新侯爵
フィーが爵位を継ぐまでに五年をかけた。
八歳で侯爵にするには幼すぎる。何よりも、彼の後見人としてケイレヴが屋敷に入って来ることこそ避けねばならない。
そこで私はエーブリエは死なないように配慮したのだ。
亡くなったのは侯爵夫人だけである。
そして、天井の落下事故に巻き込まれてベッドから起き上がれない身となったエーブリエだが、エーブリエは健康な時よりもフィーには益となる親となった。
愛した女に徹底的に馬鹿にされていた事実が堪えたのだろう。
侯爵夫人にまでしてやった愛人は、エーブリエではなくエーブリエの弟のケイレヴにこそ忠誠を誓っていたのだ。天井が落ちた日に執事がエーブリエに耳打ちした内容は、ケイレヴからの侯爵夫人への恋文を発見したとの報告である。
「私達の愛の為に、兄という障害が一日でも早く消えるように君こそ神に祈っていてくれ」
「私の為に兄との子はつくるな」
そんな文面の手紙を愛した男からのものだからと残しておくような女を愛人にしていたケイレヴと、そんな女と結婚までしてしまったエーブリエのどちらがより間抜けなのだろうか。
とにかくエーブリエは覚醒し、弟であるケイレヴを異国へと追い払い、矯正院に入所させたオルファンに関しては籍を抜いて放逐した。
そして、寝たきりの自分と財産を守るために、彼は財産管財人などを互いに監視し合うような体制で雇い入れ、この自分の状態だからこそ中抜きを許さないと領地経営に取り組んだ名君となったのだ。
五年だけ。
人間の生命維持操作は五年がせいぜいだ。
私が飽きる。
「僕が侯爵か」
フィーがぼそりと呟いた。
エーブリエが息を引き取ってから、葬式から何から終わるまで三か月は掛かった。本日の相続手続きと遺産分配が終わった事で、屋敷に押し寄せた余計な親族もようやく姿を消した。
応接間の長椅子に適当に腰かけるフィーの姿がいつもよりも小さく見えて、広い屋敷がようやく平穏を取り戻したと喜こべないと複雑だった。
エーブリエの死など私には面倒ごとがようやく片付いたぐらいだが、人間は親の死を死ぬまで引き摺ることもある。
母親に裏切られて死んだ父親の復讐のために成長した娘が母親とその愛人を殺す話を、私はどこで聞いたのか。
「気負う事は無い。財産管理は君が成人するまでこの体勢で続ければ良い。大体、君は繁殖のための活動をしていないでは無いか」
フィーはエーブリエが寝たきりになってから、それまで彼にはいなかった家庭教師をたくさんつけて貰い、侯爵になるために必要らしい勉強や剣技なども学んでいる。
そんな彼に必要なのは、後継ぎを製造するためのメスだけだ。
そう考えての提案でしかなかったが、フィーは珍しく子供っぽい変な顔を私に見せつけた。
唇を尖らせた顔は出会った頃でもした事が無かったのでは無いのか?
「こういう時、ミラがトカゲだって思うよ」
「失礼な。竜だ」
「庭で日向ぼっこしていた時は、僕が話しかけても無視をした。君は単なるカナヘビのふりをしてたじゃないか。銀色のカナヘビなどいもしないのに」
私はフィーから目線を逸らした。
子供の相手が面倒になる時もあるのだ。
「やっぱり、気付かなかったんじゃなくて意識的に無視したんだ!!」
「カマをかけたのか。成長したな。ではやっぱりフィーは繁殖相手をそろそろ探すべきだと私は思うぞ。成熟した生きものはオスメス揃える必要がある」
「僕はまだ十三歳です。トカゲだったらきっと晩年ですが、僕はまだまだ少年期です。大体、普通はお友達からでは無いですか?」
「お友達は私がいるではないか」
フィーはぼっと顔を赤くした。
そして顔を下げ、聞こえない声で何かを呟いた。
「どうした?」
「ごめんなさい。最近はずっと僕がミラの子供か何かみたいで、お友達に見て貰って無い気がしてた。でも、僕はずっとあなたがお友達です。あなた以外のお友達はいりません」
私の脳裏には、出会った頃の小さなフィーが思い出された。
彼の幼い頃を思い出したことで、私と出会ったせいであの純粋な笑顔が消えたと瞬間的に思い、そこが残念になった。
竜は美しいものが好物だ。
純粋な命の輝きは宝石に値する。
「わかった。そろそろ竜騎士になるための活動をしよう。今世の英雄は誰だ?私がフィーを必ず最高の騎士の所に騎士見習いに出そう。エーブリエもケイレヴも騎士見習いをしていなかったから恥知らずであったのだろう。――どうした?不機嫌な顔をして」
「僕が友達は嫌ですか?友達だって言った途端に、そんな風に僕を追い出そうなんかして」
「何を言う?お前が行くところには私も行く。だが、お前がこの家にずっといたいのであれば、それはそれで構わない。繁殖用のメスならば、適当に気に入った個体を連れて来るだけで良いのだからな」
フィーは両目をぎゅっと瞑り、口元などアヒルみたいに突き出すという、今まで見たことのない間抜け面を私に見せつけた。
私はこの顔をした人間について見た事がある。
フィーの体にくっついて町に出た時に、買って欲しいものがあると親に強請る子供が泣き出す前に作る顔だ。
「我儘か?言って見ろ」
「――我儘なんか言いたいわけじゃ無いです。ミラが僕を見る目は、やっぱりなんか、友人どころか、繁殖用のウサギか犬みたいです」
「仕方が無い。私は竜だ。人間についてはフィーしか知らない。人間という生きものが猿や獣と同じならば、性成熟したら番にする、それだけではないか?」
「ちがいます。人はケダモノじゃありません。好みもあります。恋とかする生き物です」
久しぶりに子供みたいな言い方で私に言い返した後、フィーは自分が口にした恋という言葉が照れ臭かったのか、真っ赤になって部屋を飛び出て行った。
私が目を瞑ると、フィーが館の執事に向かって行く姿が見えた。
執事はエーブリエが寝たきりになった後、完全にフィーの庇護者となった。
リーブスはフィーの祖父の代からアルトマイゼン侯爵家に仕えていた執事であるため、直系の孫となるフィーに忠義を尽くす方が自然であるらしい。
フィーも彼を信頼し、館の差配については完全に彼に任せている。
私も財産管理の点からリーブスは信用できると見做しているが、私との言い合いが食い違るとリーブスにフィーが頼るのが少々癇に障る。
時々カナヘビの真似をしてフィーを無視していても、やはりフィーが頼るのはまず私でなければいけない。
竜は我儘なものでもあるのだ。
「ねえ、リーブス。僕が立派な侯爵になるために騎士見習いをすべきと言う人がいたんだ。ずいぶん年寄りの人だからおかしな物言いだけど、だけどその人はエレメンタルを剣技で補えるとも言うんだ」
私の苛立ちは瞬時に解消された。
フィーは私の言いつけを大事にしているではないか、と。
私の背中の翼が太陽の光で温められた時みたいにジンと熱を帯び、私はフィーによる信仰心が我が身に満ちるのを感じた。
「インゲルス王立騎士育成校に進まれますか?三年の寄宿生活になりますが、ご学友も出来ますし、王都にての暮らしで見聞を広められるやもしれません」
「インゲルス王立騎士育成校」
「厳しいとも聞いております。他にも剣技を磨ける学校もございましょう。まずはゆっくりと、心を癒しませんか?急ぐことは無いのですよ」
フィーはリーブスの労わりに涙を一粒零した。
二粒目の涙は零れ落ちなかった。
リーブスが大事な領主が涙を流すそのままに放置するわけは無いのであり、フィーの目頭にはリーブスによってハンカチがそっとあてられている。
「情けないです」
「あなたは素晴らしい主人です。御自分にもう少し甘くして差し上げて下さい」
私は気分よく広げかけた翼を閉じた。
フィーの信仰心も愛も信頼も、全て私に向かうべきなのである。
だが今のフィーの心には、リーブスへの思慕ばかりだ。
「全く。常に子供に応えねばとは、人間とはなんと面倒な生き物だ。どんな生きものも最初に親と認めたモノには従順この上ない奴隷となるというのに」