3.上級国民様
数日後の夕方、地の国辺境の配達局。
「やあやあ、ジャン君! 我が局の優秀な配達員である君の帰りを、今か今かと待ち侘びていたよ!」
「局長⁇⁇」
その日の集配を終えて帰ってきたジャンは、局長の不気味な撫で声に迎えられて眉を顰めた。
この人間族の中年男はいつも自分たち半獣人を顎で使っていて、君付けや君呼びなんか今まで一度だってしたことはなかった。
先日だって救助のために遅刻したことを説明する余地すらくれず、散々罵詈雑言を浴びせて減給処分を言い渡してきたくらいだ。
それが今は貼り付けたような笑顔をこちらに向け、ついには肩に手まで置いて親しげに振る舞おうとしてくるのだ。気持ち悪いが過ぎる。
「いやあ、君のような素晴らしい部下を持って実に誇らしい限り……」
「ジャンさん!」
「⁉︎⁉︎⁉︎」
困惑するジャンをロビーで待ち受けていたのは、村で見たときとは全然違う豪奢な衣服を身に纏ったネリアだった。
レースとフリルをふんだんに遇らった黄色い高級生地は、夕陽を浴びて黄金のように照り映えている。
眩し過ぎて嫌味な奴だ。ジャンは顔を曇らせたが、ネリアはハーフアップにした長髪と髪飾りの長いレースを靡せ、ジャンの目の前まで進み出ると、スカートの端をつまんで胡散臭いほど上品なカーテシーを披露する。
「またお会いできて嬉しいです! 先日は危ないところを助けていただいて、本当にありがとうございました。ご自身の危険も顧みずに見ず知らずの私を救出してくださった貴方の行動は、誰にでもできることではない、賞賛されるべき英雄的活躍です。本来ならもっと早く御礼にお伺いするべきでしたのに、このように遅くなってしまい申し訳ありません。本日は恩人である貴方に、私からささやかな贈り物をさせてください」
「は⁇ お前、一体何……」
ジャンが粗雑な言葉を返しかけた瞬間、肩に置かれた手に万力の如く強い力が込められた。
思わず振り向くと、局長が目玉の落ちそうなほどに目を剥いてこちらを睨んでいる。
「このお方は! 火の国中央区の軍人養成学校の学長様の御息女ネリア様で! 本日はお前……いや、君、に感謝状と謝礼金をお手ずからお授けになるためにわざわざ国外からお越しくださったんだ! くれぐれも失礼の無いように!」
「火の国中央区……」
今にも泡を吹いて倒れそうな局長から再びネリアに視線を戻し、ジャンは思わず呟いていた。
火の国は強力な魔導士の軍隊を持つ工業大国で、現代では国家間の戦争こそしていないが、農業国である地の国への影響力を海底魔脈が豊富な水の国と争っている。
国内はいくつかの区に分けられており、中央区といえば所謂上級国民とその関係者のみが入れる中枢部だ。
「親愛なるジャンさん……貴方は私の恩人です。どうか私にご恩返しさせてください」
唖然としているジャンの手を、ネリアはこれまた高級そうなレースの手袋をはめた手で包み、たわわに揺れる豊かな胸の前にうっかり触れそうなほど引き寄せた。
その親密な様子にカウンターの奥で息を潜めて見守っていた同僚たちもどよめき、いよいよあれこれと聞き苦しい憶測が囁かれはじめたのが、ジャンの耳にはしっかり聞こえてくる。
「別にそこまでされるほどのことはしていない……いません」
局長万力によってタメ口を修正されつつも、ジャンはネリアの申し出を断ろうとした。
しかしネリアはジャンが退けば退くほど進み出て、とうとう胸の形が変わるほどに体を押し当ててくる。
「そのように謙遜なさるお人柄も素敵です! 聞けば私を助けたせいで仕事が遅れたことも釈明なさらず、あまつさえ不当に減給処分をお受けになっていたとか。他にもお困りのことがありましたら、これからは何でも私におっしゃってくださいね?」
「さっ、さあさあ! こんな所で立ち話もなんですから、そろそろ応接間へいらっしゃってください! 貴女様のお口に合う様なお茶菓子がこのような場所にあるとも思えませんが、わたくしめが精一杯おもてなしさせていただきたく存じマスデス!」
いつの間にかジャンの肩から離れていた万力……もとい局長が無理に明るい声を上げた。
ネリアはジャンの手を取ったまま「では彼も一緒に」とニコリと笑って振り返り、嫌がるジャンの腕に無理矢理自身の腕を絡めながら局長の案内に続いた。
その後は感謝状を掲げての記念撮影やネリアの希望で職場見学も行われ、局長はいつもこき使っている半獣人配達員たちを我が子同然に可愛いがっているかのように嘯いていた。
やがてネリアは外に待たせていた付き人に帰りを促され、ジャンはやっと解放された。
***
同日、配達局ロッカールーム。
「酷い目に遭った……」
終業時間を大幅に超えてしまった時計を見上げて、ジャンは疲労感の滲む溜息を吐いた。
明日の仕事のためにも早く帰って休みたいジャンだったが、局長がまだネリアの見送りで外に出ている隙に、ジャンと同じ半獣人の同僚たちがニヤニヤしながら絡んでくる。
「よっ、この色男! あんな上玉捕まえてくるなんてやるじゃん!」
「あんなでっかいオッパイ、金出してでもありつきたいのに逆に金も貰えるなんて御褒美すぎる!」
「エロ可愛い童顔巨乳お嬢様に愛人として囲っていただけるなんて、ジャンは前世でどんな徳を積んだんだ?」
「今世でちょっと助けただけだ! 愛人になんかなった覚えはない!」
ジャンはイライラしながら帰り支度を始めたが、ふとポケットに覚えのない紙が入っているのに気が付き、見るとハートマークを添えたネリアのメッセージと連絡先が書いてある。
「……『デートのお誘いお待ちしてます♡』だと〜? ひゅーっ! 積極的なお嬢様だねぃ!」
「若くて美人のご主人様にご奉仕して稼げるなんてなぁ……こりゃあジャンは明日にでも退職かぁ?」
「同じ肉体労働でも配達人なんかよりずっと良い仕事だよなー……って、あっ、おい! ジャン! 何やってんだよ⁉︎」
ところがジャンは灰皿を引き寄せてマッチを擦ると、勝手な妄想で盛り上がっていた同僚たちの目の前で紙を燃やしはじめた。
無惨にも真っ黒になった夢の燃え滓を見つめて、同僚たちは落胆と非難の混ざった唸り声を上げる。
「あーあ、勿体ない……ジャン、お前も少しは女に興味持てよ? それともやっぱ人間族が嫌なのか?」
「ジャンよぉ、女はともかく金の方にはもっと関心あっていいだろー? 相手は大金持ちでお前を高く買おうってのに……もう少し夢見たっていいじゃねぇか」
「くだらない……お前らこそ現実的に考えろ。相手はこっちに飽きたらいつでも捨てられるんだ。それどころか下手に機嫌を損ねたら命まで取られかねない。絶対お断りだ」
「うーん……まあ確かに慎重にもなるよな。親は火の国中央区の軍人養成学校の学長だろ? 俺の知ってる話だと、何十年か前の領土拡大計画で指揮をとった大将で、大量の魔物を駆除して森を切り拓いた凄腕の魔剣士だったはずだぜ? 長年連れ添った先妻に先立たれてて、ネリア様は歳の離れた後妻との間に生まれた一人娘で、その後妻もネリア様を産んだ時に亡くなったらしい。半獣人の愛人なんて、サクッと駆除されかねないよな……」
「そりゃゾッとするな……ああ、そういやジャンって前は火の国にいたんだっけ? あっちの女ってのはあんなデカパイが当たり前なのか?」
「どうでもいいだろ。疲れてるんだ。オレは帰る」
ジャンは戻って来る局長を避けるために窓から外へ出ると、寮に向かって夜道を急いだ。
闇に紛れていく背中を見送りながら、同僚たちは溜息を吐く。
「ジャンって昔のこと話したがらないよなー」
「それに女の話もな。今回に限らずいつも嫌がる」
「なんかトラウマでもあんのかねぇ?」
少しして戻ってきた局長がジャンについてあれこれ詮索したがったが、同僚たちは余計なことは語らずにおいた。
どうせこの上司は自身のコネが欲しいだけで部下たちのことなど考えていないのだから、協力したい者などいなかった。