7.叶わぬ恋なら
同日、午後。
ぎこちなく途切れがちになった会話を不審に思われないように、カオルコは夏バテを言い訳として予定より早く帰宅した。
夕飯までは時間があるが何もする気が起きず、ただ鏡台の前に座って指の感触と褒めてくれた言葉を反芻していると、どこからか女の口論する声が聞こえてくる。
カオルコはそっと声のする側へ忍び寄って、聞き耳を立ててみる。
「今のヒナコ様のお苦しみ様はどういうことか? あんなに幼いお体でもう身籠られるなんて、お前の予言と違うではないの! もしヒナコ様に万が一のことがあれば、嫁入りを急かしたお前の責任ですからね!」
「悪阻は仕方のないことデスっ。そ、それにネネは予言ができるなんて言ってないのデス。ただ、ネネはあるとき夢の中で恐ろしい運命の下書きを見つけて、それが本当の未来に確定される前に盗み出してやったのデス。夢の中で読んだ呪われた運命を皆様が辿らないように、ネネは断片的な夢の記憶を思い出せた時々に助言しているだけなのデス。正しく未来予知ができるわけではないのデスっ」
「お黙り! そんな作り話、よく聞けば他国の有名な昔話から設定を流用しているだけだってこと、あたくしにもわかります! イブキ様やヒナコ様のお父様たちが騙されたのは、よもやお前のような無学の半獣人にそのような謀があるとはお思いにならなかっただけですわ!」
声の主は、兄嫁ヒナコに嫁入り前から仕えていた侍女のハネとネネだった。
口論というよりは、気の強いハネが一方的にネネを責めているようだ。
ネネの方は通常では侍女に採用されないはずの半獣人だが、その特徴的なふわふわの耳や尻尾、子供のような愛らしい容姿と声をヒナコたち一家に気に入られたらしい。
彼女たちの主であるヒナコは、カオルコの家と古くから親交のあった家の娘で、カオルコの長兄イブキに今年嫁いできた。
イブキには過去に親の預かり知らぬところで結婚を考えていた女性もいたのだが、実は彼女は売女の娘で、彼女の父と思っていた金持ちは彼女の母の客であり彼女自身の客と判明。
その黒歴史の反動でイブキは高すぎる理想の女性像を抱くようになり、周囲の勧める縁談にも頑なに心を動かさず、両親を悩ませていた。
そんなイブキが突然運命の人を見つけたのだと大騒ぎし、何かに取り憑かれたかのように急いで迎えたのが幼妻ヒナコだ。
確かにヒナコは家柄も良く見目も美しいが、まだまだあらゆることに未熟な子供であって、イブキが婚前に掲げていた理想像には届かない少女である。
それでもイブキは幼いヒナコがこの先何もかも素晴らしく理想的に成長するのだと信じていて、ヒナコの父親もイブキに嫁がせるのが娘にとって1番良いことだと信じて結婚を許した。
その両者とも、共通の占い師をひたすらに盲信していたのだが……どうやらそれがネネだったようだ。
カオルコは占い師がネネであることを兄たちから教えられていなかったが、知ってしまえば色々と察しは付く。
兄が俄に占いに頼るようになったのが不思議だったのだが、おそらくネネは半獣人特有の鋭い感覚を活かして当人やその周辺を探り、集めた情報を占い師のように言い当てて信頼を得たのだろう。
人間と同じ居住区で共生する半獣人には、本来その鋭敏すぎる感覚や強すぎる力を抑えるような術式が施されているはずなのだが、ネネは魔獣の血が濃くてその術式がちゃんとかかっていないのだろう。
ともすれば盗み聞きにも気付きそうなものだが、先程からずっと泣いていてそんな余裕も無いようだ。
女であり、子供であり、半獣人であるネネが、自らが甘く見られることを利用して主たちの運命を影から操作していたとは。
夢の中で見たものを思い出して助言するという設定も賢いものだ。
自発的に未来予知ができる設定と違って、特定の事柄を占って欲しいという相手の要望を躱せるし、一方的に伝えたいことだけ言えばいいから綻びも出にくい。
まるで隠密のような働きである。一体どのような恐るべき企みで、どのような黒幕から遣わされた者なのか?
真相を突き止めるのは危険かもしれないと緊張しながら、カオルコはじっと息を潜める。
そんなこととは露知らず、ハネはネネを厳しく詰め続け、ネネはいよいよ激しく咽び泣く。
「泣いて誤魔化そうとしたって無駄ですよ! お前の見立てではヒナコ様がイブキ様の理想通りの大人の女性に成長なされた頃、素晴らしいお世継ぎを授かられるとのことだったでしょう⁉︎ 今のヒナコ様のどこが大人なのですか? どうせ男性というものをよく知りもしないお前だから、イブキ様が今のままのヒナコ様に手を付けることは無いと油断しきっていただけでしょう! そもそも、あのヒナコ様が本当にイブキ様の高すぎる理想を叶えられるなんて思えませんわ!」
「ううっ……確かにヒナコ様は自分でものを考えるということが苦手な方デスが、素直で頑張り屋な方で、お言い付けがあれば律儀に応えようとする誠実さはありマス……努めても実際に応えられるかは場合によりマスが。い、今の内から熱心に教えていれば、きっとそれなりに将来の実りはあるはずなのデスっ……たぶん」
各々、主に対して随分な言いようである。
「ほら、やっぱり。お前はヒナコ様がその程度と知りながら、イブキ様を騙しておかしくしてしまった。お前がずっとイブキ様に憧れていて、擦り寄るためにヒナコ様を出汁にしていたことはお見通しなんですよ! 半獣人の分際でなんて生意気な……」
「それを言うならハネだって! 最初にあの家でイブキ様の接待役になったとき、イブキ様の気を引こうとしてヒナコ様のことを実際よりかなり盛って話したのはハネだったのデス! イブキ様が最初にネネにお声をかけてくださったときも、ヒナコ様のことをお聞きになる為だったのデス! 元凶はハネ! ハネが先にイブキ様を好きだったくせに!」
「な、ななな何てことを言い出すのよ! か、勘違いをするんじゃありません! あたくしは別にっ、イブキ様のことなんてなんとも思ってないのですからねっっ! そ、そうやって話を逸らすんじゃありませんよ!」
ネネから思わぬ反撃を受け、狼狽えたハネの声色からは先程までの鋭さが失われていた。
口撃が止んで間が空くと、ネネがポツリポツリと消え入りそうな声で呟き始める。
「……ネネがヒナコ様の話をするとき、イブキ様はいつもとても嬉しそうにお聴きになっていたのデス。そのお優しい笑顔が、声が、どれもネネ自身に向けられているわけではないとわかっていても……半獣人のネネを女として見てもらえなくても……お役に立って褒められたかった、いつもお側に居たかった……ネネは、ネネがイブキ様を幸せにしたかったのデス…………ううっ」
「ああもう……これではまるで、あたくしがお前をいじめているみたいじゃありませんか」
「ううっ……みたいじゃなくて本当にハネはイジワルなのデス……」
「そんな憎まれ口を叩けるなら、早く泣き止みなさい。こうなってしまったからには、ヒナコ様には必ず無事に御出産を済ませていただかなくては。あたくしたちも最善を努めましょう……」
ずっと怒っていたハネも流石にネネが可哀想になり、怒るのにも疲れて宥めはじめた。
予想外の真相に呆れもしたし軽蔑もしたカオルコだったが、報われない片想いでも好きな人のために尽くしたいと願ったその心には共感を覚えた。
一方で、彼女たちの身勝手な片想いの巻き添えをくらったヒナコには同情する。
ヒナコの実家は神職に携わってきた一族で、本来ならヒナコも彼女の姉同様に巫女として男を知らずに生きることが選べたはずなのだ。
彼女の性格にはその方が向いていただろう。
また、騙された兄イブキに関しては充分に良い配偶者を得たと思えた。
どんなに容姿や才能の優れた人物であろうと、その人間性が悪ければ全てが台無しに思えるが、物事を考えるのが苦手なヒナコは悪巧みにも向かず、素直で純粋な人物でもあるのだ。
性格が悪くないなら安心で、あとは他に何か長所があれば充分だと思うべきだろう。
ヒナコの見た目は良い。頭は良くないが心が悪いよりはずっと善いだろう。
現状の兄はヒナコを運命の人と信じている。
真贋の違いがわからぬなら贋作でも真作と信じている間は幸せだし、贋作とわかったときにも愛着があれば真作扱いもできよう。そもそもの真作が不在の偶像なら尚更。
そう考えるにつけても、見た目も頭も心も全てが完璧に理想的なニナはやはり稀有な存在だ。
カオルコはつくづくニナを遠くに感じた。
元はネネ主人公で書こうと思ってた別の話を、舞台が似てたのでカオルコたちの話に合体させてたりします。
そっちだとメリバエンドでイブキ、ハネ、ネネは早死にしてヒナコと子供が生存とかになってたかも……
あとハネはツバサって名前からネネとセット感出すためにハネに変更しました