1.配達員
早朝、村外れの道。
「……なんだこの匂いは⁇」
配達員ジャンはマスク越しに鼻を押さえながら紫色の目を鋭くした。
制帽の下、癖のある黒髪に溶け込むように覗いているのは、柔らかな毛に覆われた大きな耳。
褐色の長身を包む制服コートの下には、フサフサの黒い尻尾が隠れている。
半獣人である彼はその高い身体能力によって魔物の出るような区間の配達を担当しているが、敏感すぎる嗅覚をわざと鈍らせるため、人間の居住区では特殊なマスクを着用するようにしていた。
これは半獣人のストレス低減の為でもあるが、それ以上に人間のプライバシーに配慮することを義務付けられている為である。
……ところが今朝は、そのマスクさえ突き破って鼻を刺す強烈な異臭が漂っている。
匂いの発生源である家は、家主の知ってか知らでか半獣人が苦手とする匂いの薬草が大量に植わっている家だったが、それでもこんな匂いを嗅いだことは今日まで無い。
といっても、ジャンがこの村を担当することになったのは今月からだ。
前任者が魔物に襲われて腕を1本を失ったので、担当区域が隣接していたジャンが急遽穴埋めに選ばれたのである。
基本的には手紙と置き配可能な小包みのみなので、中継地に一泊後に朝一番で回る辺境のこの村では、なるべく村人と遭遇しないよう彼らの活動時間前に配達している。
それなのに、こんな早い時間に不自然に開け放たれた窓が1つ見える。
非常事態かもしれない。嫌な予感がしたジャンは庭に入り、息を止めてその窓を覗き込む。
すると……
「おい‼︎ あんた、しっかりしろ‼︎ おい‼︎」
もわもわと立ち込めた匂いの中、自分と歳の近そうな青髪の女が倒れていた。
調合器具の並んだ室内を見るに、調合に失敗して毒ガスを発生させ、慌てて換気をしようとしたものの逃げ遅れたらしい。
ジャンは既に頭が割れそうなほど痛くなって吐き気もしていたが、なんとか彼女を助け出そうと無理を強いて窓から室内へ踏み込んだ。
うつ伏せに倒れていた体を仰向けにすると、熱っぽい顔で苦しげに呼吸していて、微かに瞼を開けて唇を動かすのが確認できるが、やはり発声できる状態ではないようだ。
コンコン!
「開けるな‼︎」
女の体を抱え上げたそのとき、騒ぎに気付いて起きてきた住人が廊下からノックし、ジャンは咄嗟にそう叫んだ。
ドア越しに不安そうな女性の気配がして、ジャンは手短かに状況を説明する。
「オレは配達人だ‼︎ 倒れている女性が見えたから窓から入った‼︎ 室内に毒ガスが発生しているかもしれない‼︎ 今から彼女を診療所に連れて行く‼︎」
『待ってください! 診療所はこの時間まだ開いていません! 向かいの宿でカオルコ先生を呼んでください!』
「わかった‼︎」
叫ぶように返事をするや否や、ジャンは窓から飛び出して診療所向かいの宿へと駆け出した。
***
十数分後、診療所。
「ご苦労様でした。あなたがすぐに連れてきてくれたおかげで、ネリアさんを後遺症も残さずに治療することができました。救助にご協力感謝します」
「そうか。よかった……」
ジャンが宿の前で急患だと叫んですぐ、医師のカオルコは回復魔法の使えるローレンと薬師のモモを連れて現れた。
各々寝巻きに上着を羽織っただけの格好で素早く処置をしてくれて、担ぎ込まれたネリアはまだ奥のベッドに横たえられているものの、無事に健やかさを取り戻したようだ。
安堵したジャンは直ちに仕事に戻ろうとしたが、カオルコがその肩を引き止める。
「待ちなさい。あなたも治療が必要です」
「これ以上仕事を遅らせるわけにはいかない。半獣人のオレなら大丈夫だ」
「回復力の高さは認めますが、半獣人だからこそ毒への感受性が強いでしょう。せめてこれくらいの処置は受けなさい。マスクも替えないと」
そう言いながらカオルコはジャンのマスクを外して吸入器を押し当てようとするが、ジャンは顔を背けてそれを拒む。
「マスクなら予備がある。治療費なんか払えないぞ」
「救助協力者にお金なんか要求しません。マスクももっと良いのをあげます」
「……半獣人が怖くないのか?」
「実家でも1人働いていましたから。それにこの村には半獣人以外にも様々な方がいるので、ここの村人は誰も恐れませんよ」
「…………」
ジャンは吸入薬を深く吸い込んで器をカオルコに返すと、新しいマスクを引ったくるように受け取って診療所を後にした。
ちょうど広場に駆け込んでくる村娘の姿が見えて、おそらく先刻ドア越しに声を交わした住人だろうと察したが、煩わしいのでジャンは逃げるように反対方向へ走り去った。
その日は他にも些細な面倒ごとが重なったりして、配達局ではほんの数分の遅れを咎められ、ジャンは減給処分を受けることになった。
人間に関わると碌なことがない……ジャンは忌々しげに舌打ちした。