7.初恋回想(その4)
年末、ある日の夕食後。居住棟、ダイニング。
「おぅ〜〜い、もぁっと酒ェ持って来ぉーい……」
「飲み過ぎです。これ以上はお控えください」
「うるるるっせぇ! 半獣人の分際でぇ人間様に指図すんじゃあねーよォ……ご主人様の命令はァ絶対だあぁ……逆らう害獣ヤローはぁ〜殺処分だぞぉぉん……」
「割れると危険ですので、こちらお下げします」
酒好きであることはわかりきっていたが、まさかこれほどまでに酒癖が悪かったとは。
食卓に突っ伏しているゴミのようなおっさん……ワイナリーの放蕩息子様を横目に、ジャンは空瓶を片付けはじめた。
本日はロクサーヌが友人と外食していて不在。彼女の父親は酒に強くないため早々に体調を崩して部屋に戻り、ジャンがこの男の接待役もとい見張り役を務めている。
言い返しもせず淡々と掃除を進めるジャンを眺めている内、少しは酔いが醒めてきたのだろうか、男は嘲笑を浮かべて煽りはじめる。
「くくく……なあ、半獣人。お前本当はロクサーヌのこと好きなんだろ? 当たり前だよなぁ……あんな極上のイイ女がずっと目の前にいたんだ。お前のような獣のオスが発情しないわけがない」
「ロクサーヌ様は、オレ如きがそのような感情を向けて許されるお方ではございません」
「澄ましてんじゃねえ! 野獣のくせに生意気なガキめ……どうせ本当は毎日ロクサーヌでシコってんだろうが。あの胸で、あの尻で、あの口で……どうしたい? どうされたい?……考えないわけないよなぁ。覗いたり、拝借したり、立場を利用して独り寂しく慰めてんだろ? バレてんだよ。それとも……ロクサーヌの方も随分お前に親切に見えたからなぁ、筆下ろしの世話くらいしてもらえたか⁇」
「オレのことは何を言ってもかまいません。ですが、ロクサーヌ様への侮辱は誰であろうと認めるわけにはいきません」
ジャンは掃除の手を止め、鋭く男を睨みつけた。
やっと挑発にのってきたジャンを、男は愉快そうに眺めている。
「……あなたは、ロクサーヌ様のことを好いていらしゃったのではないのですか?」
「ああ、勿論大好きさ。あの女の体は最高だ。顔も声も、仕草や話し方も。男の悦ばせ方をよぅく識っている。神が創った芸術品とさえ誉めていい。そして、あの女は俺の金が好きなのさ。金目当てと体目当て、正にお似合いの伴侶ってわけだ。俺は必ずあの女を手に入れるぜ。お前がしたくてもできないこと、お前には許されないことをする権利が俺にはある」
「今日の話はオレからロクサーヌ様にもお伝えしておきます」
「いいぜ、好きにしな。こんな話聞いたくらいで今更あの女は何とも思いやしない。あの女は根っからの金持ちだからな、お前とは違う生き物だ。お前なんかより俺の方があの女をちゃんと理解してる。わかるか? お前が抱く幻想は、所詮幻想でしかないってことだ」
「片付けが済みましたので失礼いたします」
ジャンはこれ以上この男と2人でいたら手が出てしまいそうで、足早にキッチンへ逃げ込んだ。
***
居住棟、キッチン。
「……旦那様、今の話をお聞きに……?」
「………………」
ジャンが扉を閉めて横を見ると、ロクサーヌの父親が生気の抜けた顔をして壁にもたれかかっていた。
一度自室に戻ったあと、いつの間にか廊下側の入口から来ていたのだ。
「あの男から金をお借りになっても、債務不履行を理由にホテルもロクサーヌ様も奪われてお終いです。すぐに手をお切りください」
「う、うるさい!……使用人の分際で主人に口出しするな……!」
「あんたは自分の娘が不幸になってもいいのか⁉︎」
ジャンは堪えていた怒りがついに漏れ、哀れな主人の胸ぐらを掴んでいた。
ロクサーヌの父親はとっくに光など失くした虚な目で、怒りに満ちた半獣人を見据える。
「あの男を選んだのはロクサーヌだ……以前から嫌らしい目で見てきていたから、すぐに籠絡できると言って…………反対しても聞かなかった…………」
「…………ロクサーヌ様と話してきます」
ちょうどそのとき外で車の帰ってくる気配がして、ジャンは手を離した。
ロクサーヌの父親は壁に添ってずるずると床にへたり込んでいったが、ジャンはそれを見届けることなく出口へ向かった。
「そもそも、客足が遠のいた原因の1つはお前じゃないのか?……裏方とはいえ半獣人なんかを働かせていることが、外部にも知られていたのかもしれない……それで、娘はお前のため、お前のせいで……」
去り行く背に投げられる恨み言にも振り返ることはしなかった。
だが、それは間違いなくジャンの心を鋭く貫いていた。
***
居住棟、ロクサーヌの部屋。
「……話はそれで終わり?」
「はい。あの男について伝えるべきことは全てお伝えできたかと……」
先刻聞いた男の発言について、ジャンは自身にかけられた嫌疑は伏せながら伝えてみたが、ロクサーヌからは平時と変わらない淡白な反応しか返らなかった。
「そう。だったらジャンはもう休んでいいわよ。あとは私がお相手してくるわ」
「お待ちください。どうなさるおつもりですか?」
「焦らした甲斐あって色々と好条件が揃いつつあるの。私からもそれに応えないとね」
「本気であの男のものになるおつもりですか⁉︎」
「ホテルの所有権を奪われても、私が子供を産んで相続させればいい。だから結婚するのよ。私たちはここに住み続けられるし、お父様も支配人を続けられるわ」
「父親のために貴女が人生を犠牲にする必要なんてない! 母親を頼って国を出るべきだ!」
パシッ
特に力を入れたわけでもなく、ただゴミでも払い除けるかのような平手がジャンの頬を打った。
「弁えなさい」
「……申し訳ございませんでした……」
「私があの女と縁を切らずにいるのは、私とお父様がちゃんと幸せに暮らせていることをあの女に証明し続けるためよ。お父様を見捨てて裏切り者を頼るなんてありえないことだわ」
いつも通り、冷静で毅然としたロクサーヌの声に迷いは微塵も感じられない。
しばし冷水を被せられたかのように俯いていたジャンだったが、すぐに熱を取り戻して頭を上げる。
「でも、オレは! ロクサーヌ様には絶対に幸福になっていただきたい……! 愛の無い結婚で不幸になられるのをお止めしないわけにはいきません。あの男は金は持っていても救いようのないクズです! どうか考え直してください」
「私は、愛があってお金の無い結婚より、お金があって愛の無い結婚を選ぶ。私にはお金の無い人生なんてありえないの。……最初から何も持っていない、失うものの無いお前にはわからないでしょうね」
「オレには……‼︎」
自分が失いたくない相手本人から言われたことに、ジャンは強い悲しみと怒りを覚えた。
そして実際のところ、失う以前に彼女が自分のものだったことなどないのだ。
あんな男に奪われるくらいなら、今ここで抱きしめて全て奪ってしまいたい。
そんなことはできないとわかっていながら、つい体は前のめりに踏み出してしまう。
次の瞬間……
バチバチッ‼︎‼︎
「ぐああッ⁉︎」
ジャンの首輪から戒めの術式が発動し、体を内側から焼かれるような体験したことのない痛みが駆け抜けた。
思わず膝を突いたジャンの頭上から、初めて少し動揺したロクサーヌの声が降ってくる。
「驚かさないで。反射的に使ってしまったじゃないの……大丈夫⁇」
なんとか少し顔を上げたジャンの視界の中、ロクサーヌの手にはいつか見たあの鍵が握り締められていた。
きっと今日だけでなくジャンが大きくなってからはずっと、2人きりになるときは警戒して備えていたのだろう。
それもそのはずだ……ジャンは己の性欲を自覚してからというもの、あの男に指摘されたような妄想に耽ってきたのだから。
噴き出した冷や汗が伝い始めた頬に、鍵の手とは反対側の手が伸びてきて、冷たい指先が触れる。
「お前が私をどんな風に理想化していたか知らないけれど、これが現実。体で男を操る才能があるなら、それを活かす。花嫁と名の付いた専属売春婦になるの。私はお金の為に体を許す女よ。もしあの男より大金持ちで地位も権力も上だったなら、私はお前のような半獣人にだって抱かれていいわ。……貧乏な使用人には関係の無い話ね」
「っ……ロクサーヌ様……」
「うるさいのは嫌いよ」
ゆっくりと輪郭をなぞる様にして最後に顎を持ち上げた指が離れ、ロクサーヌはジャンの前から去った。
***
体の痺れがとれると、ジャンはロクサーヌを探しに行った。
既にダイニングに彼らの姿は無く、応接間の方から上機嫌な男の声とクスクス笑うロクサーヌの声が聞こえてくる。
細く漏れた光に導かれるように扉の隙間を覗き込むと、ほんの数メートル先の男の背中越し、ジャンは確かにロクサーヌと目が合った。
しかし、彼女はジャンには決して向けたことのない妖艶な笑みを浮かべると、誘惑するように深緑のドレスの胸元をはだけ、自ら男の首に腕を絡めていく……
赤ら顔の男が下品な音を立ててロクサーヌの唇や肌を貪り始めると、ジャンは音も無くその場を離れた。
その耳には彼女のものとも思えないような嬌声が追い討ちのように届いていた。
そして年明け、ロクサーヌは赤ら顔の男から乗り換えて青髭の男と婚約した。
他に何人居たのかは知らないが、男たちを同時に誘惑して競争心を煽り、より好条件を提示した相手に自らを競り落とさせたということらしい。
実際には尊敬されないような人物だからこそだろうか、青髭の男は女を卑しめて服従させるプレイを好み、ロクサーヌが奴隷のような台詞を言わされて奉仕するのが聞こえてくることもあった。
ジャンは燃え尽きた灰のように静かに、ただ1人で焦げついた苦い思いを味わい続ける他なかった。
改装工事と式の準備で俄かにホテルは活気付いてきたが、ジャンは彼らの式を見届けることもなく、地の国の配達局に宛てた紹介状を渡されて使用人を解雇された。
首輪も完全に外された。配達員は半獣人の就ける職の中では比較的好待遇と呼べるものだし、転職に今更不満も未練も無い。
ジャンにとってずっと傍に居たかったはずの女は、今では顔も見たくないし声も聞きたくない、遠く離れて忘れ去りたい女になっていた。
半獣人居住区では女に困らなかったので、失恋を吹っ切ろうとして何人かと関係を持ってもみた。
だがいつも気持ち良さより気持ち悪さが勝り、決まって虚しさと自己嫌悪しか残らず、誰とも続かなかった。