2.5.ある晩の出来事
ちょっと割り込み回想で数年前の出来事
回想。
それはもう何年か前のある晩のこと。
その日は珍しくニナの故郷である水の国から宿泊客が来ており、ニナは夕食後もその客に呼ばれて話し相手となっていた。
いつもべったり傍にいる妻の不在に、寂しかったのか、良い機会だったのか、或いはその両方だったのだろう。
1人で深酒をしたカヅキは見事に酔い潰れ、家族の居間でだらしなく座卓に突っ伏し、とうとう大鼾までかきはじめた。
そんな父の珍しい醜態を、モモはサクラと一緒に笑いながら眺めていた。
そこへ、酔い覚ましの粉薬と水差しを持ったカオルコがやって来る。
「ほら、カヅキさん。そんなところで寝ないでください。子供たちに笑われていますよ? これ以上失望させないでください」
「う、んん……⁇ 薫……」
「ニナもすぐ来ますから。薬を飲んだら、ちゃんと部屋で寝てくださいね」
「んー……」
まるで水面から顔を上げて息継ぎでもする様に、カヅキは上半身を反らせてカオルコへ振り向いた。
すぐ隣でコップに水を注ぐカオルコを、カヅキは正体無い目付きで眺めていたかと思うと、突然、そちらへ倒れ込むようにして押し倒してしまう。
「きゃっ⁉︎ カヅキさんっ……ちょっと! 寝ぼけないで……んっ……嫌っ…………〜〜〜〜ッ」
モモたちにはちょうど死角となる座卓の向こうから、カオルコの小さな悲鳴が聞こえ、その声を押し潰すかのように、頻りにゴソゴソと蠢く気配がしている。
生々しい複数の音が伝える臨場感は、視覚情報の不足を補って余りあるものだ。
「お母さんっ……!」
あまりの出来事に硬直して動けないでいるモモの横から、サクラが弾けるように飛び出した。
サクラは座卓の上から水差しを持ち上げると、その中身をカヅキ目掛けてぶち撒け、更にお盆を手に取ると、繰り返しカヅキの頭や背中に叩きつける。
「お母さんっ……」
「サクラ…………」
なんとかカヅキの下から這い出したカオルコがサクラに手を引かれ、モモのいる出入り口まで逃げて来たときには、カヅキは再び鼾をかいていた。
肌けた浴衣を押さえつつ、全身をブルブルと震わせているカオルコ。その理由は、決して水がかかって体が冷えたからだけではないだろう。
乱れ髪のかかる胸元は、水差しの水ともそれ以外ともつかない液体に濡れ、テカテカと艶めかしい光沢を放っている。
「……私は風呂に。……危険ですから、モモちゃんたちは今のカヅキさんに近づかないように。それと、今あったことは絶対にニナに言ってはいけませんよ。酔ったカヅキさんが水差しをひっくり返したことにしましょう……」
「…………っ」
モモは声を出すこともできず、ただただ泣きながらコクコクと頷いた。
廊下の向こうへカオルコの背を見送った後、残った2人はしばらく立ち尽くしていたが、徐にサクラがモモの手を引く。
「ねぇ、モモちゃん……このまま部屋に戻ろ? わたしもモモちゃんもこんな泣き顔じゃ、きっと上手く誤魔化せないよ……」
「う、うん……」
ようやく声の出るようになったモモは、サクラの手をぎゅっと握り返し、居間を去ろうとした。
しかし、ちょうどそのとき、廊下の奥からニナが歩いてくるのが見え、咄嗟に引き返した2人は厨の側へ身を潜めた。
「あらあら〜……ダーリンってば、そんな寝方ではお体に障りますよ? 仕方のない人ねぇ……」
居間に入ったニナはすぐにアルコールの匂いに気付き、倒れている最愛の夫を見つけると苦笑を浮かべた。
だが、ふと夫の手にあるものを見咎めた瞬間、ニナの顔から表情は消え失せる。
「………………」
ニナはそれを回収しようといくらか努力したものの、結局、しっかりと握りしめられていたために断念してしまった。
「……あらあら……本当に、もう……仕方のない人…………」
ニナは消え入りそうな弱々しい声で呟きながら、夫の手に残されたカオルコの帯を見つめていた。
その後、ニナがカヅキの掛け布団を取りに寝室へ入った隙に、モモとサクラはこっそり自室へと戻った。
娘たちがいないところで母たちがどんなやり取りをしたのか、モモにもサクラにもわからない。
ただ、翌朝、何も覚えていないカヅキ向けの設定としては『酔ってニナと間違えてカオルコに抱きついただけ』ということになっていた。