4.夕涼み
夏季休暇に入る少し前のある夕方、カオルコは婚約者のアトリと外食に行く約束のために相手の家を訪ねた。
蝉の大合唱の中、釣殿で籐の長椅子に寝転がっている人物を見つけたカオルコは、そっと近付いてその前髪をクシャクシャと乱してみる。
「……カヅキさん、髪が濡れてます」
「カオルちゃんかい? いらっしゃい。兄さんなら急な来客があってまだ仕事だよ」
転寝中のカヅキは目を閉じたまま、自身の顔の横に垂れ下がったカオルコの長い髪を手繰り寄せた。
その指が髪に触れやすいように、カオルコは少し頭を傾ける。
「ええ。そう伺いましたので、こちらで待っていようかと。お邪魔でしたか?」
「いや、勿論歓迎するよ」
カヅキは欠伸を1つしてゆっくりと瞼を開き、じっと覗き込んでいる目と目が合うと、くすぐったそうに笑いながら起き上がった。
そうして半分空いた長椅子にカオルコも座り、燃えるような真っ赤な夕焼けを並んで眺める。
幼い頃から兄妹のように打ち解けてきた間柄で、仲睦まじい様子の2人だ。
「カヅキさん、また海に行ってたんですか?」
「ほんの1時間ほどね。……兄さんたちには内緒にしといてくれよ? 色々うるさいからさ」
「ふふふ……はい、勿論」
アトリの妾腹の弟カヅキ。歳はカオルコの長兄と次兄の間で、昔から彼らと親しい。
上級学校卒業後は家業を手伝い始めたが、父親の正妻を中心に家の者からはやや冷遇されている。
亡くなった母親が大陸人の混血だったせいか、この国の平均的な男性よりもいくらか体格の良い美丈夫だ。
女ばかり多く生まれた家では嫡男アトリ以外の貴重な男子で、有事のスペアとしてキープされているため、婚約者はまだ決まっていない。
「潮の香りでバレてしまいますよ」
「体は流してきたんだが……ああ、これのせいか」
そう言ってカヅキは手首に巻き付けていた巾着袋の紐を解き、中身を長椅子に広げて見せた。
「まあ。綺麗な貝がこんなに沢山……よく集めましたね」
「今度は螺鈿細工に挑戦してみたくてね。髪留めでも出来たらカオルちゃんにあげよう。まだ約束はできないけどね」
2人は同時に視線を動かし、庭の奥に造られたカヅキの小さな工房を見遣った。
昔から工作好きだったカヅキの趣味が詰まった工房は、全然秘密ではないが2人にとっては秘密基地のような場所だ。
「髪留めを贈る相手が私でいいんですか? 恋人ではなく?」
「僕にはまだそんな相手もいないからね。まったく趣味の範囲で職人の出来には及ばないし、カオルちゃんくらいしか貰い手が無いんだよ」
「そういうことでしたら、有り難く頂戴しましょう」
「ああ、助かるよ。実妹たちは素人の手作りなんてゴミ扱いだからね。カオルちゃんが優しい子で本当に良かった」
「……私は優しくないので、本当にゴミだったら受け取りません。でも、今まで頂いた物はどれもとても素晴らしい出来映えでした。心を込めて作られた物ですもの、全て大切に持っています」
「…………ありがとう。カオルちゃんには本当に救われてるよ」
「私こそ……カヅキさんには感謝していますので」
水面を撫でた風が涼やかに通り抜け、穏やかな夕涼みのひとときは過ぎていく。
赤々と2人を照らしていた夕日が陰って互いの表情も朧げになった頃、母屋の廊下で使用人が人を探す様子が見えた。
自分を探しにきたのだと察知したカオルコは、さっと立ち上がって身嗜みを整える。
「それでは私はアトリ様の所へ」
「うん。いってらっしゃい」
振り返らずに早足で去っていく背中を、カヅキはただ心配そうに見送った。