25.ミサンドリーの慟哭
同じ頃、カオルコの部屋。
「カオルコ?」
「………………」
「入るよ、カオルコ」
廊下から呼びかけても返事が無かったので、カヅキは勝手に襖を開けて侵入した。
薄暗い部屋の中、カオルコの座する文机の周りだけが行燈の優しい光に包まれている。
比較的新しい木の匂いや畳の匂い、それから紙の匂いに混ざって、仄かに香のような女性らしい匂いを感じる。
「勉強中です。勝手に入らないでください」
カオルコは招かれざる客に背を向けたまま、素っ気無い声だけを返した。
つれない女だ。だが、だからこそ手に入れたくもなるのだろう。
カヅキは口元を緩ませながら、ゆったりとその背中に近づいていく。
「なんだ、まだ布団も敷いていないのか。たまには早く寝た方がいい」
カオルコの場所といえば布団を思い浮かべるくらい、共寝していた時期もあったというのに。
……まあいい。変わってしまったこの寂しさも、今から取り戻して終わりにしよう。
カヅキはカオルコの背後から手を伸ばし、文机の上の本を閉じてしまうと、そのままカオルコを抱きしめた。
カオルコは暴れたりはせず、ただ迷惑そうな声を出す。
「離してください、カヅキさん。まだ良心が残っているなら、今すぐニナのもとへ戻ってください」
「カオルも既にニナから聞いているだろう? ニナとはもう話を付けてある。対外的には、これからもニナだけを妻のように扱うことに変わりない。それでも、せめて家庭内ではこれから2人とも平等に妻として愛したいんだ。今は難しいが説明を理解できるほど成長したら、子供たちにも事情を明かして納得してもらうつもりだ。不公平に思うこともあると思うが、どうか信じてほしい……僕はニナと同じくらい、カオルのことも愛している」
カオルコの懐へ手を入れると母乳で湿っているのが伝わり、カヅキはこれが自身の孕ませた女であるという事実に興奮を覚えた。次の瞬間……
ブスリ……
「は⁇」
突然、冷たい金属がカヅキの皮膚を貫いて肉の内側へ入り込んだ。
それは一瞬の鋭い痛みを残して素早く引き抜かれ、その部分からじわじわと違和感が広がっていったかと思うと、カヅキの体はもう起き上がっていることもできなくなっていた。
ドタン‼︎
「ハァ……ハァ…………カオル……どうして…………⁇」
カヅキは畳の上に倒れたままの姿勢で這いつくばって、頭だけ動かしてカオルコを見上げた。
立ち上がって見下ろすカオルコの手には、空になった注射器が握りしめられている。
「お前はどれだけ私を失望させたら気が済むの⁇」
凍てつく冷たさの中に煮えたぎる怒りがこもっているような声と表情だった。
鬼気迫るカオルコの様子には、生きた人間ではなく怪異の類と見紛うほどにゾッとするものがあった。
「……安心してください。ニナが悲しむので殺しはしません……残念ながら。特定の体内魔脈に作用する麻痺毒ですが、解毒剤も用意してありますのでご安心を」
カオルコは静かな声でそう言うと、カヅキの腕の針穴から血の粒ををすーっと撫でて、少し離れた場所に座り直した。
俯いた横顔に長い髪が垂れて、カオルコの表情はカヅキからはよく見えない。
しばしの沈黙の中、外の雨音が次第に強くなっていく。
カオルコはふぅーっと長く息を吐いて、無理に感情を抑えているのがわかる震えた声で話しだす。
「ニナが今日どれだけの思いであなたをここへ送り出したのか、想像できませんか? 既に家族から見捨てられてしまったあの子が、どれだけ傷ついているか……あなたからも見捨てられないように、嫌われないように、いつもどれだけ怯えているか……あなたにとって邪魔にならない都合の良い女になろうとして、あの子がどれだけ自分の心を犠牲にしているか……あれほど献身的で従順な妻を演じている、その苦しみにあなたは本当に気付かないと言うのですか?」
「それは……ニナだって我慢していることはわかるさ。僕だってそんなニナを想えば当然辛い。けれども、カオルにだけ我慢させるのも違うだろう? 君から言い出せないでいるから、僕とニナの方から言い出すしかなかったんだ。君のためにも、君を想うニナのためにも」
「偽善者。自身を正しいと自信満々なところが気に食わない。他者のためと言いながら、実際はいつも自分のため。本意ではなく、仕方なく……そう体裁を繕う卑怯者。誰かを犠牲に自分の都合の良い選択はするけど、誰かの為に自分の都合の悪い選択をすることはない。そう見えるとき、正しくはそう見せかけるときでさえ、実は自分の別の都合で選んでいるに過ぎない。自身の欲のためなら他者の不幸は顧みない非情な強欲者。欲深さだけなく、その無自覚さも悍ましい。欲のために不幸になるのはいつだって当人以上に周囲……」
滔々と怨嗟の言葉を連ねていくカオルコに、カヅキは違和感を覚えた。
どうにも今ここにいる自分だけでなく、他の誰か宛ての恨み言が多分に混ざっている気がする。
「……本性というのは、抑圧された環境よりも自由に選択できる環境で現れるもの……私の兄が時々そんなことを言っていました。私も同じように考えています。仮に強姦が合法であれば、あなたは喜んで強姦魔にもなれたでしょう。女を見下し、女の心より己の下半身を優先できる獣。カヅキさん、あなたは……あなたの兄と同じです」
「⁉︎ 僕はあんな奴とは違う‼︎ 本当に心を痛めているし、確かに君たちを愛している!」
誰より同一視されたくなかった相手を並べられ、カヅキは俄かに声を荒げた。
その反応にカオルコは微かにクッと嘲笑を漏らす。
「あなたの愛とは何です? ただ抱きたいという性欲のことですか? 可哀想だと思っても、我慢させればいいと思ってるだけで、結局その痛みは他人事でしょう?……かつてのあなたは純愛主義者を自負していたようですが、それって大嫌いな兄と自分は違うと思い込みたかっただけですよね? 成績でも血統でも敵わない相手に、自分の方が人間性の点で勝っていると思うことで、慰めにしたかっただけ。いつだって自己満足の誠実さ。正体は拗らせた劣等感と自己愛」
「違う‼︎‼︎……僕は、兄みたいに女を消費するだけの空虚な男とは違うんだ。ちゃんと他者を愛する才能を持っている。僕の心には愛がある」
一瞬は再び声を荒げたカヅキだったが、すぐさま冷静さを繕った。
10代の小娘の挑発に乗るのでは、大人の男として格好がつかないからだ。
そういう部分も見透かして、カオルコは更に蔑みを強める。
「自惚れるな。ニナの幸せの為に努力できない人間のくせに。あなたのニナへの愛が本物なら、あなたはニナを最優先にすべきだった。もし仮に私もあなたを求めたとしても、周囲が私を選ばせようとしたとしても、ニナの為にきっぱりと私を切るべきだった」
「兄が死んだとき、ニナと駆け落ちすべきだったとでもいうつもりか? そんなことをしても、追手から身を隠しながら貧しくて不幸な生活をするしかなかった。僕だって考えなかったわけじゃない……けれど素性を偽って就ける仕事なんて限られている。君だってわかるだろう? 現実的じゃない、バカげてる」
「あの時点で子供がいると知っていれば、私が全力であなたたちを支援しました。でも、そうですね……確かに理想論でしょう…………私、本当はずっと憧れていたんです。あなたならニナと、私には叶えられない『私の理想の恋愛』を叶えてくれると期待して、自己投影していたんです。穢れた私には相応しくないその役を、代わりに叶えてほしかった……」
「カオル……君の理想通りではなくても、僕たちだって愛し合っていいんだ。ニナに100でカオルに0なんて極端な愛じゃなくても、50と50を望んでも愛が偽物になることはない。100と100にだってできるんだ。僕は君のことも諦めたくない」
「あなたの私への執着は、一度抱いた女を自身の所有物と思っているからでしょう? 性欲、所有欲、支配欲。それのどこが愛なのか。……本当に私を愛しているのなら、私の幸せの為を考えて、あなたはあの病院長の息子に私を譲ろうとするべきではないのですか? あなたの手元で飼い殺すより、よっぽど健全な選択肢でしょう。そもそも、私はあなたに恋愛感情を持ったことなんて一度も無いのに。ただただ迷惑です」
「そんなのは下手な嘘だ。夫婦として過ごした間、君は確かに僕を求めていた。床でのことだけじゃない。2人きりになると、よく君の方から手を繋いできたじゃないか。それに……初めての夜、君は言った……自分以外の女を持つな、愛人は殺すとさえ。あれだけ独占欲に満ちた強烈な嫉妬の言葉、忘れられるわけがない」
宥めるような声音を心がけていたカヅキだが、その語気にはどこかやり込めてやろうという意地が滲み出ている。
カヅキの苛立ちが浮き上がってくるにつれ、カオルコは反比例するように冷静になっていく。
「床では指南書の通りに演じただけ。手を繋ぐのはあちこち触れられるのが鬱陶しいから。私以外の女を抱くなと言ったのは、ニナが失ったあなたを他の女が得るのは許せなかったからです。あなたに抱かれても嬉しくないどころか苦痛に感じる私だけが、その役を引き受けようと思ったんです。いつかニナがあなた以上に愛する相手を得たときは、私は喜んであなたに妾を迎えさせるつもりでいました。あなたと妾の新しい恋だってきっと応援しましたよ」
「君が僕に好意を向けていたのは、結婚後だけの話ではない……本当は僕だって憶えているんだ……幼い頃、僕の兄に襲われた君を助けたその後、君は僕が婚約者だったら良かったと言っていた。あの頃からずっと、君は僕を想ってくれていたんだろう」
「好意の有無もそうやって都合よく切り替えて、妹扱いしたり嫁扱いしたりしてきたんですよね。……幼い頃に助けたなんてあなたは言いますけど、私はあの後あなたの兄から余計に仕置きを受けることになったんですよ? あなたには関係無かったでしょうけど。……あのとき私がああ言ったのは、あの頃のあなたが私に性欲を向けていなかったから。だから男性でも安心できたんです。でも……結婚後のあなたは違った。すぐに変わってしまって、幻滅した。ニナがいなければ私でもよかったのかと」
「誰でもよかったわけじゃない。カオルだから愛した。君だってあんな兄より僕の方が良かったことは否定できないはずだ」
「水の入った泥と泥の入った水、どちらを飲むか比べるようなものですね。相対的にマシとは思っても、絶対的に良いとは思わない。……あなたは自身の容姿に自惚れて、口説いた女は誰でも惚れると思っていましたか? 私の場合、まず若い頃の父が長身の美男だと評判で、兄弟たちも各々そんな父からいくらかずつ引き継いでいましたからね。あなたのような男性は見慣れていて珍しくもないし、周りが持て囃すのを聞かなければ有り難みもわかりませんでしたよ」
「っ……随分な言いようだな……」
「自分ではわからないから周りの評価を頼るしかなかった頃は、あなたの兄を世界一素敵な男性だと思うように洗脳されていた。もしあの頃にあの男が死んでいれば、私はそう思うべきだからと律儀に悲しんだか、或いは悲しめない自身を罪深いものと責め、あの男に申し訳無く思ったでしょう。真実に気付いたところで抜け出せないなら、無知と鈍感で自分の精神を守るだけでしたから。でも、あなたは私に気付かせた。あの男は異常だと。こんな目に遭うべきではないと」
「そうだ! あんな奴死んでくれて本当に良かったじゃないか! 素晴らしい幸運だ! そのおかげで君は解放された! 確かにそのせいで僕とニナは一時的に引き裂かれることにもなったが、結果的にニナも君も今は救われているじゃないか! 全て上手くいっているんだ!」
カオルコの口から兄の悪口を聞けて、カヅキは勝ち誇ったように捲し立てた。
それに煽られたように、カオルコは髪を振り乱して立ち上がる!
息も荒く、見開かれた目はありったけの怒りで爛々と輝いている。
「今のニナのどこが救われているのですか⁉︎⁉︎ 一途に信頼していた最愛の男に裏切られ、あの子は心をズタズタに引き裂かれて苦しんでいる‼︎ 誰よりも優しくて美しい心の持ち主で、絶対に幸せにならないといけないあの子が‼︎ 私は……私が欲しくて欲しくて堪らないものを手に入れておきながら、ちゃんと大事にしないお前が許せないッ……私の方がお前なんかよりずっとずっと、ニナのことを愛しているのに‼︎‼︎‼︎‼︎」
ガラガラガラ‼︎ ピシャーーーーン‼︎‼︎ ゴゴゴ……
怒り狂ったカオルコの形相を、障子越しの眩い閃光が照らし出し、直後に雷鳴と地響きが轟いた!
その姿は正しく鬼女の顕現したかに思えたが……その直後、カオルコはへなへなと力無く膝をつき、その拍子に目を覆っていた涙の膜がパラパラと零れ落ちたかと思うと、雨音と競うように声を上げて泣きだした。
カヅキは呆然とそれを聞いていたが、ゆっくりとカオルコの言葉の意味を理解し始める。
「⁇…………な……何を、ばかげたことを……ニナは女で、君も女じゃないか! そんなの間違っている。普通は……」
「黙れ‼︎‼︎ お前如きが私の好きを、私の愛を、否定するな‼︎‼︎ この感情は間違いなく真実、私の中の宝物。自分の欲望ばかりのお前こそ、軽々しく愛を騙るな! 愛が穢れる‼︎……本当は、ずっと気持ち悪かった……男の体が、性欲が。こんな単純な本音を口に出せるまでに、こんなに何年もかかってしまった。あの男ももう死んだ。ずっと我慢してきた。あんな気持ち悪い…………ああ、そうだ……いっそあなたも少し切ってみましょうか?」
「は⁇」
再びカヅキはカオルコの言葉を理解するのに時間がかかった。
カオルコは文机の引き出しから鋏を取り出すと、刃をチャキチャキと鳴らしながら、歪んだ笑みをカヅキに向ける。
「ニナがモモちゃんを産むときは、入口を少し切ったそうですよ。その傷だけなら治癒魔法ですぐに治せるものだったそうですけどね。ニナの場合は体内に別の問題が残って……だから私、少しでもニナの体を労りたくて、医者になろうと決めたんです。お給料もあなたより上ですしね。色々勉強して、最近は回復薬の調合もしてみたんです。あなたのも少し切って、回復薬で治してみましょう。そうしたら少しはニナの痛みに近づけるかも……」
チャキ……
そう言いながらカオルコはカヅキの下腹部に鋏を近づけた。その手は危うげに震えている。
「ま、待て、カオル……‼︎ 流石にそれだけは……」
今にも泣き出しそうなほど狼狽えて、カヅキは必死に身をよじろうとしたが、首から下を自分の意思で動かすことはできなかった。
そんな無様な姿を眺めて愉悦の表情を見せていたカオルコだったが、ふと鋏を持つ手に力をこめる。
シャキン!
「ヒッ⁉︎」
「………………」
ガチャリ……
カオルコはただ空を切ると文机に向き直り、震える手から鋏を放した。
硬質な金属の音はカヅキの耳を突き刺して、頭の中で残響となる。
「……冗談ですよ。鋏が汚れる」
「っ……」
どっと噴き出した冷や汗が、カヅキの顔の表面を涙のように流れていった。
カオルコはその様子を見下ろしながら、雨音に掻き消されそうな声でポツポツと語り始める……
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途中のカオルコはカヅキやアトリだけでなく親兄弟や他の親戚たちへの恨みも混ぜて怒ってたりします。