不幸な跡継ぎ
私と契約した少年の名は、フィーニス・フォン・ユベオール・アルトマイゼン。
彼の無駄に長い名前の意味は、フィーニスは爵位のあるユベオール家の者であり、そのユベオール家はアルトマイゼンが本拠地、である。
彼の父は爵位があるので、名前に爵位を示す侯爵も入り、エーブリエ・フィルスト・フォン・ユベオール・アルトマイゼンと長くなる。
つまり彼らの名前が言いたいことは、インゲルス国の貴族さんで、国の北東部のアルトマイゼンという広大な領地を治めているユベオール家の誰誰さん、だ。
人間は小難しいと偉そうに見えると思うのか、あるいは一言でわかりやすくしたいだけなのかわからんが、なんて無駄に長い名前を己につけたがるのか。
フィーニス・フォン・ユベオール・アルトマイゼンなどと、私に毎回呼ばせるつもりかと尋ねれば、少年はこみ上げた笑いをぐふっと呑み込んだ。
私を笑うなど、不遜な。
そこで私は少年に、彼をフィーとしか呼ばないと言い渡した。
「フィーで良いです。では、僕はあなたをなんて呼んだらいいの?あなたの名前を教えて」
「名を知りたいなどと不遜な。呼びたい名で呼べばよい」
フィーは大きな目をじわっと水っぽくする。
実際は、私は自分の名など思い出せなかっただけであるというのに。
これは自分が人間からの信仰心や畏怖を失って力を失っている状態だからだろうと考え、私はフィーに好きな名を呼ばせることにした。
「私は空の月と同じだ。しかとそこに存在する。そして月は月が名乗ったわけではない。人が名付けた名前だ。あるいは私は星だ。新しき星を見つけた者は命名権があるのではないかな?」
これはフィーの記憶の中にあった情報をもとにしている。
フィーは賢者の素質があるのか、幼いながらも本を読んで知識を蓄えていた。
そして私が返した言葉が彼には理解しやすいものだったからか、彼は涙を引っ込めた代りに誇らしさしかない顔つきに変えた。
「では。ミラ!!」
「不思議か。なかなか気が利いた呼び名だな」
「亡くなったお母さまの名前です。嫌ですか?」
「呼びたい名で呼べと言ったのは私だ。母の名は捧げものとして最上に近い。お主をこの世に生み出した最初だからな。ほら、さっさと進め、フィーよ」
「かしこまりました。ミラ」
フィーは楽しそうにクスクス声をあげる。
心なしか彼の立てる足音も、パタパタと小鳥が羽ばたいているようだ。
最初はおどおどと一歩を踏み出していた幼い彼だったが、今はもう厨房への長い道のりをしっかりした足取りで駆けている。
彼の笑い声は寝静まっている館に響く。
普段であれば深夜の館内を見回る者か、起き出した誰かに彼は見咎められるはずであろう。だが、今は彼を咎めようとする者は一人もいない。
竜の加護とはそう言うものだ。
締まっているドアの鍵だって、簡単に開く。
カチャ。
「ついてます!台所の鍵が開いてます!!」
音もなく厨房の扉は開く。
フィーはそこに潜り込み、そして足を止める。
ぽん、ぽん。
真っ暗だった厨房内に明りが灯ったのだから。
それだけではない。
蜂蜜壺が片付けられている棚が、ここにあると知らせるように赤く光った。
「凄い。ミラ。僕など必要なく蜂蜜が手に入ったね」
「それは違う。フィーが私の為に働く事で私の加護の力がお主に働いた。それだけだ。さあ、私に蜂蜜を」
「竜は人を食べるのでは無いのね」
「花の蜜は花の命の雫だろ?」
「そうだね。ええと。まずはここでお待ちください。すぐに棚から取り出します」
フィーは私をテーブルの上に置いた。
その代わりという風に彼は椅子を引き出し、蜂蜜壺が片付けられている棚へと椅子を引き摺りながら向かって行く。
「どろぼうねずみ!!」
椅子に乗ったフィーが蜂蜜壺を手に取った瞬間、これを待ちかねたという風にフィーとは違う甲高い子供の声が厨房に響いた。
蜂蜜壺を抱えたフィーは不安定な椅子の上で揺らぎ、だが、彼は落ちなかった。
声をあげたフィーと同じぐらいの年齢の子供は、数分前にフィート私が入って来た厨房の戸口に立っていた。
彼はフィーが蜂蜜壺を落とさなかったどころか、椅子から落ちなかった事につまらなそうに顔を歪める。だがすぐに底意地悪そうな笑顔に変わった。
自分を見返すフィーの青白くなった顔付きから、自分がフィーを脅えさせているという万能感を得たのであろう。
「お前なんか百叩きだ。盗み食いするブタなど納屋に入れてしまいたいってお父様が言っていたよ」
彼はフィーを嘲ると、フィーを鞭打ちの刑に処すためにと、大人達を呼ぶ大声を上げようと大きく息を吸う。
まぬけが。
私の加護のあるフィーに罰など誰も与えられないのだよ。
お前の到来を私が許したのは、お前の血を見透かしてフィーを取り巻く状況をさらに見通すためだった。
他所の子のお前の事情については、フィーの血からは覗けないんだな。
私は全てを手に入れたと、気分が良いと声をあげた。
フィーの声で。
「君のお父様って僕の叔父様のケイレヴ様?」
フィーの義理の弟になっていた少年は、フィーの声による言い返しに驚く。
フィーこそが自分の声で自分が喋ってもいない台詞に驚いている。
「エレメンタルを持っていないからこそ僕がお父様の子供だよ。エレメンタルがあっても侯爵家のこの字も、これからも永遠に継げないケイレヴと君はそっくりだね。頭の悪さと底意地の悪さがそっくりだ」
「な、何を言う!!僕はお父様の子だ!!」
「君のお母様に聞けばいいよ。僕は誰の子ですか?僕は誰に似ていますか?と」
「ぼくはお父様の子だ!!お前こそエレメンタルも無いくずだ。お祖父様の娘ってだけのつまらない女よりも僕のお母様の方がずっと素敵だってお父様は言っていた。お父様が継がせたいのは僕だって言ってた。お前なんか死んでしまえばいいってぼやいていたんだ!!」
「そのお父様だってエレメンタルなど微々たるものなのにね」
この静かな声は私では無かった。
幼いが私が語った真実によって自らの不幸の理由をしっかりと受け入れ、その代わりとして一つ幼さを捨てたフィーだった。
「僕は次期侯爵として恥知らずな君達が許せない」