6.初恋回想(その3)
ジャンが引き取られて10年目、ハートの月。ダイニング。
「お食事をお持ちしました」
「ありがとう、ジャン。さ、お父様、いただきましょう」
「え?……ああ…………いや、食欲がないようだ……」
「また二日酔いですの?」
メイドたちの居なくなった静かすぎる空間に、食器の音が冷たく響く。
メイドだけではなく、他の使用人たちも殆ど皆居なくなってしまった。
ホテルの経営不振で給金を払う余裕がなくなり、寝床と食事だけあればいいジャンと、長年仕えた義理で無償奉仕を申し出てくれた老執事だけが残っている。
屋敷だけでなくホテルの方も大幅に人員削減され、今ではドアマンさえ立っていない。近い将来に休業中の札がかかるのが目に浮かぶ有様だ。
この頃、ロクサーヌの父親はホテルの仕事を執事に代行させ、自身は居住棟に古い知人たちを招待して飲んでいることが増えた。
資金援助を頼みたいのだろうが、相手は落ちぶれた彼の窮状をどんなものかと見物したいだけで、上辺だけの慰めの言葉をかけて帰っていく。
かつて画廊のようだった壁からは絵画が全て売り払われ、絵を引き立たせていたミッドナイトブルーの壁紙も、最早寒々しい闇を思わせるばかりだ。
絵画や宝石だけでなく家具や衣服もめぼしい物は大方売り払ってしまい、掃除も大分しやすくなった。
中央区に住み続けるためには高い住民税を払い続けなければならないが、それも直に限界だろう。
以前は毎日がファッションショーのようだったロクサーヌも、最近は少ない服をどうにか着回して暮らしている。
それでも来客の日は残っている中で1番上等な深緑のドレスを着るようにしていて、その美しさは苦境にあっても陰ることなく、却ってその憂いが魅惑的な色香を漂わせていた。
美しい顔に豊かな髪。膨よかに育った胸と尻、細くくびれた腰が描く見事な曲線美。スカートに隠れた脚の長さも申し分無い。
元々美しい少女が、更に美しい大人の女性へと成長したのだ。一方……
「子供が大きくなるのは早いものね。あんなに小さかったジャンが、今では掃除だけでなく料理も洗濯も、メイドたちがやってた仕事全部こなしているんですもの。……本当に感謝しているわ」
「身に余るお言葉恐縮です、ロクサーヌ様。拾っていただいた御恩にはまだまだ遠く及びません」
「ふふふ……ジャンってば、本当に成長したわね」
少し前に変声期を終え、ジャンの身長はロクサーヌを超えていた。年齢も、出会った頃の彼女を超えている。
小さくて可愛らしい幼な子は、精悍な美青年へと成長したのだ。
勿論変わったのは肉体だけではない。青年ジャンはロクサーヌを異性として深く愛していた。
給料などいらない。食事と寝床だって、与えられずともどうにかできる。本当はロクサーヌさえいればいい。
それほどの強い想いを自覚しながらも、元物盗りの家無し孤児だった半獣人では、彼女に相応しくないことも重々理解していた。
ジャンはただロクサーヌの傍に居られれば幸せで、彼女が彼女に相応しい相手と結ばれることを願っていた。
***
翌月、スペードの月。居住棟、応接間。
「この辺りも1世紀前は最新流行の店が並んで賑わっていたそうですけどねぇ? 今はもう他所に新しいものがどんどん作られていってますから。このまま変わらずにいては古臭くなっていくばかり、話題も客足も全部奪われていくばかりですよ。人気のあった劇場もとっくに新しい場所に移ってしまいましたからねぇ。こちらで宿を取る理由が激減してしまったわけです。加えて大陸魔脈変動後は災害復興が優先されて、娯楽や観光への支出は控えられてもいましたからね」
「はぁ……仰る通りで……」
「なぁに、そんな暗い顔をしないでも大丈夫ですよ。つまりは新しいことを始めて注目を集め、お客様がこちらに泊まる理由を用意してやればいいんですから。前にもお話ししたように、ラウンジを大改装しましょう。レストランもバーも全て、うちのワイナリーの系列店のものに入れ替えれば間違いない。ワイン以外の料理の味だって保証します。勿論、スタッフの質も」
いつの頃からか、一族経営している大きなワイナリーの放蕩息子が入り浸るようになってしまった。
息子と言っても、歳はロクサーヌよりその父親に近く、2度の離婚歴がある。
最初は高齢の親の代理という体で酒を飲みに来ただけだったはずが、今では一丁前に仕事の話で口説いてくるので、ロクサーヌの父親も彼を丁重にもてなすようになった。
こうした来客時に半獣人は身を隠しておくのが常で、お酌をするのは美貌の娘の役目だ。
「ロクサーヌ嬢! おかわりをもらえますかな」
「まあ、飲み過ぎではありませんこと? お顔が真っ赤ですわ」
「へっへっへ……それじゃあそろそろ部屋へ案内を頼むとしますか……」
赤ら顔の男は舌舐めずりをしながら、ロクサーヌの全身を舐め回すように眺めている。
彼の狙いは明白で、ロクサーヌもそれをよく心得ている。
「あら? お話し合いがまだお済みではないでしょう? 費用のこととか……」
「そんなこと! 系列店の工事費用は全てこちら持ちでいいですし、他にそちらが経営再建に必要な資金もお貸しましょう。俺から親父に頼んで必要な額を出させますよ」
「借金になるのは怖いですわ……」
「返せないときは俺から立て替えてさしあげましょう。だからもっと近くへ寄ってください……すぅぅ〜……はあぁロクサーヌ嬢、貴女の肌はとても香しい……」
男はロクサーヌの胸元に赤ら顔を接近させ、酒臭い息をたっぷりとかけた。すると……
バキッ!
「申し訳ございません!」
突然、使用人用扉から物の壊れる音がした。
様子を伺っていたジャンが、つい手に力を込めすぎてドアノブを外してしまったのだ。
「ん⁉︎ なんだあいつは⁇ 半獣人か……⁇」
「す、すみませんっ……アレは娘が小さい頃に拾ってきて、雑役をさせている半獣人でして……お客様の目にはお見苦しいものを……」
「ジャン、大丈夫? 怪我はないかしら?」
「はい。すぐに扉の修理に取り掛かります」
狼狽える父親とは対照的に、ロクサーヌは冷静にジャンの前まで歩いてきて手をとった。
その様子に客人は目を見張っていたが、ジャンと目が合うとニヤリと口元を歪める。
「なるほど、なるほど! 半獣人ですか! 地の国の契約農家では多く雇用していますからねぇ、彼らが働き者だというのはよく聞き知っていますよ。衒示的より現実的、実用的な選択でしょう」
「ほっ……そう言っていただけるとは幸いです……流石、広大な葡萄園のように広いお心をお持ちのようで……!」
男の反応にロクサーヌの父親は安堵したが、ジャンは背筋に悪寒が走るのを感じた。
「さあさ、ロクサーヌ嬢! 彼は大丈夫なようですから、俺の案内を頼みますよ。飲み過ぎて足元が覚束ないのです。これはもう貴女に支えていただかないと」
「でしたらオレがお抱えして……」
下心の透けた要求からジャンはロクサーヌを庇おうとしたが、彼女は短く「ジャン」と声をかけてそれを制すると、自ら飲んだくれ男に体を寄せて肩を貸す。
「さ、客室までご案内しますわ」
「客室より貴女の寝室がいいですねぇ」
「困りましたわ。それでは私はどこで寝ればよいのでしょう?」
「今夜眠れる保証はいたしかねますなぁ」
「まあ、こわい」
ロクサーヌが殆ど男に抱き付かれながら去っていくのを、ジャンはただ黙って見送ることしか許されていなかった。
ロクサーヌの父親はジャンが壊した扉を見て文句を言いたげだったが、ジャンから滲み出るただならぬ殺気に怯んで逃げるように退室した。
相変わらず臆病な親だ。あんなに弱気では娘が助けを求めたって助けられるはずもない。
ジャンは修理道具を探すふりをして、ロクサーヌを探すことにした。
もし助けを求める声が聞こえたら、たとえこの身がどうなろうとも彼女のことは必ず救い出そう!
……だがそんな決意をした直後、客室棟の方からロクサーヌが歩いてくるのが見える。
「あらジャン、扉の修理は終わったの?」
「これからです。あのお客様は……⁇」
「最後の一杯に睡眠薬を混ぜてさしあげたの。朝までぐっすりだわ」
ロクサーヌは不敵な笑みでそう言うと自室へ帰っていった。