておられました。


「そこには確か……」


「ええ、大きな書棚を作ります。床も重みに耐えられる様に補強を入れて……」


 私は話しかけるのも良くないだろうと思い、黙って頷きました。


「すみません……。私、仕事が遅くて……」


 と倉持さんは何度も何度も頭を下げられます。


「どうされたんですか……」


 と希世さんが覗き込まれました。


「あら、律さん。まだおられたんですか……」


 と希世さんは倉持さんの事を律さんと呼ばれました。

 後から聞いた所、午後のお茶の時間に少しお話をされたそうです。


「ごめんなさい。もう終わりますので……」


 と律さんは、図面に寸法を書き込み続けておられました。

 そして慌てて図面を持って、蝋燭を吹き消されました。

 私たちに気を使われたのでしょう。


「すみません。これで失礼します」


 と律さんは慌てて出て行かれようとされます。


「あの……」


 その様子を見ていて、申し訳なく思ってしまい、私は律さんの背中に声を掛けました。

 律さんは立ち止まり、ゆっくりと振り返られます。


「良かったら、夕飯、ご一緒に如何ですか」


 そう言う私の横で希世さんもニコニコと微笑んでおられます。


 ふと、窓の外を見ると、雪がちらついておりました。


「寒いと思ったら雪ですよ……」


 私が窓際まで行くと、庭のシズカがワンワンと啼きます。


「こんな中、帰られるのも大変でしょうし……」


 そう言うと希世さんが律さんの肩に手を添えて、


「今日はお鍋にしましたので、温まりますよ……」


 と食堂の方へと律さんを押して行かれました。


「すみません……。何かご迷惑では……」


 律さんは白井さんがいつも座っておられる席で、小さくなっておられます。


「いえいえ。いつも白井さんが居られますし、迷惑だなんて……」


 私はそう言いながら自分の席に座りました。


「今日は寒いですし、少しお酒でも召し上がりましょうか……」


 と希世さんは燗をつけた徳利を持って来られました。


「富山の美味しいお酒らしいですよ」


 と私と律さんの前に徳利とお猪口を置かれます。

 私は自分のお猪口にお酒を入れて、そこから立ち上る香りを吸い込みます。

 何とも芳醇な香りでした。

 律さんも申し訳なさそうにお猪口にお酒を注ぎ、覗き込む様に香りを嗅いでおられました。


 希世さんは幾つかの小鉢と大きな土鍋を食卓の上に運んで来られました。


「さあ、戴きましょう」


 とお鍋の具を呑水にいれて、律さんに手渡されました。

 そして私にも。

 鍋奉行を名乗る白井さんが居たら大変な事になります。

 やれ、それはまだ早い、それは最後に入れるモノ、などと美味しいモノも美味しく無くなってしまう程です。


「今日は新鮮な鱈がありましたので、鱈のお鍋にしたんですよ」


 希世さんは律さんに説明されておられます。


 律さんは熱そうにお鍋を食べておられました。


「あ、そうそう。今朝話題になっていた吉原の建具も、律さんと律さんの御父上が作られたそうですよ」


 希世さんはそう言って律さんに微笑んでおられます。


 今朝、話題になっていたと言われると私が吉原に行きたがっている様に聞こえます。

 私は少し渋い表情で、


「そうなんですか、やはり吉原のお店の建具などは特別なんですか」


 私は箸を置いて律さんに訊きます。


「そうですね。漆で塗った建具などを好む様ですね。高級感ってのも売りですから……」


 私は黙って頷きます。

 勿論、行った事も無いので、想像も付かないのですが、確かにその一時の時間を楽しむ場所ですので、そう言った趣向も必要なのでしょう。


「先生と要さんの書斎も、吉原調にして戴いたら如何ですか」


 希世さんはそう言うと笑っておられました。


 律さんは無口な方で、食事の時も聞かれた事以外は殆ど話されませんでした。


 お鍋を一旦引き上げると、希世さんは雑炊を作り持って来られました。

 それをまた呑水に入れて律さんと私に渡して下さいました。

 それに有明の海苔を刻んだモノを載せて戴きます。


「お腹満たされましたか」


 希世さんが律さんに訊くと、律さんはお腹を摩りながら、


「もう満腹ですよ……。本当にありがとうございます」


 と礼を言っておられました。


 希世さんは食卓の上を片付けると、珈琲を淹れて持って来られました。


「律さん、珈琲は大丈夫ですか」


 そう言って律さんの前に珈琲カップを置かれました。

 そしてミルクと砂糖をそっと差し出されました。


 律さんは砂糖を珈琲に数杯入れると、ミルクを入れて匙で混ぜておられました。

 もう、珈琲は飲まれた事もあるのでしょう。


「今日はプディングを久しぶりに作りました」


 と希世さんは、美味しそうなプディングを出して下さいました。


 律さんもプディングは初めてだった様で、興味深く希世さんに作り方を聞いておられました。


 私は珈琲の前に、徳利に残ったお酒をお猪口に注ぎ飲み干しました。

 以前の私なら、これだけのお酒を戴くと倒れてしまっていたかもしれません。


 ようやく、律さんも打ち解けて来たのか、希世さんと笑いながら話をされてました。


 物心付いた時には父上の仕事場で、その仕事を見ていた事。

 新たな洋風の建築が出来ると、そこにある建具を見に行き、勉強している事など、面白い話をしておられます。

 そして珈琲とプディングを召し上がった後で、律さんも徳利に残ったお酒をお猪口に注ぎ、飲み干されました。


「今日はご馳走様でした……。本当に何とお礼を言えば良いか……」


 と、律さんは頭を下げておられます。


「いえいえ、これから頑張ってもらわないといけませんし」


 と私も律さんに頭を下げました。


 律さんは何度もお礼を言われながら立ち上がられます。


「それではこれで失礼致します」


 と律さんは椅子を戻して食堂を出て行かれました。


 私は律さんを見送ろうとその後を歩きました。

 その時でした。

 律さんが崩れる様に床に座り込んだのです。


「律さん……」


 私は慌てて、律さんの肩を支えました。


「すみません……。やはり私はお酒が弱い様で……」


 そう言って、気を失う様に項垂れました。


「希世さん、希世さん」


 私は希世さんを大声で呼び、とりあえず律さんを応接間のソファに寝かせました。


 お酒が弱いのに、勧められたお酒を無理して飲んだのでしょう。

 律さんはそのまま眠ってしまわれた様でした。






 濡らした手拭を絞って律さんの額に載せました。

 希世さんは律さんが来ていた山着物の帯を緩めて、楽になる様にしておられます。


「今日は泊めて差し上げた方が良さそうですね……」


 希世さんは応接のテーブルの上に、冷やした白湯を置いて、私の横に座られました。


「大工さんたちは皆、お酒強いですからね……。律さんがお酒弱いなんて微塵も思ってませんでしたね……」


 私はそう言って希世さんと反省しておりました。


「希世さんもお酒強いですし……」


「あら、私だって、こんな風になった事もありますよ。もっともかなり前ですけど」


 そう言って眠る律さんを見ながら笑いました。


 しかし、泊めると言っても今は改築中で、使える部屋は私の使っている部屋か、この応接間と居間くらいしかありません。


「このまま、毛布でも掛けて寝せておきましょうか……」


 と希世さんは応接間を出て行かれました。


 いつも希世さんが帰られる時間になり、支度をして希世さんが応接間に顔を出されました。

 私も少しうとうとしていた様です。


「では、要さん。私もお暇しますね」


 私は、ふと考えました。

 希世さんに帰ってしまわれると、この家に私と律さんだけになってしまいます。


「き、希世さん……」


 私は自分の声が裏返っている事に気付きましたが、それどころではありません。


「はい、どうされましたか……」


 希世さんは私の顔を覗き込んでおられます。


「き、希世さんに帰ってしまわれると、この家には私は律さんだけになってしまうのですが……」


 私は慌ててそう言いました。


「ええ、それが何か……」


 希世さんは首を傾げて、わかっていると言わんばかりでした。


「こ、この家に私と若い女性の二人と言うのは、よ、良くないのではないでしょうか……」


 慌てる私を見て、希世さんは声を上げて笑っておられました。


「吉原行きを断る程の要さんが、律さんに何かするとも思えませんし……。それに……」


 私は希世さんの顔を見上げました。


「それに、要さんが律さんに何かされたら……」


「されたら……」


「責任を取って律さんとご結婚という事でもよろしいかと私は思っておりますので……」


 希世さんはクスクスと笑いながら、玄関へと歩いて行かれました。


 こんな風に私で楽しむのは、この家の人々が共通している悪い事です。


 希世さんは玄関の鍵を閉めて帰って行かれました。






 居間にある柱時計の音だけが響いています。

 そんな静けさの中で、私は時折、律さんの額に載せた手拭を替えます。

 ふと律さんの顔を見ていると、桜色の唇から息が漏れるのが聞こえて来ます。


 美しい人だな……。


 私は律さんの寝顔を見てそう思いました。

 しかし、次の瞬間、大きく頭を振り、邪念を取り除きました。

 

 いかん、いかん。

 変な気になっては……。


 私はまた向かいのソファに戻り、座り直しました。


「私、寝ちゃったんですね……」


 そんな声がして私は顔を上げました。

 どうやら律さんが目を覚まされた様でした。


「大丈夫ですか……」


 私は起き上がろうとされている律さんの背中に手を添えました。


「本当にごめんなさい……。私、本当に恥ずかしい……」


 律さんは顔を手で覆い隠して言われました。


「こちらこそ、すみませんでした。お酒なんて飲ませてしまって……」


 と私は向かいのソファに戻り、テーブルに置いた白湯を差し出しました。

 それを受け取り律さんは一口飲んでおられました。


「いえ……。あれくらいは大丈夫だと思っていたんですけど……」


 そう言うと力なく顔を上げて微笑んでおられます。


「あ、すみません……。帰らなくちゃ……」


 と立ち上がろうとされます。


「あ、もしよかったら、今日はこのまま泊っていって下さい」


 私はそう言うと、立ち上がります。


「最も、私しか居ませんが……」


 私の声が震えていたのでしょうか、律さんはクスクスと笑っておられます。

 そして膝を抱えると、


「ありがとうございます。ではそうさせて戴きます」


 と頭を下げられました。


 私はそのまま、応接間を出て、今のガラス窓から外を見ました。

 夕方降っていた雪も止み、積もっている様子もありませんが、どうやら風は強い様子でした。


 カチカチと時計の針の音だけがそこには響いてました。

 そんな静けさが染み入る様な空間でした。


 ふと視線を感じ、振り返ると応接間の戸の隙間から律さんが私を見ておられるのがわかりました。


「どうされましたか……」


 私は律さんに微笑んで訊きます。


 律さんはゆっくりと私の傍に来られました。

 そして、


「あの……」


 と俯いたまま仰いました。


「はい……」


「あの……。間違っていたらごめんなさい……」


 私は律さんの方を向き、その顔を覗き込む様に見ました。


「何ですか……」


「あなたは政貴さんですよね……」


 律さんはそう仰いました。


 私は唾を飲み込み、微笑みます。


「政貴……。私の名前は要ですよ……。お知り合いの方ですか……」


 律さんはじっと私の顔を見つめておられました。


「ゆっくりお休み下さい」


 私は半ば無理矢理、律さんの背中を押して応接間へと連れて行きました。

 そして、自分の部屋へ戻り、その戸を閉めました。


 一体誰なんだ……。

 私を知っている……。








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