11.茶室
回想。
カオルコが10歳になった年の秋の終わり。アトリの茶室。
「最近のカオルコは会う度に美しく成長していくね。それに、同じ年の頃の妹たちと比べても落ち着きがあって大人びている。本当に将来が楽しみだよ」
「もったいないお言葉、ありがとうございます。アトリ様に相応しい女性になれるよう、精一杯努めていきたいと思います」
客座で畏まっているカオルコを、アトリは点前座から嬉しそうに眺めていた。
もう風炉の季節でもないのに炉蓋畳も閉じているし、茶菓子どころか茶道具も出す気配は無い。
灯りも障子窓越しの陽光のみに頼っていて、昼間とはいえ少し薄暗かった。
「さあて……大人の婚約者として、これからあなたに必要なことを色々教えてあげよう。どんなことでも全て、私という先生にちゃんと従うのだよ?」
「はい」
「まずは服をお脱ぎなさい」
「はい」
目の前の男を悦ばせ満足させるのが自分の役目だとカオルコは理解していた。
求めていただけるのはありがたいこと。皆が幸せなことと教えたから、自分もそう思わなくてはならない。
恥じらって焦らすことは褒められても、嫌がって拒むことは許されない。
偉大なる婚約者様の機嫌を損ねるなど、あってはならない恐ろしいことだった。
***
庭。
「ん? あそこにいるのは、兄さんと……カオルちゃん?」
その日、自分の工房へ向かっていたカヅキは、アトリが裏門からこっそりとカオルコを迎え入れるのを見かけた。
カオルコの表情はよく見えないが、アトリはカオルコの手を引いてにこやかに話しかけつつ、母屋ではなく今は使われていないはずの古い茶室の方へ向かっていく。
兄もようやく婚約者としてカオルコを気遣えるようになったのか。安心すべきことだろう。
そう思うようにして工房へ向かったカヅキだったが、いざ作業に取り掛かろうとするとどうにも胸がざわついて落ち着かない。
これまで実妹のように可愛がっていたカオルコを、今更兄に盗られるような気にもなっているのかもしれない。
我ながら呆れたことだと自嘲しつつも、やはり気になって様子を見に行くことにした。
***
茶室。
「おやおや? そんなにゆっくり脱いで、私を焦らしているつもりかい? カオルコはいけない子だ……ほら、下着も全て脱ぐんだよ。あなたの未来の夫に、ありのままの姿を見せるのです」
「はい」
「ああ……良い子だ。さあ、こちらへおいで……」
ガタンッッ‼︎‼︎
「何をしているんだ⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎ 兄さん‼︎‼︎‼︎‼︎」
裸になったカオルコがアトリの手招きに応じかけたとき、客人用出入口が乱暴に開けられ、カヅキが物凄い剣幕で怒鳴り込んできた。
躙口で屈めていた身が立ち上がると、屈強な高身長が狭い茶室内で存分に威圧感を放つ。
カヅキは怒りで顔を真っ赤にして肩を震わせながら、カオルコを背に庇うように兄の前へ割り入る。
「兄さんッッ……‼︎」
「カヅキ……卑しい妾腹の出来損ないが。誰の許しがあってここへ入ってきた?」
アトリも負けじと立ち上がったものの、今や見上げる程に大きく育った弟を目前に、腰が引けている。
「裏門で見かけて様子がおかしいと思って見に来たが、まさかこんなことになっているとは‼︎ いくら婚約者だからといって、こんな幼い少女に何をしようと言うんだ⁉︎ 人として許されないことだろう‼︎ 兄さんは異常だ‼︎」
「ふん……本当はお前もカオルコの裸が見たくて、それでこのタイミングまで隙見に甘んじていたのだろう? 善人ぶって兄の婚約者を手懐けて、何がしたいか言ってみろ……」
「貴様のような変態と一緒にするな‼︎‼︎ こんな痩せた子供の裸なんて見ても可哀想だと思うだけだ‼︎‼︎」
「ヒッ……」
今にも殴り殺してきそうな勢いで凄んだカヅキに、アトリは堪らず主人用出入口から逃げていった。
足音が遠くへ消えたのを確認してカヅキが振り返ると、カオルコはまだ一糸纏わぬ姿のまま茫然と立ち尽くしている。
「僕が扉を見張っているから、カオルちゃんは早く服を着なさい」
「はい」
ガタガタ……
カヅキは自分が開け放ったままだった客人用出入口の扉を閉めに戻り、カオルコには背を向けたまま座り込む。
流石の兄でもこのようなことがあったとは自身の名誉のために他言しないはずだ。
それでも自尊心の高い兄のことだから、今後はますます自分への当たりを強めることだろう。
恐ろしくて憂鬱だが、それ以上に腹立たしく憎たらしい。
そうしてカヅキが思い巡らせているうちに、いつの間にか衣擦れの音も止んでいた。
「……もういいかい?」
「はい」
今度こそカヅキはカオルコにしっかりと振り向いて歩み寄る。
カオルコは泣きもせず、ただ虚な表情で、少し震えている。
「かわいそうに。カオルちゃん、怖かっただろう……兄が本当にすまない」
「カヅキさん……カヅキさんはアトリ様と違って、私の裸に興奮なんてしませんか……?」
「するわけないだろう。安心してくれ。カオルちゃんはまだそういった欲望からは守られるべき子供だし、僕はカオルちゃんのことを家族のように大切に思っているんだから」
「そう、ですか……そう、ですよね」
カオルコはカヅキの方へ一歩踏み出し、しなだれかかるようにしながら力無くへたり込んでいく。
カヅキはそんなカオルコの体を受け止めるようにしながら一緒に座る。
「……もう大丈夫だ。カオルちゃんが落ち着くまで休んでから、僕が責任を持って家まで送っていこう」
長く伸ばした美しいぬばたまの髪に触れ、カヅキがその乱れを指先で整えてやっていると、カオルコの薄い唇が不意に開く。
「……私の婚約者が、カヅキさんだったら良かったのに……」
「カオルちゃん……」
それは聞こえぬフリもできたような微かな呟きだったが、カヅキはカオルコの肩を諭すように掴むと、首を横に振る。
「……そんなことを言ってはいけないよ。僕は君の夫となる人の弟で、それ以上でもそれ以下でもない」
「はい。すみません……もう2度と言いません」
「……僕はカオルちゃんと結婚してあげられないけれど、これからもずっと大切に想っている。また困ったことがあれば、いつでも頼りにしてくれ」
「…………ありがとうございます」
カオルコ自身も消えてしまいそうなほどに、消え入りそうな声だった。
夕陽が差し込んで傾くまで、2人は互いの体温を分け合うようにただ寄り添っていた。