15.紫陽花山荘
梅雨の晴れ間。
朝から出発して、カヅキは紫陽花が見頃の山荘へニナを連れてきた。
事前に信頼の置ける者たちに手入れを指示し、時期を見計らってのことだった。
山奥なので数人の案内を付けて魔獣の引く獣車に乗ってきたが、到着後は従者たちを屋内に待機させて2人きりで庭の散策へ出た。
竹林に囲まれた山荘は、見渡す限り辺り一面埋め尽くすほどの紫陽花が咲き乱れている。
「なんて幻想的な眺めなのかしら……まるで夢の中みたい……こんな素敵な場所に連れてきてもらえるなんて……」
「ニナさんに喜んでいただけて僕も嬉しいです。こんな場所までお連れした甲斐がありました」
「カヅキさん、本当にありがとうございます。わたし、今日のこと一生忘れません……」
色とりどりの紫陽花に囲まれてうっとりと溜め息を漏らすニナは、清楚な白いワンピースがよく似合っている。
去年の初デートのときに着ていたものによく似ていて、あれから1年近く経ったと思うのも感慨深い。
手を繋いで湿った石段を降りて行くと、遠目には紫陽花に隠れていた地面に細い川が流れていて、それを辿っていくと静かな湖へ着いた。
「この辺りはもうじき蓮も見事に咲くんですよ。蓮の見頃には、きっとまた2人でここへ来ましょう」
「はい。約束ですね♪ 楽しみにしています」
「今日はこれから小舟で湖に出てみませんか? 湖からの景色もきっと気に入ると思いますよ」
「ええ、是非案内してください。カヅキさんのお勧めに間違いのあったことなどありませんもの」
すっかり自分を信頼してくれて楽しそうにしているニナを見ると、やはりあの話は隠しておいて正解だったとカヅキは満足げに微笑んだ。
というのも、この山荘はかつてカヅキの大叔父が妾を囲っていた屋敷で、大叔父が正妻の死後に妾を自邸に引き取ったことで空き家となり、今はカヅキの父が別荘として所有していたのだが、呪われているという噂もあって家族が滅多に訪れない場所だったからだ。
大叔父は優秀で人心掌握に長けていたのか人望のある男だったが、強欲で身勝手で、己の欲望の為に周囲を犠牲とすることが多く、人の恨みを買うことも多い人物だったという。
そして、その大叔父以上によく話を聞き知っているのは、その息子についてだ。
彼の話はああなってはいけないよと反面教師の例として伝わる一方、ああなってみたいものだと憧れる夢としても伝わっていた。
元々の彼は大変一途で情熱的な好青年で、周囲の反対を押し切り、10歳上で子持ちの未亡人と結婚した。
夫婦は仲睦まじく暮らしていたが、彼の母の死んだ直後、葬式では悲嘆に暮れて周囲の同情を集めていたはずの父が、母のいなくなった自邸へ早速若くて美しい愛人を住まわせ、「今が1番幸せだ」と言っているのを聞いたとき、彼の中で必死に取り繕ってきた何かが壊れたのだという。
彼は老いた妻を自分には不釣り合いだと貶すようになり、これが本来当然の権利なのだと、若くて美しい女と浮気を繰り返すようになった。
やがて父が死ぬと父の美しい愛人を自分のものに加え、妻のことは束縛して自由の無い不健康な生活をさせたという。
年上かつ心労を重ねた妻が死ぬと、大地主で資産家だった妻の財産を引き継ぎ、彼は早々に仕事をやめた。
妻の御殿を改装して女を集め、さながら自分専用の風俗御殿を作り上げ、女たちを自分好みに躾けたり着飾らせることを唯一の仕事とし、朝も昼も晩も遊び暮らしたそうだ。
……そんな男の最期については不明瞭な点も多く、一説には妻の霊に祟り殺されたとも噂されている。
噂には尾ひれがつくものだし、彼の話は最期に限らず脚色だらけで信憑性は低いとも言える。恨まれていたなら尚更だろう。
その彼がこの山荘にも度々愛人を連れて来ていたというから、呪われていると噂する者もあるのだ。
わざと怯えさせて怖がる様子を楽しもうというような悪趣味も無いので、カヅキはこの話を黙ったまま、ニナには山荘の美しいところばかりを案内してまわった。
***
山荘の湖。
「どうですかニナさん、舟の乗り心地には慣れましたか?」
「はい。最初に乗り込むときは少し揺れて怖い気もしたのですけど、カヅキさんが漕ぐのがお上手なので今はとても安心しています」
「それは良かった。僕はニナさんにデートの間中ずっと快適に過ごしてほしいですから」
「ふふっ、お気遣いありがとうございます。こうして水に揺られながら風に当たるのは、涼しいだけじゃなくて独特の浮遊感があって楽しいです♪」
「そういえば今日はいつもより風が強いようで……」
サアアア…………
「きゃっ⁉︎」
順調に小舟デートを楽しんでいた2人だったが、不意に強い風がニナの帽子を攫っていこうとした。
カヅキは咄嗟に身を乗り出してニナの帽子を捉えたが、急に激しく動いたためにバランスの乱れた小舟は大きく揺れる。
「きゃああ⁉︎」
「ニナさんっ‼︎」
カヅキはニナを抱き寄せ、2人で身を低くして揺れが収まるのをじっと待った。
「……ニナさん、大丈夫ですか?」
「は、はい……」
「「!」」
ようやく揺れが収まって顔を上げると、未だかつてなくお互いの顔が近づいていることに気付いた。そして……
「「…………」」
どちらからともなく、目を閉じた2人は初めて唇を重ね合わせた。
………………
しばらくして離れて、もう一度。また離れて、もう一度。
もう一度、もう一度、もう一度…………
ザアアーーーーーーーーッッ
「きゃっ⁉︎」
「うわっ⁉︎」
もう一度を何度も繰り返して夢中になっていた2人は、頭上に垂れ込めてきた鉛色の雲にも気付かず、雨粒を叩きつけるような俄雨に襲われた。
Nice boat.