2.女神の国からの留学生
1年生の冬。放課後の図書室。
「学年1位おめでとう、ニナ」
「ありがとう。カオルちゃんが良い先生だったおかげだよ。この国の微妙な言葉のニュアンスの違いとか、言うまでもない些細な常識とか、外国人のわたしがこれまで掴み損ねていた色んな部分を、カオルちゃんはとても丁寧に教えてくれたもの」
「私もニナのおかげで大陸語で満点を取れたわ。ありがとう、ニナ先生」
「先生なんて照れるわ。ふふふ……カオル先生♪」
秋に初めて会話して以降、カオルコとニナは休み時間や放課後に図書室で勉強を教え合うようになった。
母国で両親に留学を認めてもらうために猛勉強したというニナは、大陸語とはまるで異なる島国の言語を習得してきただけでなく、全ての教科に秀でた非の打ち所がない優等生であった。
ニナの実家は貿易商を営む傍ら美術館の運営もしており、ある時期に異国の作品収集に熱を入れていたそうだ。
そうして集められた中には、嫉妬に狂った鬼女を刺繍したおどろおどろしい意匠の打掛もあったという。
最初にそれを見た時は強い恐怖と嫌悪を抱いたニナだったが、その強烈な印象から気になって何度も観察するうちに、それまで馴染んできた文化とは異なる新たな美の境地を見出せたそうだ。
それがきっかけとなって、伝統工芸品、建築物、演芸、食文化などなど……雑多に興味の範囲を拡げていったらしい。
「伝えられてきた技術や染料の違いだけじゃなく、大胆な色遣い、独創的な図案のセンス……細やかに丁寧に込められた激しく強い情念……全てが痺れるほどに新鮮で衝撃的だったわ」
分厚い美術館の図録を捲りながら、ニナはうっとりと溜め息を漏らした。
「でも最初はそれが今まで自分が知っていた美術品とはあまりにも違うものだったから、それを美しいと思えることに気付くのに時間がかかっちゃったのね。無知だけでなく、防衛本能のようなものもあったのかしら。……人の感受性は多様で、好悪の基準も人それぞれ。表現する側の感性も千差万別。でもわたしは欲張りだから、よりたくさんの物の魅力を感受できるようになりたいと思ったの。そうしたらきっともっと世界は美しく楽しく賑やかに愛しいものになるもの」
「それでわざわざ留学まで? この国に拘るより多くの国へ旅行した方がいいとは思わなかったの?」
「欲張りではあるけど、謙虚でもいたいわ。全てを欲して中途半端になるよりは、最初の出会いを運命と信じて全力を賭けたいと思ったの。そのくらい夢中なんだもの。資料や観光で得られる情報から学ぶだけでなく、実際にその地で生活して色んな新しい体験を重ねて、異文化の持つ感性を自分の中にしっかり取り入れて根付かせたい。これから先まだ知らないたくさんのものが、わたしを今までと違う新しいわたしにしてくれるはずだわ」
「長く居れば嫌なところもたくさん見えてくるわよ? 憧れが強いなら尚更ね」
「も〜、カオルちゃんは意地悪だなあ」
「ふふふ」
「あ! カオルちゃん、窓の外!」
急にニナがはしゃいだ声を上げた。
カオルコも振り返って窓を見ると、少し暗くなった空にチラチラと粉雪が舞っている。
「もうこんな時間。今日は他に生徒がいなかったから、ついつい話し過ぎたかしら」
「カオルちゃん、雪へのリアクション薄すぎない?」
「あなたがはしゃぎすぎなのよ、ニナ」
「この辺りはカマクラやダルマを作って、それでも余るほどに積もるのでしょう? 水の国ではあまり降らないから、とっても楽しみだわ!」
「そう、良かったわね」
帰り支度をしながら図録をもう数ページ捲ってみたカオルコは、ある人物画に目を留めた。
黒い髪、青い目をした白いドレスの少女。指先に光る銀の針は彼女の象徴物だと、以前ニナに教えてもらった。
「わたしの国の女神様の絵だね。この国にも伝わっているのは嬉しいな」
カオルコの視線の先に気付いたニナは、図録を覗き込んでにっこりした。
「水の国の女神様は海の中からわたしたちを見守っていてくださって、使いの者が地上で集めた物語を泡に込めて献上すると、針で割って中の物語をご覧になると言い伝えられているの。水の国は出世率は低いけど魔導士が多く、陸地面積はそれほど広くないけれど海底魔脈のおかげでとても豊かな国よ。それに、なんといっても犯罪の起きない平和な国なの。全ては誠実で思慮深い女神様の御加護……海のように広い御心と、海よりも深い民への愛によるものだわ……」
目を閉じて祈りを捧げるニナ。
そんな彼女の信仰心を害することは絶対口に出さないが、カオルコは水の国と女神の話は内心胡散臭く思っている。
確かにニナ自身は誰の悪口も言わず、勤勉で誠実な美しい人間性の持ち主と信じられる。
ニナはいじめっ子たちの不遜な態度に腹を立てることもなく、寧ろそのような振る舞いをするほど余裕の無い彼女たちを心配するほどのお人好しだ。
余裕のある人間が余裕の無い人間を気遣うことで、少しでも穏やかになってくれればいいとさえ考えている。
常に正しくあることで相手を悪として糾弾する準備をしているのでもない。ただの真心だ。
そんなニナの影響でカオルコも最近、親分不在時だけ親切になる取り巻きたちの態度を、教師たちへの密告を恐れるからだけでなく、弱い彼女たちなりに罪悪感も持っているのかと思えるようになっていた。
また、今までの自分がそれ以外の多くに対しても予め嫌うように心を構えていたこと、それが人に好かれる自信の無さに由来していたことにも気付けた。
善良なる者のそばにいれば、邪悪なる者が善へ傾くこともあるだろう。
とはいえ流石に「犯罪の起きない国」なんて、権力者が犯罪を揉み消している国としか考えられない。
そうでないなら、よほど犯罪の基準が緩すぎてどんな犯罪も合法化してしまうかだ。
だが、水の国の法律はこの島国どころか大陸中のどの国よりも厳しい。
それらは潔癖な水の国の女神の神託によって定められたという。
婚姻に関する法律では、重婚も不倫も離婚も再婚も禁止。
婚前交渉は婚約者のみ認める。婚約破棄を認めるのは、婚前交渉が無い場合に限る。
1度でも関係を持てば、もう生涯ただ1人だけを愛し続けなくてはならない。
そんな国を窮屈に思う者たちも当然いて、見識を広めるための旅行や留学に出て、そのまま帰国しない者もいると聞く。
また、帰国したものの他国で受けた穢れによって入国審査に不合格となり、国外追放になる者や国境にある特別地域へ隔離される者もいるのだとか。
なんでも水の国の水には全て女神の加護がかかっていて、女神に拒まれた者にはその水が毒となるという。
水は飲み水だけでなく、体を洗う水もだし、料理に使う水どころか野菜を育てる水までがそうであるのだから、女神に拒まれて水の国で生きていくことはできないということだ。
「いつかカオルちゃんにも水の国へ遊びに来てほしいな〜」
「私ではきっと水の女神様に拒まれてしまうわよ」
「そんなことないわ。だってカオルちゃんはわたしがこの国に来て出会ったどんな女の子よりも優しくて、わたしなんかともこんなに仲良くなってくれたんだもの。わたしがこの国に来て1番大好きになった人は、カオルちゃんよ」
「……ありがとう、ニナ。光栄だわ」
無邪気な笑顔を向けるニナにカオルコも微笑み返しつつ、内心ではニナから自分に対する評価を否定していた。