9.頭のおかしな女
「うう……」
「良かった! もう目が覚めた! 本当にすごいのね、あなたの体。エリカ先生が驚いていたもの、とても強い体内魔脈の持ち主だって。羨ましい回復力だわ」
長椅子でタオルケットを掛けて寝かされていた青年が呻き声を上げると、部屋を片付けていたイサナは早足で歩み寄り、傍の椅子に座った。
緩やかに編んだ長い髪。立襟のブラウスにロングスカート。貞淑そうな大人の女性だ。
今いる部屋の明かりは消えているが、厨房の明かりが漏れて室内は柔らかに明るい。
死に損なった青年は気怠げに体を起こし、忌々しくも傷一つ無い自身を見下ろす。
「⁇……ここは……? あんたは……⁇」
「私はイサナ。ここは父が生前建てた海の家。今は季節外だし、夏でもずっと人手不足で休業してたんだけどね。あなたがちょうど目の前の浜に倒れていたから、弟にここへ運んでもらったの。『弱ってるだけですぐに目を覚ますはずだから、診療所まで運ばなくても大丈夫』ってエリカ先生がおっしゃっていたし。あっ、エリカ先生はこの村の診療所の女医さんよ。患者想いの熱心な先生で、うちにも昔からよく往診に来てくださるの。私の家は、ここの窓から見えるわ」
イサナは話しながら青年に覆い被さるように身を乗り出し、長椅子の向こうの窓に手をかけた。
女性のふわふわとした優しい香りと柔らかに揺れる体が間近に迫り、青年は気まずそうに少し体を反らす。
「んっ……よいしょっ……」
ガタッ、ガタガタッ……
イサナが少し建て付けの悪くなった雨戸をズラすと、まだ午前の弱い日差しでも部屋は一気に明るくなった。
爽やかに晴れた青い空と、その下に広がる青い海。穏やかな波音と、風が運ぶ潮の香り。
窓の外の平和で美しい世界から、青年は眩しそうに目を逸らした。
イサナは長椅子に身を乗り出したまま、すぐ近くの崖上を指差す。
「ほら、あの高台の家よ。浜辺北の斜路を通ってすぐ。教会も近いわ。海側が西で、夕日が沈むときはとても綺麗なの。後で村を案内するときには、もっと色々な場所を教えてあげるね。でもその前に、村長さんのところで住民登録申請を済ませましょう。その為にあなたのことを確認しておきたいのだけど、きっと答えられないでしょうね……だって、あなたは……」
不意に訳知り顔をしたイサナに、青年はギクリとした。
目の前の見知らぬ女は、自分のことを何か知っているのだろうか?
不安がる青年に、イサナは自信満々に言い放つ。
「記憶喪失ですものねっ!」
「は⁇」
「ある日突然浜辺へ流れ着く見知らぬ人間といえば、水の女神様に選ばれた転生者に違いないもの! あなたは思い出せないかもしれないけど、昔からある有名な言い伝えよ。あ、でも、だからといって何も気負うことはないわ! それは特別な使命があるからじゃなくて、単に女神様が気に入った者に新しい人生を提供してるんだって、そういう話だったはずだから。あなたは難しいことは考えず、ただこの村で村人として新しい人生を享受すればいいの。何も心配いりません♪」
イサナはサイドテーブルに用意していた水差しとコップを手に取り、水を注いで青年に勧めた。
青年はそれを受け取ったものの、怪訝な顔をして飲もうとしない。
「大丈夫、ただの水よ。でも、水だけじゃなくてそろそろ何か食べた方がいいと思うわ。ねえ、食べたい物はある? 食べ物のこと以外でも何でも、してほしいことがあれば言ってね。私にできることなんて限られているけど、あなたのためにできる限りのことをしてあげたいの。まず、住むところなら私の家でいいし、着替えなら弟のお下がりをあげられるし、仕事なら弟の手伝いを……ああ、それより先に新しい名前を決めましょうか! え〜と、何か素敵なお名前は……」
「待て待て待て……さっきからなんなんだ、あんたは?」
勝手に話を進めるイサナを、青年はとうとう遮った。
この女はさっきからずっとおかしい。
初対面で得体の知れない相手に個人情報をベラベラ喋りすぎだし、お伽噺を根拠にこちらを記憶喪失と決めつけ、勝手に村に、それも自身の家に住まわせようとするなど、正気の沙汰ではない。
ツッコミどころが多すぎて逆に言葉に詰まった青年は、ふと、ある可能性に思い当たる。
「……あんた、ひょっとして……オレがチビだからって、子供と間違えてるんじゃねぇよな⁇」
「まあ! そう聞くってことはやっぱりもう成人してるのね! ふふ、良かった……」
「良かったって?…………あんたみたいな美人が碌に知りもしない男と2人きりで、それは安心じゃなくて油断だぜ。つくづくあんたは世間知らずのお人好しみたいだな。オレみたいな悪人に下手に優しくしたらどうなるか、その体にたっぷり教え込んでやるよ……」
青年はコップの水を一気に飲み干すと、イサナの細い腰に手を回す。
グイッ!
「きゃあ⁉︎……あ、あのっ、ちょっとまってくださいっ……!」
青年の予想通り、抱き寄せられたイサナは驚いて青年から離れ、そのまま出口へと走っていく。
……それでいい。あんたはオレなんかに関わっちゃダメだ。これに懲りたら無闇に人助けなんかするなよ、危ないから。
青年は本心ではそう思いながら、イサナを逃した…………………はずだった。
…………ガチャリッ!
「よしっ」
「…………ん⁇」
しかし青年の予想に反し、出口へ辿りついたイサナは何故か扉を開けることなく、施錠だけして戻ってくる。
「え? え⁇ あ、あんた、なんで戻って来るんだよっ⁉︎」
「もうちょっと待っててくださいね……んっ……よいしょ〜」
ガタガタガタ〜ッ……
更にイサナはさっき開けた雨戸まで閉め直し、青年を押し倒す。
「さあ、これで居留守の準備万端です♪ たっぷりと愛し合いましょう♡」
「いや、あんたマジで頭おかしいだろ‼︎‼︎」
思わず叫んだ青年の唇に、イサナはスッと人差し指を置く。
「し〜っ……ダメよ。そんなに大声を出しては、居留守ができなくなってしまうわ」
「へぇ、そうかい……見かけに寄らず尻軽なんだな。でもあんたは今のうちに大声出したほうがいいぜ? オレは海賊だ‼︎ あんた、殺されてもいいのかよ⁉︎」
青年はイサナを怖がらせようと自身の切り札を切った。ところが……
「私は恋人いない歴=年齢のアラサー処女で、あなたに一目惚れしたのが初恋です。あなたのためなら何でもするけど、あなたが私の前から消えたら自殺します。だって、あなたはやっと見つけた私の『運命』だから‼︎‼︎ ウフフフ……♡」
「怖いッ‼︎‼︎‼︎」
逆に心底怖がらせられた海賊青年は、恐怖のヤンデレ女を押し退けて長椅子を飛び出した。
しかし、そこで自分が服を着ていないことに気付く。
「おい、変態ババア! オレの服はどこだ⁉︎」
「ババアなんて酷い‼︎ 私まだ20代よ‼︎ それにさっき美人って言ってくれたじゃない。私でも守備範囲内なんだ〜って安心したんだから。ウフフ……照れ屋さんなのね……年下、可愛い♡」
「ふざけてねぇで早く服を返せ‼︎」
青年は食卓の陰に身を隠しながら怒鳴ったが、イサナは動じない。
「あなたの服はボロボロになってたから、弟の服をあげましょう。……ねぇ、今更そんなに恥ずかしがらないで? 濡れた服を脱がせてあなたの体を綺麗に拭いたのは私なんだから……♡」
頬を押さえながらポッと顔を赤らめるイサナ。対して、股間を押さえながらゾッと青ざめる青年。
青年が思っていたものとは完全に立場が逆転している。
「くっ……」
死に損なったばかりにこんな生き恥を晒す羽目になるとは!
早く誰の迷惑にもならない所まで逃げて、今度こそきちんと死ななくては!
青年は室内を見渡して椅子に掛かったエプロンを見つけると、それを腰に巻いて外へ出ようとした。
そのとき……
「待ちなさい‼︎」
「⁉︎」
イサナは突然果物ナイフを取り出し、自身の喉元に突きつけた!
「あなたが私を捨てるなら、私、死ぬわ」
「やめろッ‼︎‼︎‼︎」
フォークで首を掻き切った少女の姿がフラッシュバックし、青年は心の底から叫んだ。
素早くイサナの手からナイフを奪い取り、元の長椅子に2人で倒れ込む。
「ハァ……ハァ……ハァ…………わかった、わかったよ……あんたがオレに飽きるまで、その酔狂に付き合ってやる。だから、もうオレを理由に死ぬんじゃねぇ……」
びっしょりと冷や汗をかいている青年の頭を、イサナはたわわな胸で優しく包み込む。
「嬉しい! 私、信じてたわ。あなたは絶対に私を見殺しにできないって。ねぇ、海賊さん? これから私、あなたのことなんて呼んだらいいかしら? ダーリン? ハニー? ディスティニー?」
「……シド。それがオレの本当の名前だった。海賊は、もうやめた……」
こうして約10年ぶりに陸での名前を取り戻した青年は、海賊船員ツナからただのシドに戻った。
なお、元海賊という経歴は不都合であるため、村では記憶喪失のフリをすることに決まった。