5.観劇
夏季休暇に入って最初の週、カオルコとニナは劇場へ芝居を観に来た。
混み合った劇場の入場券売り場に並びながら、ニナはキラキラした眼差しで宣伝ポスターを見つめている。
「わたしね、原作の小説が大好きで、実は舞台も初日に1度観てるの。それが本当にすっっごく感動する舞台でね、次に観るときはカオルちゃんにも観てもらえたら嬉しいな〜ってずっと思ってたの」
「私は原作を読んでいないけれど、ニナがそこまで言うほどのものならきっと素晴らしい舞台なのでしょう。私も観るのがとても楽しみだわ。誘ってくれてありがとう」
「わたしの方こそ来てくれてありがとう。本当はカオルちゃんと感想を語り合いたくてうずうずしてたから……はぁ……こうして待ってる今も、ネタバレを我慢するのってとってももどかしいわ」
ニナは桃色の頬を手で押さえながら幸せそうに微笑む。
好きなものの話をするときのニナはいつだって夢見る乙女の表情で、カオルコはそんなニナの話し相手になるのが好きだった。
釣られて緩んだ口元を隠すように、カオルコは手にした宣伝チラシに目を移す。
原作小説は少女向けの純愛ラブストーリーで、奇を衒わない明快な王道ハッピーエンド。
脚本家も劇団員も殆どが無名だが、主演の新人女優の両親は有名女優と劇場経営者で、その伝手で演出や舞台美術などにかなりの費用と人員が割り当てられていた。
そのため、原作や演者には興味の無かった客までがその豪華さに興味を持ち、公開初日から連日満席御礼の大流行となっている。
とはいえ、少女趣味の作品なのでやはり客層は圧倒的に若い女性に偏っている。
行列を並び終えてやっと座席へ向かうと、隣の座席には太った中年男がカオルコの席に腕をはみ出させて座っていた。
両足を前に投げ出し、顎を突き出してふんぞり返り、扇をバタバタと鳴らしながら煽いでいる。
つい「なんて横柄な。不快な男だ」と顔を顰めそうになったカオルコだったが、「いや、だから自分はダメなのだ。相手の事情も知らずに断じるとは。単に暑がりなのかもしれない。ニナなら決して失礼なことは思わないだろう」と即座に内省した。
念のため自分と反対側のニナの隣客も確認すると、そちらはやや年配の大人しそうな女性で、カオルコはほっと胸を撫で下ろす。
いざ舞台の幕が上がると隣の中年男も扇を閉じ、客席は俄かに静まり返った。
前評判通り、衣装や背景などは抜かりなく行き届いて安っぽさを感じない、実際にその場面がそこに在るように感じられる出来映えだった。
舞台前方の大穴から空間全体を震わせている音楽は、それ自体を出し物として充分な一流の生演奏。
照明や効果音も絶妙に計算されていて、役者の演技を邪魔することなく引き立てている。
そうした万全過ぎる後ろ盾を背負うのはさぞ重圧だろうが、役者も周囲の期待に圧倒されることなく立派に応えている。
声の通りも良く、長台詞でも澱みなく自身から湧き出る言葉として話していたし、立ち位置が目まぐるしく変わる場面でも躊躇いのない足運びだった。
激しい殺陣の後はぐっしょりと汗をかいている様子が照り映えて、全力で演じているのが伝わり、日常場面では自然体で仲の良い空気が表れていて、互いに切磋琢磨しながら日々稽古を重ねてきたのだろうと想像させられた。
物語としては所謂ご都合主義だが、真の悪人は居らず悪役にも救済のある優しい世界で、後味も悪くない。
登場人物たちの幸福を願う作者の優しい人柄が表れているようで、爽やかな満足感と多幸感を得られるものだ。
王道には愛される理由があるとよくわかる。
各々が存分に実力を発揮したと言える、素晴らしい舞台だった。
その証拠に、割れんばかりの拍手が繰り返し舞台の上に出演者を呼び戻していた。
カーテンコールが落ち着いてくると、隣の中年男がパシッと音を立てて扇を広げる。
「ふぅん? ま、こんなものでしょ」
再びバタバタと煽ぎだした扇の緩い風がカオルコの二の腕にも溢れ、不快感を起こす。
そんなことはお構いなしに、中年男は口を開き続ける。
「関係者が豪華で随分と費用も掛けられたというから、一応期待して来たんだけどね。特に意外性も無く凡庸な出来さ。まあ女子供はこういうのでも満足するんだろうし、それでいいと思うよ? 別にバカにしてるわけじゃないんだけどさ、僕みたいに『本物』を多く観てきた人間は目が肥えちゃってるからなぁ……」
「そんなことを口に出して、熱狂者に聞かれて恨まれては危険ですよ? ご自身の安全のために賢くなっていただかないと」
明らかにバカにして得意げな男を、カオルコとは反対隣にいた連れ合いの女性が諌めようとした。
その諌め方にもカオルコは首を傾げたいところだ。
まるで自身に危険さえ無ければ、他人を不快にさせても良いかのように聞こえる。
わざわざ他の客にも聞こえるように不快な発言をするなんて、自分のため以前に他人のためを考えて慎むべきだろうに。
ただこの女性の場合、あえて相手の男の程度に合わせてそういう言い方に留めたのかもしれないが。
だがその言葉を却って呼び水としたのか、増長した不快な男は更に饒舌さを増す。
「過大評価されてるのは事実さ。芸術に携わる者なら批評はありがたいものと思わなきゃ。そうでなくては成長も無いんだからね。演技指導にベテランが付いてたおかげで、新人にしてはよく頑張った方かな? でもあの母親の全盛期と比べると、大して美人でもない普通の娘だね。将来性も感じない。所詮は親の七光りで、まあ、本人には同情するよ。母親の方の舞台には足繁く通ったものだが、これは一度で飽きるね。あの時代を知らない今の若い人たちは可哀想だよ」
よくもまあそんなにつらつらと侮辱の言葉が湧き出てくるものだ。まるで最初から台本でも用意してきたかのようである。
きっと始めから見下してやろうという気持ちがあって、わざわざその為に観にきたのだろう。何も感じようとはせず、ダメ出しに努めて。
真剣に努力してきた人間に対して敬意が無い、あまりにも失礼な態度である。
七光りだって自身で光ろうと努力したに違いないのは、演技にもカーテンコール中の表情にも見て取れた。
人の努力を簡単に軽視できる人間は、努力した経験が乏しいのではないだろうか?
勿論、中には自分はもっと努力したからこそ他者にも高い基準を求める者もいるのだろうが、この無駄に偉そうな勘違い男に関してはいかにも前者といった様子だ。
不遜であることと雄々しいことを履き違えているのだろう。偉ぶるほどに品性の無さが際立つ。人間性の低い者ほど思い上がるのは得意のようだ。
そんな男の態度に、流石に妻らしき女性も憤りを露わにする。
「素人の評論家ごっこなら家に帰ってから聞きますよ。感想はご自由にといっても、楽しい気分でいる他のお客さんたちにまで聞かせないでください。そもそもあなた好みの作風ではないと先に言っておきましたでしょう? 門外漢が文句だけ言いにしゃしゃり出る異常さを自覚すべきですよ。わたくし1人で観たかったのに、わざわざ付いて来ないで下さい」
「君もどうせ男前の役者を見に来ただけだろう? 最近は見映えがすればものの良し悪しなんてどうでもいい消費者ばかりで嫌になるよ。けど、これも時代なんだろうねえ。甘やかされてばかりで苦労知らずだと、子供騙しのお涙頂戴で感動できる安上がりな感性しか育たないんだろう。受容に合わせて脚本まで浅くなっていく。ま、僕は物事を深く考察する教養人だからね。幼稚な女性の趣味も理解してあげようとは思うんだ。僕みたいな懐の広い男に怒るものではないよ?」
「いいから! もう! 帰りますよ!」
妻らしき女性は横幅の広い男を座席から引っ張り出すと、申し訳無さそうに他の客に頭を下げながら引きずっていく。きっと常日頃から気苦労が絶えないことだろう。
自惚れ老害男の方は全く悪びれることなく、扇を煽ぎながらのそのそと後に続く。
それぞれが違う魅力を放ち、それぞれが違う感受性でそれを受け取れたり受け取れなかったりするのは当たり前のことだ。
自分にとって何も感じないものから多くを感じ取る人もいるし、その逆だって然りだ。
それなのに自分に理解できるものしか価値を認めようとせず、他者の感動を穢すことで優越感を求めるとは浅ましい。
自身が本気で何かを好きになった経験があれば、他者が何かを好きな気持ちも大事にすべきと、自然と配慮できるようになるものではないのか?
老いて感受性を失った者が、何かに感動できる者たちに嫉妬しているようにも見える。
なんと空虚で浅薄な男だ。薄いのは生絹を被せたようなその頭頂部だけで足りているだろうに。
角度によって地肌の透け具合の変化する涼しげな頭を冷ややかに見送りつつ、カオルコはニナを振り返るのが怖かった。
せっかくあれほど楽しみにしていた観劇の最後に、運悪くこれほど不愉快な他人に遭遇してしまったのだ。さぞ気分を害されたことだろう。
なんと言葉をかけようかと思案しながらカオルコがニナの方を向くと、ニナは用意してきた厚手のタオルで顔を覆っていた。
「ニナ……?」
「ううう……実在感がすごい〜〜……数えきれない細やかな工夫、原作への理解度と役者さんの演技力の成せる奇跡……尊いが過ぎて涙が止まらない〜〜」
ニナがタオルをずらすと、真っ赤になった目から涙が洪水のように溢れてくる。
あの男の戯言など、ニナの耳には全く入っていなかったのだ!
自分が好きなものにまっすぐ一生懸命で、外野の声など届いていないニナ。
その姿を前に、カオルコはさっきまでの嫌な気分などもう全て吹き飛んでどうでもよくなってしまった。
「ふふふ……ニナったら……ふふふふ……」
「うう〜〜……カオルちゃんはどうだった? 面白かった……?」
「ええ、とっても素晴らしいものが見られたわ。今日は本当に来て良かった」
帰りの感想会も大いに盛り上がった。
洗練された令嬢らしさとは違うが、純真無垢で天真爛漫、天衣無縫と称えるべき、穢れを知らない心の美しさをニナは持っていた。
演じることを礼儀としながら偽ることを罪とするような者でさえ、ニナのことは本物の淑女と認めるだろう。
ニナは保身のためではなく真に相手のための優しさを持てる人物で、世界を美しいものと信じて愛しているのだ。
そんなニナには綺麗な世界だけを生きてほしい、穢れた世界など知らずにいてほしい。
善人のニナだからこそ信じられる性善説を、カオルコは自身の心によって否定できた。
そうした矛盾を抱えても、今ではすっかりニナの信奉者となっていた。
ふと、考える。
善人を良いものだと思うのは、彼らが無害で自分にとって都合の良い存在だからではないだろうか?
状況が変わって都合の悪くなることもあれば、そのときはどうなるだろう?
……ばかばかしいことだ。ニナが自分にとって都合の悪いものになることなどありえない。
そのときはニナ以外が自分にとって都合の悪いものになるだけだ。
カオルコはただただニナを心から盲信していた。