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18.処女厨の苦悩

夢の中。


カヅキはいつかの約束通り、ニナとあの山荘に蓮を見に来ていた。

夢の中のニナは何故か古めかしい貴婦人風の装いで、亡霊のようにスルリとカヅキの手を離れていこうとする。


「……今は美しいこの蓮も、いつかは枯れてしまうのでしょうね」


「時期が来れば何度でも咲きますよ」


解かれた手を繋ぎ直し、カヅキはしっかりと指を絡めた。

しかし、ニナの目は虚なまま、カヅキを映すことは無い。


「池の水もいつかは枯れてしまうでしょう」


「枯れません。僕がニナさんを想って泣き続けますから」


その声も表情も体も氷のように冷たくなってしまった恋人を、カヅキはどうにか温めようと抱き締めて、頬や髪に口付けた。

だが、カヅキがどれだけ熱い涙を流そうとも、腕の中の恋人は冷たい石のようにその熱を拒絶する。


「その涙さえ、水の底に汚い泥を隠すためのものなのでしょう?」


絶対零度の声が響いたと同時に、恋人の幻影も蓮池も消え失せ、カヅキはただ1人で底の浅い泥濘に足を取られていた……


***


現実。


「あなた……大丈夫ですか? 随分と魘されていらっしゃったようですが」


「カオル……」


カヅキが目覚めると、夜明け前の薄暗い布団の上、不安げに見つめる可愛い妻の顔が目の前にあった。

寝汗でぐっしょりと濡れて前髪が張り付いている夫の額を、妻は自身の袖でそっと押さえるように拭ってくれている。


「汗が冷えてお体に障りますよ。今朝はいつもより早いですが、もう湯浴みに行きましょう」


「いや、それならいっそもう一汗かいてから行こう」


起き上がろうとした妻を夫婦の床に引き戻すと、カヅキは湿って重く纏わりついてくる寝巻きを脱ぎ捨てた。


***


現在、妻となったカオルコとの夫婦仲は大変良好だ。

それまでの関係があるために最初はぎこちない夫婦だったが、最近では2人きりになると妻の方から手を繋いでくるようにもなった。

しかし、そんな妻を女として愛しく思えば思うほど、妻が兄のお下がりである事実が許せなかった。


実のところ、床での妻は最高の女だ。

だが、妻がよく躾けられた名器であればあるほど、それは兄が時間をかけて仕込んだものだと思い知らされる。

気になって兄の蔵書からそうした指南書を探し当てて目を通してもみた。ねちっこい兄好みの調教を自分の妻も強いられてきたのかと絶望した。


兄とは何年前から? どれほどの頻度で? どんな内容にどれだけの時間をかけたのか? 累計何十回? 何百回? 何百時間? 何千時間? どれだけの体液の行き来があっただろう?……悍ましい。

妻本人に聞く勇気は無い。聞いた内容を信じる覚悟も無いし、そもそも信じていい確証は無い。


妻の美しい肌も兄の指や舌が這い回った後と思うと汚らわしく、自分と口付けを交わす小さな口も兄の使用済みと思えば吐き気がした。

互いに愛し合って結ばれた清潔な処女の恋人を諦めさせられ、その代わり、全身隈なく兄に舐り尽くされた後の女を娶ることになるとは、なんと割に合わないことか!


他所の再婚女や非処女を娶る男を悪いとは思わないし、受け容れられない自分の方が狭量だとは自覚している。

処女厨の苦悩など共感されない。潔癖だの異常だの非難される。わかっているから黙っている。

他者に同じ意識を強要する気はない。中古女が悪だと決めつけるつもりも毛頭無い。

ただ、妻に対するこのどうしようもなく呑み下せない個人的な嫌悪感は消しようがない。

自分の妻が好きだ。だから辛い、自分だけの女でないのが。


いっそ妻自身が釣り合った相手と望んで経験した主体的恋愛ならば、それは妻の人格を過去も含めて認めようと思えたかもしれない。

だが実際はただ兄専用の慰み者として純潔を損ない、一方的に貪られ続け、穢され尽くしているのが気持ち悪い。嫌すぎる。

かといって、妻があの兄を本気で恋慕っていたことなど絶対にあってほしくないが。


読み古された兄の指南書の内容を実践しては、兄に復讐し、妻を試し、八つ当たりしている。

そうやって最低な男に成り下がっていく。堕ちて堕ちて落ち着いていく。

自分と別れてしまったニナにも、きっといつか新しく自分以外の男が現れるのだろう。或いは、もう……そう考えると気が狂いそうだった。


***


夢の中。


庭に面した座敷に一族の者が集まり、口々に「おめでたい」と慶びながら宴会を開いている。

下座からカヅキが見回すと、主賓席には死んだはずの兄がいて、隣には花嫁姿のカオルコがいる。

兄は上機嫌で盃を呷りながら、抱き寄せた花嫁の体を弄りはじめる。


「やめろ‼︎‼︎ カオルはもう僕の妻だ‼︎‼︎」


カヅキは叫びながら2人の前へ飛び出した。

妻は夫の声に顔をあげることもなく、ただ全てを諦めた人形のように兄の手に身を委ねている。

周りの者たちもカヅキの存在に気付きもしない様子でお祝いを続けている。


そんな中、兄だけがニタリと顔を歪めて弟を見た。

その瞬間、カヅキは激しい憎悪が全身に漲るのを感じた。蘇った。


現実で最後に見た兄の姿といえば、棺の中の死体だ。

発見時に損壊が激しく、頭部も原型を留めていなかったため、魔法で形状を復元させたものだ。

それはまるで骸に皮を被せた張りぼてのような、既に中身を失った空虚な物体に見えた。

時が止まったかのように一切動かず、音も熱も失って、既に生物ではなく静物だった。


生前は兄が何を感じ何を思うのか気に障ってしかたなかったカヅキだが、あのとき目にした抜け殻からは兄の意識を微塵も感じず、もうそこに兄はいないということばかりを実感したものだ。

人間の剥製。魂の不在。虚無の存在。恐ろしいほどに恐ろしさは無かった。

寧ろ資料館で貴重な展示品を見学させてもらっているような、不謹慎で不思議な感覚に少しの昂揚さえ覚えたくらいである。


ところが、こうして蘇った兄はやはり生々しく、憎々しく、確かにそこに存在しているのだ。

許せない。カヅキは全身が怒りでワナワナと震えているのを感じた。

そんな弟を眺めて、兄は満足気に嗤う。


「これはどうやったってもう私の女だよ。これの初めては全て私に捧げられた。初めは浅かった結び目の、年月を経て繋がりの深まっていく様子もお前は知るまい。じっくりと時間をかけて私の形に仕上げた、私の為だけの物だ。今更お前如きには奪えないのだよ。過去は消せず、私に汚染された女をお前は一生受け容れられない。お前に愛されない女は、お前を愛すこともない。永遠に、変わらない」


ガチャガチャーーン‼︎


兄は突然花嫁を座卓に押し倒し、その上に覆い被さった。

豪勢な料理の数々は一斉に卓上から押し出され、高価な食器類も大きな音を立てて破片となり散らばった。

それでも周囲は相変わらず「おめでたい」と慶びあって祝宴を続け、兄を止める者はいない……そう、カヅキ以外は。


「殺してやる‼︎ 殺してやる‼︎」


ガッ‼︎ ゴッ‼︎


おそらくは、夢の中限定の凶暴性のはずだ。

カヅキは兄の体を花嫁から引き剥がすと、湧き上がる強烈な殺意の衝動に任せて力いっぱい殴りつけた。

すると、兄の頭部は空洞だったのか紙風船のように拉げて、兄は再び静謐な死骸に戻った。


卓上で仰向けにされていた妻をカヅキが抱き起こすと、妻は兄とは対照的にやっと息を吹き返したかのように泣きじゃくり、正しい夫に縋り付いてくる。


「ずっと……ずっと、あなたが助けに来てくださるのを信じて待っていたんです……」


「遅くなってすまなかった、カオル……これからは僕が必ず君を守る」


兄は死んだ。妻は被害者で罪など無い。今は僕だけの妻で、これからもずっとそうだ。

震える細い体を包み込むように抱きしめながら、カヅキは夢の中の妻に変わらぬ愛を誓った。



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