19.業
カヅキがカオルコと結婚して半年近くになった、ある休日。ハツハル邸の庭。
「ああーっ! 兄上ずっるい! またそんな遠くから! さっきから殆ど走ってないし!」
「こんな暑い日に汗だくで走り回りたくないですよ……この線の外の方が得点にもなりますし」
「ははは! イブキさんは所謂スリーポイントシューターというやつですね」
「後半は兄上もめちゃくちゃ走らせてやるーっ!」
晩夏の昼空の下、カヅキは妻の兄弟やその友人たちと爽やかに汗を流していた。
ハツハルが気分転換兼運動不足解消に籠球をしようと友人たちを集め、体を動かすのが好きなカヅキも喜んで誘いに乗ったのだ。
ハツハルの家もイブキが継ぐ実家と敷地は隣りあっており、イブキも数合わせで強引に参加させられていたが、あまり動かないくせに遠方からの狙い撃ちで高得点を稼いでいくので、ハツハルは大いに悔しがりながらも自慢の兄だと誇らし気にしていた。
休憩時間になると、窓から球の飛んでいく様子が見えて気になったというヒナコたちも訪ねてきて、幼いイブシも侍女たちに手を引かれて歩いてきた。
父や母だけでなく侍女たちの名前ももうちゃんと呼び分けて、無邪気に戯れついている様子が微笑ましい。
イブキもヒナコも両親に溺愛されて育った側の人間であるが、その息子イブシも今またそれ以上に両親や祖父母から愛情を注がれているようだ。
理想的な兄弟や親子のいる家庭は、カヅキにとって温かくも眩しすぎるものであったが、それも今や届かぬ夢とも思えず、いつかは自身も愛する妻と叶えたい目標であった。
「カオルコも来れば良かったのに。君に嫁いでからというもの、もう長く妹は会いに来ていません。それだけそちらの居心地が良いのだと安心もしますが、やはり少し寂しいものですね」
「僕もそう思って誘ったんですが、今日は古い友人とどうしても外せない約束があるのだと断られてしまいました」
「そうなのですか? それならきっととても大切な友人なのでしょうね。あの子は少々気位の高いところがあって、あまり友人を作るのが得意ではないようでしたから。その分、一度心を開いた相手はとても大切にする子だと思いますよ」
「……ええ、そうですね……」
去年親友を想って泣いていた妻の姿を思い出し、カヅキは人知れず胸を痛めた。
***
同日、夜。
夕食をハツハルたちと済ませてカヅキが帰宅すると、妻はいつもみたいに玄関まで出迎えに来なかった。
きっと今日は妻も外出で疲れているのだろう。そう思ったカヅキは特に気に留めず、諸用を済ませてゆったりと夫婦の寝室へ向かった。
襖を開けると、照明の消えた室内を夜風がさあっと通り抜け、月明かりの差し込む方を見ると、こんな時間に障子を開け放ったまま、縁側で物思いに耽る妻の姿を見つけた。
纏っている夏用の薄い寝巻きはカヅキが選んだ物で、妻の華奢な体つきをよく引き立たせている。
淡い色合いも青みがかった妻の肌によく馴染み、月光に透き通るような錯覚さえ起こすほどだ。
肩から流れる黒髪も艶やかに美しく、儚げで神秘的な美貌は御伽噺に出てくる異界の姫君を想起させる。
御両親を見ても御兄弟を見ても美形揃いの家系ではあったが、ここ数年で淑やかさに加えて憂いを帯びた色香も増した妻は、その誰よりも美しく成長したと言っていい。
「カオル? そんなところで何をしているんだい?」
「……庭を眺めていました」
「何か面白いものでも見えるかい?」
カヅキが隣に座ると、妻は振り向きもせず黙って近くの庭木を指差す。
その先に目を凝らしてみると、カミキリらしき虫の番が交尾の最中だ。
「私たちもあの虫たちと同じだと思ったんです」
「はは……そう例えられるとなんだか面食らってしまうな」
カヅキは恥ずかしさに苦笑を浮かべて妻を見たが、妻は驚くほど冷淡な表情で虫たちを見つめ続けている。
「私たちもあの虫たちと同じ、恋愛感情を伴わない繁殖の為の番ですから」
「カオル……そんなことはないだろう?」
未だに夫が過去の恋人だけを想っていて、自身は愛されていない……きっと妻はそう思い込んで拗ねているのだろう。
そう解釈したカヅキはそっと妻の体を抱き寄せ、今の自分の愛情を伝えようとした。
ところが妻はそれを夜伽の催促と思い、室内に戻ろうとする。
「今、布団へ行きますから」
「いや、もうしばらくここでこのまま居よう。これからは虫たちのようなことばかりではなく、もっと恋人らしく語らったりする時間も増やしていきたい。僕は君とそういう夫婦になりたいんだよ」
「……何をお話しすればいいのでしょう?」
腕の中の妻は抵抗こそしないが、俯いたまま目を合わせようとしない。
そんな妻の機嫌を伺うように、カヅキは妻の首筋に2つ並んだ小さな黒子を唇で撫で、平時より優しい声色で語りかける。
「特に構える必要はないさ。その日あったこととか、ちょっとした日常会話でも、愚痴でも、話したいことなら何でもいいんだ」
「…………」
「ええと、そうだな……僕は今日、君にも話していた通り、ハツハル君に呼ばれて向こうの家へ行ってきたんだ。イブキさんやその奥さんにも久しぶりにお会いして、君の甥っ子のイブシ君にも会ったよ。イブシ君は見る度にイブキさんそっくりになっていくから驚くね。名前を似せたせいで顔や仕草まで似るのだろうかと疑ってしまうよ。ははは」
「…………」
「いつか僕たちにも子供が出来たらどちらに似るだろう?……楽しみだな。親たちは男の子を欲しがっているけど、僕はどっちだっていいんだ。生まれてくるのが男の子でも女の子でも、僕と君の子なら必ず愛さずにはいられないからね。……ああ、別に急かしているわけではないんだ。僕たちの時間はこれからいくらでもある。ゆっくりと幸せな家庭を築いていこう、カオル……」
押し黙ったままの妻に不安を覚えたカヅキは、妻の頬に手を添えて顔を上げさせようとした。
そのとき、妻が口を開く。
「ええ、きっととても可愛い女の子に違いないでしょう」
「ん?……カオルは娘が欲しいのかい?」
「いいえ、あなたにはもう娘がいるんです」
「え?」
妊娠の報告ならともかく既に性別まで決まっているのはどういうことかとカヅキは首を傾げた。
それに、妻の声は何かを堪えるように震えている。
「実は今日、古い友人と約束があったというのは嘘で、本当は私、興信所の方と会っていたんです」
「は⁇」
興信所と聞いて、カヅキは妻の態度の理由に察しが付いた気がした。
おそらく妻は夫の不貞を疑い、興信所のいい加減な調査結果では夫に隠し子の娘がいることにされたのだろう。迷惑な話だ。
カヅキは妻の誤解を解こうと思った。だが、誤解しているのはカヅキの方だった。
「私たちの結婚式があったちょうどその日、ニナは女の子を産んだそうです。故郷にある立派な病院ではなく、国境にある粗末な修道院で」
「……………………」
「身に覚えがおありなのでしょう? あのニナが、あなた以外の男性に抱かれたはずがありませんもの」
突然のことに声も出せず、カヅキはただ妻の視線から逃げるように頷いた。
堰を切ったように、妻の目からは大粒の涙が、口からは悔恨と呵責の言葉が溢れ出してくる。
***
妊娠して帰国したニナは、最後まで父親の名前を明かさなかったそうです。
終いには不特定多数と関係を持って父親が誰かわからない、なんて嘘までついて。
……あの国の貞操観念の厳格さは、あなたも重々承知していましたでしょう?
当然、ニナの御実家は愛娘を勘当して修道院送りにするより他ありません。
ニナはあんなに優秀な努力家だったのに、復学も許されず全てを棒に振ることになってしまった。
家族も学歴も失って、貧乏にもなって、残されたのは赤ん坊1人……
ニナの人生は台無しになってしまった……あなたがニナを孕ませたせいで!
……勿論、あなただけに罪があると責めることはできません。
そもそも私がニナをあなたと出会わせ、取り持ってしまったことが間違いだったのです。
それにニナ自身も、あなたとの恋愛に舞い上がり過ぎていたとは思います。
それでも……
やはり年長者であったあなたの短慮を嘆かわしいと言わずにはいられません。
まだ学生だったニナを相手に、何故避妊すらなさらなかったのか?
どうして……どうしてなのです? どうしてニナだけが、こんなことに……
わかっているんです……
ニナは誰よりも優しい子だから、自身よりもあなたや私の幸せを願ってくれていたことは。
だからニナが安心できるようにも、家や自身の体裁のためにも、私はあなたと表面的に整った家庭をきちんと演じていこうと決意したんです。
でもそれは……
そうすれば、いつかニナにあなた以上の望ましい相手が現れてくれると信じていたからで……
帰国後のニナを調べたのは何より心配だったからでしたけど、決して悪い報告ばかりを待っていたわけではありませんでした。
もしニナも新しい恋をして幸せになれていたらと、もう悩まなくていいような明るい報告にこそ期待していたんです。
そしてそのときは、私はあなたに新しい恋を願えるようにもなれるだろう……と、そう考えていたんです。
でも……違った……
ニナは……ニナは、どうしようもなく不幸になってしまった……私たちのせいで‼︎
きっと今でもニナは変わらずに、あなたや私の幸せを願い続けてくれているに違いありません。
だってニナはそういう子ですもの…………でも……だけど……
やっぱりこんなことはおかしい!
ニナの不幸を知って、それでもあなたとこれまで通りを続けるなんて耐えきれない!
私たちはもう、絶対に幸せになってはいけない‼︎‼︎
***
「あああああ」と呻くような声をあげて蹲ってしまった妻を前にして、カヅキはもうその戦慄く肩に触れることもできず、ただただ茫然と見ていることしかできなかった。
ニナを抱いたあの日、避妊しなかったのはその準備をしていなかったからで、準備をしていなかったのは、ニナが卒業して婚約が成立するまでは抱かないと決めていたからだった。
結局、あのたった1日で……兄の命日となったあの日、ニナは自分の子をその身に宿したのである。
その縁の深さにカヅキはやはりニナこそが自分の運命の相手だったのだと悟り、日々ニナと顔も知らない我が子を想っては悲しみに暮れた。
翌月、カヅキの一族が所有する魔石鉱山で瘴気が発生し、甚大な被害を出した。
一族は大きな収入源を失っただけでなく、損害賠償のために残った資産も全て手放すこととなり、間もなく破産した。