20.渡航
翌年、春。大陸行きの船、客室。
「カオル、顔色が悪すぎる。やはり船医を呼んだ方が……」
「薬を飲んだので必要ありません。しばらく横になっていれば治ります」
「僕に何かして欲しいことがあれば何でも……」
「ではカヅキさんは黙って、私のことは放っておいてください」
青白い顔をしたカオルコはカヅキの気遣いを拒み、寝台のカーテンを閉じて引きこもってしまった。
島国を出てからずっとそうだ。ただ船酔いが酷いだけではなく、カオルコはカヅキを避けている。
かつての自分たちなら絶対に使わない質素な客室を見回し、カヅキは独り溜め息を吐いた。
狭い室内には1人用の硬い寝台が2つ、低いテーブル、ガタつきのある椅子2脚、小さな洗面台。あとは簡素な荷物置き場と、人1人が立てるスペースしかないシャワールームがあるのみ。
家具はあちこちに小さな傷ができているし、塗装もところどころ剥げかかって見窄らしい。壁紙や照明もなんとなく暗くて気が滅入る。
せっかくの船旅だというのに、景色を楽しむには小さすぎる窓。それすら白く焼けてしまっている。
とはいえ、「まるで囚人となって運ばれていくようだ」とまでカヅキが思っているのは、流石に世間知らずのお坊ちゃん育ちらしい感想だろう。
本来なら結婚記念日を祝う旅行にでも出ていたかもしれない今月始め、2人は逃げるように……文字通り、逃げるために大陸行きの船に乗船した。
去年カヅキの実家が破産して以降、予てより恨みを抱いていた者たちからの一族に対する迫害が続いていたからだ。
しかも、そうした迫害を煽動している中心人物というのが、カヅキの従伯父が晩年冷遇した妻の連れ子であり、大変優秀な魔導士だというから厄介であった。
彼女は魔脈の乏しいあの国で新たな魔脈を見つけ出した魔脈管理士であり、カヅキの実家が有していた魔石鉱山が失われた今、その新魔脈がそれに取って代わる形で国内主要魔力供給源として台頭してきたのだ。
当然、国中の企業が彼女の側へ阿るようになり、それまでカヅキたちの一族と親しくしてきた者たちも、誰もカヅキたちに手を差し伸べようとはしなかった。
それは、カオルコの実家も同じである。
カヅキの父と親しかったカオルコの父は早々に家督をイブキに移して隠居し、イブキはそれまでの印象を払拭すべくカヅキたちに冷徹にならざるを得なかった。
それ故に、カヅキに嫁いだカオルコとも絶縁したのだ。
カヅキは心無いことだと憤慨したが、当のカオルコは兄たちも自身の家族を思って仕方のない選択だったのだと理解し、寧ろきっぱりと優先順位を付けた態度には感心さえ示した。
一方、彼らもまたカオルコのことを本心から見捨てられるはずはなく、こっそりと使いを出して、カオルコとカヅキの2人だけでも国外逃亡させる手筈を整えたのである。
垂らされた救いの糸はか細く、2人以外のカヅキの家族には極秘の内に逃亡計画は進められた。
カヅキとしてもやはり優先順位ははっきりしていて、カオルコとその他の家族を天秤にかけるまでもなかったし、そもそもカオルコのおまけで逃して貰える立場であるため、悩む選択肢すら無かった。
そうして、この若い夫婦は駆け落ちの如く夜逃げしたのである。
夫婦といっても既に営みは絶えて久しく、カオルコは婚前よりも余所余所しく振る舞うようになり、カヅキも妻と呼べなくなったカオルコとの距離の取り方に困りあぐねていた。
だが、そんな悩みも大陸に着けば終わるはずのものだった……
***
大陸、外国人村近くの港。
「あ! カオルコーー‼︎ カヅキさーーん‼︎ こっち、こっち〜!」
出迎えと船客の合わさった人混みの中、一際目立つ特徴的な甲高い声が2人の名を叫んだ。
ふらふらと頼りない足取りのカオルコを支えつつ、2人分の荷物を抱えたカヅキはなんとかその声の主まで辿り着く。
「お久しぶりです、アヤコさん」
「アハ⭐︎ カヅキさんお久しぶりです〜、相変わらずイケメンで目の保養になりますね♡ あたしの可愛い妹カオルコも、久しぶりに会えて嬉しいわ♪ 事情はお父様たちからのお手紙でバッチリ把握してるから安心してっ。ここまで来たら、もう後は大船に乗ったつもりで姉さんに任せなさい!……って、カオルコ⁇」
「……」
「はは……カオルはもう船は懲り懲りみたいですよ」
魔獣の引く車をアヤコが待たせてくれていたが、カオルコの為に少し休んでから出発した。
久しぶりに会うアヤコは苦労している風でもなく、元々令嬢らしくないキャピキャピした人だったので、家に縛られない今の方が溌剌としていた。
ミニスカートに厚底ブーツ……赤と黒を基調とした挑発的な装い。耳には賽子のピアスが揺れている。
似たような雰囲気の女性を1人お供に連れていたが、カオルコがよく見るとそれは実家にいた頃のアヤコの侍女であった。
巻き込まれたという不満感も見えず、こちらも人生を謳歌していそうな様子だ。
実のところ、駆け落ち後のアヤコは実家に資金援助を求める手紙を送っていたそうだ。
「あたしは賭博場を開いたら倍にして返すって送ったんだけど、家出娘にも優しいステキなお父様からは『お金は返さなくていいから、賭博と風俗は絶対にやめなさい』ってお叱りがあってね。だから健全な遊戯場を開くことにしたの⭐︎ 大陸で流行った魔動ゲーム機とか置いて、獲得したメダルは景品屋で交換するようにしてさ。あと、食堂も! あたしと似たような境遇の女の子たちに声かけて、美味しいお酒も揃えて〜……どっちも上手くやってるんだから♪」
パチリとウィンクして胸を張るアヤコ。
実家としては、そんな問題児を強いて連れ戻すよりも、他所でも不便無く生きていけるようにしてあげた方がいいと判断したのだろう。
親の心、子知らず……親切心溢れる厄介払いだ。
親の望んだものとアヤコの営業実態が一致しているとは言い難いが、既に大陸に生活基盤があり、故郷では行方不明扱いになっているアヤコの存在は、カオルコたちを隠して逃すには都合が良かった。
実家からカオルコとカヅキの為の金を託されたアヤコは、約束通り2人の新居を用意してくれていたし、当面の生活費も残してくれていた。
不良娘ではあるが、悪人ではないアヤコだ。
***
同日昼、新居の居間。
「ええーーっっ⁉︎ マジ⁉︎ 離婚⁉︎ 2人手に手を取って愛の逃避行して来たんじゃなかったのーー⁇」
「ただ用意された船に2人で乗って来たというだけですよ。元々私たちは愛の無い政略結婚だったので、情勢が変われば別れるのも当然です」
「といっても僕たちの場合、離婚を言い出した側の家が色々賠償する契約まで結んでいたので、正式に離婚の手続きは済んでいないのですが……まあ、こちらではそこまで戸籍に拘らずとも生活には困らないかと。ですので、僕はこれからカオルとは別々の人生を歩むことにします。そちらの家の方々にはここまで手を借りるのに黙ったまま、騙すようなことになってすみません……」
「そっかぁ〜……2人ともお似合いだと思ってたんだけど、本人たちがそう言うならあたしが口出すことでもないもんね。はぁ……せっかく2人の新しい愛の巣だって準備したのになー」
アヤコたちの住む外国人村には故郷である島国の文化も多分に流入しており、カオルコたちの新居には向こうで見慣れた造りのものを選んであった。
実家と比べれば当然見劣りするものの、必要な家具が一通り揃えられた新居は充分快適そうに見える。
長年問題児扱いされていたアヤコではあるが、こうした気配りは得意のようだ。
主寝室の他に子供部屋や書斎もあったので、到着直後、まずカヅキは主寝室にカオルコの荷物を、子供部屋に自身の荷物を運び入れた。
それを見て首を傾げたアヤコに、2人は初めて別離の意向を明かしたのである。
思わぬ知らせに少しの間は落胆の表情を浮かべていたアヤコだったが、照明のスイッチでも入れたが如く、途端にパッと明るい笑顔に切り替わる。
「それじゃあカヅキさん、新しい相手にあたしなんてどおですかぁ? あたしもお腹の子の父親とは別れちゃって〜。カヅキさんがこの子のパパになってくれたら嬉しいですぅ♡」
「姉さん‼︎ ふざけないでください‼︎」
アヤコの思わぬ申し出に、カヅキが断るより早くカオルコが怒りを露わにした。
日頃冷静な妹の珍しい様子を見て、アヤコは悪びれもせずニヤリとする。
「も〜、カオルコってばマジギレじゃんっ。やっぱカヅキさんのこと、まだ好きなんでしょ〜?」
「……まだも何も最初からずっと恋愛感情なんかありません。ただ、カヅキさんには私との結婚が決まる以前に恋人がいたんです。私と船で渡ってきたのも大陸人の彼女と復縁する為で、姉さんの相手にはなれないというだけのことです」
「えっ⁉︎ 一度別れちゃった元カノとヨリ戻すために遠路遥々⁉︎ なにそれ超エモい‼︎ あー……でも、それならカオルコはこの家どうする⁇ いっそ売っ払って、姉さんと住む?」
まだムスッとした表情の残る妹に対して、カラッとした様子で提案してくる姉。
対照的な姉妹の攻防は続く。
「カヅキさんに養ってもらわないなら、カオルコも自分で稼がなきゃだよ? これからは実家を当てにするわけにもいかないんだから。一緒に住んで、あたしの店で働きなよっ」
「経理をするにはまずその勉強をしてからでないと……」
「いや、食堂で接客しなよ!」
「私に接客が向いているとは思えません」
「すぐ慣れるって。若くて可愛ければそれだけで喜ぶお客さんも多いし。それとも厨房いく?」
「料理も向いているとは思えません」
「もー、向き不向きでやりたくないとか選り好みしてたら無職になっちゃうよー?」
「まだどんな店か実際に見てもいないですし……」
「ダイジョーブ、ダイジョーブ♪ 明日は店で歓迎パーリー開いたげるから! 今までお父様たちから『2人のことは本人たちと話す内容擦り合わせるまで勝手に言いふらさないように』って、箝口令くらっちゃってたんだけどさ、これでやっとみんなに紹介できるものねっ」
「……いえ、あの……私は……」
本音を言えば、カオルコは働くのが嫌なのではなく、姉妹とはいえ絶望的にアヤコが苦手なのである。
厚意そのものには感謝しているが、同居なんてお断りだし、就職先は自分で探したいし、姉の友人とも極力関わりたくない。
疲労の色が濃くなるばかりのカオルコに代わり、今度はカヅキが口を開く。
「アヤコさんのご厚意は大変ありがたいのですが、僕たちは大陸に着いたらすぐに向かわないといけない場所がありまして、できれば明日にでも出発したいと思っていたんです」
「どこに行くんですかー? 言ってくれればあたしが2人を案内しますよ!」
「いえ、近場ではないので。僕たち、水の国と地の国との国境にある修道院まで行くんです」
「そんな遠くまで⁉︎……あっ、もしかして元カノさんがいるのって修道院なんですか⁇ でも、だったらなんでカオルコも⁇」
「彼女はカオルの親友で、元々その縁で僕とも付き合うようになったんです。カオルも彼女にはどうしてももう一度会っておきたいと言うので、最後に僕と一緒に来てもらうことにしたんです」
「うーわー、超フクザツー……それって本当にカオルコが行っていいの⁇」
「私としては直接顔を見て話がしたいのですが……場合によっては、存在を伏せたまま遠目に姿を見るだけになるかもしれません。それでも、行きたいのです……彼女は私にとっても特別な存在ですから」
姉の問いにカオルコは自信が無さそうな曖昧な表情で答えた。
アヤコは妹の真意を測りかねながらも、追求は控えることにする。
「ふーん? ま、私が止めることじゃないしね。それに、彼女が今もカヅキさんを待ってるとも限らないし?……カヅキさーん、もしもフラれちゃったときは、カオルコもあたしもまとめて貰ってくれていいですからねー♡」
「姉さん‼︎‼︎」
再び妹が声を荒げたとき、買い出しに行かせていたお供がちょうど戻り、姉は夕飯兼ささやかな歓迎会の準備に取り掛かった。
昔から勝手に使用人の調理を手伝うこともあったアヤコの腕前はなかなかのもので、カオルコも素直に姉を見直したが……
夜は勝手に泊まり込むことにして、遅くまで特技の壺振りを披露したがったため、結局のところ総じて好感度に変化はなかった。
災難続きではあるが良い知らせもあるもので、故郷では件の新たに権力を握った女性魔導士の影響で、それまでの男尊女卑傾向が逆転し、不幸な結婚生活を送っていたカオルコの姉たちの環境も各々好転したらしい。
……過剰な逆転は新たな歪みや犠牲を生み出し、中庸に辿り着くことを多くの愚者たちが妨げるだろう。
とはいえ、虐げられていたことを身近によく知る肉親たちが救われて、カオルコも嬉しく思うのであった。