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9話 掩蔽師匠





 今朝も寒うございました。

 私は早くに起きて、炭を起こし、食堂、居間、応接間、仕事部屋のすべての火鉢にそれを入れて行きます。


 先生は暑がりの寒がりで、いわゆる厄介なお方なのです。

 先日も絶対に足が冷えない足袋なる怪しいモノを売りに来た行商から十足程買っておられましたが、勿論、普通の足袋で、その日の午後から表に「行商お断り」と書いた紙を貼っておられます。


 仕事部屋。

 先生と私が原稿を書き、出版社の白井さんが居眠りをされる部屋なのですが、この部屋には「炬燵を入れろ」と先生は仰います。

 しかし、炬燵と言うモノは眠気を誘う最右翼のモノでございまして、いつも居眠りをされておられる白井さんが断固反対されておられますので、先生が炬燵で原稿を書かれる事はしばらく無いでしょう。


 食堂の火鉢に炭を入れますと、先生は子どもの様に火鉢の縁に手を置いて、「寒い、寒い」と申しておられます。


 希世さんはそんな先生に温かい珈琲を入れて、持って来られました。


「要君、新聞を頼む」


 先生は、今度は冷えた足を火鉢の縁の乗せながら、そう仰います。

 漱石先生の『彼岸過迄』の連載が始まりましたので、それを毎日読んでおられるのです。


 昨年、漱石先生は関西に講演に行かれ、その時に大阪で胃潰瘍で入院され、しばらく静養されておられました。

 その後、今年の正月から連載を始められた様です。


「三年ぶりの連載だからね」


 と、先生は嬉しそうに新聞を広げておられます。

 私も先生がお読みになった後に毎日読んでおりますが、漱石先生の作品は少々難しい言い回しがあり、先生の作品の方が私には向いている様です。


 希世さんは私にも珈琲を持って来て下さいました。

 そして新聞を広げられる先生の前に食事が運ばれます。

 寒がりの先生を気遣っての事でしょう。

 今日は体の温まる和食の様です。


 食事が並び終えた頃に先生は黙って新聞を折られ、食卓の端に置かれます。

 そして黙って箸を手に取られました。

 これでようやく朝食を食べる事が出来ます。

 今朝は鯖の塩焼きと切干大根、それにお味噌汁にお漬物。

 海苔もついておりました。


「お代わりもございますので」


 希世さんはそう仰ると厨へと戻って行かれました。


「今日は白井君は何時に来ると言ってたかな」


 先生は食事をされながら私に尋ねられました。


「昨日、何も仰らずに帰られましたので、お昼までには来られるので無いでしょうか」


 私はお味噌汁のお椀を置いてそう答えました。


 先生は無言で頷かれると、


「白井君が居ないと静かですね」


 と、仰いました。

 私もそう思っており、思わず顔が綻んでしまいました。


 食事を終えますと、先生はいつもの様に煙草を飲まれます。

 希世さんは食後の珈琲を持って来て下さいました。


 すると、表で何か叫んでいるのが聞こえました。


「何事かな」


 先生は聞き耳を立てておられます。

 私は立ち上がり、


「ちょっと見て参ります」


 と表へ出ました。

 先生の家の前を、サーベルを持った警官が走って行きました。

 私の後ろから先生も出て来られました。


「どうした」


 先生は表へと顔を出され、走って行く警官を目で追われておられました。


「何でしょうか……」


 私は通りまで出て、周囲を伺いますが、何か物騒な事が起こった様子はございません。


「特に物騒事ではなさそうですが」


「ふむ……」


 と先生も通りで周囲を眺めておられます。

 そこに先程の警官が戻って参りました。


「おい駐在」


 先生は警官に声を掛けられました。


「ああ、先生」


 警官と先生は顔見知りの様です。


「どうしたんだ。こんな朝っぱらから」


 先生は寒そうに腕を組んでそう仰います。


「いや、大した事では無いのですが、春画を売り捌く輩がおりまして」


 警官は帽子を脱いで先生に頭を下げてそう言います。


「春画……」


 先生はその言葉に反応された様です。


「ええ、一応禁止されているモノですから、私どもも放置しておく訳にも行かず……」


 もう一人の警官が戻って参りました。


「見つかったか」


 もう一人の警官に大声でそう訊いておられますが、どうやら見つからなかったのか首を横に振っておられます。


「アレも立派な日本の文化なんだがな」


 そう呟くように仰い、警官の肩を叩かれました。


「お前も好きだろう」


 警官は、バツの悪そうな表情を浮かべ、帽子を被ると奥の通りへと小走りに向かわれました。


 先生はそれを見送ると家へと入って行かれました。

 私も後から入り、玄関の戸を閉めました。


 先生は食堂に戻り、また新聞を広げられると、温くなった珈琲を手に取られました。


 希世さんがシズカのご飯を持って厨を出て来られました。


「何を騒いでおられたのですか」


 希世さんは私に訊かれました。


「どうやら春画を売っていた犯人を捜しておられる様です」


 私は珈琲を一口飲んで、希世さんに言いました。


「アレも立派な日本の文化なんだけどな」


 先生は新聞を折りながら警官に仰った事と同じ言葉を仰いました。


 希世さんはシズカのご飯の入った器を食卓に置かれ、頷かれます。


「私もそう思いますわ」


 私は少し驚きました。

 希世さんはもっと女性の目線からご意見されると思っていたからです。


「師宣、春信、歌麿、北斎、国芳。皆、描いておりますしね。浮世絵としての価値は正当な評価に値するモノだと私も思います」


 何とも博識高い女性です。

 希世さんの知識はどれ程広いのでしょう。


「その通り、描いてないのは写楽だけ。他は皆描いておる」


 先生は口を真一文字にされながら仰いました。

 そして煙草を咥えられました。


 希世さんも先生の言葉に頷いておられました。

 私だけが知らない事の様に思えてむず痒くなってしまいました。


「シズカにご飯をあげて来ます」


 私はそう言うと席を立ち庭へと参りました。


 いつもの様にシズカにご飯をあげようとシズカの小屋の傍に参りますと、いつもとシズカの様子が違います。


「シズカ……どうしましたか……」


 私はシズカの頭を撫でました。

 するとシズカの小屋の陰に小柄な男が潜んでいるのが見えました。

 小脇に大量の丸めた紙を抱えています。


「どなたですか」


 私は少し声を荒げてその男に言いました。


 男は静かにしろと言う様に唇に指を当てて、


「先生の弟子か」


 と言いました。


 私は男が先生の知り合いと知り、その男の前にしゃがみ込みました。


「先生のお知り合いですか」


 そう小声で訊きます。

 そして男が小脇に挟んでいる紙を見ました。

 どうやら春画を持っている様でした。


「あなたですか、警官に追われていたのは」


 私は更に声を殺して訊きました。


 男はコクリと頷くと、私に顔を寄せます。


「先生に会いたい。呼んで来てくれないか」


 私は、眉を寄せました。

 警察に追われている男を先生に会わせて良いのだろうか。

 そう考えたからです。


 少し考えている私に、男は小脇に挟んだ絵を一枚引き抜き手渡します。


「こ、これを見せれば分かる。頼む、先生に会わせてくれ」


 私は手に持った浮世絵を見ました。

 正に春画でございました。

 初めて見た春画に私は目を白黒させて、それを丸めました。


「少し待ってて下さい」


 私は立ち上がると家の中へと入りました。

 そして食堂へ行くと、煙草を飲んでおられる先生の傍に立ちました。


「どうしたんですか、要君」


 先生はお顔を上げられて私に尋ねられました。

 私は無言で丸めた春画を先生に渡しました。

 先生もそれを受け取ると開いて見られました。

 そしてその春画を見て、クスクスと笑い始められました。

 その声は次第に大きくなって行きます。


「やはり庵梅か」


 先生はそう仰ると立ち上がられました。


「何処にいるのだ、倉持庵梅は」


 先生はズカズカと歩き、表へと出られます。

 私は黙って先生の後を付いて行きました。


 先生は庭に出られると直ぐに庵梅さんの姿を見付けられました。

 そしてにんまりと笑われると、


「要君、勝手の方から庵梅を中に入れなさい」


 そう仰られました。


「は、はい」


 私はシズカの小屋の傍に行き、犬走を回って勝手の方へと庵梅さんを案内しました。

 勝手口から中に入ると塩梅さんは草履を脱いで、中に入って来られました。

 厨を抜けて食堂に入ると、先生と希世さんが庵梅さんから受け取った春画を見ておられました。


「先生」


 庵梅さんは深々と頭を下げておられます。


「久しぶりだな、庵梅」


 先生は庵梅さんの肩を何度も叩かれ、椅子に座られ、庵梅さんにも座る様に促されました。

 希世さんはじっと春画を見ておられます。


「しばらく見ない間に腕を上げたな」


 先生は希世さんの見ておられる春画を引っ手繰る様に取ると、食卓の上に置き、指でトントンと叩かれました。


 庵梅さんは小さい体を更に小さくして、首を横に振られました。


「いえ、まだまだです」


 謙遜される庵梅さんに先生は、


「いや、警察に追われる程の浮世絵になったという事だ。質の悪い春画なら、警察も追ったりはせんよ」


 そう仰り、大声で笑われました。


「ほら、全部見せてみろ」


 先生は庵梅さんが持っておられた春画を全部食卓の上に広げられました。

 それを先生と希世さんはじっと見ておられました。

 その間、何の言葉も発せずに、宝物でも見るかの様に息を飲んでおられました。


「これだけあると壮大だな……」


 先生は呟く様に仰いました。

 希世さんもそれに頷かれました。

 広げられているのは春画なのです。

 卑猥な絵です。

 しかし、先生も希世さんもそれを、素晴らしい芸術を見る目でじっと見ておられます。

 私もそれが分かる気がしました。


 庵梅さんは、恥ずかしいのか下を見て黙っておられました。


「流石だな、倉持庵梅、此処に在りだな」


 先生はまた庵梅さんの肩を叩かれました。


「こんな芸術を取り締まるなんざ、この国はどうかしておる」


 先生はそう仰ると、椅子に座られました。


「黒田清輝先生もそう嘆いておられた。日本の絵画はいつまでも西洋には追い付けん。勝っておるのはこの浮世絵だけだとね……」


 先生はふと私の方を見られました。


「要君、紹介が遅れたね……。彼は倉持庵梅と言ってね、元々イチロクの弟子だったんだよ」


 イチロク先生。

 浦江清海画伯。

 先生と同郷の画家でした。

 少し前に亡くなられたのですが、先生と一緒に上京された方です。

 私の席の後ろにそのイチロク先生の絵が掛かっております。

 庵梅さんはその絵をじっと見ておられました。


「その絵は……」


「イチロクの絵だ。私はこれしか持っておらん」


 先生は口を真一文字にして仰います。


「私は葬儀にも行けなかった。先生が亡くなった事を聞いたのは随分と後になってからでしたので」


 庵梅さんは寂しげな表情で視線を落とされました。


 先生はそんな庵梅さんに微笑んでおられました。


「庵梅、飯はまだだろう」


 先生は希世さんに頷かれると、希世さんは厨へと入って行かれました。

 私は食卓に広げられた庵梅さんの絵を重ねて食卓の脇に寄せました。


 すぐに庵梅さんの前に食事が並びます。


「ほら、体も冷えておるだろう。温かい内に食べなさい」


 先生は庵梅さんに食事を勧められます。

 庵梅さんも箸を持つと手を合わせて食事を始められました。


「おはようございます」


 と玄関から白井さんの声がしました。

 私は立ち上がり、先生に一礼すると玄関へと向かいました。


「要君、おはよう」


 白井さんはもう靴を脱いで上がっておられました。


「そこで警官に色々と訊かれてね。春画を描いている奴がいたらしくて、この辺りにまだ潜んでいると思うから、見付けたら連絡をくれって……」


 そう言いながら食堂へ入って来られました。

 そして食事をする庵梅さんを見て、


「倉持庵梅……」


 と呟く様に仰られました。






 白井さんは私の横に座り、食卓を指でトントンと叩き続けておられました。

 先生は腕を組んで目を閉じておられます。

 私は食卓に肘を突き、お二人の様子を交互に見ておりました。


「先生……」


 静寂を壊したのは庵梅さんでした。


「私はこれで失礼します。これ以上先生の所に居るとご迷惑が掛かるので……」


 庵梅さんは立ち上がられます。


 先生は目を開けて、ゆっくりと身を乗り出されました。


「庵梅。座りなさい」


 先生は静かに仰られます。


「ですが……」


 庵梅さんがそう仰ったのを遮る様に、


「いいから座れ」


 と先生は声を荒げられました。

 その迫力に庵梅さんも椅子に腰を下ろされました。


「どうするんですか、先生」


 白井さんは警察から逃げている庵梅さんを匿っている事が気が気ではない様です。


「犯人隠匿も立派な犯罪ですよ」


 私は先生の表情を見ました。

 特に顔色を変える訳でもなく、食卓の上に置いた煙草を咥えられました。

 燐寸を擦る音が聞こえる程に静かな食堂でした。


「庵梅、お前は生まれは何処だ」


 先生は煙草の煙を吐きながら訊かれました。


「若狭……小浜です」


「小浜か……。小浜と言えばへしこだな……。あれは美味い」


 先生は思い出す様に視線を上に向けて仰っています。


「へしこか……。確かに美味いな。お茶漬けにして食べるといくらでも食べれるんですよねぇ……」


 私の隣で白井さんも同じ様に視線を上に向けておられました。


「あの……」


 庵梅さんが口を開かれます。


「良かったら今度送りますよ」


 先生は食卓に両手を突いて身を乗り出されました。


「本当か。あれは樽で漬けるんだよな、樽ごと送ってくれ、金は払う」


 先生はたたみかける様に仰いました。


「わた、私もお願いします」


 白井さんも身を乗り出しておられました。


 私は、そんな二人に呆れて、冷めてしまった珈琲に口を付けました。


「はい。わかりました」


 庵梅さんも何度も頷きながら返事をされました。


「あの……」


 私は辛抱堪らず、言葉を発します。

 その私の声に三人は私の方を見ておられました。


「それよりも庵梅さんを、これからどうするかですよ……」


 私の言葉に先生と白井さんはゆっくりと椅子に座られました。


「先生は庵梅さんを逃がそうとお考えなのですか」


 白井さんは耳を掻きながら訊かれました。


 その言葉に先生は再び腕を組んで目を閉じられました。


「白井さんは反対なのですか」


 私が白井さんに訊くと、


「当たり前です。それこそ立派な犯罪ですよ。犯人を匿った上に逃がすなんて」


 白井さんは立ち上がって言われました。

 そしてふと冷静になり、


「一応、先生も人気作家ですからね。その辺の自覚は持ってもらわないと……」


 語尾が有耶無耶にされ、歯切れの悪い白井さんでした。


「でも、捕まったら、へしこが……」


 小さな声で白井さんはそう仰ってましたが、多分、私にしか聞こえなかった筈です。


 先生は目を開けて、口を真一文字にされました。


「犯人と言っても人を殺した訳じゃない。拘留される事も無いだろう。罰金刑だよ……」


 先生はそう仰いながら、何かを思い付かれた様でした。

 先生は私の方を見られました。


「要君、一番大きな封筒を持って来なさい」


 私は立ち上がり、仕事部屋に封筒を取りに行きました。

 そして、先生に渡すと、先生はペンを取り出し、その封筒に住所とご自分の名前をお書きになりました。


「庵梅、お前の絵を」


 庵梅さんは食卓の上の春画の束を揃えて先生に渡されました。

 先生はそれを受け取ると、その封筒の中に入れられました。


「希世さん。庵梅の実家に送ってあげられるモノはあるか」


 厨から出てきた希世さんは、ハムとチーズ、それにカステラを持っておられました。


「こんなモノで良ければ……。何なら何か買って参りますが」


「ああ、いや、それで良い」


 先生は希世さんが手に持っていたハムやチーズを受け取りました。


「一体何を……」


 白井さんは先生の行動を不思議そうに見ておられました。


 先生は大判の油紙を持って来て、ハムやチーズと一緒に庵梅さんの絵の入った封筒を包まれました。


「庵梅。一言で良い。両親に手紙を書け」


 先生は便箋とペンを庵梅さんに渡されました。


「最後にこの封筒を一週間後に郵送してくれる様に書いておけ」


 庵梅さんは先生に言われた通りに手紙を書いておられました。

 そして、その手紙と一緒にお金を入れて、小包を作られ、麻の紐で縛られました。


「要君。この荷物を送って来てくれ。宛先は……」


 先生は庵梅さんに宛先を書けと便箋を再び渡されます。

 庵梅さんは慌てて便箋に宛先を書いておられました。


 白井さんは首を傾げて、その様子を見ておられました。


「一体どうするんですか」


 白井さんは肘を食卓に突き、顔の前で両手を組まれました。


 先生は白井さんを見てニヤリと笑っておられました。


「庵梅を警察に突き出す」


 私と庵梅さん、そして白井さんも先生の方を見ました。


「突き出す……」


 白井さんは呆気に取られた様子でした。


「ただ、倉持庵梅が書いた春画を警察に取られるのは癪だからな……。勿論、私の所に庵梅が居たとなると家探しもされる可能性もある。庵梅は全部焼き捨てたと警察に言いなさい。しかし、こうやって送っておけば、庵梅の作品はここに返ってくる。いずれ、庵梅の絵が認められる時代が来る。その時まで、守る価値のある作品だって事だ」


 先生はそう仰ると煙草を咥えられました。


「それに芸術家は警察にしょっ引かれる位の方が箔が付くってモンだ。イチロクも黒田清輝先生もそうやって箔を付けた」


 先生はそう仰ると声を出して笑われました。


 何と無茶苦茶な話でしょうか。

 それでも庵梅さんは満足そうに微笑んでおられました。


 結局、小包を送りに行くのは白井さんの方が良いだろうという事になり、白井さんが郵便局へと行かれました。


 希世さんはこれから警察に行かれる庵梅さんのために何か甘いモノでも作りましょうという事で「ハットケイキ」なるモノを焼いておられます。

 小麦粉に砂糖を混ぜて、それに牛乳と卵を混ぜたモノで溶き、焼かれる様です。

 焼きたてのハットケイキにバターと林檎で作ったジャミを乗せて食べる様です。


「雑誌に載ってましたので、焼いてみました」


 希世さんはお手製のハットケイキと珈琲を食卓に並べられました。


「甘い香りがしますね」


 庵梅さんはハットケイキから立ち上る香りを嗅いでおられました。


「バニラエッセンとかいう植物から取ったモノを少し入れました。これがその甘い香りの元です。西洋では大昔から使っていた様ですよ」


 希世さんはそう仰ると頭を下げて、厨へと戻られました。


 先生は、ハットケイキにナイフを入れられ、口へと運ばれます。


「甘味が足らなければ蜂蜜をお掛け下さい」


 希世さんは蜂蜜の瓶を持って来られました。

 先生はその蜂蜜をハットケイキにたっぷりと掛けられました。

 庵梅さんと私も同じ様に蜂蜜を掛けました。


「ほう……。これはふんわりとして美味い」


 先生は頬を緩めて仰いました。


「これは白井君には悪い事をしたな……」


「あら、白井さんの分は、後で焼きますので」


 希世さんはまた頭を下げて厨へと戻られました。


 私は、それを見て微笑みながらハットケイキを口に入れました。

 希世さんは研究熱心な方です。

 雑誌に載っていたお菓子を簡単に作ってしまわれるくらいですから。

 それに春画の良し悪しまで分かってしまわれる。

 とても太刀打ち出来る相手ではない様です。


「先生……。何から何まで、ありがとうございます」


 庵梅さんはナイフとフォークを置いて頭を下げられました。


 先生は口を真一文字にすると、にっこりと笑っておられました。


「大丈夫だ。すぐに迎えに行ってやる。保釈金の心配もするな……」


 先生の言葉に、再び庵梅さんは頭を下げておられます。


 私が庵梅さんの様な立場になっても先生は同じ様にしてくれるのでしょうか。

 少し心配になりましたが、考えても仕方のない事です。


「その代わり、へしこ、頼むぞ」


「へしこ」


「へしこ……」


 私と庵梅さんは顔を見合わせて苦笑しました。






 私と先生は表の通りに出ました。

 すると朝見た警官が周囲を見回っておりました。

 その警官に先生は声を掛けられます。


「おい、駐在」


 警官は立ち止まり、先生に敬礼されました。


「先生。先程は失礼致しました」


 礼儀正しい警官でした。


「あの、貴様らが朝探していた……」


「春画の男ですか」


 警官は身を乗り出して言いました。


 先生は頷いて、


「もしや、倉持庵梅の事か」


 二人の警官は顔を見合わせて頷いておりました。


「はい。倉持庵梅です」


 先生は微笑みながら仰います。


「その男ならうちにいるよ」








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