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19.後悔

クローバーの月。地の国、田舎村の昼下がり。

最短で帰宅したいシドは、個人船を漁港ではなく自宅近くの海に停めた。

妻との思い出が詰まった浜辺も、今は鉛色の雲が垂れ込めて暗く湿っぽい。

玄関を開けると、食卓から息子夫婦が振り返った。息子嫁の腕には見知らぬ赤ん坊がいる。


「ただいま……」


「遅かったね、父さん。ほら……先月生まれた、父さんの孫だよ。男の子だ」


ファドは嫁の腕から眠っている赤ん坊を受け取ると、シドの前へ歩み寄った。

母親から離された赤ん坊はパッチリと目を覚まし、不思議そうに祖父の顔を見つめる。

その髪も目も息子嫁と同じ色で、目が合ってもシドには初孫の実感が湧かない。


「そうか……無事に生まれたんだな。良かった。名前はなんて言うんだ?」


「ソラ、だよ。母さんが名付けたんだ。いい名前だろ?」


「ああ。それで、イサナは……⁇」


「ちょっと待ってて…………付いてきて」


ファドはソラを嫁の腕に戻すと、玄関の外へ出た。

意味を察したシドは真空に放り出されたような心地がして、どうやって自身の足を動かしているかもわからぬままに息子の後を歩いた。


***


教会裏、墓地。


「母さん、父さんが帰って来たよ」


「………………」


おかえりの声はもう返らない。イサナの名が刻まれた墓石を前に、シドは膝を突いて項垂れた。

言葉も涙も出てこない。ただ時の止まったような感覚がして、周囲の音がずっと遠くに聞こえる。

最愛の妻の死を、シドは現実と受け入れることができなかった。


「村長さんへの帰村報告もまだなんだろ? 俺が代わりに行ってくる。……雨になる前に帰りなよ。寝室のサイドテーブルの引き出しに、母さんが父さんに書き溜めてた手紙がそのまま入ってるから」


今にも降り出しそうな空を見上げてそう言うと、ファドは父の肩をポンポンと軽く叩いて去ろうとした。

シドは俯いたまま呼び止める。


「……なんでオレを責めねぇんだ?」


「……『お父さんを責めないであげてね』って、母さんが言ってたからだよ。本人が既に反省してるときにそれ以上叱らないのは、躾のポイントなんだってさ」


「オレを子供扱いか?」


「俺もそれをツッコんだよ。そしたら『そうよ〜、あの人けっこう子供だもの〜』ってさ、母さん笑ってた。俺も同感だよ」


「そうか……」


自分より弱っている人間がいると、人間は強く振る舞おうとするものだ。

妻が気丈でいなければならなかったのは、死にかけの病人から頼られないほどに夫の自分が弱っていたせいだろう。


息子が立ち去った後、少し経つと墓石へポツポツと雨粒が落ち出した。

シドはもう一歩も動きたくなかったが、妻の遺書を読むべく、重い体を引きずって帰路に就いた。


***


「あっ……おかえりなさい、お義父さん……その、夫は⁇」


帰宅すると、授乳中の嫁が気まずそうに胸元を隠しながら尋ねた。

シドはすぐに背を向けて、濡れた上着を脱ぎながら答える。


「ファドは村長のとこに寄って戻る」


「そうですか……あの、えっと……お義父さん、お腹は空いてませんか? もう少しでこの子を寝かしつけたら、何か作りますよ? その間、シャワーでも浴びて……」


「すまねぇが、暫くオレのことは放っておいてくれ」


「あ、はい……わかりました。何かあれば呼んでくださいね……?」


シドが寝室へ向かうのを見送ると、舅に好かれていない自覚のある嫁はホッと溜息を吐いた。

姑のイサナは色々と優しい言葉をかけてくれて良い人だとは思っていたが、所詮僅かの間を共に暮らしただけの他人であり、その死について姑を溺愛していた舅とどう話していいのかわからなかったのだ。

重い空気を感じ取ってぐずり出したソラをあやしつつ、嫁は逃げるように自分たちの部屋へ下がった。


***


「…………イサナ……」


空っぽのベッドを見た瞬間、シドは体が震えて立っていられなくなった。

よろよろと倒れ込むように寄りかかると、微かに妻の残り香を感じる気がした。


震える指でサイドテーブル上段の浅い引き出しを引いてみると軽く、筆記用具と畳んだ紙切れが1枚だけ入っている。

広げてみると、確かに見慣れた妻の字だ。


『書いたものからどんどん入れていくので、下の方ほど古く、上の方ほど新しいです』


次に下段の深い引き出しを引いてみると重く、きちんと封筒に入れられたものから便箋を折っただけのものまで、何束もの紙の層がそこには詰まっていた。

イサナから最愛の夫へ宛てた、遺書という名のラブレター……というより、大半は徒然なるに任せた雑記だ。


シドはベッドの上に引き出しの中身をひっくり返し、サイドテーブルのランプを点けると、古い方から順に読み始める。

自分たちの新婚時代を回顧する惚気だったり、孫の可愛い仕草の報告だったり、エリカや嫁から親切にしてもらったことだったり、息子や自分の心配な癖への注意だったり、嬉しかったお土産のことだったり、美味しかった夕飯のことだったり、その内容は実に雑多で取り留めも無く書き連ねてある。


『嫁いびりをするような嫌な舅にはなっちゃダメよ。手伝えることは手伝ってあげて欲しいけど、鬱陶しく思われない程度にね。若い人にはその時代に合った考え方があるはずだから。息子の見る目を信じましょう』


『あなたは赤ん坊の顔なんてどれも似たようなものと思うかもしれないけど、孫はファドの生まれたばかりの頃に本当にそっくりだわ。きっと成長するにつれて、あなたにも似てるのがわかってくるはずよ』


『昔、私はあなたによく考えろって言ったけど、あなたって意外と考え過ぎちゃうみたいだから、時には考え過ぎないのも大事よ。臨機応変に、狡賢くね? あまり自分を追い詰めちゃダメよ。今のあなたには、私以外にも甘えられる人がちゃんといるんだから』


『ソラって可愛い名前でしょう? 響きが良いわ』


『他より短くたって良い人生だわ。自分の命以上に大切なものを見つけた人生だったもの。人生に自分の命以上の値打ちがつくなんて有り難いことよ』


『何者にも成れないと諦めるしかなかったはずの私を、あなたが妻にしてくれたし、母親にしてくれたし、お婆ちゃんにまでしてくれた。私だけじゃ成れなかったものに、あなたのおかげで成ることができたの。尊い出逢いに心から感謝しています』


『あなたは人生の恩人。あなたと生きて、私が生まれたことにも意味があると思えたの。自分の存在を肯定できるようになれたの』


『寂しい。早く帰ってきて。あなただってきっと寂しいはずだもの』


『あなたのムニエルのレシピを嫁にも教えてあげて。ソースも、あなたが作ったのはエリカ先生も美味しいって褒めてたのよ』


『他の人がなんと言おうとあなたは世界一イイ男で、そんなあなたと結婚できて私は世界一幸せ者です。その分、別れの悲しみも世界一ですが、真の幸と不幸は打ち消し合わずにそれぞれ存在し続けるものです。世界一不幸なことがあっても、世界一幸せだったことは無くなりません』


『悲しみを忘れることを心配して、真面目に不幸を見張り続けなくてもいいのです。幸せの真っ只中を見つめて生きてください。これからの人生まだまだ素敵なことがたくさん待ってるんだから、不幸にばかり向き合っていじけてちゃダメよ。あなたを愛する人にも幸せにも失礼だわ』


『カイルとも、もっとたくさん話をしていればよかった。絶望させずに済んだかもしれない』


『あなたはモテるから、私の死後に若くて綺麗な女の子から言い寄られる日が来るかもしれません……本当は憎たらしいけど、先に死んじゃった罰と我慢して、少しくらい仲良くなるのは許してあげましょう。でも、絶対に私より好きになったりしないでね? 運命の相手とは来世でも結ばれるはずですから、あなたの相手は間違いなく私でありますように。重要なおまじないです』


『せっかくおばあちゃんになったのに、ソラにおばあちゃんと呼んでもらえないことが心残りだわ。私の代わりにおばあちゃんの話を聞かせておいてください。ね、おじいちゃん?』


『私の分も家族をよろしく。あなたの使命よ。長生きしてね』


『愛してるわ、シド』


『会いたい』


等々……


生前の妻は手跡の美しい人だったが、その字も終わりにいくにつれて弱々しく震えて読み辛くなっていく。

紙に涙を落とさないように掲げ持って読み続けていると、腕が少し痺れてきた。

いつの間にか、窓の外は真っ暗になっている。


全てを読み終えてしまうと、もうこれ以上新しく妻が自分にかけてくれる言葉は無くなったのだという事実が辛かった。

どれだけ妻の言葉に救われて生きてきたかを痛感した。


傍で手を握っていればよかった。じっと目を見つめていればよかった。

最期に寂しい思いをさせてしまったこと、どれだけ後悔しても足りない。


本当は衰弱していく妻の姿を見るのが恐ろしくて、希望に縋るフリをして逃げていたのかもしれなかった。

情け無い自分が赦せない……そんなシドの目に、紙束の中から『あなたを赦す』という妻の字が飛び込んできた。どこまでも救ってくれるつもりらしい。

その字を読めるのも、やはり妻が読み書きを教えてくれたからで、どれだけ感謝しても足りなかった。


***


シドの帰村から数日後、あの研究者夫婦が本当に村へ訪ねてきた。

イサナの死を知って大変残念がっていたものの、エリカから病についての資料を引き継ぎ、それらを活かして良い治療法を見つけることを墓前に誓っていった。


翌年、イサナの後を追うようにエリカも亡くなった。

更に数年後、今度はファドを乗せた遠洋船が海上で行方不明になった。

その航海中に妊娠が判明した嫁は、早々に夫の生存を諦め、腹の中の子を産むと、その子もソラも置いて村を去った。

慣れない田舎暮らしは勿論、遠洋漁師の夫が長く家を空けることにも不満を募らせていたのだろう。


シドはイサナの遺していた名前候補メモから、2人目の孫にレミと名付けた。

沿岸漁業に転向し、日中は教会を託児所代わりにしながら、孫たちを育てた。

ソラはイサナの予想通り、成長するにつれて息子そっくりの顔になっていった。

一方、レミの方は息子の元嫁そっくりの顔になってしまったが、イサナの遺したレースや刺繍によく興味を示したので、シドはレミのことを可愛く思えた。



息子嫁が出てった後のことは本編でソラが魔女に少し説明してます。

さっさと金持ちと再婚して数年後に頭の良いソラだけ引き取りますが、ソラは研究者として挫折した後にそっちの家を去ります。

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