24.鋏
ある晩、夫婦の寝室。
「カヅキさん、わたしに至らない点があれば正直に仰ってくださいね? カヅキさんには心から満足していただきたいですから……」
「心配しなくてもニナに不満なんて少しも無いよ。いつだって最高で、僕は幸せ者さ」
この日もカヅキとニナは夫婦水入らず、ゆったりと睦言を交わしていた。
こんな時間が取れるのも、寝るときはいつもカオルコが娘たちを預かってくれるおかげだ。
その分カオルコの朝は遅く、ニナの用意した朝食にありつくのは大体がカヅキの出勤後。
最近は勉強を理由に部屋に閉じこもり、夕飯も皆と同じ時間に取らなくなったため、カオルコがカヅキの前に姿を見せることは殆ど無い。
たまに遭遇しても幽霊かと思うほど僅かな間で、カヅキには最早カオルコと一緒に住んでいるのかさえ疑わしい。
ニナの話では、平日の日中はニナや娘たちと親しくしているということで、やはり1人だけ避けられている。
ニナに対して不満は無い。不満があるのはカオルコに対してだ。
そんな物足りなさがどこかから漏れていたのか、ニナは不安そうに身を寄せて甘えてくる。
可愛い妻だ。カオルコもこうであればいいのに。
そんなことを思いながら、カヅキは最愛の妻を優しく抱き返す。
「こんなに夫婦仲が良いと、モモだけでなくサクラもすぐにお姉さんになってしまいそうだ。アヤコさんのところは男の子だったし、うちも次は妹じゃなくて弟かもしれない。モモがニナにそっくりなように、今度は僕そっくりに育つかもしれないぞ?」
はっきりと口に出しはしないが、故郷でカオルコの甥が父親の血を濃く引き継いだのを見たカヅキは、内心それを羨ましく思い、自身もそのような息子を欲しがっていた。
今の稼ぎでは多くの子を持つことは難しいだろうが、その中に1人くらいは男児も望めるだろう。男同士の語らいにも憧れるものだ……
そんな浮かれた夫の腕の中、妻の表情は花の萎れるように悲しげなものに変わっていく。
「ごめんなさい、カヅキさん。実はまだお伝えしていないことがあって……わたしの体、もう妊娠は望めないみたいなんです。モモちゃんを産むとき、実は母子共に危険な状態で……無理して産んだら、わたしの中、色々ダメになっちゃったみたいで……」
「そんな…………」
突然告げられた事実の重さに、カヅキは咄嗟にかけるべき言葉も考えられなかった。
思った通りの反応を前にして、ニナは心細さに押し潰されそうになりながらも、呼吸を整えると言葉を続ける。
「ごめんなさい……こんな大事なこと、今まで黙っていて。カオルちゃんにだけは、ここへ来てすぐの頃に話していたのですけれど……カオルちゃんはわたしのために、カヅキさんにも言わないでいてくれたのでしょう」
「ニナ……君が謝ることなんて何も無い。寧ろ謝らないといけないのは僕の方だ。何も知らず、大事な時にそばに居てあげられなくて本当にすまなかった。モモを産んでくれて、ニナ自身も生きていてくれて、本当にありがとう……これからはずっと家族一緒だ」
カヅキはやっと自分が伝えるべき言葉を見つけて、愛しい妻を再びしっかりと抱きしめた。
確かな温もりの中、ニナはずっと考えていたその続きを口にする。
「カヅキさん…………3人目の子供は、カオルちゃんと作ってください」
「えっ⁉︎」
一瞬、時が止まった気がした。
カヅキは自身の聞き間違いを疑いながら、妻の真剣な顔を見つめる。
「ニナ……何を言っているんだ……⁇」
「元々……この話をするときには、それも言おうと思っていたんです。……カオルちゃんは遠慮して本当のことを教えてくれないけど、2人が今も想い合っていることは見ていればわかります。だから、もう隠さなくてもいいんです。ただ、わたしとモモちゃんのこともこれまで通り大切にしてください。それさえ御約束頂ければ、大丈夫です。わたしも、カオルちゃんたちには幸せになってほしいですから。わたしばかりがカヅキさんの愛情を独占しようなんて、我儘ですもの」
ニナは気丈に微笑んで見せたが、その胸中は決して穏やかではないはずだ。
「ニナ…………本当にありがとう。君の思いやりは必ず無駄にしないと誓うよ。僕たちは皆で幸せになろう」
「はい。……カヅキさんのこと、信じていますね……」
ニナの強がりに気付きながらも、カヅキはその強がりを真実の信頼と安心に変えてみせると決意した。
ニナがカオルコのためにと言うなら、自分だってやはりカオルコのためにそうするべきなのだ。
カオルコだってまだ10代の少女。せっかくの娘盛りに男から捨て置かれるのでは可哀想だろう。
カヅキはニナにもカオルコにも愛を誓うことにした。
それが彼女たち両方の夫として、自身が為すべき当然の役割なのだと信じて。
***
数日後、夕食時。
「……ご馳走様」
そう言って箸を置いたカヅキの皿には、茄子の煮浸しが残されている。
「あら? カヅキさんの好物なのに、今日のはお口に合いませんでしたか……⁇」
「いや、ニナの料理はいつも美味しいよ。けれど今日はもうお腹いっぱいだし、連日出たから少し飽きてしまったかな。残してしまってすまない」
「いいえ、わたしの方こそ気が利かなくてごめんなさい……後は片付けておきますので、カヅキさんはお気になさらず」
「ああ、ありがとう。それでは、ニナは娘たちを頼むよ」
「はい。ご心配なく」
満腹だなんて嘘だ。いつも通りの量で出された食事をカヅキは少し残した。
しっかり食べた後はいまいち調子が出ない気がして、今夜の予定を思えば程よく身軽でいたかったのだ。
ニナからカオルコとの関係を許されはしたものの、当のカオルコはまだそれを認めていない。
ニナは説得に協力するとも言ってくれたが、赤ん坊2人を放置したまま大人3人で長話というわけにもいかず、かといって言葉を覚え始めたモモの前でできる話でもない。
カオルコと2人きりのとき、カヅキから迫れば拒まれてしまうが、ニナから勧めようとしても躱されてしまうという。
ならばもう実力行使でいいだろう。
ということで、今夜はニナが娘2人を預かることにして、カオルコの部屋をカヅキが訪ねることにした。
カオルコには「勉強に集中してもらうため」「自分たちも娘と寝たいから」と嘘を吐いてそうしたが、おそらく察してあるだろうことはニナの目にも見て取れた。
暗黙の了解は交わされたのだ。
子作りに関してはまだ慎重に検討しなければならないだろうが、出産時期だけ他所へ行っていてもらって、戻った後は親戚の子を養子に引き取ったと周囲に誤魔化せばいいだろう。
できることなら堂々と重婚で通したいところだが、どうもこの地域では風当たりが強いようなので仕方がない。
ニナの不妊については、最初は残念に思ったが、避妊について考える必要が無くなったのは却って気楽にも思えた。
2人の妻それぞれに求める役割があり、合わせれば不足は無く、都合の良いことは増える。
カヅキは自身の結婚について、とても上手くやったものだと満足していた。
ちょうど明日は休日だ。今夜は大雨になるらしいが、消音にはちょうどいい。
カヅキはしとしとと降り出した雨音を聞きながら、頃合いになるまで居間で仮眠をとることにした。
好物だって毎日食べて続けていては飽きる。女も同じだろう。
たまには本命と違う女も抱いてこそ、ずっと好きでいてやれるというもの。これも優しさだ。
……上手く例えた風に自身に言い訳しながら、その実、他に美味しいものを知っているからそちらも食べたいというだけの話である。
***
夢の中。
ニナは眠っている夢を見ていた。
意識はあるのに瞼は開けられないのか、開けているのに真っ暗闇なのか、何も見えないのでわからない。
体も動かせない。夫の残飯を無理に食べ切ったせいか胸焼けがするが、吐き出しに起きることも叶わない。
チョキン……
そんなニナの耳に、どこからともなく鋏の音が聞こえてきた。
モモを産むとき、出口が狭くてちょっと切ったときの音だ。
切られた痛みはわからなかったのに、音だけがやけに鮮明に耳に届いて、とんでもない場所を切られた事実に堪らなくショックを受けた。
目に見える傷は治癒魔法のおかげですぐに癒えたが、しばらくは鋏の音を聞くだけで身が竦んで、散髪するのにも覚悟が必要だったほどだ。
それでも日常で鋏を使うことなんて普通にあるし、今ではすっかり慣れたはずの音だった。しかし……
チョキン……チョキン……チョキン……
他には何も無いところで、ただずっとその音だけが繰り返し聞こえ続けている。
それは確かにニナにとって恐ろしい悪夢に違いなかった。それでも……
(いいわ。こんな夢でも、今は覚めないでいてほしい。起きて見る現実の方が、きっと怖いもの)
チョキン……チョキン……チョキン……
ニナは鳴り止まない鋏の音を聞きながら、嫉妬で心をズタズタに切り刻まれる苦痛に耐えるしかなかった。
(本当はずっと、わたしだけを選んでいてほしかったのに……)
次に目を開けたとき、自身はかつて故郷で見たあの打掛の鬼女になっているのだろうか……ニナはだんだんとそんな気がしていた。