1.女と妹
過去回想回
「ティア! ティア! ああ、オレの可愛い妹! 兄ちゃんはティアのことが大好きだよ!」
「うるせーよ、バカお兄! 好きなんて言葉、軽々しく言ってんじゃねー!」
「大丈夫! どんなにたくさん言っても、兄ちゃんからティアへの好きは軽くなんかならないよ!」
「そういう心配をしてんじゃねー!」
「ティアは照れ屋さんだなあ! そういうところも可愛いくて大好きだよ!……ぐはっ⁉︎」
グググ……
うるさくかまってくる兄に、ティアは組み付いて背後に回ると、いつものように絞め技をかけはじめた。
「ティ、ティア……そんなにがっちり捕まえなくたって、兄ちゃんはティアから離れないから安心してくれ……」
「そんなこと言って、あたしが少し目を離すとす〜ぐ村へ行っちまうじゃねーか! この前も作業途中で抜け出したこと、ちったあ反省しやがれ!」
ギブアップのタップは無視して、力加減は調節しつつ、兄の首筋ににやけた顔を埋める。
大好きな兄の匂い、兄の温度、兄の息遣い……その全てを独り占めできるこの戯れが、ティアには至福のひとときであった。
言える『好き』だからたくさん言う兄と違って、ティアの『好き』は言えない『好き』だった。
***
回想。
ティアが兄への恋心を自覚したのは、兄が初めて彼女を自宅に招いた日だ。
めかし込んだ初対面の女。いつになく浮かれ切った様子の兄。
そのどちらも妹の目には堪らなく不愉快なものに映った。
夜、夕食を共にするのを拒んだティアは、自室にこもって母が遺した古書を読みつつ、自分たちのテリトリーから闖入者が一刻も早く立ち去ることを願っていた。
すると、部屋のドアが静かに開き、覗き込む兄と目が合う。
「あっ、お兄! ノックもせずに開けるなよ!」
「ゴメン、ゴメン。もしかしたらもう寝てるかと思って……」
「夜行性のあたしがこんな時間に寝るわけねーじゃん。それよりあの女は? 当然もう帰ったんだよな?」
「あ、いや……彼女は今日、うちに泊まっていくんだ。もう夜遅いし」
「はぁあ⁉︎ ふざけんなよ⁇ あたしの部屋に泊めるのはぜってー嫌だからな!」
「ははは、大丈夫。ティアの部屋には泊めないよ」
「母ちゃんの部屋もぜってーダメだぞ! あんな他人! 冗談じゃねー!」
「それもわかってるよ。大丈夫、彼女はオレの部屋に泊まってもらうから」
「ふーん? じゃあお兄はどこで寝んの? やっぱり母ちゃんの部屋?」
「え。ああ、その……んー……まあ、オレたちのことは気にしなくていいからさ! ティアはほらっ、たまには早く寝た方がいいぞ? あまり不摂生が過ぎると良くない。集中力も下がるしさ」
「いや、別にまだ眠くねーし」
「そんなこと言わずに、たまにはさ?……兄ちゃんはティアのこと、心配して言ってるんだぞ? な?」
兄に真剣な眼差しで見つめられると、ティアはもうそれ以上逆らえない。
「む〜……わかったよ。今日は早く寝る。……お兄も早く寝ろよ! そんで明日の朝一であの女は帰せよな! 約束だぞ!」
「ああ。おやすみ、ティア」
兄がドアを閉めると、ティアは言われた通りすぐに寝支度にかかった。
ところが、暗くした部屋で布団を被って目を閉じていると、隣の兄の部屋からなにやらコソコソと話す声が聞こえてくる。
(お兄のやつ! あたしには早く寝ろって言ったくせに、まだ起きてあの女と話してるなんて! 文句言ってやろ!)
もともと眠くなかったティアは、すぐに起き上がって兄の部屋へ向かおうとした。
だがその前に、ふと、兄たちの会話が気になって、聞き耳を立ててみる。そのとき……
『アッ♡』
「⁉︎」
不意に、先程までより一際大きなあの女の声が聞こえてきた。
ティアは驚いて壁から離れ、暗闇の中で息を押し殺した。
体の奥底が凍りついたような、痛みにも似た苦しさに襲われ、言い知れぬ恐怖が込み上げてくる。
それからしばらく静まりかえっていたと思ったら、俄にまたヒソヒソ声が聞こえてくる。
『寝てるかな?』
『大丈夫だよ』
…………ッ……ッ……
クスクスと笑い合うような声の後、今度は床が軋むような音と微かな振動がティアの寝床にも伝わってきた。
耳を澄ませば聞こえてくる……鼻につく女のよがり声、興奮した兄の息遣い。
薄い壁一枚隔てた向こう側に、妹の知らない『男』になった兄がいる。
気付けばティアの体はひどく震えていて、その収め方もわからなかった。
それまで大切に信じていたものが穢されて戻らなくなったような、酷く裏切られたような心地がして、悔しくて悲しくて物凄く腹が立った。
ドンッッ‼︎‼︎‼︎
「うるっっせーーんだよッッ‼︎‼︎‼︎ さっさと寝ろ、バァァーーカ‼︎‼︎‼︎」
ティアは力の限り壁を殴りつけて怒鳴った。
返事は無く、しばらくすると兄たちが部屋を出て階下へ降りる気配がした。
独りの暗い寝床の中で、握ったままの拳の痛みがジンジンと大きくなっていったが、手当てをする気にもなれなかった。
結局、翌日は昼まで布団を被って起きようとしなかった。
本当は一睡もできていなかったが、確実に女が帰ったとわかるまでは部屋を出たくなかった。
午後になって妹の腫れ上がった手に気付いた兄は、大慌てで回復魔法を使って治療した。
その後もべったりと傍に張り付いてよく世話を焼いたが、昨夜の出来事については一切話題にしようとしなかった。
以来、もともと世話焼きだった兄はより一層過保護になり、ティアは兄に自分の用事を優先させてデートをドタキャンさせるなど、愛情を試すような我が儘を言うようになった。
いつの間にか兄はあの女と別れていたが、また別の女と付き合い始めて、またしばらくするとその女とも別れて、また別の女と…………繰り返し、繰り返し、長い年月の中で兄の『女』は入れ替わり続けた。
その間ずっと、いくらでも替えがきく他人と違って、『妹』というポジションは揺るがなかった。
……兄の妹であるという、救いと、呪い。
ティアは恋敵と争って選ばれないどころか、最初から不戦敗の負け確定ヒロインだ。