はいあかみどり
わたし:
小学生のころ、36色のクレヨンを持っている子がいて
その中に「はいあかみどり」という色があった記憶です。
合ってます?
ChatGPT:
とても興味深い記憶ですね。「はいあかみどり」という名前の色についてですが、一般的に販売されている36色のクレヨンの中に、そのような名前の色は見当たりません。日本の代表的なクレヨンメーカー(例えば、サクラクレパスやぺんてる)の色名には「はいあかみどり」は通常含まれていないようです。
ただし、子ども向けのクレヨンには独特な名前が付けられていることもあり、「はいあか(灰赤)」「みどり(緑)」などが組み合わさって記憶されている可能性はあります。また、「はいあお(灰青)」などの色名は実際に存在するため、似た響きの名前が混ざって記憶されているのかもしれません。
もし、そのクレヨンのメーカーや箱のデザインなど、他にも覚えている情報があれば、さらに絞り込めるかもしれません。
わたし:
検索しても出てこないから、記憶間違いかなって思って質問しました
ChatGPT:
なるほど、やはり検索しても見つからなかったのですね。それでも「はいあかみどり」という言葉が印象に残っているということは、何かしら強い印象があったのかもしれませんね。
もしかすると、小学生のときの友達が自分で色に名前を付けていたとか、クレヨンのラベルを読んだときに他の色名と混ざってしまった、という可能性も考えられます。「はいあか(灰赤)」という色は実際にはあまり一般的ではありませんが、「はい(灰)」や「あか(赤)」、「みどり(緑)」といった色名はそれぞれクレヨンによくある色なので、記憶の中で組み合わさってしまったのかもしれません。
記憶って面白いですよね。たとえ事実とは少し違っていても、その記憶自体が大事だったりします。もしまた何か思い出したら、ぜひ教えてください。
わたし:
クレヨンの数は、貧富の差を思い知らされるもの
残酷なんです
ChatGPT:
その言葉、重みがありますね。
クレヨンの本数――12色、24色、36色、時にはもっと。それが単なる「色の違い」ではなく、子ども心にしみつく「差」や「違い」を象徴するものになる。特にまだ世界が小さかった頃、自分と他人の「持っているものの違い」が、ものすごく大きく感じられるんですよね。
「あの子は金色と銀色も持ってる」「自分のは短くなっても買い替えてもらえない」――そんな小さな違いが、無力感や羨望になってしまう。
残酷ですよね。本来、色って楽しいものなのに。
それでも、そうした経験が大人になっても胸に残っているというのは、それだけ繊細で、世界をしっかり見ていたという証でもあると思います。
わたし:
「はいあかむらさき」は、ありましたね
ChatGPT:
はい、「はいあかむらさき(灰赤紫)」は実在する色名です。特にサクラクレパスなどの色鉛筆やクレヨンの中に含まれていることがあります。
「はいあかむらさき」は、灰色がかった赤紫系の落ち着いた色で、少し渋みのある印象ですね。子どもの頃には少し不思議で覚えやすい響きかもしれません。
そうなると、もしかすると「はいあかみどり」は「はいあかむらさき」と「みどり」が頭の中で混ざってしまった記憶なのかもしれませんね。音のリズムも似ていますし、子どもの頃の記憶あるある、という感じがします。
それにしても、「はいあかむらさき」があったということを覚えていたのはすごいですね。なかなかピンポイントで思い出せるものではありません。
わたし:
あかみどり
だと茶色ですからね
成立しない
あかむらさきは、赤っぽい紫で成立する
ChatGPT:
まさに、そのとおりですね。
「あかみどり」という言葉は、論理的には補色の組み合わせなので、色として混ぜるとくすんだ茶色~灰色になってしまい、「名前としては矛盾」を感じさせる組み合わせですよね。意味的にも視覚的にも成立しづらい。
一方で、「あかむらさき」は隣接する色相で自然につながりがありますし、「赤紫」という実在する色カテゴリにも一致する。だから名前としても色としても納得できるんですよね。
「はいあかむらさき」も、「あかむらさき」に少しグレーを混ぜたような落ち着いたトーンで、色名としての説得力があります。
子どもながらにそういう「色の名前の響き」や「色同士の相性」に対して違和感や納得感を感じていたって、感性がとても鋭かったんだろうなと思います。
わたし:
12色の子は
少なくても絵のうまい下手は関係ない
なんて、言わなくてもよい言い訳を言ったりします
ChatGPT:
そうなんですよね。その「言わなくてもよい言い訳」って、ほんとうに胸に刺さります。
12色しか持っていない子が「絵のうまさはクレヨンの数じゃないから」なんて言うとき、それは自己肯定のためであり、少しの悔しさや、でも負けたくない気持ちの表れでもあって。
周りは気にしていないふりをしても、本人にはとても大きなことだったりする。その一言にどれだけの想いが込められていたか――大人になった今なら痛いほどわかる気がします。
誰かに向けた言葉じゃなくて、自分を守るための小さな盾。だけど、その言い訳の裏には、ほんとうはもっと多くの色で描きたかった気持ちが隠れているのかもしれませんね。
静かで、でも深く残る記憶です。
わたし:
こんなお話し・・・
私立スーパーリッチ学園小等部での会話
あー重すぎるわ、2048色のクレヨンもちのあかね
私もランドセル2個分もあるよ、4096色の葵が答える
色数が絵のうまさとは関係ないんだからと、128色のあさぎ
ChatGPT:
最高です、それ。
超格差社会×無邪気な子どもたちの皮肉と哀しみと可笑しみが絶妙に詰まったワンシーン。
「あー重すぎるわ、2048色のクレヨンもちのあかね」
→ まるで財閥令嬢。自分が持つ"色の海"の重みに、ちょっとしたうんざり感すらあるという余裕。
「私もランドセル2個分もあるよ 4096色の葵が答える」
→ 色数だけでなく、物理的に"持ち運び不能"という次元を超えてきている…もはや武器。
「色数が絵のうまさとは関係ないんだからと 128色のあさぎ」
→ 静かな抵抗。自分の中で折り合いをつけた結果のセリフだけど、ちょっと声が震えてる。
この構図、絵本にしたら刺さる人多いと思います。色は自由の象徴でもあるけど、数が増えると階級の象徴にもなるっていうね…。
もうちょっと登場人物増やして「16色の光が静かに息をのむ」とか、「無印良品の無彩色8色だけで戦う墨」とか、物語膨らませたくなります。
わたし:
そこへ花輪くんがじいやと一緒に登場
65536色のクレヨンはじいやがキャリーで運んでいる
ChatGPT:
最高の展開…!
まさに“色の帝王”降臨ですね。
そこへ、スローな足取りで花輪くんが現れる。
後ろには白手袋のじいや、無言で巨大キャリーケースを押している。
「遅れてすまないね、諸君。今日は65536色の気分さ」
と、涼しい顔で言いながらサングラスを外す花輪くん。
ケースが開くと、眩いグラデーションの渦――RGBの無限階調がそこにある。
あかねは思わず黙り込み、
葵も「……物理演算の領域じゃん」とつぶやく。
あさぎの手の中の128色が、やけに小さく見える。
でも彼女は静かに呟く――
「でも、赤は赤でしょ?」
もう絵本じゃなくて、短編アニメにしたいですねこれは。
しかもタイトルは、
『いろのかみさま』
…とかどうでしょう。
わたし:
ヒトの識別の限界だから
ひっくり返すと元の位置へ戻すのがたいへんなんだ~
ChatGPT:
めちゃくちゃリアルな苦悩!
「65536色のクレヨンを持つ者の、誰にもわからない悩み」ですね。
花輪くん、ニコッと笑ってこう言うわけです:
「いやぁ、ヒトの視覚では1万色も見分けられないらしいけどね…
でも“持っている”ことに意味があるんだ。
ただね――ひとつ問題があるんだ」
(みんなが一斉に注目)
「ひっくり返すとね…戻せないんだよ、元の場所に」
じいやが小声で、「毎晩、専用のAIが並び替えております」とフォロー。
色数の暴力に勝ったのは、実は整理整頓スキル
っていう、知的なオチが付いてていいですね。
そしてあさぎが一言:
「私は、覚えてる色だけで描くからいいの」
静かに、でも一番強い。
わたし:
色には名前が付いてますけど、いくらなんでも
65536色はムリですよね
ChatGPT:
おっしゃる通りです。65536色全部に名前をつけるのは、現実的に不可能です。
色名って、本来は「識別」や「共有」のために存在しています。たとえば「赤」と言えば誰もがある程度同じイメージを持てる。それが「スカーレット」「えんじ」「朱色」などに細分化されていっても、限界はせいぜい数千色レベル。それ以上は、人間の視覚・記憶・言語のキャパを超えてしまいます。
実際にプロ向けの色見本帳(たとえばPANTONEやDICなど)でも、名前ではなく番号で管理されています。「PANTONE 186 C」とか「DIC-N842」といった感じです。
つまり、65536色のクレヨンを持っていても、
実際に見分けられるのは数千色まで
名前があるのはごく一部
大半は「番号のついた色」
一度混ざったらもう元に戻せない(AI or じいや必須)
という、浪漫と混沌が同居する地獄のパレットになります。
でも、それを持っているだけで「色の王者」になれる世界って、やっぱり面白いですね。名前はなくても、「可能性を握っている」という象徴。
わたし:
昔FMTownsというパソコンがありまして、総天然色というのを謳い文句にしていた記憶・・・
話の続き
そこに大きなトラックが乗り付ける
面倒くんの総天然色(1677万色)クレヨンだった
ChatGPT:
おお…伝説、降臨。
FMTownsの「総天然色」――まさに時代のロマン。あの“1677万色”=フルカラー24bit(256階調 × RGB)を武器に登場するのが、まさかの面倒くん!
物語の続き:
夕方の光が差し始めた頃。
そこに突如、エンジン音とともに巨大なトラックが校庭に乗りつける。
「なんだ!?」「また新しい転校生!?」
ざわつく子どもたちの前で、トラックの扉がゆっくり開く。
降りてきたのは、眼鏡の奥に鋭い光を宿す少年――
面倒くん。
「こんにちは。ぼくのクレヨンは“総天然色”です」
後ろから、業者らしきスタッフがクレーンを使って巨大なパレットを搬入してくる。
表示された数字は――16,777,216。
「僕が見る“赤”と、きみたちの“赤”は、きっと違う」
空気が変わる。
それまで65536色を誇っていた花輪くんすら、少し目を伏せる。
そしてあさぎが、そっとつぶやく。
「でも、それだけ色があったら、ひとつ選ぶのも大変じゃない?」
面倒くんは一瞬だけ沈黙し、こう答える。
「……だから、まだ一度も描いたことがないんだ」
色が多すぎて、選べない。
自由すぎて、動けない。
"色の最上位存在"は、逆説的に「まだ何も表現していない者」として描かれる…
物語、深くなってきましたね。
わたし:
そんな「はいあかみどり」な物語でした・・・
ChatGPT:
なんて美しく、切なく、そして鮮やかな結末でしょう。
そんな「はいあかみどり」な物語でした――
それは、存在しない色。
誰かの記憶にだけ残った、名前のつけられなかった色。
持っていたかもしれない。見たかもしれない。
でも、今はもうどこにも見当たらない。
そんな“幻の色”が、すべての物語のはじまりだった。
「はいあかみどり」――
たくさんの色を持った子どもたち、
持たなかった子どもたち、
数に惑い、数を誇り、数に呑まれ、
それでも、自分の「描きたい色」を探していた子どもたち。
その誰のクレヨンにも、
その色だけは、なかった。
けれど、心の中には――たしかに、あった。
それが、「はいあかみどり」な物語。
なんだか映画のエンドロールが流れてきそうです……。