1話 百日師匠
「お願いします。どうか私を弟子にして下さい」
私は玄関の履物を脇に避け、その場で土下座をしたのです。
私の覚える限り、人生で初めての土下座だったと思います。
その人は、アイスキャンデーを舐めながら、じっと私を見下ろしておりました。
私が恐る恐る顔を上げると、その人はにんまりと笑って、
「先生。弟子入り希望の人が来てますよ」
と奥の部屋に向かって言いました。
この人は先生ではなかったのか……。
私は顔を真っ赤にして再び頭を下げました。
それは今から現われるであろう先生への尊敬の念からでは無く、赤い顔を見せるのが恥ずかしかったからでした。
「おお、そうかい、そうかい……」
奥の部屋からそう言いながら先生が出て来られました。
「白井君。この人と少し話をして来るから、しばらく留守番を頼みましたよ」
先生はそう仰って、私が脇に避けた雪駄を履くと、土下座したままの私の腕をおもむろに引っ張り上げられました。
「さあ、行くよ。早く立ちなさい」
先生はそう言われると玄関の戸を開けられました。
私は言われるがままに立ち上がり、外へと出ました。
「先生、〆切は四時ですからね、すぐに戻って来て下さいよ」
そう言いながら白井君と呼ばれた男の人が履物も履かずに外に出て来るのが見えました。
「誰だか知らんが、走れ」
先生は私にそう仰ると、通りを一目散に走り出され、道行く人を慣れたステップでも踏む様に避けながら角を曲がられました。
私も先生を見失わない様に着いて行き、ようやく先生に追い着いたのでした。
そして狭い路地裏を幾つも通り、大通りへと出ました。
「すまんね。随分と走らせてしまったね」
先生は私に愛らしい猫でも見るかの様な表情で仰られました。
「蕎麦にするか、甘いモノも良いな……君は何が食べたい」
突然そう訊かれて、私は戸惑い、アワアワと言葉を発する事が出来ませんでした。
その私を見て先生は笑い、
「人は本当にアワアワと言うのだね」
そう仰られました。
結局、先生と私は昼間から麦酒の飲めるお店に入りました。
「すまんね……。白井君は〆切の日は朝早くからうちに来て、原稿を待っとる。彼が居ると面白いアイデアも浮かばん様になる」
先生は冷たい麦酒を一気に飲まれました。
私は目の前の麦酒に手を付けて良いモノかどうかわからず、俯いておりました。
「えーっと……。私は君の名前を聞いたかな」
そう言うと俯く私の顔を覗き込まれました。
私は首を横に振り、顔を上げました。
「か、か、要と申します」
私はカラカラに渇いた口を開きました。
「カカカナメ君か。面白い名前だな」
「あ、いえ……要です」
「わかっとるよ。冗談だ」
先生はそう仰って声を上げて笑われました。
「緊張し過ぎだ。私が閻魔大王にでも見えるかね」
先生は麦酒の瓶を持ち上げて女中にお代わりを頼まれました。
「まず、麦酒を飲みなさい。話はそれからです」
麦酒を持って来た女中に先生は色々と注文されました。
私は何度も勧められ、麦酒を殆ど一気に飲み干しました。
「なかなかイケる口だね」
先生は嬉しそうに私の空になったグラスに麦酒を注がれます。
緊張で口の中にサハラ砂漠を飲み込んだ様になった私は、その麦酒を何杯も飲み干しました。
そうして私は不覚にもそのまま酔い潰れてしまったのでした。
目が覚めると外は暗く、私は蒲団の上で寝ておりました。
じっと目を凝らすと見慣れない天井が見えてきました。
そうだ……。
私は弟子入りを……。
それを思い出し、飛び起きました。
「あら、お目覚めになられましたか」
そう言って私の傍に座る女性の姿があり、私は恐縮して小豆程に小さくなった気分でした。
「お、お、奥様でいらっしゃいますか」
私は蒲団の上に正座して頭を下げました。
「奥様ではございません。家政婦の希世でございます」
希世さんも私に深々と頭を下げられました。
「先生は独身でいらっしゃいますのよ……。もっとも昔は奥様もおられたのでしょうが、お逃げ遊ばれたそうです」
希世さんはクスクスと笑いながら厨の方へと消えて行かれました。
私はどうして良いのかわからず、とりあえず蒲団をたたみ、足音を立てない様に部屋の中を歩きました。
そして先生の書斎らしき部屋を見付け、そっと戸を開けました。
書きかけの原稿のある机と、その原稿の上に万年筆が転がっているのが見えました。
「何をしとる」
不意に背後からそんな声がして、先生が立っておられました。
「せ、先生」
私はその場に正座して頭を下げました。
「要君、飯の時間だ。来なさい」
そう言うと黒光りのする廊下をそそくさと歩いて行かれました。
私もその先生の後を着いて行きました。
酔い潰れて、先生が連れて帰って来てくれたのでしょうか。
それを訊くのも恐ろしくて、私はただ俯いて先生の作務衣から覗く踝を見ていました。
「あ、先に頂いております」
食卓には昼間に見た白井さんが座り、既に食事をされておられました。
その白井さんの向かいに座れと先生は仰り、私はそこに座りました。
鰈の焼き物に筑前煮、蛸の酢の物、それに素麺の入ったお味噌汁が並んでおりました。
私が座ると希世さんがご飯をよそって下さいました。
「要君。食べなさい」
先生はお味噌汁をすすり、美味しそうに筑前煮を口に放り込まれました。
私も同じようにお味噌汁を頂きました。
そのお味噌汁が美味しくて私は黙ってお椀の中を見つめました。
「どうした……。口に合わんかな……」
先生は心配そうに仰います。
そうしていると涙が溢れて来ました。
「いえ……」
私はそう言うのが精一杯で、手に持ったお椀を置きました。
無礼にも「弟子にして欲しい」と言って突然訪ねてきた者を同じ食卓に着かせ食事をさせる先生。
私はそれを考えると嬉しくて仕方なかったのです。
「とても美味しいです」
先生はニコリと微笑むと何度か頷かれました。
「そうなんです。希世さんの料理は美味しいのですよ……。この白井君なんかはそれを目当てにやって来るくらいですからね」
白井さんはその言葉に噎せ返っておられました。
私はそれを見て涙を拭くと、箸を置きました。
そして今一度、食卓の椅子から下りて土下座しました。
「先生……。申し訳ありませんでした。何処の馬の骨とも解らぬ私に、こんなおもてなしをして下さり感謝しております。食事を頂きましたら、出て行きますので……」
私は恐縮してそう言いました。
もう弟子にして欲しいなんて烏滸がましい事を言える勇気は私にはありませんでした。
「まず、希世さんに作って頂いたご飯を食べましょう……。それからでも良いじゃないですか……」
先生は私の肩をポンポンと叩かれました。
私は頷きながら、椅子に座り直しました。
食事が終わると先生は大きな有田焼の灰皿を目の前に置き、煙草を呑み始められました。
その甘い香りが部屋全体に広がります。
「要君……」
突然名前を呼ばれ、私は我に返りました。
「はい」
先生は口を真一文字に結ぶ癖があるようで、そうやって私をじっと見られます。
「君は悪魔の味を知ってるかな……」
「悪魔の味……ですか……」
私は困惑して眉を寄せて首を横に振りました。
「悪魔の様に黒く、初恋の様に苦い……でしたかね……」
白井さんがニヤニヤしながらそう言われます。
「珈琲の事だよ……」
そう小声で教えて下さいました。
最近、カフェなるモノが流行して珈琲なるモノを飲む人も増えて来たと聞いた事がありましたが、私はまた一度も飲んだ事がありませんでした。
先生は煙草を消すと身を乗り出して、私に小声で仰います。
「飲んでみるかね」
私は微笑んで頷きました。
それが先生は嬉しかったのか、大声で希世さんを呼ばれました。
「珈琲を淹れてくれ。それにあの馬糞何とかというお菓子を」
「バウムクーヘンですよ……先生」
白井さんが横からそう言い、暑いのか扇子でパタパタと扇がれてました。
しばらくすると、西洋のカップに注がれた黒い飲み物と年輪のような模様の入ったケーキが出て来ました。
「さあ、飲みなさい。食べなさい」
先生は嬉しそうに私に勧められました。
しかし、初めてのモノばかりで、どうやって飲むのか、どうやって食べるのかも分からず、困っておりました。
「そうか……。珈琲は初めてか……」
先生はそう言われ頷かれました。
そして目の前の砂糖の入った入れ物を取り、匙ですくうと三杯、カップの中に入れられました。
「何、作法など無い。自分の好きな甘さで飲めば良い」
そう言われると今度は白い液体を注がれます。
「これは牛の乳だ。西洋ではミルクと言ってな、かなり昔から飲んでおったそうだ」
私は知らない事ばかりで、じっと先生の手元を見つめておりました。
そして私も先生と同じように砂糖を三杯入れ、ミルクとやらを注ぎ匙でかき混ぜました。
「ほら、その馬糞……」
「バウムです……」
白井さんに正され、怪訝な表情で先生は言い直されました。
「バウムクーヘンも食べてみなさい。神戸の知り合いに頼んで送ってもらったんだ。神戸にはドイツの菓子職人が多く居るらしい」
私はそのバウムクーヘンに匙を入れて口に入れました。
そして珈琲を飲みます。
体験した事の無い西洋の味がしました。
「どうだ……美味いだろう」
先生は嬉しそうに声を上げて笑っておられます。
「はい、とても美味しいです……」
私はあっと言う間に珈琲とバウムクーヘンを平らげました。
先生が二本目の煙草を呑み始められると、白井さんが席を立ち、先生の書斎から原稿を持って来られました。
「先生。明日も来ますので、逃げないで下さいよ」
白井さんはトントンと原稿を揃えて茶封筒に入れられました。
「残りは明日の午後四時までという事で……」
白井さんは席を立ち、頭を下げられました。
「また四時か……。希世さんの飯が目的だな」
白井さんはニヤニヤ笑い、
「希世さん。明日は肉料理でお願いします」
そう言うと部屋を出て行かれました。
それを見て私も立ち上がります。
そして先生に挨拶をして立ち去ろうと思ったその時でした。
先生が口を真一文字にしながらじっと私を見ておられました。
「要君……。小説なんてモノは師匠も弟子も無い。教える事など無いのだよ。それ程に自由なモノなんだ」
私はそう仰る先生をじっと見つめた。
「如何に活字の中に人を、風景を、音を、色を、笑いを、涙を……表現出来るか……」
私は目を閉じて何度も頷きます。
「私はね、キネマの様な小説を書きたいと、常日頃から思っている。時が経つと、小説を読んだのかキネマを観たのかわからなくなるような話を……」
私は先生の小説を読んだ時に、
「まるでキネマを観たような小説だ」
と感じた事がありました。
その心地良い小説に憧れ、先生の様な小説が書きたい。
そう考えて、出版社の知り合いの伝手を辿り、先生の家を探し当てたのです。
それからは居ても立ってもおられず、今日、ここにやって来たのでした。
先生の話を聞いて涙が頬を伝いました。
やっぱり、間違ってなかった……。
私の胸は熱くなり、それが徐々に込み上げて来ました。
「ありがとうございました……」
そんな言葉を口にしました。
それが一番今の私の気持ちに近い言葉だったからです。
そしてゆっくりと頭を下げました。
先生は煙草の煙を吐きながら、ニコニコとしておられました。
「百日間……」
静かに口を開かれました。
「百日間だけここに居なさい。もし、その百日の間に私から盗めるモノがあるのであれば、盗みなさい」
私はじっと煙草の煙の向こうの先生を見つめていました。
「無論、二日で私を吟味出来たら、その時は好きに出て行けば良い」
先生は煙草を灰皿で潰す様に消されました。
私は先生の優しさが直に胸に沁み込んで行くようで、苦しく重い胸をどうする事も出来ませんでした。
「ありがとうございます……」
私はお礼を言って深く頭を下げました。
先生は優しく微笑んで頷かれてました。
「希世さん。明日の朝飯から、この要君の分も頼むよ……」
そう大声で言われます。
「わかってますよ。もうそのつもりで買い物して来ましたから」
厨から、そんな希世さんの声がしました。
弟子になったと思ったのは私だけだったのかもしれません。
先生は私に、
「ああしなさい、こうしなさい」
などの言葉は一言も仰られませんでした。
私は毎日先生の書かれた本を読んで過ごしました。
初めてこの家に来た日に酔っ払って寝かされていた部屋をそのまま私のために下さいました。
その部屋で私は、先生の書斎から本を借りて来ては読み、読み終えては戻す。
それだけを繰り返しておりました。
そんなある日、白井さんが業者を連れて来られました。
「おお、ようやく来たか……」
玄関で先生は白井さんに仰られました。
「どちらに運べばよろしいですか」
白井さんは先生に聞かれます。
「私の書斎に入れてくれ……」
先生はそれだけ仰るとそそくさと書斎へと戻られました。
私も先生に着いて書斎に入ると、
「要君。その書棚を少し脇に寄せてくれないか……」
そう言われました。
私は書棚から本を出して、先生の指示通りに少し脇に寄せ、本を戻しました。
そして白井さんは真新しい座卓を運び込んだのです。
「私の視線が気になるといけませんので、背を向ける様な位置に……」
先生はそう指示されました。
「私と同じモノだ……。もっとも私のはもう何十年も使い込んでいるがな……」
先生は真新しい座卓をポンポンと叩くと、私に微笑みました。
「座ってみなさい」
先生は私にそう言ったのです。
「私がですか……」
私は思わずそう言いました。
「要君……。小説家はね、書かないと死んでしまうんだよ……」
そう言うと部屋の隅に置かれていた座布団を一枚取り、座卓の前に置かれました。
私は嬉しくて直ぐにその座卓の前に座り、ニスで光ったその机を手で撫でました。
思いも寄らぬ先生からの贈り物でした。
その机の上に、原稿用紙と万年筆が置かれました。
「これは私からの贈り物です」
と白井さんが仰いました。
ここで暮らすようになって私はどうやら涙脆くなってしまったようでした。
「流行に流されなくても良い。妙に格好の良いモノを書こうと思わなくても良い。自分を表現するつもりで書いてご覧なさい。それが君の小説だから……」
先生はそれだけ仰いました。
私は無我夢中で原稿用紙に万年筆を走らせました。
その原稿用紙がペン先で擦れる音が私には快感で、時間を忘れて書き続けました。
時折、先生が休憩しようと誘って下さいます。
辰巳屋の天婦羅蕎麦を食べに行ったり、三船堂の餡蜜を食べに行ったり。
浪漫軒でビフカツを頂いた時の感動は文字にもし難いモノでした。
ある日、先生の煙草を買いに行き、戻って来ると、先生は珍しく私の原稿を読んでおられました。
私は恥ずかしくなり、
「すみません……。まだ途中ですので……」
と先生から原稿を取り上げました。
先生はニッコリと笑い、
「私は君が羨ましい。そして恐ろしいよ……」
そう仰いました。
私が羨ましい……。
どうして……。
私は先生にその理由を訊こうとして止めました。
訊く事が怖かったのです。
その夜、私が風呂から出て、部屋で本を読んでいると先生が部屋の外から、
「起きてるか……」
と言われるのが聞こえました。
私はゆっくりと戸を開けると、先生が西洋のお酒の瓶を持って立っておられました。
「ウヰスキーというモノを貰った。一緒にやらんか……」
私はここに来た日の失態もあり、お酒は飲んでませんでした。
「何……ここで飲むのであれば、いつ引っ繰り返っても大丈夫だ」
先生はそう言って縁側にグラスを持って座られました。
私は恐縮しながら先生の横に座りました。
トクトクという心地良い音を立てながらウヰスキーが注がれます。
その琥珀色のグラスを先生は私に渡して下さいました。
「乾杯しようか……」
私はグラスを手に持ったまま、何に乾杯すれば良いのか、考えました。
「何に乾杯しましょうか……」
先生はニコニコ笑ったまま、
「そうだな……」
と首を傾げておられました。
そして、
「世界平和に……で良いんじゃないか……」
そう仰いました。
私はそれがおかしくてクスクスと笑ってしまいました。
「では、世界平和に……」
「世界平和に……」
そう言ってグラスをぶつけました。
「君にとって小説とは何かね……」
先生はウヰスキーを一口飲むとそう訊かれました。
私はじっと空を仰ぎ、月を探しました。
ちょうど屋根の陰になり月が見えなかったようでした。
私はウヰスキーに口を付けて、先生の横顔を見ました。
先生も月を探されている様でした。
「私にとって小説とは……、私が生きた証の様なモノです」
先生は月を探し続けながら、
「そりゃまた随分と大きな話だね……」
そう仰いました。
私は今一度空を見て、
「後世に何かを残したいんです。そして私の小説に一人でも二人でも良い。それで何かを感じてくれる人が居ればそれでいいんです」
先生はゆっくりと私の方を見られました。
「私は先生の小説を読んで、すごいと思いました。色のある小説、音のある小説、匂いのある小説。そんなモノを読んだ事ありませんでしたから……。そして先生の小説に勇気をもらい、同じ事がしたいと思えたのです」
先生はグラスに口を付けて微笑みます。
「私にはそんな大それた事は出来ませんよ」
そう言ってまた一口。
「私は私の中に溜まっているモノを吐き出しているだけですから……」
先生らしい謙遜でした。
いや、先生は謙遜している訳ではなく、本心で仰っておられるのです。
私はそんな先生が大好きで、この人を置いて師と仰ぐ人はいない。
そう思いました。
先生は煙草を咥えてマッチで火をつけました。
先生の煙草の香りが漂います。
「君の作品には魂が宿っています。時には熱く、時には冷たく……。尖っていたり、柔らかかったり……。不思議なんですよね……。憎しみが見えても、その奥に優しさがあるんです」
先生はウヰスキーを唇に付ける様に飲まれました。
「君自身がそうなのかもしれませんね……」
私は微笑んで、また空を見ました。
「先生は私の事、何も訊かずに迎え入れて下さいました……」
先生は煙草の煙を空に向かって吐きました。
「そんなの関係ないからですよ……。それに……」
先生はウヰスキーのグラスを脇に置いて、また口を真一文字にされました。
「君の書いたモノを見ればわかります。今までしてきた苦労や、悲しみ、喜び……、君に欠けているモノもね……」
「先生……」
私は鼻の奥に流れ込む涙を感じました。
「お書きなさい……。もっと遠慮せずに、君自身を……。その善し悪しは読み手が教えてくれますよ。等身大の君の過去と未来。それが間違っていない事を……」
先生に答えを貰った気がしました。
自分の探していた答えを……。
「私は無条件に君を応援します。君が男だろうが、女だろうが……、いや、宇宙人だとしても私は君の味方ですよ」
先生なりの冗談なのだろうが、私はその言葉を笑う事は出来なかった。
「ありがとうございます……」
私はそう言ったのだが、先生には聞こえなかったかもしれません。
嬉しかった。
この先生に出会えた事が。
もちろん求めるモノが違っていたら、この先生じゃなかったのかもしれません。
しかし、今はこの先生が私に生きるきっかけをくれる唯一の人なのです。
そんな人に出会えないまま一生を終える人も多く居ます。
それに比べると私はたいそう幸せなのかもしれません。
先生はグラスのウヰスキーを飲み干されました。
私も同じ様に飲み干そうと思いましたが、流石に無理でした。
「さあ、明日も早いので寝ますよ……」
先生の言葉に頷きました。
先生は立ち上がり、凝った首を回しておられました。
そして、空を見上げると背伸びをされました。
「あ、要君」
私は立ち上がって返事をしました。
「はい……」
先生はニコニコと微笑みながら、
「君がうちに来てどれくらい経つかな……」
そう訊かれました。
私は手に持ったグラスのウヰスキーを一気に飲み干しました。
「嫌だな……先生。まだ三日目ですよ……」
そう言うと先生の背中を叩きました。