6.名前も知らない少女(その2)
バタン‼︎
明け方、少女の姿が無いことに気付いたツナは、慌てて部屋の外に飛び出した。
するとすぐ、薄暗い廊下の端からニチャついた声がする。
「よぉツナ、お探し物はコイツかなァ〜?」
「! マーリン……」
上機嫌で歩み寄ってくるマーリンが連れていたのは、ツナの部屋から抜け出した少女だった。
上等な衣服はズタズタに破かれ、美しく柔らかだった髪もベタベタに汚されている。
少女の身に何が起こったかは聞くまでもなかった。
「返せ! そのガキはオレが貰ったんだ!」
ツナはマーリンから少女を引き剥がそうと飛び掛かったが、マーリンは一歩先に身を引いてそれを躱す。
「言われなくても、親切な俺は返しにきてやったのさ。そのガキはなァ、夜中にふらふら船内をうろついてやがったから、俺のルームメイトたちでお前の代わりに躾けてやったんだぜ? 寧ろ感謝してもらわねぇと筋が通らねぇなァ」
「余計なお世話だ。勝手なことすんじゃねぇ!」
ツナは少女の肩をぎゅっと抱き寄せながら、マーリンを強く睨みつけた。
マーリンは少しも怯むことなく、寧ろ強気に続ける。
「それにしても変だよなァ? だってそのガキ、俺たちが見つけた時点でまだ処女だったんだぜ? それどころか服を脱がされた形跡すら無かった……なぁツナよ……まさかとが思うが、お前はそのガキを憐れんで、逃してやるつもりで匿ったんじゃねぇだろうなァ? 海賊ともあろう男がそんな腑抜けたことをすりゃあ、いくらお前でもオルカ船長は容赦しねぇぜ?」
「ハッ⁇ そんなわけねぇっての……昨日は偶々疲れてたから、面倒ですぐ寝ちまったんだよ。ガキは後からいくらでも好きにできると思ったから、急がなかっただけだ……じゃあな!」
ツナは冷や汗をかきながら、足早に立ち去った。
話している間ずっと、昨日と違って少しも動かない少女を、内心ひどく気掛かりに思っていた。
それでも、マーリンの目がある廊下では、一瞥もくれずに乱暴に引っ張っていった。
***
バタン……ガチャリ
部屋に戻ってツナが手を離すなり、少女は自ら服を脱ぎ、アザだらけの身体をツナの寝台に仰向けに投げ出す。
「ごめんなさい。言う通りにします。乱暴にしないでください。ごめんなさい。言う通りに……」
涙も枯れ果てた虚な目を天井に向け、壊れた録音機のように同じ台詞を繰り返し続ける少女。
そのあまりに痛ましい姿は可哀想である以上に恐ろしく、ツナは絶句して入口に座り込んだ。
自分が中途半端な情けをかけた結果、少女がどれだけ酷い目に遭わされたことか……
ツナの心はかつてない痛みを覚えた。
***
夕食後、ツナの部屋。
「どうだ? これなら食えるか?」
「…………」
「頼むから何か言ってくれよ……」
昨日とは逆に大人しくなり過ぎた少女を前に、ツナは困り果てていた。
朝は他の者が昨夜の余韻で起きてくるのが遅かったため、あれから回復薬で少女の傷を治し、シャワーも浴びさせ、ちゃんと洗濯したツナのシャツに着替えさせもした。
毎食後はちゃんと少女の分の食事を部屋に運び、わざわざデザートまで付けてやっていたのだが、少女は固く口を閉ざしたまま、何も手を付けようとしない。
ツナが途方に暮れていると、船長室から呼び出しがかかった。
やはりこうなるか……ツナは嫌な予感を抱えながら、部屋を出て外鍵をかけた。
***
オルカ号、船長室。通称ピンクルーム。
「どうだツナ、いつ来ても素晴らしい部屋だろう?」
「はい……」
壁紙、敷物、寝具に天蓋……部屋中至るところに、濃淡も明暗も様々な色調のピンクが使用されている。
むせ返るほどのピンクに塗れた部屋で、ツナは必死に平静を装っていた。
そんなツナに船長は恍惚とした様子で続ける。
「陸にはよく『ピンクは女の色だから、男が好むのはおかしい』なんて言うバカ者もいたがね、私は寧ろ男こそこの色を好むのが自然と考えているよ。女性の柔らかな肌の色と、その内側を流れる熱い血の色……それらを混ぜたピンク色こそ、滑らかな肌だけでもなく、生臭い血だけでもなく、その両方を合わせた『女性の肉』を最も連想させてくれる色なのだから」
「はい……」
何を言っているのかよくわからないが、ツナは曖昧な愛想笑いで頷いた。
「ところで、ツナ。お前……私に何か話していないことがあるんじゃないか?」
予想通りの船長の問いに、ツナは表情をこわばらせる。
少女に情けをかけたことを、マーリンが密告していないはずがない。
「ほら、言ってみろ。正直に言えば、そこにいる私の女どもの中から更に1人与えてやるぞ? ん?」
船長はツナに微笑み、寝台に並んで座らせた美女たちを指す。
真ん中にいるのは、昨日皆の前で船長が揉みしだいていた女だ。
彼女もその両脇の女も、船長好みのピンクのベビードールに着替えさせられている。
その表情は皆どれも虚だ。
「ありがたい提案ですが……その、実はオレ……恥ずかしいことに、最近ナニが不調でして……だから昨日はガキ1人捕まえて、すぐに部屋へこもったんです」
「おお、なんと……ツナ、そういうことだったのか。そういう時はガキなんか選ぶもんじゃない。治ったかどうかわからずに、治るものも治らなくなっちまう。……おい! 女たち、ツナをもてなしてやれ」
船長命令でピンクガールたちはツナを寝台まで案内したが、ツナは心身共に全くそういうことができる状態になかった。
選りすぐりの美女たちにも喜ばないツナを見て、船長もツナの告白が真実だと信じるが……
「ふむ……なるほど。確かにお前は嘘は吐いていないようだ……ああ、可哀想なツナ。しかし安心したまえ。我が船のエースをこのままにしておくほど、私は薄情ではない。……おい! 女たち、ツナを治してやれ! 朝までに治せなかったときは、お前たちの中から1人を処刑するからな!」
とんでもない船長命令が飛び出し、結局ツナはすぐに解放してもらえなかった。
ツナは自分の言い訳を覆すわけにもいかず、かといって彼女たちを死なせるわけにもいかず、仕方がないので自身の体内魔脈を操り、頃合いを見て治ったフリをすることにした。
***
明け方、ツナの部屋。
ガチャガチャ……バタン
鍵のちゃんと閉まっていたことに安心したのも束の間、薄暗い部屋の中で待っていた少女の姿に、ツナは凍りつく。
「お、おい⁉︎ しっかりしろ! お前……」
ぐったりと床に倒れた血塗れの少女……その傍には血の付いたフォークが落ちている。
彼女はフォークで自身の首を掻き切り、自殺を試みたのである。
「まだ息がある……回復薬を……」
まだ浅く息のあった少女を、ツナは懸命に蘇生させた。
数十分後、ようやく意識を取り戻した彼女の口から発せられた言葉は、ツナの想像を絶するものだった。
***
お前、よくも余計なことをしてくれたわね!
せっかく死のうとしたのに! 誰が助けてほしいなんて思うのよ⁉︎
もう終わったとか、生き延びたからマシだとか、勝手なこと言うのは許さない。
だって、そんなわけないじゃない……こんな記憶を持って、わたしはもう1秒だって生きていたくないの!
もう何も感じたくない、もう何も考えたくない、もう何も思い出したくない、もう何もしたくない、早く死にたい‼︎
生きてる限り、何度も繰り返す……終わらない、終わりたい、忘れたい、消えたい……なのに消えない、無くならない、無くなってくれるはずがない‼︎
お前はその足りない頭で頑張って、色々わたしに気遣いをしてみせたけど、そんなの全部無駄。無駄無駄無駄無駄‼︎
いくら目に見える傷を治したって、表面に付いた汚れを流したって、新しい服に着替えたって、それは他人のお前が外から見て満足するだけ。
どんなに表面を綺麗にしたところで、心はもう元に戻ることは絶対にないの。
それなのに、お前、悪人のくせにどの面下げて善人ぶるの?
ふざけんじゃないわよ! 卑しい下賤の盗賊風情が!
お前ごときが人間様の真似事なんておこがましいにも程があるのよ!
前の船の船長はお前が殺したんでしょう?
わたしをお前のとこに連れてきた男が言ってたわ。「顔色ひとつ変えないで、見事なものだった」って。
それ以外にもたくさん殺してきたのでしょう? 海賊と違って、何の罪も無いような人までたくさん!
個室が貰えるくらいだもの、他よりたくさん殺したに決まってるわ。
人殺し! だったらわたしのことも殺せばいいでしょう? 殺しなさいよ! 殺せ! 殺せーー‼︎
***
ガッ……
ツナが少女の首を掴むと、甲高い喚き声がピタリと止んだ。
目玉が飛び出し変色していく顔を見つめていると、泡の溜まった口元が微かに笑った気がした。
何度手を洗っても、何時間経っても、細い首を絞めた時の感触はいつまでも手に残り続けた。
後から知ったことだが、あのとき船長に選ばれた美女は、あの少女の姉だったらしい。
きっとあの夜、少女は姉を探しにツナの部屋を抜け出したのだろう。
もしも、オレが彼女ともっとちゃんと話し合えていたら?
もしも、オレが彼女を自分の部屋に連れ込まなければ?
もしも、オレが個室を与えられていなかったら?
もしも、オレがサハギンに殺されていたら?
もしも、オレがクラーケンに殺されていたら?
もしも、オレがマーリンの財布をすらなければ?
もしも、もしも、もしも…………
最初からオレなんか生まれていなかったら、その世界の方がきっと正しいのだろう。
どれだけ後悔したところで、死んだ者の人生を元に戻すことなどできるはずはない。
いつか手に残る感触を忘れる日が来ても、罪まで消えることはない。
起きてしまった過去は、もうどうしようもないのだ。
***
いつまでも船に女がいては士気に関わるとのことで、当初の予定通り次の寄港地で女たちは娼館へ売り渡された。
再び男ばかりとなったむさ苦しい船内だが、女たちに対する無体な暴力に溢れていた頃と比べれば、ずっと健全に思えた。
ツナは少女殺しによって船長から益々気に入られ、他の船員から益々恐れられるようになった。
船長は常々「無益な無能に存在価値など無い」「真に有能な者こそが評価されるべきなのだ」というようなことを語っていたが、果たしてそうだろうか?
悪事に有能で有害な者と、悪事に無能で無害な者なら、後者の方がよっぽど世界に存在することを許されているだろう。
自分なんか世界にとっていなくなった方がいい存在。生きていてはいけない存在。死にたい。
今ならツナにもあの少女の気持ちがよくわかる。本当にもう生きていたくなどない。
……でも、自分よりもっと死ななきゃいけない人間がまだ生きている。
ツナは自分の人生に1つの目標を立て、それを叶えるまでは生きることに決めた。
ふと思う……あの少女にはどんな夢があったのだろう?